洗濯機

高橋志歩

洗濯機

 どこからか鼻歌が聞こえる。


 鼻歌?  裕子ゆうこは、うたた寝から目覚めた。

 今夜、会社の同期数人と飲んでほろ酔いで帰宅して、そのまま着替えもせずにリビングの椅子に座って眠ってしまったようだ。テーブルの上に、バッグやスマホが放り出してある。

 変な姿勢でいたせいか、体のあちこちが痛い。灯りは点けても、エアコンを入れていないので、室内は猛烈に蒸し暑い。喉もカラカラだ。急いでリモコンを手にして冷房スイッチ押しながら壁の時計を見ると、夜の11時。急いでシャワーを浴びて寝よう。そう思いながら、立ち上がって、冷蔵庫から冷えたペットボトルの炭酸水を取り出した時、また鼻歌が聞こえた。


 男性か機嫌よく鼻歌を歌っている。それもすぐ近くで。


 裕子は一瞬緊張したけども、音はすぐに止んだ。耳をすましてもそれきり何の音もしない。まだ少しばかり酔いが残っているようだ。炭酸水を飲み、洋服を脱ぐと浴室に向かった。勢いよくお湯を浴び、髪を洗って化粧を落とすとようやくさっぱりした。体を拭いて寝間着を着てから、ふと今夜着ていたシャツやストッキングを洗濯しておこうと思いついた。飲み会に出るとどうしても臭いがついてしまう。裕子は嗅覚が敏感なたちだったので、お気に入りのシャツを脱いだままにしておくのは嫌だった。どうせ目も冴えたし、30分もかからない。


 裕子が住んでいるのは独身者用の狭い賃貸マンションで、洗濯機は前の住民が置いていった物である。洗濯機なんて洗えればいいので、型は古いけどそのまま使っている。夜中の洗濯は近所に気が引けるけど、ちょっとぐらいいいだろう。

 そう決めて、さっさと洗濯物をまとめると、洗面所の横の洗濯機の蓋を開けて、衣類と洗剤を放り込み、蓋を閉めてスイッチを入れた。


 髪を乾かしたり顔の手入れをしているうちに、洗濯完了のお知らせ音が響いた。さっさと洗濯機に近寄り、蓋を開けて手を入れると妙な感触がある。少量の衣類を入れただけなのに、びちゃ、と音がして手が入らない。ぐにゃりとした生暖かいモノが洗濯槽に詰まっている。え? と思った裕子が洗濯機を覗き込むと、大きなぎょろりとした目と目が合った。


 洗濯機の中にみっしりと、巨大な暗緑色の顔が詰まっている。


 でろりとして、輪郭もはっきりしないが、確かに男の顔だ。裕子が驚きで動けないでいると、顔が分厚い唇を動かして喋った。

「んーあー。せっかく楽しく歌を歌って楽しくぐるぐる回っていたのに邪魔をするな」

 裕子はすぐに蓋を閉めた。何かの見間違いだ。しばらく呼吸を整えてから蓋を開けて、そっと覗き込むと、さっきと同じ顔が裕子を見上げていた。

「んーあー。しつこいな。失礼だな」

 裕子は、訳がわからないまま、引きずり出してやろうと思わず顔に手を伸ばした。その手を、顔は機敏にぱくりと咥えた。ぬらりとした気味の悪い感触が右手から這い上がってくる。

「きゃあああ! 何すんのよ!」

 思わず裕子が叫ぶと、顔はぺっと手を吐き出した。

「んーあー。実に不味いな。お前はちっとも美味しくない」

 裕子は手をぶんぶん振りながら顔を睨みつけた。

「不味いってどういう意味よ、変態」


 顔は唇を尖らせると、妙な音を発した。笑っているようだった。

「んーあー。ナオヒコ君。ナオヒコ君もお前を不味いと思っているぞ。ちっとも美味しくない。だからもう仲良くしたくない。お前は不味いからな」

 裕子は固まったようになって顔を見た。

「なんで、あんたにそんな事が、わかるのよ」

 確かに、2年前から付き合って結婚も考えている直彦の態度が、最近少しおかしい。先日も、中々会う約束をしてくれないと裕子が責め、仕事が忙しいという直彦と口喧嘩をしたばかりだった。


「んーあー。わかるから仕方ないだろう。この箱はぐるぐる回って楽しいからな。楽しいと見えてくるし聞こえてくる。ナオヒコ君の事も、みんなの事も、みんな、お前を不味いと思っているぞ、美味しくないと思っているぞ、お前が事故で何かあったら、みんなきっと喜ぶぞ」


