きみと黙る放送室

@SilentDean

第1話  昼に落ちる静寂



正午のチャイムが鳴り、校内の空気が一瞬ゆるむ。

BGMのフェーダーを上げる前に、ぼくは指先でミキサーのランプの点滅を数えた。三、二、一——。


数秒の空白。

だれも気にしない。ぼくが入れている。


「本日のお昼の放送を始めます。二年C組、篠原です」


窓の外、校庭を横切る影がBGMの上で揺れた。昼の匂い。パンの甘い匂い。

手元の台本に目を落とし、予定通りの原稿を読み上げる。「本日の献立」「落とし物のお知らせ」「委員会からの連絡」。

言葉は目立たず通り過ぎていく。ぼくがやるべき仕事は、目立たせないことだ。音量は均し、ノイズは切り、進行は乱さない。


最後のジングルをそっと上げ、フェードアウトに合わせてもういちど——短い無言。

「以上、放送部でした」


赤いランプが落ちる。放送室の温度が、すこし下がる。


「……終わりましたか?」


ドアの影から顔をのぞかせたのは、新入部員の一年、南條ほのかだった。肩より少し長い髪を耳にかけ、台本を胸に抱えている。

彼女はまだ正式な担当が決まっていない。声はよく通るけれど、本番で噛むという噂を聞いた。


「うん。おつかれさま」


ぼくはミキサーのスイッチを落とし、ケーブルをゆっくり巻いた。癖をつけないように、緩めで大きく輪を作る。


「篠原先輩……質問、いいですか」


「どうぞ」


「さっきの、あの……無言の間。あれ、どうして入れるんですか?」


彼女は台本の角を指でなぞりながら、視線だけこちらに寄越す。

聞いてくるのは初めてじゃない。でも、正面から言葉にしたのは、彼女が初めてかもしれない。


「昔から、そういうふうにしてる。……というのが表の答え」

ぼくは鍵束を引き出し、放送室の机の引き出しを開ける。ギシ、と音がして、小さなノートが姿を見せた。

「裏の答えは、これ」


表紙に「点検」とだけ書かれた、使い込まれたリングノート。

初代のページには、つたない字で『三秒置くとザザッが消える』とある。

『BGM→アナウンスの間は空気を変える』『沈黙は事故じゃない。呼吸』


「これ、ずっと引き継がれてる。正式なマニュアルじゃないけど」


ほのかは身を乗り出す。ノートをめくるたび、紙が乾いた音を立てた。

『火曜のジングル、最後に鳴り切る前に切るとハウる』『昼の放送前、赤ランプ二回点滅のあとで入る』

気のせいか、彼女の呼吸が少し速くなる。


「……沈黙って、怖くないんですか?」

「慣れると、便利」

「便利」


「うん。機械にも、人にも、ちょっとした間が要る」


ノートを戻すと、放送室のドアが勢いよく開いた。

「おつかれー!」


三年の榊颯真が、軽い足取りで入ってくる。看板アナウンサー。この学校の“声”の顔。

「今日の献立、噛まなかったね、篠原。珍しい」

「基本、噛まないよ」

「はいはい、謙虚謙虚」


颯真は笑いながら、ほのかに視線を移した。「新入さん、南條だっけ。発声の練習、今から見る?」

「えっ、あ、お願いします」


ぼくはケーブルを巻き続けながら、二人のやりとりを横目で見る。

颯真は台本を掲げ、朗々と読み上げた。声に光沢がある。抑揚も美しい。

「——こんな感じ。沈黙は基本ナシ。テンポが命。OK?」


「は、はい」


「それと、昼の放送に“間”を入れるの、あれダサいからやめていこうか。放送事故っぽく聞こえるからさ」

颯真の声は冗談のようで、半分本気だ。

ぼくは何も言わない。代わりに机上のスイッチのキャップを外し、ホコリが溜まっていないか確認した。

この部屋の機材は、古くて、頑固だ。人間みたいな癖がある。


「じゃ、放課後。視聴覚室で追加練習やるから。南條、来なよ。篠原は……来ないよね?」


「機材の点検がある」

「だと思った。じゃ、よろしくー」


颯真が去ると、部屋に小さな静けさが戻った。

ほのかが、ちいさな声で「ダサい、ですか」と言う。

「好みの問題」

「先輩は、好きですか。さっきの……間」

ぼくは思う。自分のことは、わからない。けれど、あの数秒がなければ、ここは息苦しくなる。

「必要、だと思ってる」


ほのかはうなずき、台本を胸に抱き直した。



放課後。

点検ノートのチェック項目をなぞっていく。ケーブルの抜け、接点の酸化、フェーダーのガリ。

音を出しては止め、止めては出す。

「三秒、置く」


