第4話「距離と空気」

 数日後、仕事中のこと。

 休憩室で裕美がエプロンを外したまま、利用者の対応で慌ただしく駆け出していった。

「野田さん、エプロン忘れてますよー!」

 誰かが声をかけたが、裕美は気づかずに走り去る。


 幸一はそっとエプロンに近づいた。

 机の上に置かれたそれには、柔軟剤の匂いがわずかに残っている。

 折り畳むふりをしながら、手触りを確かめる。

(……こうして“触れてる”のは、俺だけだ)

 歪んだ特別感が胸の奥に広がった。


 ふとポケットに小さなメモ用紙が入っているのに気づく。

 子どもの描いたような色鉛筆の落書きだった。

 その瞬間、幸一の表情がわずかに歪む。

(……紙切れひとつで、家族の気配がするのか)


 嫉妬とも劣等感ともつかない感情が、心をざらつかせた。

 幸一は用紙を戻し、エプロンを元の位置へ置いた。

 しかし、畳む途中で、細い髪の毛が一本、布に絡まっているのを見つける。

 それを指先でつまみ上げ、胸ポケットにそっと忍ばせた。

(――これは、俺だけが持っている“証拠”だ)



 それは晴れた午後のこと。

 幸一は「散歩」を装い、裕美の子どもが通う小学校の近くに立っていた。

 遠くから下校中の子どもたちが集団で歩いてくる。

(……たぶん、あの子)

 SNSの運動会の写真で見た顔を思い出しながら、幸一はスマホを構える。

 風景を撮るふりをして、偶然を装ってシャッターを切った。


「パシャ」

「パシャ……」

(風景を撮ってるだけだ。……別に悪いことはしていない)


 帰り道の公園。

 ブランコに座る親子の姿。その中に、裕美の横顔があった。

 幸一は震える指で、また一枚シャッターを切った。



 その夜。

 自室のパソコンに新しいフォルダが作られる。

「のだゆみ_105」

 そこには、誰にも見せない“コレクション”が詰まっていた。


「好きだから、知りたいだけ」

「壊したいわけじゃない。むしろ、守りたい」

「本当に彼女を見ているのは、俺だけだ」


 そう信じ込むことで、幸一は自分の行為を正当化した。

 彼の行動はまだ“犯罪”ではない。

 だが意識は確かに一線を越えていた。


 彼女の存在は、空虚な人生に意味を与えつつあり――

 そして「いつか声をかければ、本当に気づいてくれる」という幻想が膨らみ始めていた。



 午前のバタつきが落ち着いたある日の勤務中。

 裕美が職員トイレに入っていくのを見かける。

 幸一は、あえて飲み物を買いに行くふりをして廊下に出た。


 扉が閉まり、数分。

 裕美が出ていく。

 職員トイレは男女共用だ。


(……今なら、誰もいない)

 幸一はそっと扉を押し、周囲を見回してから中に入った。


 まだ残る芳香剤の匂い。洗面の水音の余韻。

 便座の温もり……。

(さっきまで、裕美さんがここで……)

 ペーパータオルのゴミ箱には、手を拭いた後のペーパーが投げ込まれている。

 幸一は何をするでもなく、ただ立ち尽くし、空間全体を目に焼きつけるように見回した。


 そして最後に、深く息を吸い込む。

(……同じ空気を、吸ってる)

 胸の奥に満ちていく高揚感を噛み締めながら、幸一は静かに扉を閉めた。



 午後の記録時間。

 裕美が何気なくマスクを外し、ペットボトルの水を口に含む。

 その瞬間、幸一の視線は――彼女の口元に吸い寄せられた。


(……あんな唇をしてたんだ)


 少し薄めで、年齢を感じさせない輪郭。

 濡れたような光沢。笑うと片方だけ口角がわずかに上がる癖。

(ここから、彼女の言葉が生まれている)

 声も、優しさも、彼女そのものがそこから放たれる。そう思うと、もう目を離せなかった。


「……成吉くん?」

 裕美が気づいて目が合う。幸一は慌てて顔を逸らした。

「……すみません、ぼーっとしてました」

「ふふ、疲れちゃったかな?」


 彼女は何も気づいていない。

 優しい笑顔で、再び仕事へと戻っていく。

(口元を見ていたなんて、思ってもいないだろうな……)


 業務中も、裕美が前を歩くたび幸一は自然と背後に位置取った。

 わざと歩幅を狭め、距離を詰める。

 エレベーター前で立ち止まれば、真後ろにぴたりと並ぶ。


(匂いがする……体温まで感じる)

(この距離が、安心するんだ)


 書類を確認する裕美の背後で、何かを取るふりをして覗き込む。

「ごめんね、後ろにいたの気づかなかった」

「いえ、大丈夫です」

 笑顔を浮かべながら、幸一の視線は髪の揺れや肩の曲線、制服の背中を一つ残らず追っていた。


 帰り際、裕美は別の職員と話していた。

「成吉くん、ほんと真面目で素直よね~」

「ねー、あのタイプ珍しくない? 年下だけどちゃんと気が遣えるし」

「うん、逆に可愛いっていうか……」

 冗談めかす声と笑い。

 偶然通りかかった幸一は、思わず立ち止まる。


「……お疲れ様です」

「お疲れさま、成吉くん。明日も早番だね、よろしくね!」

「はい……野田さんこそ、体調気をつけてくださいね」


 微笑んで言葉を返す幸一。

 だが視線は、彼女の足元、背中、そして最後にまた――口元へ戻っていた。

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