第8話 最終話 秩序と希望(Aルート)

最終話 秩序と希望(Aルート)


 朝の光は白く、石の都の輪郭を一番くっきりと見せる。フォールムの列柱は夜露を弾き、路地の影は冷気を抱えたまま縮こまっている。焼き直したパンが香り、葡萄酒の樽が軋み、皮なめしの酸が鼻を刺す。都市はいつも通りに見えた。だが、いつも通りの表面は薄い。指で押せば沈むほどに、薄い。

 壇に上がった僕——マルクス・ウァレリウスは、蝋板を胸に掲げ、掌にその薄さを感じていた。木口の黒ずみは、数日前にこびりついた血で、拭っても落ちない。名簿は刃。そしてこの刃こそが、今は扉でもある。


 「ローマ市民、そして兵よ!」

 声は柱に当たり、跳ね返り、広場の隅々へ散っていく。「秩序は今、剣の影とパンの湯気の間に立っている。私は今日、従軍権の再配分と、戦利品の公正な分け前をここに約す。戦いの矢面に立った者には、戦いの後の席がある」

 兵の列から低いどよめきが起きた。長い干魃の後に最初の雨粒が落ちた時のような、抑え込まれていた音だ。若い兵が胸甲をこつりと叩き、隣の兵が笑い、その笑いを年長の兵が「静かに」と眉で制した。

 「そして市民よ。兵に分け前を約すのと同じように、私はパンを約す。市の倉から小麦を出し、焼き場を増やし、今日明日の空腹に手を伸ばす。剣が夜を守るなら、パンは昼を守る」

 パン屋が両手を空へ上げた。「護民官にパンの神の祝福を!」

 笑いが起き、その笑いはやわらかく、だが長くは続かなかった。広場には、いつでも冷たい流れが混ざる。足首を撫でていくその流れを、僕は知っている。


 背で、剣帯の金具が鳴った。アントニウスが一歩前に出て、両腕を広げる。

 「護民官の言葉は、秩序の宣誓だ。兵よ、聞け。お前たちの労は報われる。市民よ、見よ。お前たちの暮らしは守られる。——ローマは揺るがぬ!」

 剣を抜かずに剣の音を響かせる術が、この男にはある。兵たちの顔はほころび、槍の石突が地を三度、軽く叩いた。同意の印だ。

 壇の下手にいたルキウスは、ただ僕を見ていた。彼の目はいつも石工の目だ。彫る前に、石の割れ目の走り方を見抜く目。


 演説が終わると、男たちが寄ってきた。市場の荷車押しが肩で汗を拭いながら言う。「護民官、おかげで夜が短くなった」

 「夜は剣で短くする」僕は応じる。「昼はパンで長くする」

 男は笑い、荷車を押して去った。石工が頷き、パン屋が窯口に薪を足した。老女は神像の足元に花を置き、若者は肩で風を切り、少女は桶を抱えて走った。生活が戻るとき、都市は一瞬だけ息をする。


