第5話「残り香」

 ある日の午後。

 スタッフルームに誰もいない。

 棚にはいくつものマグカップが並び、その中に「NODA Y」と書かれた白いマグがあった。

 縁に小さな欠けがある、いつものマグだ。


(……これ、野田さんの)

 幸一はそっと手に取った。

 まだ微かな温もりが残っている。

 縁に指を添える。

 そこに彼女の唇が触れていたと想像した瞬間、心臓が高鳴る。


(ここに……)

 彼女の声、笑い、息遣い。

 すべてが一気に蘇る。

 幸一は親指で縁をなぞり、そのまま唇を重ねた。


「……っ」

 背筋が震える。

 満たされない渇きが、ほんの少しだけ埋まった気がした。


(ごめん……でも、これだけは)

 マグを元の位置に戻し、何事もなかったように席へ戻った。

 この日以降、幸一は彼女のマグにそっと唇を重ねるようになった。


 その数日後。

 休憩室でお茶を飲もうとした裕美は、ふとマグを手に取って首を傾げた。

(……あれ? なんかあったかい……?)

 気のせいかもしれない。

 でも、縁に触れたとき、わずかに違和感を覚えた。

「……?」

 軽く息を吐いて笑い、仕事に戻ろうとしたが――

 心のどこかに、小さな棘のような引っかかりが残った。



 ある日、裕美が子どもの発熱で早退した。

 慌ただしく荷物をまとめて去っていく背中を見送りながら、幸一はロッカールームの前に立っていた。

(……もしかしたら、万が一……鍵、閉めてないかもしれない)


 ネームプレートに「NODA」とあるロッカー。

 呼吸を整え、取っ手を握る。

 ――カチャ。

 開いた。


 中には、使いかけのハンドクリーム、予備のマスク、畳まれた制服の替え、香り付きのリップバーム。

 さらに小さなメモ帳と、子どもたちの描いた絵のメモが差し込まれている。

 幸一はリップバームを取り出し、ふたを開けた。

 甘い香りが鼻をかすめる。

(……これだ。すれ違ったときに感じた匂い)


 そっと指先で触れて、すぐ閉じる。

 視線は折り紙の花に移る。

「ママ、がんばってね。さきより」

 小さな文字を見た瞬間、幸一の表情がわずかに歪んだ。


(……ここに……彼女の家族に……俺は……いない……)

 一度はポケットに入れかけたが、踏みとどまる。

 代わりに裏に指先で触れた跡だけを残し、元に戻した。


 ロッカーを閉じ、鍵を掛ける。

 そしてロッカールームを出た直後――


「え? 成吉くん、何してたの? 女性職員のロッカールームだよ?」

 別の職員に出くわした。

「……すみません。間違えて入っちゃって……すぐ出たので何も見てません」

「そう? まあ、成吉くんがそんな変なことするわけないよね。でも気をつけて。誤解されちゃうから」

「はい、気をつけます」


 作り笑いでやり過ごす幸一。

 全身に汗がにじむ一方、胸の奥には奇妙な高揚感が芽生えていた。


(俺だけが知ってる匂い。俺だけが見たプライベート……)

(この距離なら、ずっとバレずに近づける)

 そう信じ込むことで、執着はさらに加速していく。



 夕方。勤務を終えた幸一は、自宅とは逆方向に原付を走らせていた。

 カーナビは不要。すでに道順は頭に刻まれている。

 彼女の帰宅ルート、住宅街の入り口、あの白いフェンス。

(……今日も、もう帰ってるだろうな)

 分譲地の一角。白い門柱のポストには「NODA」の表札。

 飾り気のない雰囲気が、裕美らしい。

 幸一は少し離れた公園に原付を停め、徒歩でポストに近づいた。


 指先で蓋を持ち上げる。

 チラシ、塾の案内、そして一通の封筒。

 “野田裕美 様”――宛名を見た瞬間、心臓が跳ねる。


(……本当に、ここに住んでるんだ)

 封筒の紙にそっと触れる。

「彼女のために書かれた文字」そのものが、愛おしく思えた。


「……俺、何やってんだ」

 呟いても、手はすぐに離れない。

(盗むわけじゃない。触れただけだ)と心で繰り返し、蓋を閉じて足早に立ち去る。

 鼓動は速く、息は乱れていた。

 だがその裏に、確かな満足感が残っていた。



 ある日、仕事中の雑談で裕美が「明日は可燃ゴミの日」と口にした。

 その一言が、幸一の記憶に深く刻まれた。

 翌朝、原付で住宅街へ。

 路地の角に集積所。

 袋を置く裕美の姿を、少し離れた自販機の前から見つめる。


 白いゴミ袋の中に、小分けされた生ごみや紙くず。

 そして袋の脇に――使い古された黒いヘアゴムが落ちていた。


(……野田さんの、だ)

 最近「そろそろ替えたい」と言っていたのを思い出す。

 幸一はそれを拾い上げ、震える手でポケットにしまった。

(触れたいんじゃない。知りたいだけだ)


 帰宅後、小さな密閉袋に入れる。

「彼女のかけら」が、静かに机の引き出しに収められた。

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