第2話 アントニウスの影、血の議場

第2話 アントニウスの影、血の議場


 走れ。

 それ以外の語彙が、いまこの都市から消え去ったかのようだった。僕——マルクス・ウァレリウスは、ポンペイウス劇場の柱廊を飛び出すと、春の陽が跳ね返る大理石の床に視界を焼かれた。白がまばゆく、目の奥で金粉のように散る。息を吸うと、石灰の粉と古い血の匂い、それにオリーブ油の甘い気配が喉の奥にまとわりつく。階段の陰には猫が丸くなり、露台の上では鳩が濁った目でこちらを覗き込んでいる。ローマはいつも通りだった。だからこそ、このいつも通りの継ぎ目に挟まってしまった刃の気配が際立って感じられる。


 背中で、キュリア(臨時元老院会場)の扉がきしむ。さっき手をかけた閂は外したままだ。内側で木板が擦れる音がしたが、僕は振り返らない。振り返るなら、あの音を合図として心は折れる。折れた心で走れるほど、ローマは甘くない。


 階段下は市場だ。干したイチジクを並べる老婆、羊を曳く少年、海から届いた塩魚を量る商人、兵の背の高さに憧れて背伸びをする子ども。パン窯の口からは薄く灰が舞い、砂を噛む香ばしさが広場の喧噪と絡み合っている。「今日は大きな法が出るそうだ」と誰かが言い、「土地分配だ」「市民権の拡張だ」と別の誰かが応じる。誰も、血を思ってはいない。僕だけが、血を知っている。蝋板に刻まれた短い文、“名簿は刃となる”——その文字が掌の熱でわずかに柔らかくなっている気がする。


 「マルクス!」

 背後から呼ぶ声。振り向けばルキウス・ピソ、第13軍団あがりの退役兵で、少年のころからの悪友だ。鎧を脱いで久しいのに歩き方だけは戦場のままで、肩で空気を割る。「どこへ行く!」

 「マルス神殿だ。アントニウスに知らせる!」

 「俺も行く!」

 僕たちは目を合わせるだけで了解が取れる。ローマを動かすには脚がいる、という合図だ。


 柱廊を抜けると、陽は高く、影は刃のように細い。通りの角を曲がるごとに新しい臭いが鼻へ飛び込む。皮なめしの酸、葡萄酒の甘さ、川から運ばれた湿った風、下水の底から立ち上る古い腐敗。馬のいななきが遠く、青銅器店の槌音が近い。どの音もこの都市の脈拍を刻む鼓動だ。僕の耳は、その鼓動の奥で、ひとつだけ違う音を聴き分けようとする——刃が布を裂く音。まだ響いてはいない。それでも、必ず響くと知っている音。


 マルス神殿の前で、群衆が自然に左右へ割れた。そこに立つのは、深紅の帯を締めた巨躯。陽に炙られた肌、濃い眉、視線は獣のように重く、しかし計算に満ちている。マルクス・アントニウス。

 「護民官、何をそんな顔で息を切らす」

 彼の声は低く、磨かれた鉄の音色を持つ。

 「キュリアで刃が抜かれる。陰謀だ」

 僕は懐から蝋板を取り出し、片手で掲げた。“名簿は刃となる”。

 アントニウスの目が一行に落ち、ほんの一拍ののち周囲を見渡す。視線で命令が飛ぶ。声が追う。

 「兵を集めろ。劇場を囲め。」

 従者が駆け出す。足音が段を叩くたび、石が低く鳴る。ルキウスが僕の肩を叩いた。

 「間に合うか」

 「間に合わせるんだ」

 僕は自分に向けて言うように答え、踵を返した。


 戻る道は、来た時より狭く感じられた。市場はざわめきを増し、噂が噂を引いて膨らんでいく。“3月15日に気をつけろ”。数日前から漂っていた占い師の文句が、今日に限って生々しい。カリプルニアの悪夢の話も、下女たちの口から鳥の羽のように舞った。犠牲の肝が欠けたと神官が囁いたとも聞く。都市中の不吉が、今日という一点に糸を繋いで引き寄せられている。


