誰がお前なんかと付き合うかよ!!! 〜幼馴染の発育が止まらないんですが、これは不可抗力ですよね?〜

じゃがマヨ

プロローグ


汗の匂いが、胸の奥にへばりついて離れなかった。

酸味を帯びた鼻を突く臭い。鉄の錆と、叩き合う皮革の焦げた匂い。そして、蒸気のように立ちのぼる肉体の熱。それらすべてが混じり合って、重たい膜のように空気を覆っている。ジムの中に一歩足を踏み入れるだけで、肌はそれに塗りつぶされる。


子供の頃の俺は、その匂いを決して嫌いだと思ったことがなかった。むしろそれは、“憧れだったオヤジ”が呼吸していた世界そのものであり、強さそのものを証明する匂いだったからだ。鼻腔の奥を焼きつけるようなその匂いに包まれているだけで、自分もまた強さに触れられる気がして、ただひたすらに夢中になっていた。


リングのロープに、小さな指をひっかける。まだ幼かった俺の背丈では、リングの中をのぞくにはそれが精一杯だった。顔を押しつけるようにして、必死にキャンバスの上を見つめる。

白いテープで固められた拳が打ち合うたび、空気そのものが揺れる。音ではなく、衝撃そのものが鼓膜を直に殴りつけてきた。ドン、と床が鳴るたびに心臓が跳ね、肺に溜まっていた空気を忘れ、呼吸を止めてしまう。オヤジの足音が近づけば、シューズが擦れる「キュッ」という甲高い音が耳の奥を切り裂くように響き、その横で相手の荒い息づかいが絡みつく。マットの上は生き物のようにうねり、戦場のように脈打っていた。


照明は、やけにまぶしかった。

いや、光そのものがまぶしかったのではない。光の中心に浮かび上がるオヤジの背中こそが、目に焼き付いて仕方がなかったのだ。

汗の粒が飛沫となって宙に舞い、スポットライトを受けてきらめく。一滴一滴が星のかけらのように輝き、リング全体を銀河のように包んでいく。幼い俺は夢中で瞳を見開き、その軌跡を追いかけた。そこには確かに、世界のすべてがあった。


「剛!」

誰かが叫ぶ。観客か、セコンドか。子供の耳には区別がつかなかった。けれどその響きは地鳴りのように広がり、胸の奥を震わせた。

オヤジの名前が呼ばれるたび、俺の小さな体は誇りで熱を帯びる。オヤジは世界で一番強く、世界で一番美しかった。俺にとっての宇宙は、リングの上に立つその背中の輪郭にすべて凝縮されていた。


ジャブ。クロス。ガードを叩く鈍い音。観客のざわめきが一斉に膨れ上がる。俺の目は拳の軌跡を追いきれず、ただ空気が裂ける音に瞳を震わせるしかなかった。肩がうねり、腰が沈み、拳が閃く。その一連の動作は舞台に立つ役者の所作のように滑らかで、無駄がなく——どこにも隙がなかった。



それでも、俺は確かに聞いた。


何かが崩れる音を。



床が軋む低い響きが、急に異質な重さを帯びた。オヤジの足が、わずかにもつれる。ほんの一瞬。ほんのかすかな揺らぎ。だが幼い俺の目には、その揺らぎが世界全体を傾けるほど巨大に映った。


相手の拳がオヤジの顔面を打ち抜く。

汗が霧のように飛び散る。

観客の声が爆ぜるように膨張する。


身体が揺れ、ロープに寄りかかるようにして重力に引きずられていく。


俺の視界がにじむ。涙なんて出ていない。ただ光が歪んでいた。強さの象徴だった背中が沈んでいく。リングの中央から、白いキャンバスに黒い染みが広がるように——。


そして、静寂が訪れる。


ざわめきは確かにあったはずなのに、もう耳には何ひとつ届かなくなった。呼吸の音すら消え失せ、世界から切り離されたような静けさの中で、ただ汗の匂いだけが胸を突き刺していた。


やがて声が戻ってくる。

「剛!」と必死に叫ぶ誰かの声。

レフェリーが両手を振る。

観客の叫びが渦を巻き、怒涛のように押し寄せる。

それなのに俺の目には、ただひとつの映像しか映っていなかった。


──倒れたまま、動かない父の横顔だけが。



小さな掌に、拳を握りしめる感覚が蘇る。汗で滑るロープのざらついた感触。喉の奥に引っかかり、どうしても吐き出せない声。


世界が、そこから音もなく暗闇に沈みはじめた。


スポットライトの光は滲み、やがて消える。

リングは墨を流し込まれたように黒く塗り潰されていく。

強さの象徴だったオヤジの姿が、暗闇の底へと引きずり込まれていく。


——あの日、俺はただ、小さな拳を握りしめていた。


汗の匂いと、沈む影の中で。


二度と忘れられない景色として。

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