第11話「俺だけが知っている」

 同じ夜。

 幸一の狭いアパートの机の上には、ノートパソコンが開かれていた。

 画面に映っているのは、薄暗いリビング。

 そして――買い物袋を抱えて帰宅した裕美の姿だった。


「……やっぱり、似合うなあ」

 彼女がソファに腰掛け、髪を後ろでまとめ直す。

 その仕草ひとつで、幸一の胸は熱くなる。


 ズームボタンを押す指先が震える。

 画面には、子どもと笑い合いながら夕食の準備をする姿。

 ただそれだけの光景が、幸一にとっては何よりも甘美だった。


(俺だけが知ってる……俺だけが見ている)


 次に映ったのは寝室。

 タンスの前で立ち止まる裕美。

 ほんのわずかに首を傾げ、衣類を揃え直すその横顔。


「……気づいた?」

 幸一は小さく笑う。

(そうだよ、気づくだろ? でも、絶対に俺には辿り着けない)


 裕美がカーテンを閉める。

 その手がかすかに震えているのが、映像越しにも分かる。

 不安げに窓の外を見やる彼女の表情に、幸一はぞくりとした。


(その顔だ……その表情が見たかったんだ)

(俺以外、誰も気づかない。誰も分からない)


 胸の奥に、支配欲に似た甘い熱が広がる。

 まるで彼女の不安さえも、自分だけが受け止めている錯覚。


「……大丈夫。俺が見てるから」

 囁くように声を漏らし、幸一は画面に手を伸ばした。

 指先が液晶をなぞる。

 そこには、怯えを含んだ裕美の横顔が映っていた。



 翌日。

 夕食を終え、子どもたちを寝かしつけたあと。

 裕美はキッチンの片隅で湯呑みにお茶を注ぎ、夫の隣に腰を下ろした。


「ねえ……やっぱり、何かおかしいのよ」

 夫はテレビを見ながら、「またその話?」

と気のない声を返す。


「だって……クローゼットの中、きれいに畳んだはずの服が、少し乱れてたの。それに、今日もカーテン……自分で閉めたのに、形が違ってた」

 夫は苦笑し、缶ビールを口に運んだ。

「気のせいだって。毎日バタバタしてるんだから、ちょっとした思い込みだよ」


「そう……かな……」

 裕美の声が少し震える。

「子どもたちのこともあるし……もし万が一、誰かに入られてたら――」


 そこで夫はようやく顔を向ける。

 真剣そうに見えたが、その言葉は冷ややかだった。

「なにを心配してるんだ? カギも閉めてるし、お前がしつこく言うから高いのに買った、監視カメラもセンサーライトもあるじゃないか? 第一、この辺りは治安いいんだから」

「……でも」


「裕美、疲れてるんだよ。仕事も家庭も頑張りすぎてさ。一度リラックスした方がいい」

 そう言って肩を軽く叩かれる。

 慰めのつもりだと分かっている。

 けれど――その「取り合ってもらえない感覚」が、胸の奥を冷たく締めつけた。


(……やっぱり、私が神経質すぎるの?)

(でも……でも、本当に“何か”が……)

 笑う夫の横で、裕美の瞳だけが曇っていった。



 同じ頃。

 幸一の自室の机の上。

 ノートパソコンの画面には、小さなウィンドウがいくつも並んでいた。

 リビング、寝室、玄関――そして音声だけの盗聴ログ。


 イヤホンから聞こえてきたのは、先ほどの夫婦の会話だった。

「……やっぱり、何かおかしいのよ」

「またその話?」

 裕美の声が不安で震えている。

 それを、夫が軽くあしらう。

「気のせいだって。毎日バタバタしてるんだから、ちょっとした思い込みだよ」


 ――その瞬間、幸一の胸に得体の知れない熱がこみあげた。


(……違う。気のせいじゃない。おかしいって気づいてるのは、裕美さんだけだ)

(そして……その不安を本気で分かってやれるのは、この世で俺だけなんだ)


 夫の「リラックスしろ」という言葉に、幸一は鼻で笑った。

(のんきだな。あんたは鈍感で、彼女の気持ちを少しも理解していない。……だから、彼女は孤独なんだよ)

 イヤホンの向こうで、裕美のため息が漏れる。

 それが切なく、愛おしくて――幸一は思わず画面の中のリビングに手を伸ばしていた。


「大丈夫だよ、裕美さん……俺がいる」

 小声で呟く。

 パソコンの前、ひとりきりの部屋で。

 まるで画面越しに彼女を慰めているかのように。


(そうだ、俺だけが理解者なんだ。夫でも子どもでもなく――俺こそが、裕美さんを守る存在なんだ)

 その確信が、さらに深く根を張っていった。

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