 ポンペイウス劇場に戻ると、外気が一段冷たく感じられた。柱の陰に立つ警備の兵が顔を見合わせ、胸甲の留め金に指が集まる。いつの間にか刃は都市の表面に滲み出している。

 「開けろ!」

 アントニウスの声が背中から追いすがる。僕は扉に手をかけ、閂を引き抜いた。木が鳴り、金具が嚙む音が、頭蓋の内側で小さく火花を散らす。


 議場の空気は、外よりも重い。

 聞こえるのは、布の擦れる音、椅子の足が床を引っ掻く音、そして、短剣の鍔が石に当たる乾いた音。目が慣れる前に、白が赤に変わるのを見た。

 ガイウス・ユリウス・カエサルが、椅子の台座の傍で崩れている。白いトガの襞は血を吸って重くなり、柱の陰から差す光に暗い赤が鈍く光る。頬には人の手の跡。胸には多すぎる数の傷。

 「間に合わなかった……」

 僕は呟いた。声が喉にひっかかり、肺の底から砂を吐くように細っていく。

 アントニウスは足を一歩、また一歩と進め、倒れた男のそばに膝をついた。巨大な影が遺体を覆い、怒りではなく冷えた決意だけがその肩に宿る。「まだ終わっていない」


 キュリアの中央に立つ男たち。ブルートゥス、カッシウス、カスクス、そして数名の顔は火に炙られた蝋のように蒼白で、しかし目は燃えている。短剣の刃先から垂れる血が、床に点々と呼吸のような間隔で落ちる。

 「暴君を討った!」

 カッシウスの声はよく通る。響きが柱にぶつかり、そして広場へ逃げていく。

 「市民よ、恐れるな!」

 ブルートゥスは両手を広げ、声を張り上げた。「我らは自由のために剣を抜いたのだ!」

 だが自由という語は、血の匂いに弱い。民衆は抽象では動かない。動くのは、目の前の血、手の中の石、家族の腹の減り具合、兵の槍の向きだ。


 外から、石が当たる音がした。誰かが扉に投げたのだろう。悲鳴と罵声が交互に重なる。僕はその音の編み目の隙間から、都市が裂け始めているのを感じた。裂け目は細く、しかし長い。今日の夕暮れまでに、街路の上にはいくつもの線が引かれる。アントニウスと共に剣を取る者の線。ブルートゥスの理想に身を投じる者の線。家へ走り、戸締まりをして息を殺す者の線。名簿は、その線の上に名前を並べるためのものだ。名簿は刃となる。刃は名を刻む。名は人を切り分ける。


 「護民官」

 背を向けていたアントニウスが、振り返らずに言った。「通路を押さえろ。誰を通し、誰を通さないかはお前が決めろ」

 つまり、それは都市の呼吸を僕の指で調整しろということだ。吸わせるのか、止めるのか。

 僕は頷き、扉の縁に立った。扉は半ば開いたままで、外の光が刃のように室内へ差し込み、血の海に光の筋を作る。そこを小さな虫が飛び、羽が光に当たって一瞬銀色になる。

 「通すな!」

 陰謀者側の誰かが叫ぶ。「ここは神聖な議場だ!」

 神聖さが血で証明される日があるなら、今日がそれだろう。


 外へ出る。

 扉を背にして広場を見渡すと、空は青く、月桂冠を頭に載せた神像が遠目にも白く輝いている。屋台の布が風にあおられ、支柱に打たれた鉄釘がチリンと鳴る。ローマの音だ。だがその音の底に、怒号の低音が増殖している。石を投げる音、誰かが倒れる音、靴底で踏み潰される陶片の音。

