第2話 白の残像

「───というわけで、また君の担当をすることになった」


朝のエンジン音に溶けるみたいに、俺は簡潔に言った。

助手席のナツキが、齧りかけのチョコを慌てて飲み込む。


「なにが、“というわけ”? ぜんぜん説明になってないよ」


「いや、俺もよく分からない。命令違反で外されるはずだったのに、処分は保留。任務は続行になった」


「ふーん……」


彼女は唇を尖らせ、すぐに笑顔へ戻る。


「まあいいか! 君のサポートなら、あたしも安心だし」


「……よろしく頼む」


軽口のやりとり。けれど昨日の重みは胸に残ったままだ。

“助けるな”という命令を破って、俺は彼女を助けた。その判断が何故か見逃された理由も、喉の奥に引っかかっている。


無線が鳴った。


「こちら管制。B3区商店街にて白い霧の異常発生。至急、現場へ。繰り返す──」


「……また霧か」


ウインカーを出して大通りへ。ナツキはチョコの包みを丸め、真顔になる。


「昨日と同じ匂いがするね」


近づくほど、街の輪郭は薄紙で包まれたみたいに曖昧になっていく。

色鮮やかな看板も、通りの人波も、乳白色の靄に飲み込まれていた。


人は道の真ん中で立ちすくみ、出口を探して空をまさぐる。咳き込み、泣き声が混じり、クラクションが霧に潰れて金属の唸りみたいに響いた。


窓を少し開けると、ひやりと湿った空気が滑り込む。


肌にまとわりつく冷気。鼻の奥に微かな甘さ。夏の終わりの匂いに似ていて、どこか化学の尖りが混ざっていた。


「これじゃ避難もままならない。視界は二メートル、いや一メートル台だ」


ナツキは拳を握り、前を睨む。


「……行くよ。人が中に閉じ込められてる」


「待て。無策で突っ込むのは危険だ。まず霧の性質を確かめる」


「危険って……!」


彼女の声に熱が乗る。


「閉じ込められてる人たちはどうするの! 早く助けてあげなきゃ!」


俺はハンドルを握る手に力を込めた。


「それはわかってる。ただ、きちんと分析をしてから──」


「じゃあ、あたしが中に入る! 君は外で分析して!」


ナツキの声が段々厳しくなる。けれど、考えなしにナツキを行かせるわけにはいかない。

「ダメだ。離れるのは危険だ」


「……君は慎重すぎ。ほんとに人を助ける気、あるの?」


そのひと言は針みたいに胸に刺さった。

息が一瞬止まる。俺は言い返す。


「あるに決まってる! でも、ちゃんと状況を確認してからじゃないと───」


けれど彼女は首を振り、ドアノブを掴む。


「……ごめん。あたしは待てない!」



バックルが跳ね、ドアが開く。白い靄が彼女を飲み込んだ。


「ナツキ!」



◇◇◇



靄は音の角まで丸くする。


「出口はあっち! こっちに来て!」


ナツキの声が、布越しのように遠い。応える誰かの声は方角が定まらない。

足音は吸い取られ、一歩先の地面の確かささえ曖昧だ。


俺は端末を取り出し、センサーを走らせる。

湿度は飽和、気温は平常よりわずかに低い。

粒径は水滴にしては細かい。揮発性化合物の値が跳ねている。


(水だけの霧じゃない。何かが混ざってる)


鼻の奥の甘さは消えず、舌の上に薄い苦味が残る。

白の底で陰影が濃くなった。背丈は成人の倍。背嚢みたいな器官が脈打ち、白い息を含んだ靄を吐き出している。


表面はぬめり、触手のような突起が音もなく空を探る。


「出たな……」


ナツキの気配は、その影の手前で止まっていた。


霧の奥に、彼女の肩と腕の輪郭がぼんやり浮かぶ。

構えていたはずの拳は力なく下がり、足取りはふらつき、肩が小刻みに震える。

荒い息が霧を揺らし、動けなくなっているのが一目で分かった。


背後で、触手の影が持ち上がる。振り下ろされる寸前だ。


「ナツキ、伏せろ!」


俺は反射的に飛び込んだ。


左手でナツキの手首を掴み、全力で引き寄せる。

右腕を彼女の背に回して胸元へ抱きかかえ、同時に自分の体を敵に向けて投げ出す。背中を盾に、地面へ落ち込む角度を選ぶ。


――ズガァン!


