第2話 噛む人の呼吸



昼のチャイムが校内をほどく。

ON AIRの赤が点り、ぼくはメーターと時計を見比べてから——三、二、一。


「本日のお昼の——」


背後で、紙の擦れる音。

新入の南條ほのかが、台本を胸に抱えたまま、小さく息を飲む。


「——放送を、はじめ……す、すみません」


マイクはまだ切ってある。ぼくは親指でミュートのキャップを軽く押し直し、BGMをわずかに下げる。

「大丈夫。今のは練習」

「すみません。えっと、もう一回、お願いします」


顔はこわばっているのに、声は素直だ。

ぼくはヘッドホンの片耳を外し、彼女の前に手を出す。

「台本、見ない。窓の外、見て。距離は拳一つ」

「はい。……すみません」

「三で吸う。二で止める。一で“お”。いい?」


うなずきを合図に、指でカウントする。三、二——。


彼女の肩が上がり、わずかに下がる。

「——お」


音になりかけの輪郭。

ぼくはフェーダーに触れず、一拍だけ、無言を置いた。

「今の。怖くない」

「本番だと、急いじゃって……す、すみません」

「急がないほうが、速く聞こえる」


ほのかは目を瞬かせ、台本の角を指でなぞる癖を止めた。

「……やってみます」


ON AIRの赤がゆっくり呼吸するみたいに点滅する。

時計の針を見て、ぼくはBGMを上げ直す。

「本番、いく。最初はぼくが読む。終わりだけ、合図で入って」


三、二、一——。

献立、落とし物、委員会。

最後のジングルが鳴り切る少し前、ほのかに視線を送る。

彼女は一瞬だけ吸い、——一。


「以上、放送部でした」


赤が落ちる。

ほのかが肩を落として、ほっと息を吐く。

「……すみ、——いえ。もう一回、お願いします」

「うん。必要だと思ってる」


たぶん、ぼくより彼女のほうが、この練習を必要としている。

そう言葉にしてみると、胸の奥の固さがすこしほどけた。



放課後の放送室。

蛍光灯の唸り、ケーブルのビニールの匂い。

ぼくはミキサーのフェーダーを一本ずつ撫で、伊達実はスイッチを指でカチカチやっている。


「おーい、今日の南條ちゃんは何回“すみません”言った?」

「数えてない」

「俺は数えた。四回。……まあ、初日ボーナスってことで」

「まあ」


ほのかがドアの隙間から顔をのぞかせる。

「すみません、遅れました」

「三分。許容」

「はい。もう一回、お願いします」


伊達がニヤリと笑って退室する。

「邪魔者は去るぜ。地味王、頑張って」

「地味王はやめろ」

「褒めてるって」


ドアが閉まり、音が柔らかくなる。

ぼくは机の引き出しから点検ノートを出して、今日のページを開く。

『新入アナ:呼吸→一拍→一語目/台本見ない練習』


「じゃあ、台本置いて。窓」

「置きます。えっと……す」

彼女は言いかけて、飲み込んだ。

「もう一回、お願いします」

「三、二——」


放送室の空気が、言葉の前に薄く澄む。

二度目、三度目。

ほのかの声は少しずつ体に馴染んでいく。最初の一語に、迷いが減る。


「区切りは、句読点まで。我慢」

「はい。……我慢」

「終わりに一拍。ジングルの手前で切らない」

「はい」


教える言葉は短い。

ほのかの返事も短くなっていく。

窓の外では、グラウンドに影が伸び、笛の音が遠くで跳ねる。


「次、本番想定。ぼくが最初読む。最後、君が“以上、放送部でした”」

「行けるかな……す、——もう一回お願いします」

「行ける」


ぼくはON AIRの赤を点け、指でカウントする。

三、二、一。

BGMが上がり、言葉が落ち、——一拍。

ほのかの声が、そこに乗る。


「以上、放送部でした」


終端に、静けさがひとつ。

それから、ジングルがやさしく閉じる。


彼女は胸の前で両手をぎゅっと握って、ほどいた。

「今の、怖くなかったです」

「間があると、怖くない」

「はい」


ドアがノックされ、榊颯真が顔を出す。

「練習中? ——いいね、声、出てきたじゃん、南條」

「ありがとうございます」

「でもさ、昼の無音はやっぱナシね。テンポが命。生徒会もその方向で動いてるし」

「……はい」


颯真は机上の台本を手に取り、朗々と一節読んで見せる。

「こう。流れで一気に。呼吸で切ると、放送が『止まって』聞こえるの。事故っぽい」

ぼくは否定も肯定もしない。フェーダーのキャップをかるく回して戻す。

「終わりの一拍は、必要」

「必要って言葉、便利だよね。——まあ、いいや。県の予選、エントリー表回ってきたから、候補に南條の名前入れといた。読めるようになってきたし」


ほのかの目が大きくなる。

「え、わ、私、ですか。すみ……——もう一回、お願いします。あの、入れてくださって、ありがとうございます」

「お。言い換え上手くなってる。じゃ、続きはまた明日。テンポ上げていこう」


颯真が出ていったあと、部屋に音が沈む。

ほのかはしばらく扉の方を見てから、こちらを振り返った。

「予選……私、出ていいんでしょうか」

「準備すれば、いい」

「準備、します。——三で吸って、二で置いて、一で“お”」


自分で言って、自分で小さく笑う。

笑いは、まだ頼りないけれど、足元は固くなってきた。


「今日はここまで」

「はい。すみ……——もう一回お願いします。えっと……ありがとうございました」


ぼくはうなずき、ノートに今日の行を書き足す。

『南條:謝罪→言い換え、移行開始/終端の一拍、定着』


蛍光灯の唸りが、遠のいたり近づいたりする。

BGMは流れていない。

でも、音がないわけじゃない。

呼吸の音と、ランプの小さな熱と、窓の外の風。


「明日、もう一回」

「はい。やってみます」


彼女は扉の前で立ち止まり、振り返った。

目が合う。

三、二——。

——一。


扉が静かに閉まり、放送室はまた、気持ちのいい無言に戻った。

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