第3話 剣と名簿

第3話 剣と名簿


 音が変わった。

 怒号は波だったのに、いまは刃の稜線を持っている。風が大理石の柱を撫で、陽が剣身に白い歯を与え、血の匂いが粉塵に混ざって口蓋に貼りつく。広場の中央、積み上げた石材を壇代わりに、僕——マルクス・ウァレリウスは名簿を掲げた。蝋板の木肌は冷たいが、掌は熱かった。


 「ローマ市民!」

 声が石に当たり、跳ねて、僕の胸に戻る。

 「国家の敵をここに定める。名簿は刃となる。」

 文字より先に、決意が走る。息を継ぎ、僕は最初の名を押し出した。


 「ガイウス・カッシウス・ロンギヌス!」

 広場の一角がざわつく。

 「マルクス・ユニウス・ブルートゥス!」

 噛むように名を言うと、何人かの女が口元に手を当て、少年が石を落とした音がした。

 「プブリウス・セルウィリウス・カスクス!」

 僕の舌は刃だ。呼ばれた名は、民衆の視線という火で焼かれ、敵の形に固まっていく。


 背後でアントニウスが剣を掲げた。剣身が日を噛み、白い火花のような反射が群衆の目に刺さる。

 「兵は名を呼ばれたら前へ! 市民は右手を掲げて忠誠を示せ!」

 低い、よく通る声。命令の言葉は簡潔で、返事は短いほど強い。

 「第13軍団退役——ルキウス・ピソ!」

 「ここだ!」

 彼はひと跳びで壇の近くへ出ると、剣帯を叩いて兵をまとめる。「20人左翼、10人右翼。盾を前へ、槍は下げろ。突くな、押せ。」


 僕は名簿のもう一面をめくる。

 そこには兵と市民の赦免と土地区画の候補名が並んでいる。今日この場で議されるはずだった生活の名だ。

 「アウルス・ウァレリウス——忠誠を誓うか。」

 痩せた石工が胸に拳を当てる。「誓う!」

 「プブリウス・カリナ——誓うか。」

 「誓う!」

 名は刃だが、名は盾にもなる。僕は刃と盾を1行ずつ、交互に掲げ、広場の呼吸を整えた。


 「自由を恐れるな!」

 キュリアの段差の上からブルートゥスの声が飛ぶ。

 「我らが討ったのは暴君だ!」

 だが声の向きが違う。彼の語は抽象へ向かい、広場の耳は腹と家へ向く。今この場で家に持ち帰れるのは自由ではなく安全だ。

 カッシウスが剣を隠しもせずに構え、声を低く抑える。「アントニウス、剣でローマを縛る気か」

 答えたのは僕だった。

 「秩序は剣で守られ、剣は名で制御される。」


 兵が動く。革靴が砂を噛む音が、広場の輪郭を太らせる。

 ルキウスは左翼を引き連れ、キュリアの入口へ押しをかけた。槍の穂先は地に下がっている。突くのではなく、押し潰すための前進。

 「プブリウス・アクィッラス——忠誠!」

 「忠誠!」

 呼応の声が増えるたび、群衆の胸が波のように上下し、暴力の波頭が統率の波頭へ形を変える。

 壇の下で、パン屋が粉まみれの手を挙げた。「名に印がない者は?」

 「いま押す手が、お前の印だ。」僕は答える。「押せ!」