 だが、息はすぐに浅くなる。

 列柱の陰で少年が囁いた。「護民官は兵に屈した」

 別の男が答える。「兵を従えた。屈したのではない」

 言葉は石だ。拾い上げる手によって、投げられるか、積まれるかが決まる。どちらにせよ、石は重い。


 昼下がり、天幕では鉄と油の匂いが重ね合わさっていた。アントニウスは地図の上に小さな駒を置き、指で滑らせながら言う。

 「剣と名簿が揃えば、帝政は築ける」

 「帝政?」

 「名を読む口、剣を動かす腕、パンを配る手。三つをひとつに束ねられれば、都市はひとつの身体になる。頭は——」

 彼は、僕を見た。

 僕は静かに首を振る。「頭は民だ。私は舌にすぎない」

 アントニウスは短く笑い、椀を掲げた。「舌が身体を動かす夜もある」

 「舌は嘘もつく」

 「剣もだ」

 沈黙が一度、天幕の布を膨らませ、また萎ませる。外で槍が地を打ち、遠くで鍛冶の槌音が響く。

 「俺はお前を支持する、マルクス。表向きも裏向きもだ」

 「裏はない方がいい」

「裏のない布は、すぐ破れる」

 彼は笑って出ていった。残ったのは地図と駒、そして椀の底に沈んだ葡萄酒の影。


 陽が傾くと、広場に整列が始まった。兵へは分配の手続きが、市民へは配給の列が。

 兵の前で僕は言う。「従軍権は功に応じて開く。退役の者には土地の一角を、現役の者には戦利の一割を」

 兵たちは頷き、ある者は拳を胸に当て、ある者は天を仰いだ。

 市民の前で僕は言う。「パンは家族の数で計る。幼い子のいる家へは優先を。寡婦には二日分を先渡しする」

 パン屋は粉だらけの手で印を押し、少年が木札に刻み、書記が蝋板に写す。記録は刃ではない。だが、刃と同じくらいの重みを持つ。


 列が長くなるほど、不満はどこからともなく混ざり込む。

 「護民官は兵の味方だ」「いや、民の味方だ」「どちらでもない、秩序の味方だ」

 言い合いはやがて石の角に腰を下ろす疲れに変わり、疲れは笑いとため息に変わる。生活は、政治の言葉を薄める。


 夜、天幕に戻ると、ルキウスが地図の上にもう一枚、粗い紙を重ねた。

 「市場の裏で密談。名は出せない。だが、声は若い」

 「若さは火だ。だが、湿らせれば煙になる」

 「湿らせるのは?」

 「言葉だ。明日、広場で話す」

 ルキウスは眉をひとつ動かしただけで頷いた。「話している間に、刃は磨かれる」

 「磨かれた刃は光る。昼にはすぐ見える」

 彼は微かに笑い、肩の革紐を締め直した。「お前は口で盾を編ぐ」

 「剣はお前が構える」

 「構えるだけで済むならな」

 彼は出ていった。天幕の布が揺れ、夜気が少し入り込む。


 翌朝の広場は、祭のようでもあり、裁きの場のようでもあった。兵と市民が混ざり、子どもたちが走り、老婆が座り、犬が匂いを嗅ぎ、商人が帳面を広げ、鍛冶が槌を休めた。

 壇に上がる前、僕は蝋板に二つの語を書いた。秩序、希望。

 「ローマよ!」

 僕は声を放つ。「剣の影は、歌で薄くなる。恐怖は、誓いで鈍る。私は兵に約した。今度は市民に約す。密告ではなく、名のある証言を。夜の合図ではなく、昼の歩み寄りを。——その代わり、私は捨てられた刃を鍬に変える。土に線を引き、境界を言葉で定める」

 ざわめきの奥から、声が飛んだ。「兵は? 兵は従うのか」

 僕は兵の列へ向き直り、ひとりの若者を指差した。昨夜、名前を聞いた兵——マルクス・クラウディウスだ。

 「彼は夜に弟を守った。今は昼に、弟の未来を守る番だ」

 クラウディウスは硬い喉で唾を飲み込み、胸に拳を当てた。「護民官の言葉に、沈黙で従う」

 沈黙は誓いの最も重い形だ。広場に重さが降り、その重さが石畳から足へ、足から胸へ伝わる。


 演説のあと、若者が数人、僕の前に進み出た。顔に布はなく、目はまっすぐだった。

 「俺たちは歌う」

「歌は夜には火だ」

 「昼に歌う」

 「では、お前たちの歌の言葉を書記に渡せ。名も。どこの家の、誰の息子か」

 彼らはためらい、やがて頷いた。名前は刃を器に変える。名のない正義は、石であり、投げられるだけだ。


 午後、アントニウスが僕のところへ来て、声を低くした。

 「兵の機嫌は取れた。だが、夢を見せすぎるな。夢は腹を膨らませない」

 「パンは配った」

 「明日も明後日も?」

 「倉と諸侯から出す。足りねば、私財を売る」

 アントニウスは目を細めた。「英雄は財布を空にして死ぬ」

 「英雄は物語に生きる」

 「物語は腹を満たさない」

 「だが、刃を鈍らせる」

 彼は鼻で笑い、「なら、刃の手入れは俺がやる」と言い、背を向けた。


 夕刻、配給の列の最後尾に、古い外套を着た女が立っていた。両手には何も持っていない。順番が来ても何も受け取らず、ただ僕を見上げた。

 「何が欲しい」

 「名」

 「名?」

 「夫は名簿に載って死んだ。子は名簿にも載らない。名がないと、泣く場所もない」

 僕は蝋板を開き、赦しの頁に彼女の家を記した。

 「ここに名がある。ここに来れば、いつでも泣ける」

 女は深く頭を下げ、踵を返した。足取りは軽くなかったが、向きは正しかった。


 夜が落ちる。巡回の兵の足音は一定で、犬の遠吠えは短い。火の手は上がらない。恐怖はまだ街の隅に残るが、歌がそれを小さくしていく。酒場の奥では、若者が低い声で新しい詞を繰り返していた。

