第7話 寛容の広場
第7話 寛容の広場
朝の風は昨夜の煙の匂いをまだ抱えていた。アウェンティヌスの斜面から降りてきた煤が、フォールムの柱に薄い指紋を残している。焼けた藁の甘さと、鉄の生臭さ、そしてパン窯の香りが混ざり、胸のどこかが少しだけ早く動く。
僕——マルクス・ウァレリウスは、広場の壇に上がった。蝋板の木口には黒ずんだ血が固く貼りついており、指でなぞると小さな棘のように痛む。名簿は刃。鞘に納めたはずの刃を、今日は人の前でそっと背に回す。
「ローマ市民!」
声はまだ咳の混じった空へ飛び、柱で折り返して戻ってくる。
「昨夜の火は消した。ならば、火を呼ぶ摘発は止める。——これ以上の血は不要だ」
ざわめきが一度、高く膨らんでから、息を吐くみたいに落ちた。「助かった」「ようやくだ」とどこかで誰かが言い、老婆が胸の前で印を切り、石工が小さく拳を握った。子を抱いた女は、腕から力を抜いて肩を下げる。その肩の下り方の重さを、僕は胸の内側で受け止める。
一方で、兵の列の陰からは抑えきれない音が漏れた。「敵を逃すのか」「夜ごと火が上がるぞ」。革靴が砂を噛む音が、いつもより硬い。
「護民官の言葉に従え!」
背後からアントニウスが声を張った。表情は笑い、目は笑わない。剣は鞘にある。だが、その鞘はいつでも口を開けられる。
低い声が僕の耳許に滑り込む。「良い顔だ、マルクス。民の前ではな。だが覚えておけ、寛容は空白を生む。空白は誰かが埋める」
僕は頷いた。「ならば——言葉で埋める」
彼は短く笑い、群衆へ向き直って両腕を広げた。「秩序は護民官とともにある!」
歓声の波が走る。だがその波の中に、幾筋かの冷たい流れがあり、足首を撫でていくのを僕は確かに感じた。
壇を降りると、パン屋が粉だらけの手で僕の腕を掴んだ。「護民官、窯の火が途絶えるところだった。ありがとう」
石工の男が頷く。「柱は火で割れるが、人の怒りは言葉で割れる。昨日、お前がそうした」
言葉は刃にも盾にもなる。今朝は、盾の縁でこすられたような手のひりつきを覚える。
そのすぐ後ろで、青年が吐き捨てた。「弱腰だ。夜に剣を収めれば、昼に刃が増えるだけだ」
青年の腰のあたりには、布越しに固い線があった。短剣か、それとも骨のまっすぐさか。ルキウスが無言で彼の前に立ち、視線だけで道をふさいだ。
「今は言葉の番だ」
ルキウスの声は低い。青年は舌打ちして去り、砂に爪の跡が残った。
昼前、僕は蝋板の別の頁を開き、「赦しの名簿」と記した。弁明を許す者、武器を差し出して誓いを立てる者、遺族に弔いの場を開く者——剣を持たない誓いの列だ。
「誓いの言葉は昼に晒す。夜の言葉は切れるが、昼の言葉は残る」
僕が呟くと、書記役の少年は目を丸くした。まだ髭の薄い彼のペン先は、未来のどこかへ細い線を引こうと震えている。
その日の午後、アントニウスの陣へ呼ばれた。天幕の中は皮なめしの匂いと油の匂いが混ざり、鉄の鈍光がいくつも並んでいる。
「寛容を宣言したそうだな」
男は笑わないとき、声がよく通る。「見ろ」
彼は卓上の羊皮紙を叩いた。密告の印、摘発の報告、火種の噂。昨夜より増えている。
「弱さは噂を太らせる」
「恐怖も噂を太らせる」
幾秒かの沈黙。外で槍の柄が地を打つ音がした。
アントニウスは指で机の縁を叩いた。「お前は民の前で英雄になれる。だが、兵の前では弱者の仮面を被る。二つの顔は長く持たぬ」
「なら、同じ言葉で両方に向き合う」
「言葉は壁だ。剣は扉だ。壁は守るが、扉は動く」
僕は吸い込んだ息を胸の奥に置き、天幕を出た。外の光は白く、剣の背で反射して目に刺さる。
夕刻、フォールムで弔いの場が開かれた。縄をほどかれた遺体が担ぎ出され、布で覆われ、女たちの声が低く波打つ。かつて彼らを国家の敵と呼んだ声が今、亡き人と呼ぶ。
「弔いを妨げない」
僕は兵に告げた。「泣き声は焚き木ではない」
兵の一人が眉をひそめる。「だが、歌は炎になる」
「昼の歌は記憶になる。夜の歌だけが火だ」
兵たちは渋い顔で頷き、列の縁に退いた。
その時、広場の反対側で叫び声が上がった。「護民官を讃えよ!」
何人かの若者が月桂冠の葉を編んだ輪を持って走ってきて、僕の頭上へ掲げようとした。僕は一歩退き、輪を両手で受け取って胸に当てる。
「葉は頭ではなく胸に置こう。頭は冷たくしておく」
笑いが起こった。ざわめきが柔らかいものへ形を変える。
しかし、兵の列の中から鋭い声。「敵に甘い護民官はいらぬ!」
若い兵が一歩進み出た。顔は火照り、拳は白い。
アントニウスが視線だけで彼を止める。だが、彼の目の奥にも冷たい石が一つ転がっていた。
僕は若い兵に近づいた。彼の胸甲には昨日の煤がまだ残っている。
「名は?」
「マルクス・クラウディウス」
「家族は?」
「父と、弟が一人。弟は昨夜、路地で石を受けた」
言葉は刃の背で触れるべきだ。僕はうなずき、声を落とす。
