第6話 黒い名簿

第6話 黒い名簿


 朝の冷たい光がフォールムの列柱を撫で、昨日の血の匂いは水と灰に薄められながらも、まだ石畳の目地の奥に潜んでいた。焼けたパンと葡萄酒の酸い香り、羊の獣脂、皮なめしの酸、そこへ鉄の残り香が混ざると、都市の呼吸が少しだけ短くなる。店を開く商人は口をすぼめ、兵の胸甲の音に目だけを動かして従う。噂は風より速い。夜に密会、残党、復讐、名簿——どの舌にも同じ音が乗っていた。


 僕——マルクス・ウァレリウスは、昨日閉じたはずの蝋板をもう一度開いた。木肌のささくれが血の乾きをひっかき、指先がざらりと痛む。名簿は刃だ。鞘に戻した刃は、夜の間に冷えて鋭さを増す。ページの余白には、昨夜の噂と朝の報告を書き付けた墨の跡がまだ湿っている。スブッラで密会/アウェンティヌスで武器の搬入/パン屋の奥で説教。どれも「ありそうで『ある』かもしれない」気配だけをまとって、僕の手の上に居座っている。


 「護民官」

 背後から影が覆い、アントニウスの声が落ちた。「秩序は未だ骨だけだ。肉をつけねば立たん」

 彼は短く笑い、剣帯を指で弾く。「狩る。日が落ちる前に、狩りを始める。名を出せ」

 「証がない名まで?」

 「噂は火種だ。火種は灰には残らん」

 理屈の形をした強迫が、胸骨の裏に張り付く。僕は蝋板に筆を置き、呼吸をひとつ長くした。恐れではない。責任だと自分に言い聞かせるための呼吸だ。


 ルキウスがやって来て、地図を広げた。粗い羊皮紙の都市は、僕らが昨夜から落としてきた赤い印で斑になっている。

 「スブッラの裏路地、魚屋の裏蔵に集まり。合図は灯りを三度消すこと。それから……」

 彼は眉を顰め、声を落とした。「密告が増えてる。隣人が隣人を売り、舅が婿を売る。名は太るばかりだ」

「名は刃だ。太れば、切り口が増える」

 そう口にして、僕自身が小さく震えた。言葉が先に刃になった。


 午の鐘が遠くで鳴った。広場に集まる顔は昨日より少ないが、目は昨日より濁っていた。僕は壇に上がり、蝋板を胸に掲げた。

 「ローマ市民! 昨日われらは血で秩序を立てた。今日は眠りの秩序を立てねばならない。夜に剣を隠す者の名を、ここに記す」

 ざわめきが一段上がって、すぐ落ちた。眠りという語が、子どもを抱く母の肩をわずかに下げる。

 「名を読まれた者は弁明の機会を得る。だが、夜に剣を持つ者は昼にも剣を持つ。兵は行く」

 アントニウスが頷き、兵が輪郭を太くするように列を組んだ。革靴が砂を噛む音は昨日と同じだが、今日のその音は市の奥へ染み込みやすい。


 午後。

 最初の扉は、思ったよりも薄かった。スブッラの坂の途中、干した魚の匂いが鼻を刺す家。兵が肩で扉を割ると、埃が陽を切って舞い、奥の暗がりから女の悲鳴が飛び出した。

 「誰だ、誰が密会を?」

 「夫じゃない、夫は市場に、私は——」

 床板の隙間に小箱。小箱の中に、小さな短剣。刃は手入れが行き届いている。戦う意思は必ずしも叫ばない。黙って磨かれた刃は、語る刃だ。

 「名を」

 僕が問うと、女は震えた声で、隣人の名を一つ出した。

 ルキウスが僕を見る。僕は蝋板の余白に点を打った。告発の点は、一度打てば線になる。

 「連れて行け。弁明は広場で」

 兵が女の腕を取る。彼女は僕に一度だけ目を向け、それから視線を落とした。憎しみでも感謝でもなく、空洞の目。あの目は戻ってくる。夜に、夢に、噂に。


 二軒目、三軒目——扉の木目、水甕の藻、壁の煤、暮らしの細部が目に刺さるたび、僕の中の名簿は太っていく。疑いの名、弱さの名、恐れの名。名は刃だが、刃はやがて持ち主の手も切る。


