剣かトガか—カエサル最後の運命

湊 マチ

第1話 トガの影、剣の影(暗殺前夜)

第1話 トガの影、剣の影(暗殺前夜)


 石畳は朝露で鈍く光り、ローマの丘々をつなぐ街道には、羊と人と噂が入り混じって流れていた。

 僕——マルクス・ウァレリウスは、護民官としての短い任期のうちに、これほど多くの囁きを聞くことになろうとは思っていなかった。

 「3月15日に気をつけろ」

 そう口にしたのは占い師だけではない。税吏、元老院書記、退役兵、パン屋、どの舌からも、似た音の不安が零れ落ちていた。


 フォールムの端、バジリカの下陰で、僕は蝋板を受け取る。封を示す松脂は、押印が崩れないように薄い布で覆われている。手触りに覚えがあった。スアサ——共和政の重みを刻む古い印章の金属肌。

 「送り主は?」

 問いかけると、伝令の少年は首を振るだけだ。

 「柱廊の向こうで受け取れ、とだけ」

 少年の背中を見送る間にも、人々は広場を巡る。神官は羊の内臓を運び、弁論家は弟子を叱咤し、兵は剣帯の留め金を磨く。すべてが日常に見えて、すべてが日常でなく見えた。


 布をほどき、蝋板を開く。

 短い文だ。

 > “劇場の会議室(キュリア)に気をつけよ。名簿は刃となる。”

 震えはしていない。だが、手の内で蝋板がわずかに温度を持つ。名簿。それが刃になる。

 名簿——それは今日、元老院で配られるはずの市民権拡張のリストか、それとも次の法務官任命の候補者か。あるいは、もっと黒い意味があるのか。


 背後から声がした。

 「顔色が悪いぞ、マルクス」

 ルキウス・ピソ、旧友で、今は第13軍団の退役兵だ。カエサルの遠征についていった男は、戻ってからも肩で空気を切るような歩き方をしている。

 「お前の将軍は、今もローマの空気を切って歩くのか?」僕は冗談めかした。

 「将軍じゃない、終身独裁官(ディクタトル・ペルペトゥオ)だ」

 ルキウスは肩をすくめる。「だが、アントニウスは今日は側を離れるらしい。典礼の手続きでな」

 僕は蝋板を胸元に押しやった。アントニウスが側を離れる。ならば、もし——もし何かが起こるなら、その隙を狙うのが最も理に適う。


 午前のうちに、もうひとつの知らせが届いた。カエサル夫人カリプルニアの悪夢。

 カエサルの家人を通じて伝わった噂はこうだ。「夫人は血に染まったカエサルの像を見る夢を見て、外出を止めた」という。

 僕は笑い飛ばすことはできなかった。夢はいつでも嘘をつく。だが、神官が捧げた犠牲の肝が欠けていたという話まで重なると、笑えない。

 「それでも出るさ」

 ルキウスがつぶやく。「ポンペイウスの劇場に造られたキュリアに。今日の議事は重い。元老院議員拡張、退役兵への土地分配、裁判の再編。どれも敵を増やす」

 「味方も増やす」

 「味方が多ければ、刃も増える」

 ルキウスは、剣帯の金具を指で弾いた。その金属音は、僕の心の奥で長く鳴り続けた。


 昼前、僕はスアサの印章を携えて、カエサル邸の前に立った。

 門衛の目は荒れていた。アントニウスの姿はない。代わりに、デキムス・ブルトゥスが出入りしているのを見た。彼は昔から機を見るに敏い男だ。

 門前で足踏みしていると、ティトゥス・リウィウスに似た声が背中から刺さった。

 「護民官、役目は何だ。民の保護か、それとも共和国の保護か」

 振り向くと、それはキケロだった。彼の目は皮肉の炎で燃え続ける炉のように、いつも一定の温度を保っている。

 「両方だ」僕は答えた。「民が共和国を背負い、共和国が民を守る。そう教わった」

 キケロは笑うでも怒るでもなく、肩を少し落とした。「理想を忘れるな。だが理想に道具を持たせるのは人間だ」

 「道具?」

 「名簿も、法も、刃も」

 彼は歩き去る。背中のトガが白く、春の光を曳いていた。


 午後、僕はポンペイウス劇場に向かった。

 ローマ最大の将軍の名を冠した劇場は、円形に人々を抱え込み、その一角に臨時のキュリア——元老院会場が設けられている。

 さらに嫌な兆し。カッシウスが、いつもより少しだけ笑っていた。ブルートゥスは石像のように黙っている。カスクスは手の中の短剣の重さを、見えない指で何度も確かめているように見えた。

