第1話 夏休みの朝ってやつは



夏休みの朝ってやつは、空気からしてだらしない。

窓から差し込む光はやけに白っぽくて、布団の中の俺を追い出そうとじわじわ膨張してくる。

セミは「ギャーギャー!」と合唱団さながらに喚き散らして、鼓膜を無駄に刺激してくる。

枕をひっくり返しても無駄。背中の汗はじっとり張りつき、人間乾燥機にぶち込まれた気分だ。


「……暑っ」


片足を投げ出したまま、俺は天井をにらみつけていた。

今日から夏休み。全国の学生どもが「海!」「祭り!」「青春だー!」とテンション爆上がりしてるであろうこの日に、俺――竜胆大牙はもうすでに敗北していた。


だって考えてみろ。

部活? やってねぇ。

恋愛? 縁がねぇ。

友達? ……その話題はやめろ。


「……冷凍みかん、ねぇかな」


布団を蹴飛ばして起き上がり、冷凍庫をあさる。が、当然そんな小洒落たものは出てこない。代わりに鍋ごと鎮座した昨日のカレーが目に飛び込んできた。レンジにすら入らないサイズ感。母さんは朝から仕事、オヤジは……まあ、口にする気にもならない。


仕方なく冷えたカレーをスプーンでつつきながら、スマホを開いた。クラスのグループチャットは、地獄のカーニバル状態だ。


《江の島集合! 海! 海!》

《花火大会いこうぜ!》

《うちの部活、夏合宿で地獄の特訓だわwww》


スクロールするごとに、俺の心はスカスカに削られていく。


「……なんだこれ。爆発しろ」


思わず口から漏れた。いや、もう爆発してんのは俺の心のほうかもしれない。


スプーンを置き、窓の外を眺める。

夏の空気は無駄に澄みわたり、セミの声は鋭利に刺さってくる。小学生が虫取り網を振り回して駆け回り、向かいのベランダでは洗濯物が風に揺れている。

その全部が「夏」をこれでもかと押しつけてくる。俺には何の予定もないってのに。


「……ちくしょう」


口元を拭い、立ち上がる。とりあえずシャワーでも浴びよう。汗とだるさを流せば、ほんの少しはマシになるはずだ。


冷水を浴びながら目を閉じる。

途端に、胸の奥がざわついた。


別に何を考えたいわけでもない。けど、無意識の底でひっかかってる何かがある。

頭の片隅に沈んだまま、引っ張り出せば崩れそうな影。

リングだの、試合だの、そういう言葉はもう考えないようにしてきたのに――水の音がやけに重く響いて、心臓の鼓動まで乱してくる。


呼吸が浅くなる。胸が少し痛む。

俺は慌てて頭を振り、冷水を浴び直した。


「……あほくさ」


思い出す必要なんてない。わざわざ掘り返す必要なんて、どこにもない。


シャワーを終えて部屋に戻ると、時計の針はまだ午前十時。

「夏休み、長ぇな……」

ため息が漏れる。予定を入れなきゃと思うけど、俺に何があるってんだ。


スマホの通知がまた鳴った。今度は母さんからだ。


《昼は冷やし中華あるから、食べときなさい》


相変わらず実務的で、シンプルなメッセージ。俺は「了解」のスタンプを返す。


窓の外ではセミがさらにボリュームを上げ、子どもたちの笑い声が遠くで跳ねている。

俺の夏休み一日目は、カレーとセミと、心の奥で形を持たない影にじわじわと侵食されるらしい。


……いや、まだ始まったばかりだ。

きっと何か、あるはずだ。

たぶん。

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誰がお前なんかと付き合うかよ!!! 〜幼馴染の発育が止まらないんですが、これは不可抗力ですよね?〜 じゃがマヨ @4963251

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