 夕刻、アウェンティヌスの坂で群衆が絡みついた。兵が若者の腕を捻ると、母親の泣き声が坂に転がって落ち、商人が「やりすぎだ!」と怒鳴った。誰かが石を投げ、誰かが投げそこね、その石が老人の背に当たった。怒りの向きはいつでもずれる。

 「退け、退け!」

 ルキウスが盾で押し、押し、突きはしない。押すことだけが今日の約束だ。だが押される者の呼吸は浅くなり、浅い呼吸は叫びを高くする。声の高さが上がるほど、石は軽くなる。


 僕は壇を探した。積まれた石材の上に飛び乗り、両手を広げる。

 「市民よ、眠りを思い出せ!」

 その言葉は、今日二度目の波を作った。母の肩がまた一つ下がり、少年の手から石が離れ、商人の額の筋が一本ほどけた。

 「名はここにある。弁明は昼に行う。夜に剣を隠す者は、昼に言葉を隠す。今ここで言え。ここでだ」

 若者は唇を噛み、やがて震える声で言った。「短剣は……父の形見だ」

 「父は何者だ」

 「石工」

 ルキウスが掴む力をわずかに緩めた。アントニウスが首を横に振る。

 僕は蝋板に二本の線を書いた。釈放と拘束の線。筆先は片方へ行き、ぎりぎりで戻り、別の方へ触れ、また戻る。選ぶという行為は、音より先に腕を疲れさせる。

 「今夜は連れて行く。明日、昼に弁明だ」

 母の泣き声が少し低くなった。低い泣き声は、帰り道を思い出している泣き声だ。


 夕陽が沈む前に、三つの地区へ命を投げた。

 「テルミニの公共浴場——灯りを消す合図があったら扉を押せ。押せだ、突くな」

 「メルカトゥスの裏手——荷車の下。刃は奪え、声は奪うな」

 「ヤヌス神殿の回廊——説教をする男を捕らえろ。口を塞ぐな。広場でしゃべらせろ」

 アントニウスが眉を上げた。「しゃべらせる?」

 「言葉は昼に晒せば刃を失う。夜の言葉だけが切れる」

 彼は短い笑いを落とし、「お前は剣の代わりに口を磨く」と皮肉を投げた。

 「剣は手を離れるが、言葉は胸から離れない」

 言い返してから、自分の胸が少し軽くなっているのに気付いた。理屈は、時に鎧になる。


 宵闇が降り、摘発は始まった。

 テルミニでは、浴場の蒸気が松明の煙に飲まれ、裸の背中に影が踊った。灯りが三度消える。兵が扉を押す。蒸した空気がどっと外へ洩れ、男たちが咳き込む。誓いの言葉が湯気の中でほどけ、陰謀の言葉は湯気の中で重く沈む。

 メルカトゥスでは、荷車の軋みが地面の石を啼かせ、車輪の陰から刃の鈍い光が覗いた。子どもの目がそれを見つけ、兵より先に叫んだ。「そこ!」

 ヤヌス神殿では、回廊の冷たさが声の熱を逃がし、説教の男の言葉は柱に吸われて裂けた。兵が男を取り押さえる時、僕は手で口を押さえる動作をした兵の腕を掴んだ。

 「口は塞ぐな。昼にしゃべらせる」

 男は僕を睨み、唇を歪めた。「昼が正しいというなら、夜に殺したはずの者も昼に生き返るのか?」

 胸のどこかに刺さる言い回しだ。僕はあえて蝋板を掲げ、その前で彼に言葉を吐かせた。市民たちが回廊の柱の陰に集まり、耳を傾ける。証人が増えるほど、言葉は刃ではなく記録になる。