 押すという言葉は、広場の筋肉をまとめる。

 左翼が押す。陰謀者側の若い者がよろめく。短剣が手から落ちる音。

 右翼が押す。混じっていた乱暴者が弾かれ、石を投げる腕が空を切る。

 「突くな!」ルキウスが怒鳴る。「押せ! 盾で息を奪え!」

 突けば流血、押せば制圧。それが今日選んだ秩序の言語だ。


 僕は国家の敵の名を、意図的に途切れさせる。間(ま)は恐怖になる。

 「デ……」

 言いかけて止め、群衆の視線を一度、ブルートゥスへ戻す。

 「デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス!」

キュリアの柱陰で、彼がほんの少し顎を上げた。自尊が最後の鎧だ。

 「国家の敵に指定する。」

 敵という語が落ちた瞬間、広場の空気が硬化する。人は硬い空気の中で、硬い判断をする。


 アントニウスが1歩前に出た。

 「国家は今日、自由を守るために刃を握る。」

 彼が言い切ると同時に、兵の列がきれいな角を描いて折れ、キュリアへL字に迫る。群衆の壁ができ、陰謀者の退路が消える。

 「マルクス、読み上げを続けろ。士気を切らすな。」

 僕は頷き、次のページへ移る。赦免の列だ。

 「ガイウス・アッピウス——忠誠を誓えば、家への帰路を守る。」

 「誓う!」

 「ルキウス・メテッルス——誓えば、明日もパンを焼ける。」

 「誓う!」

 生活の言葉を挟むと、群衆の手が下がる。剣よりも早く、人の腕を重くするのは家族の名前だ。


 「暴徒め!」

 どこからか怒鳴り声。顔の赤い商人が、キュリアから逃げた議員の袖を掴む。

 「待て。」僕は壇を降り、商人の手に触れた。「そいつは名簿にない。まだだ。」

 商人は歯を食いしばり、「家族を侮辱された」と唾を飛ばす。

 「ならば法で返せ。今日からそれができる。」

 彼の手がほどける。怒りは消えないが、怒りの向きが変わる。向きを作るのが政治だ。


 キュリアの前、カスクスが短剣を構え直し、カッシウスが肩を寄せる。

 「来い、軍人。」

 「押せ、兵。」

 声が交差し、盾と人の壁がぶつかる。金属が軋み、革ひもが切れ、砂が舞い上がる。突きはない。だが押しは骨を粉にする。

 ルキウスが前腕でカスクスの手首を叩き、短剣を落とさせる。器用さより体重。訓練より習慣。戦場は数でなく反復で勝つ。

 「拘束!」

 縄が飛び、腕が後ろへ回される。叫びの高さが1段下がる。痛みの声は高く、諦めの声は低い。


 壇の上に戻ると、空気が薄くなっているのに気づく。怒号が減った分、思考が増えたのだ。人は考えるとき、呼吸を浅くする。

 「市民よ、見よ。押せば街は壊れず、押せば家が守られる。」

 言いながら、内心で僕は指の震えを数えていた。1、2、3……。震えは恐怖ではなく、加担の重さだ。選んだのは僕だ。名簿を刃にしたのも僕だ。血の秩序の最初の署名は、僕の手書きになる。


