蒼黒のスピカ

猫柳蝉丸

本編

 空の色と言えば人は何色と答えるだろう。

 青だろうか。

 いや、季節と天気によるけれど一般的な印象の青色である事は少ないと思う。

 やはり水色と答える人の方が多いだろうし、僕自身もそう思う。

 とは言え、空の色について深く考えた事なんて、今までの人生で一度も無かった。

 ちょっと思い返してみても、空の色が青なのか水色なのかすぐには思い出せなかったくらいだ。

 だけど、今日は……、今日だけは空の色を見つめていたいと思っている。

 思っていたんだけど……。


「何やってんのよ昭文、さっさと進んであたしの風除けになりなさいよ」


 聞き飽きるくらい聞いてきた幼なじみの声に僕は思わず肩を落としてしまう。

 傲慢で傍若無人な台詞を宣ってくれたのは当然ながら僕の腐れ縁の幼なじみである蛍子だった。

 昨日、久し振りに連絡してきた蛍子に今日の予定を伝えると、ひとしきり馬鹿にされた後で同行を強制された。

 まったく、小さな頃から変わらない幼なじみだと思う。まあ、そんな幼なじみと付き合いが続いている僕も相当なものかもしれないけれど。


「はいはい、きついなら付いて来なくてもいいんだよ、お姫様」


「冗談でしょ。今更こんな所に置いてかれても困るわよ」


 こんな所というのは高尾山の八合目だった。確かに登山に慣れてない蛍子がこんな所に残されては困るだろう。

 そして、残念ながら僕はそこまで薄情な幼なじみでもないのだった。

 それに腐れ縁の幼なじみとは言え、登山に同行してくれる相手がいるというのはやはり嬉しい。


「ちょっと休もうか。もう少し進んだら腰掛けにちょうどいい石があったはずだからさ」


「このあたしに石に座れっていうわけ?」


「嫌ならこのまま山頂まで登っても構わないが?」


「嫌だなんて言ってないでしょ」


 昔から変わらない頬を膨らませる癖を見せて、蛍子が僕にそこまで先行するよう促した。

 そう言えば大昔、蛍子と登山とした時もこんなやり取りをした気がするのは記憶の捏造だろうか。

 分からない。蛍子とは幼い頃から色んな所に遊びに行っていた。思春期を迎えるまではほぼ毎日一緒だった気もするくらいだ。

 高校生になって蛍子に彼氏ができて、僕から連絡する事も無くなった。失恋したってわけじゃない。僕と蛍子はそういう甘酸っぱい関係じゃなかった。兄妹、いや姉弟か。僕に姉が居たらこんな感じだったに違いない。