 夜半、スブッラの路地で、兵の列に石が降った。角を曲がった先、布で顔を覆った青年たちが五、六人。松明が揺れ、影が踊る。

 「やめろ!」

 僕は前に出て、盾の隙間から手を伸ばした。石が僕の手首に当たり、骨に響いた。痛みが白い光になって指先を走る。

 「眠り——」

 言い終わる前に、背後で金属が軋む音。アントニウスが剣を半ば抜き、ルキウスがそれより早く肩で僕を押し戻した。

 「前に出るな、マルクス。剣の距離だ」

 「言葉の距離にしたい」

 「言葉の距離に入るには、まず生きていろ」

 短い言葉が骨の痛みに重なり、僕は一歩退いた。兵は押しで前進し、青年たちは一人、また一人と壁に貼り付く。誰かが短剣を抜こうとして、ルキウスの籐の棍が手首を打った。骨の音。落ちた刃の音は乾いていて、僕の内部まで乾かす。


 路地の奥から、鐘の音が一つ、二つ、三つ。合図のはずが、今夜はただの告げ口になっていた。摘発は広がり、名簿の余白は埋まっていく。

 ある家では、白髪の男が自ら扉を開け、手を差し出した。

 「わしの名は呼ばれたか?」

「まだだ」

 「なら呼べ。疑いを残される方が、家の子らには重い」

 僕は彼の名を見つけ、点の横に線を引かず、丸で囲んだ。明日の弁明。彼は頷き、誇りの形をした沈黙を僕に返した。


 夜の真ん中に差し掛かったころ、広場に運ばれてくる名と押し込まれてくる体で、空気は濃くなった。兵は水袋を回し、民は囁きで街を満たす。密告は罪でもあり、貨幣でもある。

 「隣の男は夜更けに出入りする」「パン屋の裏口から兵が来ていた」「あの女は昨日泣かなかった」

 僕は聞き、聞き流し、書き、書き直し、そして消した。消すたびに、蝋板の表面には爪痕のような線が増えた。消した名は、僕の内側で逆に濃くなっていく。名簿は胸にも二冊目を作り、そこにだけ残る名前が増える。


 「護民官」

 アントニウスが肩越しに低く問う。「いつまで押す?」

 「夜明けまで」

 「夜が明けても火は消えない」

 「だから、昼に晒す」

 彼は鼻で笑い、剣を鞘に落とした。「お前が昼の王なら、俺は夜の犬でいい」

 犬は牙を見せずとも噛める。恐怖の秩序は、犬歯の形をしている。


 最後の区画へ向かう途上、風が変わった。焼けた脂の甘さに、焦げた藁の匂いが混じる。遠く、アウェンティヌスの斜面のどこかで、火の粉が空に散った。小さい、だが乾いた火。

 「誰だ、火は命じていない!」

 アントニウスが叫び、兵が顔を見合わせる。ルキウスの目が一瞬だけ僕を見る。

 僕は胸の蝋板を抱え直し、走り出す前に、ひとつだけ息を整えた。言葉は追いつけるか。剣は追いつく。火はいつでも、どちらよりも速い。



 アウェンティヌスの斜面を駆け上がると、乾いた藁が燃える匂いが鼻を刺した。火の粉は夜の闇に散り、赤い粒が星と混じり合う。石造りの家々の間で、一本の松明が倒れ、その炎が積み藁へ移っていた。火はまだ小さい。だが、恐怖は炎より速く燃える。


 「水を! 水を持て!」

 僕は叫び、広場から追ってきた市民たちが慌てて壺を抱えた。だが水を投げる前に、石が飛んできた。夜の闇を裂いて、兵士の盾に当たる。乾いた音が広場に響き、空気が一気に鋭さを帯びる。