 裕子は、いきなり横の棚からパイプ掃除用の洗剤ボトルを取ると、洗濯機の中の顔に向かってぶちまけた。そして、蓋を閉め、スイッチを入れた。


 水が注がれ、カタカタと動き出し、回転しだした洗濯機から鼻歌が聞こえる。とても楽しそうな鼻歌が。裕子は耳を塞ぎ怒鳴った。

「うるさい、うるさい、うるさい!!」

 それでも、洗濯機の中から響く楽しそうな声が聞こえてしまう。


「んははははは、お前があ、事故で何かあったらああ、みんなきっと喜ぶぞおおお、どんな事故にあうのかなああ、楽しみだなあ、楽しいなあ、ぐるぐる回って楽しいなあ、はははははははは、ナオヒコ君もうれしいだろうなあああ」


 気が付くと、裕子はリビングの床に横たわっていた。

 洗濯機に向かって怒鳴っているうちに、気を失ったのだろうか。電気は点いていないけど室内は明るい。壁の時計を見ると、朝の6時だ。昨夜のあの出来事は何だったんだろう。恐る恐る洗濯機を見に行くと、蓋が閉まっている。足でドン、と側面を叩いても何の反応も無い。しばらく逡巡してから思い切って蓋を開けると、中にはパイプ掃除用の洗剤ボトルだけ転がっていて、強い洗剤の匂いがした。でも洗濯物は入っていない。


 あの顔が持っていってしまったのだろうか。あんな気味の悪いモノが、自分のシャツを持っていると想像するだけで虫唾が走る。この洗濯機ももう使う気になれない。急いで新しいのを買おう。どうせ古い物だ。


 顔を洗い服を着替えてリビングでコーヒーを飲みながら、裕子は顔に言われた事を思い出した。あれは酔って見た幻覚だ。気にする必要はない。でも繰り返し脳裏に浮かぶ。


 ――ナオヒコ君もお前を不味いと思っているぞ

 ――もう仲良くしたくない

 ――お前が事故で何かあったら、みんなきっと喜ぶぞ


 直彦が、私が事故に遭ったら、いなくなったら喜ぶ? 友人や知り合いのみんなも?

 考えるな考えるな。でもどうしても考えてしまう。事故に遭う? 自分が事故に遭って死ぬという事だろうか?

 裕子は急に気分が悪くなった。自分が死ぬ事なんて考えた事もない。考えたくもない。スマホを手にして直彦に連絡をしようとして数回呼び出してから、切断した。

 朝早くに連絡をすれば、不機嫌な態度をとられるに決まっている。今夜にしよう。裕子はコーヒーを飲み干した。

 今日は会社だけど、明日は週末で休みだ。仕事が終わったら、最寄り駅にある大型電気店に寄って新しい洗濯機を買おうと、裕子は決めた。


 出勤するために玄関で靴を履いていた時、また鼻歌が聞こえてきた。

 洗濯機から聞こえてくる、機嫌のいい鼻歌。

 裕子は、靴を脱いで室内に戻ると、洗濯機に近寄った。


 さっき蓋を開けたままにしておいたのに閉まっている。


 そして聞こえてくる鼻歌。時々楽しそうなくすくす笑いも混じる。

 裕子は洗濯機に向かって大きな声で言った。

「今日新しい洗濯機を買うからね、あんたなんかゴミにして捨ててやる」

 洗濯機から声がした。

「捨てられるかなあ、ちゃんとお店まで行けるかなあ」

 裕子は青ざめた。

「私が、なにか、事故に遭うっていうの?」

 洗濯機は答えた。

「どうかなあ、でも、外に出たら何があっても不思議じゃないよねえ。ナオヒコ君も嬉しいだろうなあ」


 裕子は背中を向けて急いで玄関に向かった。とにかく家を出てから、会社に欠勤の連絡をしよう。そして開店を待ってすぐに電気店に行って、今日中に新しい洗濯機を取り付けてもらおうと決めた。あの洗濯機を家から出せば……。

 その時、バッグの中のスマホが鳴った。この着信音は直彦からだ。裕子からの電話に気づいて折り返してきたのだろう。すぐにスマホを取り出そうとした裕子の手が止まった。


 ――ナオヒコ君も嬉しいだろうなあ


 洗濯機のあの言葉。直彦はこれから私に何を言うつもりだろう。


 そうだ、あの洗濯機はそもそも前の住民が置いていったのだ。何も無い空っぽの狭いマンションにだた一つ残されていた洗濯機。引っ越してきた時は、洗濯機を買わずにすんだと簡単に考えたけど。前の住民はどうなったのだろう?


 もしかしたら、洗濯機に何か言われて、この部屋から外に出て、そして帰ってこられなかった……。


 直彦からの呼び出し音も切れ、静かになった玄関で立ち尽くす裕子の耳に、洗濯機の声が響いた。


「行ってらっしゃあああい、気をつけてねえええ」


 <了>

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