第4話 区切りの前で
正午のチャイムが校内をほどく。
ON AIRの赤が点り、BGMが薄く広がる。
「本日のお昼の放送を始めます。二年C組、篠原です。——まず生徒会からのお知らせ」
台本の二枚目に“防災訓練の日程変更”と大きく印字がある。固有名詞が多い。
ぼくは段取りどおりに読み進め、三行だけ残して、視線をほのかへ移す。
「続いて——一年生の南條さんから、購買部の——」
小さく紙が擦れる音。ほのかの指が、台本の角で止まった。
一語目の前に、喉が細くなる気配。〈息〉。
「こ、購買部から……や、焼きそばパンが、えっと——す、すみ」
マイクは生きている。BGMの上で、焦りは音になる。
ぼくはヘッドホンの片耳を外し、彼女の横顔を見た。肩が上がっている。
「距離、拳一つ」
できるだけ短く、できるだけ平らに。
ほのかの肩がわずかに下がる。
指を立てる。
三、二——。
——一。
「……焼きそばパンが二十個入荷します。お一人様、お買い上げは——」
声が乗った。
台本の行間に、ほんの短い呼吸が差し込まれる。
BGMがすこし沈み、音の輪郭がふたたび合う。
最後のジングルの手前で、一拍。
「以上、放送部でした」
赤が落ちる。
放送室の空気がゆっくり冷える。
「……すみま——いえ。もう一回、お願いします」
ほのかは台本を胸に抱え直し、視線だけこちらに寄越した。
ぼくはフェーダーのキャップを親指でなぞり、うなずく。
「必要だと思ってる」
ドアが開き、榊颯真が入ってきた。
「今の、立て直したのは良かった。——でもさ、やっぱ“間”が目立つんだよね。本番での無音はさ」
伊達実も後ろから顔を出す。「でも今のは、あれ入れなきゃ転けてたぞ。耳が痛くなるやつ」
颯真は肩をすくめる。「テンポが命。だけど事故回避も大事。……難しいとこだね」
ぼくは引き出しから点検ノートを出す。
『緊張で浅くなるとき:一語前に〈息〉→一拍→頭子音』
誰かの字。たぶん、何代か前の。
「仕様にしてる。事故じゃない」
颯真は口角を上げた。「はいはい、直人節。——じゃ、午後の予行は俺の台本でAベース。南條、“間”は最小限で」
「やってみます」
*
午後の予行。
視聴覚室は空席の椅子が並び、空調の音が響く。
ほのかはマイクの前で、さっきより姿勢がいい。台本は置いたまま、窓を見る。
「三で吸って、二で置いて——」
彼女が小さく口の形だけで復唱する。
「——一で“お”」
録音を回す。A案の台本は、句読点が浅く、走り気味だ。
一度目の読みで、ほのかは流れに引っ張られ、語尾が細る。
二度目——直前に合図だけ送る。
三、二——。
——一。
今度は語尾に息が残らない。
伊達が親指を立てる。「いいじゃん。Aの中で〈息〉だけ仕込むの、アリ」
「でも、学園祭の生放送は来場者多いですし……西園寺さん、無音禁止を内規にしたとか」
ほのかが不安そうに言う。
「紙の上では、そう」
ぼくは短く返す。
「最悪に備える。段取り、引き取るね」
颯真がマイクを掴んで、きびすを返す。
「OK、今日のとこはここまで。——南條、さっき本番で転けかけたとき、よく立て直したよ。褒める」
「ありがとうございます」
颯真が出ていき、静かになる。
ほのかは台本の角をなぞる癖を、途中でやめた。
「本番って、怖いです。……でも、今日は怖くなかったです。行けます」
「行ける」
ぼくはON AIRじゃない赤ランプに映る、彼女の横顔を見た。
言葉の前に置かれた、目に見えない一拍。
それが、部屋の空気を澄ませる。
*
下校時刻。廊下の掲示板の前。
西園寺が紙を貼り替えていた。
『学園祭 生放送 運用基準(試行)——原則無音禁止。ただし安全確保のための技術的ブレイクは、責任者判断で可』
伊達が小声で笑う。「例外、書いたな」
西園寺は眼鏡を押し上げる。「体裁は守ります。——現場の事情も、考慮します」
ぼくは一拍置いてからうなずいた。
「……まあ」
ほのかが横で小さく息を吸う。
「整えてから入ります」
誰に向けた宣言でもない。自分に向けた宣言。
廊下の風が、掲示の紙の角を少しだけ揺らした。
*
翌日のリハに向けて、放送室の机に付箋が増える。
『Aベース/一語前の〈息〉/終端は一拍』
『最悪に備える:合図=目線→三二一』
『西園寺例外:技術的ブレイク=可』
赤いランプは消えている。
でも、部屋には音がある。
ヘッドホンの布の擦れる音、ケーブルが床を這う音、蛍光灯の低い唸り。
その全部の手前に、一拍だけ無言が置かれる。
それを、ぼくたちは呼吸と呼ぶ。"
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