隙間
増田一郎
第1話
「隙間」
「何かあったら電話ちょうだいね.でも住所は聞かないで」
そう言って,昨晩君は部屋から出て行った.がらんとした部屋の中で君の残していったメンソールの煙草を吸っていると涙が出てきた.まだシーツには君の香りがする.電話をかけてもう一度会いたい,
君は,無理よ,あなたを愛した日々は終わってしまったの,そう優しく言うだろう.
離れてしまって大切な時間の意味がわかる.
数日したら失ってしまうこの空気を惜しむように,もう一度シーツを握り締め大学へと向かう.
太陽が眩しい,明るい日差しは僕の胸と目を光線の中に溶け込ませる.眩しい光の中で懐かしい感覚が戻ってきていた.鳩を見かける.鳩,鳩,鳩,それを意識することもなかった.東京に烏が群れているという理由でもなくそこに鳩が存在している,その存在に意味を与えたことはない.
「やだ,鳩がウンチを落としていったのよ,さいあく.ちょっとシャワーを借りてもいい?」
シャワーの音が聞こえるあの部屋で,僕は何を考えていたのだろう?
駅には男子高校生がたむろしている.精一杯のヘアスタイルで今日の学校生活を決めたがっているようだ.
ああ,会いたい,会いたい,会いたい・・・・・・
昼過ぎの電車は思ったよりもずっと空いていた.もうしばらく騒々しい現実から離れることが出来ると考えて僕は目をつぶる.獏よ夢を食べてくれ.夢,ドリーム? 寝てみる「夢」と目標の上にある「夢」どちらもドリームなのかな?
手が冷たい,末端の冷気は夢を見ることを許そうとはしなかった.頬に当てるとさらに冷たさは体の奥にまで伝わってきた.触覚はまぎれもない現実の象徴だ.
前の座席に子供連れの若い母親が座る.子供は哺乳瓶の先に付いているものを口にくわえている.子供の目を見つめていると子供はこちらを向いた.
「子供」っていうものは存在しないってスペイン語の先生は言ってたっけ.
「『子供』というものは概念にすぎないのです.存在しているのは『少年』と『少女』です」
今,自分の目を見つめているのは「少年」なのだろうか? 髪が長くて目は透き通ってあどけない.少なくとも1歳足らずの子供は「子供」だなあと思う.
目の奥を覗き込む.子供の目が訴えているものは一つしかない.この目は敵意を持つか? 否か?
僕の目は濁っているはずだ,混沌を抱えきれず今にも消去して欲しかった.
子供はいぶかしげにこちらを見つめている.表情を和らげ手を振ろうとすると,母親の視線に気づく.子供にあやすように手をやり自分の子孫を守ろうとする.
警戒心,突き刺さる空気の波.
僕は耐え切れずに電車を降りた.そこは降りたことの無い,日々,過ぎ去るだけの景色だった.
それは僕にとっての隙間だ,意識していないが確かにあるもの.
次の電車に乗ることはなかった.隙間を埋めなければならないのだ,そこに何かがあるかもしれない.彼女が出て行った,決定的な真理が.
駅を降りると当たり前のように平凡な空間が広がっている.
駅の周りを散策しようとすると腹が鳴っていることに気づいた.こういう状況でも空腹を訴える自分が情けなくなってくるが,僕はコンビ二でおにぎりとビールを二本買う.
向かいは公園だ.中に入っていくと丁度いいところにベンチがある.
僕はそこに座りおにぎりを食べる.体に血液が流れ出し,それは体温として熱に変わっていく.熱を感じながらそういえば昨日から何も食べていなかったことを思い出した.
ビールを流し込む.なぜかここには人影がない.
「なあお兄さん,ちょっとでいいんだがビールを分けてくれないか?」
突然,自分の背後から男の声がする.
「頼むよほら,このコップにいれてくれないかい?」
浮浪者は目の前に自分のコップを出してきた.底面は黒ずんでいる.
無視しようか? ただ,その浮浪者の目は死んではいなかった.浮浪者の目を真剣に見たことなどない.
「ああ,一本あげますよ.今飲んでいるやつで十分ですから」
浮浪者は横に座ってビールを手に取った.
「ありがとう,お兄さんは学生さん? 昼間からビールを飲んでいるにしては生活感がないからね」
「はい,そうですが」
今は会話をしたくなかった.たとえそれが数年振りに会う友人だったとしても同じだと思う.
「ほとんど人がいないだろう.この公園はねえ,我々みたいなはぐれ者が住み着いちゃったものだから,お母さんが子供に『あの公園には行ってはいけません』と言って普通の人は来ないんだよ」
浮浪者は勝手に話し始める.
「ほら,あそこに小学校が見えるだろ.その裏手に新しくて立派な公園が出来たんだ.だからみんなあっちへ行ってしまう.我々にとってはそれでいいんだけどね.ああ,ビールはうまい.あんたは遠くの人かい?」
「いやそんなに遠くはないです,この駅は通学の途中なんですよ。ただ,降りたのは今日が初めてです」
「そうかあ,何かあったのかい? わざわざこんな所に来て酒を飲んでるなんて」
浮浪者のビールはもうほとんどない。
「まあ,でも余り言いたくないですね」
「なら聞かないでおくよ.でもね,ここは落ち着くだろ? 俺は子供の頃,ここに住んでいたんだ.
そうだなあ,小学校の途中までかな.その頃には向こうの立派な公園なんてなくてね,いつもここからあの小学校の桜を見ていたんだ.
桜は近くで見たほうが綺麗だよ.でもね,ここから見えるあの一本の桜が好きだった」
桜は確かに咲いていた.薄い桃色でひっそりと.
「私はね,退職して独身になった後,ここに来たいと思ったんだ.不思議なものだね,そんなことはすっかり忘れていたのに.そして,あの桜を何十年振りにここから見た.全く変わってないんだ.そして,何だかわからなかったけど,とても感動した.今までの自分の人生はこの一瞬のためにあったんじゃないかってね」
浮浪者は酔っ払っていた.
俺は黙っていた.もう,二本のビールは空いていた.そっと席を立つ.
「それじゃあ,僕はもう行きます」
「ああ,気をつけてな.ここに来たときはいつでも俺に声をかけてくれよ」
「はい,そうします.それじゃあ」
桜,一瞬,人生.公園を出るとふらつく頭の中でそうつぶやいた.隙間,それはいつでも自分と共にある。
決定的な真理など無い.単に,彼女は僕と付き合い隙間を埋めた.そして,新たな溝が出来た.ただそれだけだ.
そして,自分はそれを裏返す時期が来ただけなのだ.
僕は駅へと向かった.四時間目の講義には間に合うだろう.駅のゴミ箱でメンソール煙草の箱を捨てる.
あの子供にもう一回会いたい,明るい電車の中で僕はそう思った.(了)
隙間 増田一郎 @ichiro-masuda
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