 「裏切り者を出せ!」

 「カエサルを返せ!」

 「自由を守れ!」

 互いに矛盾する叫びが、音のうねりになって押し寄せる。うねりの頂で振られる腕はいつでも武器になれる。パンを買う手も、子どもを抱く手も、拳になれば街を壊す。僕は喉の奥に溜まった砂を飲み込み、段を二段飛ばしに降りた。


 壇——いや、広場の真ん中に積まれた石材の山を即席の壇にして、僕はその上に立つ。視界の端で、ルキウスが兵をまとめ、アントニウスからの合図を受けて広場の端を固めているのが見える。兵は20人足らず。だが人は数より向きだ。向く方向が揃えば、人は百にも千にも見える。

 「ローマ市民!」

 僕は叫ぶ。声が石に当たり、跳ね返り、重なって自分の耳に戻ってくる。

 「いま、我らは二度と戻らない分かれ道にいる!」

 頭上の空は澄み、太陽は容赦なく、肌に針のような熱を落とす。額を汗が伝う。汗が唇に落ち、塩の味がする。

 「名簿を見よ!」

 僕は蝋板を掲げた。周囲の視線が、紙ではなく何が書かれているかにではなく、それがここにあることに吸い寄せられる。

 「そこには、誰に土地を与え、誰に市民権を与え、誰を赦し、誰を裁くかが記される。今日はそれが議されるはずだった!」

 「だが血が流れた!」誰かが怒鳴る。

 「だからこそだ!」僕は一歩、前へ身を乗り出す。「血が流れた日に、名簿は赦しの紙にも粛清の刃にもなる!」

 言葉は選ぶ刃だ。正しく振るえば人を守り、乱暴に振るえば都市を割く。僕は息を整え、言葉の柄を握り直す。


 「アントニウス殿!」

 僕は振り返らずに呼ぶ。「この広場にいる市民と兵に、二つの道を示す!」

 群衆がわずかに静まり、石を持った手が宙で止まる。都市は選ぶ前に一瞬だけ黙る。その黙りを逃すと、都市は言葉の届かない獣になる。


 道のひとつ。

 A——アントニウスと共に剣を取る道。

 名簿を使って陰謀者を国家の敵と公に定める。兵の名を読み上げ、忠誠の証に印を押させる。広場の四隅に兵を展開し、ブルートゥスらを拘束、若い者には赦免の余地を与える代わりに証言を取る。血は増えるが、秩序はすばやく戻る。

 道のもうひとつ。

 B——ブルートゥスらの理想に寄り添う道。

名簿を市民の読み上げに解き、土地分配と裁判の改革を先に通す。陰謀者の行為に合法の衣を与え、「自由」の名のもとに民会へ付す。血は広場では減るが、都市の奥で遺恨が膨らむ。

 どちらを取るにせよ、僕は刃を握る。剣か、言葉か。握った刃は、僕の掌に切り傷を残す。


 喧噪の隙間を、キケロが撫でていくような声で言葉を投げてきた。

 「護民官、理想に手足を与えろ。さもなくば理想は石像のままだ」

 僕は返さない。ただ、民の目を見る。皺だらけの目、若く血走った目、飢えた子を抱く女の目、退役兵の濁りを帯びた目。ローマは目の集合体だ。どの目にも言葉の欠片が映るように、僕は言葉を選ぶ。


 「ローマよ!」

 「いま選べ!」

 段を踏む足が震え、視界の端でアントニウスが剣を高く掲げる。剣身が陽を噛んで白い火を放つ。ルキウスの手は柄に落ち、兵の足は広場の四隅へ散る準備をする。

 ブルートゥスは遠くで口を開くが、その声は届かない。声の向きが違うのだ。

 僕は胸の蝋板を押さえ、呼吸をひとつ。肺に刺さる石灰の粉が、涙腺を少し痛める。痛みは覚醒の友だ。僕はその痛みを刃先の鋭さに変え、言葉を投げる準備をする。


 その瞬間、空が暗くなった。雲ではない。劇場の縁に集まった鳥の群れが一斉に飛び立ち、陽を遮ったのだ。誰かが指差し、誰かが「神意」と呟く。兆しは、いつだって後から物語に組み込まれる。だが、いまこの瞬間の僕に必要なのは、兆しではなく決断だ。