 「討て!」と叫ぶ声が上がる。

 「押せ!」とルキウスの声が重なる。

 盾が動き、槍が下がり、火の赤と人の怒号が絡み合った。



 火の前に立っていたのは、布で顔を覆った数人の若者だった。手には石、腰には短剣。遺族か、それともただの怒りを持つ者か。

 「自由を討った者どもめ!」

 叫びは炎の揺れと重なり、夜に浮き上がった。


 「武器を捨てろ!」

 僕は声を張り上げた。

 だが、返ってきたのは嘲笑だった。

 「言葉で火が消せるなら、ローマに剣など要らぬ!」


 兵士の間でざわめきが走る。アントニウスが半歩前に出て、剣を抜き放つ。

 「言葉は剣の後で十分だ!」


 その瞬間、火が梁に移り、赤が夜空を裂いた。子どもを抱えた母親の悲鳴が響き、逃げ惑う市民の群れが兵の背中にぶつかる。押しと押されが交錯し、秩序は瓦解し始めた。



 「マルクス!」

 ルキウスの声が耳を打った。彼は僕に盾を差し出す。

 「前に出ろ、剣を取れ!」

 「いや……言葉で止める!」


 僕は壇の代わりに、燃える藁の山の前へ立った。熱気で喉が焼ける。

 「ローマ市民! 火は敵ではない、復讐こそ火だ! 剣を捨て、桶を持て!」


 一瞬、若者たちの動きが止まった。だが後ろから別の声が飛ぶ。

 「この男に従えば、また名簿に載せられるぞ!」

 囁きは毒のように広がる。石が再び飛び、僕の足元で砕けた。



 アントニウスが剣を掲げ、兵に命じる。

 「押せ! 夜を沈めろ!」

 兵が動いた。盾がぶつかり、槍の柄が肩を打ち、短剣が石畳に落ちた。若者たちは必死に抵抗するが、数と訓練の差は明らかだった。数人が押し潰され、残りは逃げ去った。


 火はなお燃えていた。僕は桶を取り、兵と市民に水を掛けさせた。蒸気が立ち上り、煙が目を刺す。夜の空気は酸欠のように重くなり、誰もが咳き込み、声を失った。


 やがて炎は弱まり、梁は黒く崩れた。燃え残った炭の匂いが風に乗り、斜面全体に漂った。



 静けさが戻ったとき、倒れた若者の一人が血の中で呻いていた。顔布を外すと、まだ髭も薄い少年だった。僕は彼の目を見た。そこには恐怖よりも怒りが残っていた。

 「父を殺した……名簿で……お前が」

 僕は言葉を返せなかった。彼の声は血に溶け、夜に吸い込まれた。


 周囲には市民が集まり始めていた。彼らは僕を指差し、ささやいた。

 「護民官が火を止めた」

 「いや、護民官が火を呼んだ」

 英雄か、暴君か。どちらの声も、同じ夜に響いていた。



 夜更け、自宅に戻った。蝋板を机に置くと、余白は新たな名前で埋まっていた。密告、捕縛、弁明待ち。筆跡は震え、血で滲んだ部分もある。名簿はもはや秩序の証ではなく、恐怖の記録になりつつあった。


 「強硬に進めば、火は抑えられる。しかし、その火は別の場所で燃え上がる……」

 僕は独り言のように呟き、蝋板を閉じた。


 窓の外、ローマの夜空には煙が漂っていた。月はその煙に隠れ、赤い光を帯びていた。



選択肢

•A:さらに強硬に進む

 兵を倍増し、密告を奨励する。恐怖で秩序を固め、英雄としての威光を得るが、街はますます息苦しい牢獄と化す。


•B:恐怖の秩序を緩める

 摘発の手を緩め、寛容を示す。民衆の一部からは英雄と讃えられるが、兵やアントニウスからは「弱者」と見なされ、内部崩壊を招く恐れがある。



読者への呼びかけ


ローマは火の影を乗り越えた。だが、秩序はなお揺れている。

Aは「恐怖を徹底させるローマ」、Bは「寛容を示すローマ」。

どちらを選んでも、マルクスの名は歴史に残るだろう。


コメント欄に 「A」または「B」 と記入して投票してください。

次回、第7話冒頭で結果を発表し、物語を分岐させます。



投票締切


9月4日(木)9:00(日本時間)


——あなたの一票が、英雄を作るか、暴君を作るかを決める。

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