 そのとき、ブルートゥスが前へ出た。足取りはためらいなく、顔色は蒼白だが目は静かだ。

 「護民官マルクス。剣で秩序を保つのか、それとも恐怖で縛るのか。」

 声は広場の隅まで届いた。理想に足が生えた瞬間だ。

 僕は答えようとして、言葉を噛んだ。秩序と恐怖の境はいつも薄い。今日、その薄皮を自分で破った。

 アントニウスがブルートゥスの真正面に立つ。

 「秩序は恐怖から生まれ、恐怖は法で飼い慣らされる。」

 「その法を書くのは誰だ。」

 「勝った側だ。」

 短いやり取りが、現実を剥き出しにする。広場がざわめき、風が剣身の汗を乾かす。


 「読み上げを続けろ、マルクス。」

 アントニウスの視線が僕に触れ、重みが肩に載る。

 僕は頷き、蝋板を持ち直した。指先に松脂の匂い。木肌のささくれが皮膚に引っかかる感覚で、集中が戻る。

 「国家の敵——ガイウス・トレビオ。」

 「忠誠——ティトゥス・フラウィウス。」

 刃と盾。刃と盾。交互に。交互に。広場の脈拍を合わせるために。


 やがて、押しは包囲に変わり、包囲は拘束に変わり、キュリア前の空間から短剣の光が消えた。

 しかし、終わりの気配はない。報復はいつだって第二波で来る。人は一度安心すると、余計な正義を思い出す。

 壇の下で、粉まみれのパン屋がまた腕を上げる。「次は誰を縛る?」

 僕は返事を飲み込んだ。次という言葉は、連鎖の始まりだ。


 夕陽が石畳の目地を赤く染め始める。影は長く、傷は黒く、汗は塩を残し、嗄れた喉に砂がこびりつく。

 「マルクス!」

 ルキウスが駆け寄り、短く報告する。「右翼制圧、逃走2、拘束7。負傷軽微。」

 「左翼は?」

 「押し切った。だが、群衆の端に火の匂いがある。誰かが家に走った。」

 松明。第二波の兆しだ。

 僕は頷き、視線を広場の縁へ投げる。火は秩序より速い。言葉は火より遅い。だからこそ、次の一手は刃ではなく予告でなければならない。


 僕は蝋板を胸に当て、広場に向き直る。

 「ローマ市民。ここから先は、刃ではなく法で進む。」

 その時、ブルートゥスが1歩、石段を降りた。縄はまだかかっていない。彼は空を見上げ、そして僕を真っ直ぐ見据える。

 「ならば、私を縛れ。法の名で。」

 広場が息を止める。

 アントニウスの視線が動き、兵の手が縄にかかる。

 僕は口を開いた。言葉が、喉の奥で刃になった。



 ローマの空が沈んでいく。

 西に傾いた太陽は、ポンペイウス劇場の大理石の壁を赤銅色に染め、長く伸びた影を石畳に突き立てていた。影は剣のように鋭く、血で濡れた床の上に刺さり合う。

 熱気を孕んだ風が広場を抜け、羊皮紙を巻いた商人の荷をばさばさと鳴らす。風の匂いは、海から来た塩と、人の血の鉄と、焼けたパンの香りが入り混じっていた。ローマはまだ日常と非日常の間で揺れている。