触手が俺の背中に直撃した。


石畳に叩きつけられるような衝撃が背骨を駆け上がり、肺の空気が一気に押し出される。


「ぐっ……!」


視界が白く弾ける。それでも腕の中のナツキだけは離さない。

そのまま横転して壁際へ滑り込み、片膝で体勢を作り直す。背後で触手が空を裂き、石を抉る音が響いた。


ナツキは俺の腕の中で震えていた。


「なんで……君まで無茶して……! 怪我してるじゃん……!」


俺は荒い息を吐きながら、彼女をまっすぐ見た。


「……言ったろ。俺は人を助けたい。けど、それだけじゃない」


「……え?」


「お前もだ、ナツキ。お前が無事でなきゃ、この街は救えない」


声はかすれていたが、胸の奥の熱は揺るがない。


ナツキは目を見開き、俯く。肩がひとつ震え、唇を噛む。

そして、顔を上げたときには瞳に強い光が宿っていた。


「……わかった。今度は君に合わせる」


「助かる」


背中の痛みが波のように寄せては引く。まだ動ける。動くしかない。



◇◇◇



端末をもう一度操作する。

湿度100%、温度わずかに低下。

粒径は微細、TVOC(揮発性有機化合物)の値が高い。

鼻腔にまとわりつく甘い匂い。舌に残る薄い苦味。


(これは水だけじゃない……体液由来のエアロゾルだ。なら──熱に弱いはずだ)


確信が欲しい。

腰のポーチから赤いフレアを引き抜き、ピンを抜いて霧へ投げ込む。


シュゴォッ!


地面で燃え上がる炎が赤光を放ち、瞬間的に周囲の霧が裂けた。

熱の渦に押しのけられるように、視界がぽっかり開く。

看板の文字や倒れたベンチの影が、輪郭を取り戻す。


「……やっぱり。熱に弱い」


俺は拳を握った。これで決定的だ。


見上げる。


商店街の屋根沿いに並ぶ非常用換気ファン。


火災時、煙を吐き出すための古い設備。普段は止まっている。

ビルの裏手にはボイラー室。蒸気配管がファンのダクトと近接しているのを、以前の地図更新で把握していた。


(換気ファンを起こし、蒸気をダクトへ流し込む。冷えた霧は一気に薄まって、視界が戻る)