 ルキウスが入ってきて、椀を置いた。

「今夜は静かだ」

 「明日は?」

 「明日は、また違う静けさだろう」

 彼は椀を手にし、しばらく黙った。やがて、火の揺れを見ながら言う。

 「マルクス。お前は英雄と呼ばれ始めた。だが英雄は、次の英雄のための影にもなる」

 「影は抱けない」

 「抱く必要はない。名をつければいい」

 僕は笑った。

 「なら、影に秩序と名をつける。光には希望と」


 深更、窓の外に月が上がった。白い輪郭が屋根の上を滑り、ティベリスの水面で砕ける。街は眠り、わずかな起きている目は、剣の鈍い反射と、パンの湯気と、子の寝息と、遠い歌に向けられている。

 僕は机に向かい、蝋板を開いた。血で黒くなった頁の余白は、まだ狭いが、まだ残っている。筆を取り、秩序と書く。希望と書く。

 扉の陰で、アントニウスが立ち止まった気配がした。彼は何も言わず、何も叩かず、去っていった。足音は軽い。満足の軽さではない。計算の軽さだ。

 僕は筆を置き、蝋板を閉じた。木の軋みは小さく、だが確かだ。


 翌朝のフォールムは、またいつも通りだった。パンの匂い、槌の音、呼び声、笑い声。兵がゆっくりと巡回し、子どもがその後をまねて歩き、犬が尻尾で砂を描く。秩序はある。希望もある。どちらも薄く、どちらもよく光を拾う。

 石工が僕の肩を叩いた。「護民官、柱は立った。あとは、屋根に重さをどう乗せるかだ」

 「重さは均等に。影は名で分ける」

 彼は笑い、離れた。

 少年が駆け寄って来て、息を切らしながら言った。「護民官、歌ができた!」

 「どんな歌だ」

 少年は胸を張り、低く歌い出す。剣は夜を守り、言葉は昼を守る——拙い押韻が、朝の光で少し上手に聞こえた。僕は頷き、頭ではなく胸に手を当てた。


 その日の正午、アントニウスは再び天幕に僕を呼んだ。卓上には新しい地図、そして新しい名簿。彼は片眉を上げ、口角をわずかに動かした。

 「英雄、次の段だ。剣は磨かれ、腹は膨れ、歌は生まれた。あとは形だ」

 「形?」

 「頭の形。ローマは頭と体が離れていると、同じ方向に歩かない」

 彼は駒をひとつ、地図の中央に置いた。

 「俺は腕でいい。お前は舌でいい。——だが、頭が要る」

 僕は目を閉じ、石の街の重さを胸に集めた。歴史は選択でできている。選択はいつも、不足と余剰の間に置かれる。

 「頭は、法だ」

 アントニウスは肩をすくめ、笑った。「舌のくせに、最後に法と言うのか」

 「舌は嘘をつける。法は、嘘を修正できる」

 「なら、書け。書いてみせろ。舌で構成した秩序を、法に変える文章で」

 「書く」

 僕は答え、筆を取った。天幕の外で兵が槍の柄を二度、地に打ちつけた。市民の列の方角から、パンを配る声が上がった。


 夜、書き終えた草案を机に置き、蝋板に掌を置く。体の熱が木へ移り、木の冷たさが掌へ戻る。二つの温度が入れ替わる。

 「私は英雄になったのだろう」

 独り言は小さく、しかし部屋の隅々へ届く。「だが、この英雄は帝政の影に立っている」

 影は、抱けない。だが、名をつけられる。秩序。希望。

 窓の外、月が雲間から抜け出し、石の屋根を渡っていく。ローマは眠り、起きている少数の目は、明日の配給、明日の巡回、明日の歌、明日の法に向けられている。

 僕は蝋板をもう一度開き、その余白に静かに指を滑らせた。文字はもう増やさない。増やすのは、明日だ。


 ——英雄とは、民を守った者か、それとも未来を縛った者か。

 答えは、今夜のローマの静けさの中で、各々の胸にゆっくり沈んでいく。

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剣かトガか—カエサル最後の運命 湊 マチ @minatomachi

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