 「ならば、私を縛れ。法の名で。」

 そう言ったのはブルートゥスだった。

 夕陽の光に照らされた彼の顔は、蒼白でありながら、どこか神像のような静けさを纏っていた。縄をかけられる覚悟を示す姿に、群衆の一部は一瞬、息を呑む。


 その沈黙を、アントニウスの声が断ち切った。

 「兵! ブルートゥスを拘束せよ!」

 低く、だが全体を震わせる響き。命令の言葉は雷鳴のように広場を貫いた。



 ルキウスが兵を率いて前へ出る。革靴が石畳を踏むたび、乾いた音が重なる。

 盾が重ねられ、縄が放たれ、広場の空気はさらに硬化する。

 「国家の敵、ブルートゥスを拘束!」

 縄が腕に巻かれると、ブルートゥスは抵抗せず、ただ短く呟いた。

 「自由のための血は止まらない。」

 その言葉は小さくても鋭く、僕の鼓膜を切り裂いた。


 彼の周囲では、カッシウスとカスクスがなおも剣を握り、最後の抵抗を試みる。

 「まだ終わっていない!」

 カッシウスが吠えると、群衆の前列に立っていた若者たちが思わず身を引いた。剣先に光る赤が恐怖を煽る。


 「押せ!」

 ルキウスの声が飛ぶ。

 盾の壁が前に進み、槍の穂先が低く構えられ、突くのではなく押し潰すための圧力をかける。

 「ぐっ……!」

 カスクスが押し倒され、剣が石畳に落ちて火花を散らした。カッシウスは必死に踏みとどまったが、兵の重みと群衆の怒声に呑み込まれる。

 縄がかけられ、彼の腕が背へ引き寄せられる。骨が軋む音が微かに響いた。



 「陰謀者を討て!」

 誰かが叫ぶと、群衆の中で石が飛んだ。血を流す男に群がり、殴りつける者も出る。

 「待て!」僕は壇から声を張る。「法の名で裁け! ここは広場、法の下だ!」

 だが、怒りに駆られた市民たちの耳には届きにくい。群衆は一度、血を見てしまえばさらに血を欲する。


 アントニウスが剣を振り上げ、雷のように怒鳴る。

 「静まれ!」

 刃に映る夕陽の光が群衆の目を刺し、一瞬、動きが止まる。

 その間に兵が割って入り、暴徒となりかけた人々を盾で押し戻した。


 僕は胸の名簿を握りしめる。掌に汗が滲み、蝋板の表面がぬるりと滑る。

 「この名簿に載らぬ者に、罰は下されない。」

 「聞いたか!」

 「なら俺は助かる!」

 数人の市民が安堵の声をあげると、広場にわずかな落ち着きが戻る。だがその安堵は薄氷だ。次の火種があれば、また燃え上がる。



 拘束されたブルートゥスとカッシウス、カスクスを始め、陰謀者たちは広場の中央に並べられた。

 縄で縛られた列は、まるで供犠のために並べられた羊の群れのようだ。

 夕陽がその影を伸ばし、縛られた身体をさらに小さく見せる。


 アントニウスは壇に立ち、剣を掲げて宣言した。

 「市民よ! 暴君を討ったと偽る者たちは、法の名において国家の敵と定められた!

 秩序は守られた。ローマは揺るがぬ!」

 その声に、広場の半分は歓声を上げた。だがもう半分は恐怖と不安の沈黙に沈んだままだ。


 血による秩序は確かに力を持つ。だが同時に、民の心に恐怖を刻み込む。

 僕は壇の上から見下ろし、名簿の余白に落ちた血の滴を見つめた。乾きかけた赤は文字を滲ませ、名前を歪めている。

 「名簿は刃となる……」

 呟いた声は、誰にも聞かれなかった。



 ルキウスが近づき、報告する。

 「右翼は制圧完了。負傷者数名。だが……群衆の中に火の手を上げようとする者がいる。家に走ったやつもいる。」

 「火か……」

 僕は空を仰ぐ。夕陽の赤が広がり、雲の端を焦がしていた。

 「報復の炎は、まだ始まったばかりかもしれない。」


 広場には安堵の声と嗚咽が交錯していた。パン屋は炉を閉じ、老婆は神々の像に跪き、兵士は盾に寄りかかって息を整えている。石畳に黒く残った血は、明日になれば乾いて白く粉を吹くだろう。だが匂いは残り、人々の心に焼きつく。


 僕は蝋板を抱きしめるように握った。名簿は刃となった。だが、その刃は一度抜けば、鞘には戻らない。


 「秩序は戻った」とルキウスが言う。

 だが僕の口は動かなかった。ただ胸の奥に、ひとつの確信があった。


 ——血で作られた秩序は、必ず次の血を呼ぶ。



選択肢

•A:陰謀者をその場で処刑する

 群衆の怒りを晴らし、即座に報復を果たす。短期的な安堵を得るが、血の秩序は復讐の連鎖をさらに呼び込む。

•B:裁判にかけると宣言する

 法の下で裁きを行い、秩序を形だけでも整える。だが群衆の不満は鬱積し、いつ爆発してもおかしくない。



読者向けコメント


ローマの広場は、あなたの決断を待っています。

Aは「血による即時の安堵」、Bは「法による不安定な秩序」。

どちらを選んでも、ローマに新たな火種を残すことになります。


コメント欄に 「A」または「B」 と書いて投票してください。

次回、第4話冒頭で結果を発表し、物語を分岐させます。



投票締切


9月1日(月)9:00(日本時間)


——あなたの一票が、広場の剣を振るわせるか、法廷の椅子を揺らすかを決める。

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