「なら、弟のために昼を守ろう。夜に剣で守った家は、昼に言葉で補強しなければ崩れる」
彼の喉仏が一度、上下し、拳がほどけた。「……命令なら従う」
「命令ではない。約束だ」
約束は、命令より重い。重いものは、簡単には振り回せない。
日が傾くと、広場の空気は青くなった。弔いは終わり、歌は声を潜め、女たちは布を畳む。パン屋は窯に薪をくべ直し、石工は割れた石に水をかける。僕は壇に戻り、言葉の秩序をもう一度、広場へ置いた。
「武器を持たぬ者は、家に帰れ。武器を持つ者は、昼にここでそれを差し出せ。誓いを立て、名は赦しの名簿に載せる。泣く者は泣け。歌う者は歌え。ただし、夜に集うな」
群衆は「おお」と息を合わせ、誰かが「護民官!」と叫んだ。波が再び走り、僕の足元まで届く。足首に当たるその波は、さっきより温かい。
その夜。
ルキウスが早足で入ってきた。顔の汗が灯火で光る。
「弔いの列に、顔を隠した連中が紛れてた。墓地の外で人の集まり。歌じゃない、誓いの声だ」
「武器は?」
「見えない。だが、見えないものの方が速い」
僕は蝋板を開きかけて、指を止めた。また名を増やせば、夜が肥える。
「見張りだけだ。摘発はするな。明日、昼に来させる」
ルキウスは苦い顔をした。「マルクス、寛容は盾になるが、背中まで守らない」
「背中は友が守る」
彼はため息を一つ落とし、「友なら何度でも背中に回る」とだけ言って出ていった。扉が閉まる音がやけに遠い。
深更、アントニウスがひとりで現れた。湯気の立つ葡萄酒の椀を二つ持っている。
「飲め」
椀を受け取ると、熱が掌の凍えを解かした。
「お前は今日、英雄になった」
彼は言う。「だが、英雄の影は太る。影は兵に踏まれると、歯をむく」
「影ごと抱える」
「影は抱けぬ」
僕は椀の縁に唇を置き、温かさと酸を喉へ落とした。
「では、影に名をつける」
「名簿はもう十分に黒い」
アントニウスは立ち上がり、窓の外を一瞥した。「明日、従軍権の再配分を言え。兵の不満は、権利で鎮まる」
「市民の不満は?」
「パンだ」
彼は肩で笑い、去っていった。扉が閉じる前、彼の目が短く光り、僕はその光の冷たさを一晩中忘れられなかった。
明け方、フォールムに集まった人々の手に、武器の山が築かれた。錆びた短剣、折れた槍、狩り用の鉤。少年が震える指で小刀を差し出し、僕はそれを両手で受けた。
「今日から、これは鍬になる」
「鍬は腹を守れるか?」と少年が聞く。
「土が守る。土は夜に逃げない」
少年は頷き、母の手の中で泣いた。
その背で、兵舎の方角から野次が上がった。「祭りか?」「剣を捨てて歌えと言うのか?」
ルキウスが僕を見る。僕は壇に上がり、兵舎の方へ身体を向けた。
「兵よ! 我らはお前たちの剣で夜を守った。今日は、お前たちの沈黙で昼を守る。沈黙は剣より難しい。だが、沈黙は剣より長く残る」
兵の列がざわめき、やがて波のように収まった。若い兵——先のクラウディウスが前へ進み、右拳を胸に当てて短く頷いた。
その場をアントニウスが遠巻きに見ていた。掌を一度だけ打ち鳴らし、それから背を向けた。支持の音は短く、不信の沈黙は長い。
日が昇り切ったころ、僕は蝋板を机に広げた。血で黒ずんだ頁の余白に、太い一文字を書き足す。
希望。
墨が乾くまでの間、外から二つの声が交互に流れ込んでくる。「護民官!」「弱者!」。
窓辺に立つと、ローマの屋根が光り、煙が細い糸になって空へ登っていく。昨日より薄い。だが、消えた訳ではない。
私は英雄か、弱者か。ローマはどちらを望むのか。
問いだけが、名簿の黒の上で白く残った。
選択肢
•A:軍を懐柔する
アントニウスや兵士の不満を抑えるため、従軍権や戦利品の分配を提案し、軍を味方につける。短期的に安定は得られるが、民衆は「護民官が兵に屈した」と失望し、支持を失う恐れがある。
•B:民衆に賭ける
兵や強硬派の不満を承知で、あくまで市民の声を優先する。市民からは英雄として讃えられるが、軍の中に「マルクス排除」を望む動きが強まり、暗殺やクーデターの危険を招く。
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読者への呼びかけ
ローマは二つの力に揺れている。
Aは「軍を抱き込み、秩序を保つ道」。
Bは「市民に寄り添い、理想を掲げる道」。
どちらも危険を孕み、マルクスの未来を大きく変える。
コメント欄に 「A」または「B」 と記入して投票してください。
次回、第8話冒頭で結果を発表し、その選択を物語に反映します。
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投票締切
9月5日(金)9:00(日本時間)
——あなたの一票が、マルクスを軍の操り人形にするか、市民の英雄にするかを決める。
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