第2話「三秒の代償」

 世界が、完全に凍りついていた。


 降りしきる雨粒は空に散ったまま、地面に届かない。

 ナギの驚愕した顔も止まり、街の喧騒は消え失せた。


 ただ一人、黒衣の男――クロノスだけが、ゆっくりと歩みを進めていた。


「……動けないだろう?」


 低く響く声に、レイの心臓が激しく脈打つ。

 声すら出せない。瞼も、指先も、まるで氷に閉じ込められたように動かない。


 クロノスは冷たい視線をレイの腕へ落とした。

 そこには灼けるような熱を帯びた黒い装置――リヴァースギアが刻まれている。


「その力……我らの主が探し求めた、時の欠片。まだ未完成のはずだが……」


 ゆっくりと、伸ばされた掌が迫る。

 心臓を直接掴まれるような圧迫感。


 このままでは――奪われる。


 叫びたい。抗いたい。だが体は言うことをきかない。


 


 その時。


 ――ジジッ……と耳鳴りが走った。


 リヴァースギアが、勝手に動き出す。

 刻印が眩しく光り、頭の中に声が響いた。


《巻き戻し、三秒間》


「っ!?」


 視界が白に塗りつぶされる。

 そして次の瞬間――


 レイは三秒前の世界に戻っていた。


 


 雨粒が再び落ちかけている。

 ナギが驚いた表情を浮かべる、その直前。


 レイは、自分だけが動けることに気づいた。


「……これが、俺の……」


 背筋に戦慄が走る。

 確かに時間を巻き戻したのだ。三秒だけ。


 その間に、レイは反射的にナギの手を掴み、路地裏を飛び出した。


「こっちだ!」


 驚いたようにナギが息を呑むが、考える暇はない。

 背後で再び、時間が凍りつく音が響いた。


 


 次の瞬間、クロノスの声が耳に突き刺さる。


「……逃げられると思うな」


 気づけば目の前に、男の影が立っていた。

 時を止めて瞬間移動してきたかのようだ。


 ナギが悲鳴を上げる。

 レイは反射的にギアを起動させる。


《巻き戻し、三秒間》


 再び視界が白く光り、三秒前へ。


 今度はクロノスが現れる前に横道へ飛び込んだ。


「ハァッ、ハァッ……!」


 息が荒い。

 しかしそのとき――胸の奥が鋭く痛んだ。


「ぐっ……!?」


 心臓が軋み、呼吸が苦しくなる。

 視界の端で、ギアの歯車が赤黒く脈打っていた。


「代償……そういうことか」


 ナギが青ざめた声で呟いた。


「リヴァースギアは寿命を削るの。使えば使うほど、あなたの命が削れていく……!」


「……ッ!?」


 全身に冷や汗が噴き出す。

 確かに、たった二度使っただけで胸の奥が焼け付くように痛んでいる。


 


 その間にも、クロノスの足音が近づいてきていた。


「小賢しい……巻き戻しなど、何度使おうと無駄だ」


 声と同時に、時間が再び凍る。

 世界が静止し、クロノスの姿が目の前に迫る。


 だが、レイは震えながらも歯を食いしばった。


「――無駄でも、やるしかねえだろ!」


《巻き戻し、三秒間》


 再度、時間を逆転させる。

 今度は廃ビルの崩れかけた階段へと飛び込み、上へ駆け上がった。


 


 息を切らしながら、レイはナギを背中に庇う。


「クソッ、こいつ……止まった時間でも追ってくるのかよ……!」

「クロノスは“時を止める者”。あなたの巻き戻しと対をなす存在……」


 ナギの声は震えていた。


「本気で戦えば、今のあなたじゃ勝てない」

「……ならどうすりゃいい!? 逃げるだけじゃ――!」


 言いかけた時、ビルが大きく揺れた。

 クロノスが下から建物ごと破壊して追ってきているのだ。


「ここまでだ」


 黒衣の男が瓦礫を踏み砕きながら現れる。

 時を止めたまま、ゆっくりとレイに手を伸ばす。


 


 その時――


 耳元でナギが囁いた。


「……恐れないで。あなたの力は、ただ逃げるためじゃない」


「……っ!?」


「“選ぶ”ための力よ。未来を、やり直すための」


 その言葉に、レイの胸の奥で何かが燃え上がった。


 そうだ。

 確かに寿命を削るかもしれない。

 だが、ただ殺されるよりは――


 未来を選び取る方がマシだ!


「クロノス……!」


 レイは叫んだ。

 次の瞬間、ギアが激しく輝き出す。


《巻き戻し、三秒間》


 世界が白く反転し、再び三秒前へ。


 今度は逃げなかった。

 瓦礫を蹴り、クロノスに向かって突っ込む。


 


「なに……!」


 驚いたように、時を止めていたはずのクロノスの目が揺らぐ。


 三秒の巻き戻しが、ほんの一瞬、彼の“停止”の綻びを生んだのだ。


 レイの拳が振り抜かれる。

 衝撃がクロノスの頬をかすめた。


 しかし次の瞬間――クロノスは片手でレイを弾き飛ばす。


「チッ……!」


 壁に叩きつけられ、息が詰まる。


 それでもレイは立ち上がった。


「……三秒でも……未来は変えられる」


 血を流しながらも睨み返すその瞳に、クロノスはわずかに口角を上げた。


「……なるほど。お前、面白いな」


 低く呟くと、クロノスは踵を返した。


「今日のところは見逃してやる。だが、必ずその力を奪う……」


 そう言い残し、黒衣の男は闇に消えていった。


 


 残されたレイとナギは、しばし呆然と立ち尽くす。


 やがてレイは膝をつき、荒い息を吐いた。


「……ナギ。あんた、一体何者なんだ」

「私は……科学者の娘。父は“リヴァースギア”を作った張本人」


 少女の声は震えていた。


「……そして今、あなたが唯一の希望なのよ」


 雨音が、再び街を叩き始めた。


 レイは濡れた拳を握りしめ、暗い空を睨みつけた。


「三秒の巻き戻し……寿命を削ってでも……」


「俺は、この街を……未来を取り戻す」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る