 何だかんだと疎遠になって十年、たまに思い出したようにメールをしていた蛍子から突然の電話を貰ったのが昨日の事だ。その理由は、恐らく……。


「この石でいいのよね?」


 気が付けばいつも腰掛けに使っている石にまで辿り着いていたようだった。

 僕は頷いてから、リュックサックの中に入れている小さめのブルーシートを石の上に敷いてやる。


「ありがとさん」


「どういたしまして」


 言ってから僕も蛍子の横に腰を掛ける。

 それに対して蛍子は特に嫌そうな表情は浮かべなかった。その程度には僕たちは仲の良い幼なじみだということだ。

 過ぎていく穏やかな時間。

 何か話したい事もあったはずだけれど、特に思い浮かばずに空を見上げる。

 空は普段と変わらず水色で、取り立てて感じるものは無いはずだった。

 それでも何故だろう。僕の瞳から涙が一筋流れてしまっていたのは。いや、その理由は分かっている。分かっているから悲しくて嬉しいんだ。


「昭文はさ」


 僕の一筋の涙に気付いたのだろう。蛍子が何とも表現しがたい表情で呟いていた。


「よかったの? 今日、あたしなんかと過ごしちゃっても」


「勝手に付いて来ておいて何を言ってるんだよ」


「断れたでしょって意味よ」


「……分かってるよ、悪かった。昨日蛍子から連絡が来て驚いたけどさ、でも嬉しかったんだよ。今日は一人で高尾山を登るつもりだったからさ」


「一人登山じゃなくてよかったの?」


「僕は別に一人登山が好きってわけじゃない。何故か誰も付いて来てくれないだけさ」


「寂しい奴ねえ」


「まあね。だから同行するって相手が居れば喜んで同行してもらうさ。もちろんある程度相手は選ぶけどね」


「あたしはそのお眼鏡にかなったってわけね」


「光栄に思ってくれていいよ」


「冗談」


 馬鹿みたいな会話。馬鹿みたいな軽口。馬鹿みたいな日常。

 気付いていなかった。僕にとって蛍子とのそれがこんなにも大切なものだったなんて。

 いや、気付けてよかったと思うべきなんだろう、きっと。

 いつしか僕は蛍子の手を繋いでしまっていた。恋人繋ぎなんかじゃない。それこそ幼い幼なじみ同士が手を繋ぐみたいに。

 蛍子は嫌がらなかった。頬を膨らませているのは照れているだけだって事は、長い付き合いで分かる。


「昭文はさ、彼女とか居ないわけ?」


「居ないんだよ、残念ながら。作ろうとしても振られちゃうんだよ、不思議だろ?」


「何が不思議よ、バカ」


「蛍子こそ半年前に新しい彼氏ができたって言ってたじゃないか。どうなったんだよ?」


「すぐ別れたわよ、あんな男。ダンバインもザブングルも分からない男なんてお呼びじゃないわね」


「変なこだわりを見せるんじゃないよ。まったく蛍子はずっとそうだから……」


 瞬間、僕は口を閉じた。蛍子も口を閉じ、僕の手を痛いほどに握り締めた。

 言葉が出なくなったのは、快晴だった空の様子が目に見えて変わり始めたからだ。

 空の色が、変わりつつある。水色から、青へ。そして恐らくは蒼へと深く変わっていくのだろう。

 二週間前、国の広報がそう発表していた。今日以降、世界中の空の色が文字通り変わっていくのだと。

 超新星爆発。

 何百年前の事か分からないけれど、おとめ座のスピカがその寿命を終えて爆発していたらしい。

 それはいい。長い宇宙の歴史の中でそれくらいはよくある事だ。

 問題はその超新星爆発の影響で地球の空の色が変わるほどの放射線が降り注ぐのだそうだ。

 どんな生物ですら生き残れないほどの放射線が。

 その日がまさに今日なのだそうだった。

 だから僕は、高尾山の空に近い場所で、一人で変わりいく空の色を見ていようと思ったのだ。

 蛍子から連絡が来るまでは。


「昭文……」


「何だよ?」


「ねえ、今更だけど……、よかったの? あたしと一緒で? 今日の……こんな日に……あたしと……」


「よかったに決まってるだろ」


「本当に……?」


「じゃあ逆に聞くよ。どうして昨日、蛍子は僕に連絡しようと思ったんだよ?」


「……分からない。明日、死ぬって思ったら昭文の顔が浮かんだ。最後に話しておきたいって、そう思ったら号泣してた。だから……、連絡したの」


「僕も同じなんだよ、蛍子」


「えっ……?」


「僕も明日死ぬと思ったら蛍子の顔が浮かんでた。何か話しておきたいって思ったけれど……、彼氏が居るって聞いてたから連絡できなかった。それで一人で高尾山に行こうと思ってたんだ。だから……、僕は嬉しかったんだよ、蛍子。蛍子から連絡してきてくれて」


 それは嘘偽りのない僕の気持ちだった。

 僕と蛍子は恋人じゃない。恋愛関係になる事も多分無い。本当に単なる腐れ縁の幼なじみなんだ。

 でも、だからこそ……、最後の日に一緒に居たい相手でもあったんだ、お互いに。

 僕と蛍子は見つめ合う。二人で瞳を閉じる。どちらともなく顔を近付けて、お互いの頭に軽く頭突きする。

 それでよかった。これから二人で語り合うのに、唇を塞ぐなんてもったいない。

 僕には生涯愛せるような女性は現れなかった。それでも僕にはこんなにも大切な腐れ縁の幼なじみがいるのだ。なんて幸せなんだろう。


 これから僕たちはちょっと休んでから手を繋いで高尾山の山頂を目指す。

 山頂で横になって空を見上げ、二人で馬鹿みたいな事を話しながら変貌していく空の色を見続ける。

 正確な時間は分からない。ただ夕方になる前には、空は蒼く、黒く、深い色へと変わっていくと聞いている。

 その空の色は、きっと今までの人類が誰一人として見た事が無い深く美しい色なのだろう。

 僕と蛍子は最期までそれを見届ける。

 それがとても、悲しかった。

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