「ナツキ。十秒稼いでくれ。上の換気ファンを叩き起こして、蒸気を送る」


「十秒……了解。今度は、君に合わせる」


彼女は霧の縁で一度だけ拳を握り直し、深く息を吸った。先ほどの焦りは、もうない。芯が通った顔だ。


俺は裏手へ走り、シャッターをくぐってボイラー室へ。


金属と古い油の匂い。配電盤の錆びた蝶番が軋む。

非常電源のブレーカーを二段で上げ、インジケータが赤く灯る。

蒸気配管のバルブを開放、屋外ダクトへ切り替える。

換気ファンのカバーをこじ開け、軸に押し回しを与える。重い。だが回り出した。


リレーが跳ね、ファンが低い唸りで目を覚ます。

通信ボタンを押した。


「いくぞ。三、二、一──開放!」



屋根沿いの換気ファンが一斉に吠えた。

ボイラーで温められた熱い空気と薄い蒸気が、ダクトを抜けて商店街へ押し出される。

通路に沿って温度の壁が走り、白い霧がほどけるように裂け、乾いた“サッ”という気配が連鎖していく。


「──晴れた!」


視界が一気に戻る。


色を失っていた看板が、本来の派手さを取り戻し、逃げ遅れていた人々の顔に驚きと安堵が灯る。


白の中央、むき出しになった魔獣。

背嚢の器官に赤黒い脈が走り、そこだけが生き物の鼓動みたいに波打っている。

今なら見える。今なら届く。


「ナツキ、背嚢だ。そこを狙え!」


「了解!」


ナツキが地面を蹴る。


濡れた石畳を確かに踏み、身体は矢のように直線を描く。


さっきまで震えていた肩は、もう静かだ。視界がある。目的地がある。

筋肉の収縮が、恐怖の代わりに集中で繋がっていく。


拳が胸の前で一度だけ低く唸り、青白い光が宿る。

線になって伸び、狙いを一点に束ねる。


「――インパクト・コア・ストライク!」


閃光が背嚢を貫いた。


鈍い破砕音。


赤黒い脈が砕け、波打っていた鼓動が止む。

魔獣は空を掴むみたいに触手を伸ばし、次の瞬間、自分の影に引きこまれるように崩れた。


最後に残った白は、熱の流れに撫でられて静かに消えた。



◇◇◇



音が戻るまで、少し時間がかかった。


咳き込む声、「助かった」という安堵、泣いていた子どもが泣くのを忘れて口をあける間。

人々は距離を取り直し、出口へ向かって歩き出す。


ナツキは膝に手をつき、肩で息をしながら顔を上げた。

頬に貼りついた短い髪を指で払って、俺を見る。


「……ありがと。君が霧を晴らしてくれなかったら、あたし、きっとまた足が止まってた」


「役割分担だ」


俺は背中の痛みに眉を寄せ、無理やり笑う。


「俺が状況を作る。お前が決める。それだけだ」


「うん……」


彼女は小さく頷き、ポケットからチョコを取り出す。湿気で紙が柔らかくなってい

て、指先が少しもつれる。


「変だよね。ずっと一人でやってきたのに、今は──君がいないと困るなんて」


「そういう日もある」


言いながら、胸の奥でわだかまりが一枚はがれ落ちるのを感じた。

彼女の「困る」が、俺の「守りたい」と同じ方向を向いた。それだけで十分だ。


避難の誘導が落ち着く頃、空は正午の透明さを取り戻していた。

それでも、建物と建物の隙間には、まだ薄い白が眠っている。名残。昨日の、そして今日の。


「……終わったはず、なのに」


独り言に、ナツキが横から覗き込む。

目は笑っていて、瞳の奥の光は消えていない。


「名残だよ。すぐには消えない。でも、消せる。二人なら」


「だな」


風が吹き、遠くで風鈴が鳴る。季節の残響みたいな音が、さっきまでの異常を現実へ戻していく。


ナツキが空を見上げ、くるりと俺の方へ向き直る。

頬の湿りを親指で拭って、少しだけ照れくさそうに笑った。


「ねえ。次は、最初から一緒に考えよう。突っ走る前に。……そのほうが、もっと守れる」


「俺もそう思う」


右手を差し出す。

彼女は一拍置いてから拳を軽く当ててくる。小さく、はっきりと鳴る音。


「行こうか、相棒」


「うん。行こう!」


同時に一歩を踏み出す。


さっきまで白に呑まれていた通りが、人の気配で満ちていく。信号が青に変わり、世界がまた流れ始める。

背中の痛みはまだ残る。けれど、それも悪くない。あの瞬間、自分が何を選ぶのか、もう迷わないと分かったからだ。


建物の隙間にわずかに残る薄い白を、振り返らずに通り過ぎた。


次の白も、きっと大丈夫だ。一緒なら、乗り越えられる。


そう思えるだけで、前へ出る足取りは確かだった。

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シティーソルバーナツキ zeta exp @zetaexp

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