ぼそっと呟いたとき、背後からノック音がした。扉が少し開いて、伊達実が顔を出す。

「おーい、地味王。まだやってんの?」

「地味王はやめろ」

「褒めてる。俺は派手王になるから。つーか今日さ、生徒会の掲示見た?」


「見てない」

伊達はスマホを見せる。『校内放送運用基準見直しのお知らせ』——太字。

「“放送品質向上のため、沈黙および無音時間の撤廃を検討します” だとよ。広報長の西園寺が張り切ってる」

「そう」


伊達はため息をつく。「俺はさ、直人のあの“間”好きだけどね。昼のBGM、ちょっとだけ美味しくなる。味変っていうか」

「機械のためでもある」

「人のためでもある。……南條ちゃんには教えた?」

「呼吸の置き方は、少し」


「ふーん。いいね。青春だね」

「違う」

伊達はニヤニヤしながらケーブルドラムに腰を下ろし、手持ち無沙汰にスイッチをカチカチいじる。

「なあ、理屈抜きで“これは正しい”って言えること、学校にどのくらいあるんだろうな」


「知らない」


「だよな。……でも、その三秒は、けっこう正しい気がする」


彼は立ち上がり、肩をすくめた。「じゃ、視聴覚室いってくる。颯真さまのお説教会」

伊達が出ていくと、部屋にまた、静寂が落ちた。

ぼくはランプの点滅を見つめ、指でカウントする。三、二、一。


吸って、吐く。

空気が少しだけ、澄む。



視聴覚室の前を通りかかったのは、その一時間後だった。

誰かの声が漏れてくる。ほのかの声だ。

「——今日のお昼は、焼きそばパンが二十個入荷します。お一人様、お買い上げは——」


「そこ。区切りが早い。流れが切れてる。もう一回」

颯真の声。

「——お一人様、お買い上げは、お一人様……」


「噛んだ。緊張してる? もっとテンポよく」

「すみません」


扉の小窓から覗くと、颯真が手を叩き、ほのかが小さく肩をすぼめるのが見えた。

ぼくはノブに手をかけたが、そのまま離した。

練習には練習の空気がある。勝手に割り込むのは違う。


代わりに、廊下の端でしばらく足を止めた。

ほのかの声は、悪くない。むしろ、いい。

ただ、呼吸が浅い。言葉の骨が立つ前に、急いで音にしてしまう。


(三秒)


心の中で、目に見えない指を立てる。

——三、二、一。


ぼくは踵を返した。やることは、ここにはない。

放送室に戻り、ミキサーの横に小さな付箋を貼る。

『明日、南條に“間”の練習(呼吸→一拍→一語目)』



翌日。昼。

チャイムの音が溶ける前に、ほのかが放送室に入ってきた。少し早足。

「篠原先輩、あの……五分だけ、時間もらえますか」


ぼくはうなずき、マイクをオフのまま彼女に向ける。

「ここに立って。マイクに触らないで、距離は握りこぶし一つ分。台本は見ない。窓の外を見る」

「え、見ないで?」

「うん。きょうは、見ないで言う練習」


ぼくは時計を見て、指を立てる。

「三で吸って、二で止めて、一で吐く。そのまま“おはようございます”の“お”だけ言う」


「“お”だけ」

「うん。じゃあ、三、二、一——」


ほのかの喉が、すこしだけ動いた。

それは声になりかけの息で、まだ色がない。

「……お」

音ではなく、輪郭のような“お”。


「もう一回。今の“お”の前に、ほんの少し間を入れて」


二度目、三度目。

彼女の肩が落ち着いていく。

「じゃあ、“本日のお昼の放送を始めます”まで」


「——本日のお昼の放送を始めます」


さっきより滑らかだった。

ほのかは自分の口元を触り、少し驚いた顔をする。「今の、なんか……怖くなかったです」

「間があると、怖くない」


彼女は笑った。その笑顔は、思っていたよりずっと、あどけない。

「ありがとうございます。放送、がんばります」


ちょうどそのとき、廊下がざわめいた。

掲示板の前に人だかりができている。伊達が腕を組んで立っているのが見える。

『校内放送運用基準見直しのお知らせ』の紙が、貼り直されていた。赤いペンで、今日の日付。

“学園祭に向けて、無音時間の撤廃を試験導入します”


ぼくとほのかは、同じタイミングでそちらを見た。

彼女が小さく息をのむ。ぼくは、カウントを始める。

三、二、一——。


昼のチャイムが鳴った。

そして、ぼくたちの時間が、静かに始まる。"

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