第3話「もう見失わない」
日曜の昼下がり。
幸一は地図アプリを開き、住宅街の歩道に立っていた。
(この辺りのはず……)
SNSで見つけたカフェの位置と、投稿に写っていた並木道。
それらをつなげると、裕美の生活圏が鮮明になっていった。
背後から犬を連れた老人が近づいてくる。
すれ違っただけのはずなのに、妙に視線を感じて、心臓が跳ね上がった。
「……違う。俺はただ歩いてるだけだ」
そう心の中で言い聞かせる。
だが、後ろ姿に刺さるような視線の幻覚が、いつまでも離れなかった。
勤務は早番の日。
家を出る時間を予想し、二十分ほど前にその場所に立つ。
「もし通ったら声をかける……いや、それはやりすぎか。でも別に待ってるわけじゃない。……これは偶然だ」
心臓が早鐘を打つ。
そして――
並木の向こうから、白いコートの女性が現れた。
髪型、歩き方。間違いない。裕美だった。
スマホを見ながらゆっくり歩いてくる。
まだ仕事の顔ではない、プライベートな穏やかさを湛えて。
幸一は慌てて自販機へ移動し、買うつもりもない缶コーヒーのボタンを押す。
カシャン――。
裕美が顔を上げた。
「あれ……成吉くん?」
「あっ……! おはようございます、野田さん。奇遇ですね」
「ほんとに。こっちの駅使ってたんだ?」
「ええ、ちょっと遠回りですけど、散歩がてらって感じで……」
「ふふ、早起きなのね」
その笑顔を見た瞬間、胸にまた熱が湧き上がる。
(やっぱり、この笑顔は俺にだけ……)
幸一は、自分の中で何かを正当化し始めていた。
それは数日後の昼休みのこと。
職場の休憩室で、何人かの職員が他愛のない会話をしていた。
「うちの子、今朝またグズって大変だったのよ〜」
「うちも同じ。西北小、もうすぐ発表会なのよ」
裕美が笑いながら頷く。
「うちのも西北小よ。鼓笛隊の練習で帰りが遅くて……」
(西北小……)
会話の中に自然と出た校名に、幸一の耳だけが敏感に反応した。
(あの辺りにある小学校……)
その夜、幸一はGoogleマップを開き「西北小学校」と検索していた。
スクロールして広がる住宅街。通学路。
(きっとあの道を、子どもが歩いてる。……もしかしたら、彼女も一緒に)
ただ見ているだけのはずなのに、胸の奥に奇妙な“所有感”が芽生える。
(こんなに知ってしまっていいのか……)
けれど、知るほどに“距離が縮まった”ような錯覚に溺れていった。
初めての夜勤勤務を終えた夜勤明け。
「お疲れ様です、成吉くん。初めての夜勤、どうだった?」
裕美がにこりと笑う。
「あ、はい……緊張しましたけど、なんとか……」
「大丈夫。成吉くんならきっと乗り越えられるよ」
その言葉は以前より優しく感じられた。だが――幸一の胸の内は静かに歪んでいた。
(この間、子どもとスーパーにいるのを見たんだよ)
(旦那と並んで歩いてたのも、見たんだ)
(それを知った上で、こうして普通に話してる……いや、演じてるんだ)
「何も知らない新人」として笑い、無邪気に会話を続ける。
だが心の奥には、職場の外の情報を抱え込んだままだった。
(俺がここまで知ってても、野田さんは何も気づかずに優しくしてくれる)
(それって――少しだけ、彼女を“支配してる”感覚に似てる)
数日後の早番。
勤務を終えた幸一は、裏口から足早に外へ出た。
少し離れた場所から、職員駐車場を覗く。
カバンを助手席に置き、運転席へ腰を下ろす裕美の姿。
窓越しの横顔は、職場よりも素朴で柔らかかった。
「見届けるだけだ」
そう自分に言い聞かせ、原付に跨る。
数台の車を挟みながら追跡。
信号で距離が詰まりそうになると、わざと遠回りをしてついていく。
やがて裕美の車は住宅街の細い路地に入り、テールランプが消えた。
幸一は静かに原付を停める。
エンジン音を切り、しばらく暗闇に沈む車を見つめていた。
家の前まで行くことはしなかった。
だが、車の後ろに回ったとき、ナンバープレートの数字が目に飛び込む。
(……覚えておこう)
口の中で何度も繰り返し、まるで呪文のように反芻する。
その後、スマホを取り出し、地図アプリを開いた。
今止まっている場所にピンを打ち、「裕美さん」と名付けたフォルダに保存する。
小さな星印が画面に灯ると、不思議な安心感が広がった。
(これで……もう、見失わない)
後戻りできない――そんな感覚が、胸の奥で確かに重く沈んでいた。
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