第二章 指先に宿る温もり

ヒヨリがアイリと出会ってから、幾日かが過ぎた。


彼女の一日は、以前とすっかり変わっていた。

ただ観測対象として遠くから人々の生活を見守るだけの日々は終わりを告げ、今は放課後になると自然と足がアイリの通学路へと向いてしまう。


「今日も来たんだね、ヒヨリ」

「……来ちゃった」


夕焼けに染まる道の脇で、アイリは笑って待っていた。

その笑顔を見るだけで、ヒヨリの心はじんわり温かくなる。未来では得られなかった感覚。誰かに“待ってもらえる”という幸福。


けれど同時に、胸の奥に罪悪感が芽生えていた。

観測者は、人に関わってはいけない。感情を抱いてはいけない。

それが千年後の研究機関から与えられた、絶対の規則だから。


――なのに、自分は。


「ねえ、ヒヨリ。歩きながら話そう」

アイリが歩みを進める。ヒヨリもその隣に並ぶ。

もちろん、通りを行く人々にはヒヨリの姿は見えない。アイリだけが、空に向かって笑みを浮かべ、声をかけているように見える。


「アイリ……周りの人に、変に思われない?」

「うん。たぶん思われてる」

アイリはあっさり言い切った。

「でもいいの。私がヒヨリを見えるって事実が、何より大事だから」


ヒヨリは言葉を失った。

彼女の存在を当然のものとして受け入れるアイリ。その強さに、何度も救われている。



ある日の放課後。


二人はアイリの部屋にいた。

部屋の隅には教科書やノートが積まれ、机の上にはまだ飲みかけの紅茶が湯気を立てている。


「ねえ、宿題見ててもいい?」

「もちろん。邪魔にならなければ」

「邪魔じゃないよ。むしろヒヨリがいると、落ち着く」


そう言ってペンを走らせるアイリを見つめながら、ヒヨリはふと机の端に手を伸ばした。

だが――当然、鉛筆に触れることはできない。指はすり抜け、紙の上に影さえ落とさなかった。


「……やっぱり、何も触れない」

ヒヨリは小さく呟いた。


その声に気づいたアイリが、顔を上げる。

「じゃあ、試してみる?」

「試す……?」


アイリはためらいなく手を伸ばした。

ヒヨリの銀色の髪に触れるように、指先を近づける。


「や、やめた方が……」

「いいから」


その瞬間。


ヒヨリの体をかすかな冷気が走った。

まるで淡い風が頬を撫でたような、ほんの一瞬の感覚。


「……っ!」

「今、感じた?」

「……うん。ほんの少し……」


アイリは満足げに笑った。

「やっぱり触れるんだ、ちょっとだけでも」


ヒヨリの胸に熱が広がる。

千年先の未来では、こんなことは起こらなかった。

人と人とが直接触れ合うことさえ希薄になっていた社会。だからこそ、今感じたわずかな温度が、何よりも鮮烈に心に残った。


「……アイリ。どうしてそんなに、私に関わろうとしてくれるの?」

「だって、私しか見えないんでしょ? だったら、私が一番大事にしなきゃって思う」


その言葉は、真っ直ぐで残酷なほどに温かかった。



その日以来、二人はますます一緒にいる時間を増やした。


放課後の公園で、アイリがブランコを漕ぎながら話をする。

休日の図書館で、ヒヨリは声を潜めながら未来の知識を少しだけ語る。

夏祭りの夜、アイリは屋台でりんご飴を買い、ヒヨリに「味わえないのが残念だね」と冗談めかして笑った。


一つ一つの瞬間が、ヒヨリの心に刻まれていく。

ただの研究ではない。これはもう、観測ではない。


「ねえ、ヒヨリ」

ある夕暮れ、アイリは真剣な顔で尋ねた。

「未来に帰ったら、私のこと……忘れちゃう?」


ヒヨリは息を呑む。

本当は答えられない質問だった。未来に帰れば、この一年はただの研究記録になるはず。感情は捨てなければならない。

けれど、彼女の前で嘘をつくこともできなかった。


「忘れない。……絶対に」


アイリの瞳が潤む。

そして彼女は再び、そっと手を伸ばした。


ほんの一瞬、指先と頬が触れ合った気がした。

その淡い温もりに、ヒヨリは堪えきれず涙をこぼした。


「ありがとう……アイリ」

「こちらこそ。見えるのが私でよかった」


その言葉に、ヒヨリの心は深く震えた。


もう自分は、ただの観測者ではいられない――。

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