 「護民官、通路を開けてくれ」

 声をかけてきたのは劇場の管理役人だ。

 「今日は誰も遅れさせるな、とのご命令だ。デキムス殿の」

 僕は合点がいった。遅らせないことが、今日に限っては、加速することを意味する。


 午後2時。空は晴れ、風は弱く、影は色濃い。

 僕はキュリアの入口付近に立ち、護民官の留め札をかかげ、雑踏を秩序に変える役を演じた。

 その時、彼が来た。カエサル。

 年齢より幾分か若く見える、歩幅。人混みを割るトガの白。彼が通ると、空気の層が薄くなる。王冠の話を持ち出して騒ぎを起こすのは、いつだって取り巻きで、本人はただ静かに中心に座る。

 「護民官」

 僕に目を止める。

 「——名簿は通したか」

 「通しました」

 彼はわずかに頷いた。アントニウスの姿がないことには、何も言わなかった。

 カエサルがキュリアに入る前、ある手が僕の袖を引いた。

 ポルキア、ブルートゥスの妻であり、カトの娘。強靭な眼差し。

 「あなたは護民官。民の剣を持つ人。今日は通路の剣を収めなさい」

 「通路の剣?」

 彼女は入口の閂(かんぬき)を顎で示した。「あなたがそれを外すのか、掛けるのか」

 その言葉の重さは、蝋板の文言とぴたり重なった。通路の閂は、時間の鍵だ。


 午後2時30分。

 僕は閂に手をかけた。開けておけば、誰でも入れる。閉めれば、中にいる者は外界から切り離される。

 内側からは声がする。議事が始まっている。

 「カエサルには請願がある」

 「近づけ、跪け」

 「今だ」

 幾つもの声色。幾つもの刃の匂い。

 ルキウスが僕の耳元で囁く。「アントニウスがまだ来ない。誰かが知らせねばならん」

 僕は息を吸う。吸った空気に鉄の味があった。


 僕は耳を澄ます。キュリアの中から、ひとつ、布の擦れる音。続いて、椅子が軋む音。

 「護民官、扉を」劇場の管理役人が促す。

 僕の左手には松脂の匂いが残る蝋板。右手には、閂の冷たい木肌。

 名簿は刃となる。書かれた名前は保護にも粛清にも転じる。通路は自由にも罠にもなる。

 僕は——。


 時間は、僕の決心が遅れるほど、刃を鋭くする。


 キュリアの扉の隙間から、白いトガが黒く染まる光景がわずかに覗いた。叫び。押し退ける靴。割れる骨の音。

 「マルクス!」

 ルキウスが僕の名を呼ぶ。その声は僕の背中を押しも引きもする。

 アントニウスの従者のひとりが走り寄ってきた。

 「護民官、急ぎだ。主は——」

 彼が言い終える前に、僕は走る足と閂の重みのどちらを選ぶか、決めなければならなかった。


 ——名簿は胸の内。蝋板は掌。扉は目の前。

 カエサルは中。共和国は外。

 僕は民のために、誰のために、今、何をするべきか。



選択肢(コメント欄に「A」または「B」)

•A:アントニウスへ警告に走る

 あなた(マルクス)はキュリアの閂を外し、扉を開けたままにして、アントニウスの元へ走る。彼が到着すれば、兵を動かし、キュリア内外の力学が変わる。救出・包囲・反撃の可能性が開く一方、陰謀の証拠を掴まねば、暴挙と見なされる危険がある。


•B:扉を閉め、内の結末を確定させる

 あなたは閂を掛け、扉を閉ざす。キュリアの中で起こることを外界から遮断し、カエサルの最期とされる瞬間を歴史として確定させる代わりに、名簿(人事・市民権拡張)を用いて恐慌のローマを掌握しにかかる。**共和国派(ブルートゥス陣営)**に接近する道が開けるが、血の責任も伴う。


読者向けコメント

•本作は読者投票で分岐します。コメントに**「A」または「B」**とだけ記入してください。

•次回冒頭で投票結果と分岐の影響(誰が生き、誰が追われ、どの名簿が効力を持つか)を発表します。

•史実の年表は尊重しますが、あなたの選択が都市の心理と人物の運命を変えます。Aは「介入と救出」、Bは「確定と掌握」。どちらも利と禍があります。


投票締切


8月30日(土)9:00(日本時間)


——あなたの1票が、トガの影を剣の影に、あるいはその逆に変える。ローマは、いつだって選択の都市だ。

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