 耳。

 僕は音を選ぶ。広場の縁で子どもが泣く音。市場の端でパンが焼ける微かな破裂音。兵士の革靴が砂を噛むささやき。どの音も、ローマの生活の音だ。生活の音を守る道に、刃を向けろ。

 舌。

 舌の上には、言葉という鋭利な金属が一本乗っている。どこへ向ける。誰に向ける。僕はもう「目撃者」ではない。当事者だ。


 「マルクス!」

 背後でルキウスが呼ぶ。短く、しかし全身で僕の背中を押す声色。友情は都市の見えない梁だ。梁があるから屋根はもつ。屋根があるから言葉は響く。

 僕は頷きもせず、視線だけで答え、そして声を投げた。


 「ローマ市民! いまから宣言する!」

 音が波頭になり、広場へ走る。

 「この名簿を刃にするか、盾にするかは我々が決める!」

 「選べ!」誰かが応じる。

 「Aなら、我々は刃になる。アントニウスの下、国家の敵を縛り、秩序を血で固める! 剣で都市を守る!」

 「Bなら、我々は盾になる。ブルートゥスの言を法へ渡し、自由を掲げ、言葉で都市を守る! だが、遺恨は長く残る!」

 声は枯れる気配を見せながら、むしろ鋭くなる。人は限界に近づくほど、言葉を正しく選べる。

 僕は最後の息を絞り、あなたに向けて目を上げた。広場の端に、柱の陰に、露台に、物語の外にいるあなたへ向けて。

 「あなたなら、どちらを選ぶ?」


 沈黙。都市が一拍だけ止まる。

 その一拍を合図に、広場のどこかで膝が石に当たる音がした。誰かが跪いたのだ。剣のためか、自由のためかは見えない。だが、その音は選択の最初の音だ。

 僕は蝋板を胸に押し当てる。薄い木の冷たさが肌を直に冷やす。決して忘れないように、この感触を刻む。

 「——ローマよ、返答を」


 空は再び明るさを取り戻し、鳥の影がほどける。陽が剣を白くし、涙を光らせ、血を黒く固める。都市は呼吸を再開し、僕の内臓もようやく自分の場所に戻った。

 そして、物語はあなたの指先を待つ。



選択肢(コメント欄に「A」または「B」)

•A:アントニウスと共に剣を取る

 名簿を国家の敵の指定と忠誠の徴に使い、兵と民衆を鼓舞。陰謀者の拘束と急速な秩序回復を目指す。あなた(マルクス)は血に手を染める覚悟を選び、短期の安定と引き換えに報復の連鎖の火種を抱える。

•B:ブルートゥスらの理想に寄り添う

 名簿を市民への読み上げと改革(市民権拡張・土地分配・裁判再編)の即時実行に使い、広場での流血を抑えて言葉で収束を図る。あなた(マルクス)は裏切り者と罵られる危険を引き受け、長期の不安定と引き換えに理想の継続を選ぶ。


読者向けコメント

•どちらを選んでも傷を負うのがローマの現実です。

•Aは「刃で守るローマ」、Bは「言葉で守るローマ」。

•あなたの投票で、誰が生き、誰が追われ、どの名簿が効力を持つかが決まります。

•コメント欄に 「A」または「B」 とだけ記入してください。次回冒頭で投票結果と分岐の影響を発表します。


投票締切


8月31日(日)9:00(日本時間)


——あなたの一票が、トガの白と剣の光のどちらをローマに残すのかを決める。

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