第2話

 翌朝、梨香子は早くに学校に到着した。

 昨夜は侑芽から遅くに電話があり、長話を決め込んでしまったが故にまたしても寝不足である。

 二度寝をしたら起きられない自信があったので、早くに学校入りして続きの睡眠をとる事に決めた次第である。

 朝練を始めようとしている運動部を横目に、梨香子は下駄箱を抜ける。誰もいなかろうと思っていたが、早朝練習をする部活動は思ったよりも多く、そこそこに人がいた。

 これは眠れないかもしれないとは思ったものの、教室に入ると実に静かであった。席に着くと少し肌寒いくらいで、閉まった窓を開けようという気にならない。机に突っ伏すと、部活動に勤しむ学生の声が遥か遠くの方で小さく聞こえてくる程度、むしろ無音よりも心地良いものですらあった。

 梨香子は上着を脱いで、頭から被るようにして伏せ直す。登校してきた同級生に顔を見られないように、声をかけられないように、もっというならば涎対策である。

(今日は、目を逸らすかな)

 梨香子は目を閉じ、自問する。

 毎日の事ではあるが、梨香子は今日、櫻田に朝の挨拶をすると決めている。櫻田の視線に留意して、意識してその反応を確かめると、心に決めている。

 早々に意識がなくなるであろうと思っていたが、存外眠れず、目を閉じたまま梨香子は意識を耳に集中させて音を聞く。窓の外から聞こえていた掛け声に、一つ、また一つと教室内で物音が聞こえ始める。

(誰か登校してきた。あ、また。鞄を置いた)

 音だけでそこそこの事が分かるものだと段々と楽しくなってきた梨香子は、次第に話声が混じり始める教室の雑音に意識を傾けて時をやり過ごす。目を閉じていると、生活音というのは思ったよりも大きくはっきりと聞こえ、衣擦れの音まで聞こえ始めた。

 かたん、と椅子を引く音がした。

 前でも後ろでもない。――横だ、間違いない。

 そっと身を起こした梨香子は、まずは涎の確認をすべくそっと口元に手を添える。眠っていないつもりでいつの間にかうたた寝をしていた可能性も否めない。

(涎、大丈夫)

 髪を手櫛でさっと整え、梨香子はそっと頭に被った上着を持ち上げて顔を出した。ちらりと顔を出すと、ばちっと隣人と目が合う。

「……おはよ、羽田さん」

 鞄から教科書を出そうとしていた櫻田は、上着から顔を覗かせる梨香子に目を向けて、小さく笑った。

(櫻田から声をかけてきたのって、初めてかも)

 いつもは梨香子から声をかけるのに、と思いながら見つめる先の櫻田は、やはりぱっと目を逸らす事をしなかった。

「おはよう、櫻田くん。昨日は用事、間に合った?」

 のそのそと上着から頭全部を出し、梨香子はそれを羽織り直しながら問う。

「大丈夫、ありがとう。羽田さんは? 岡本さんからちゃんとメール来た?」

「来たきた。実は櫻田くんに起こしてもらった時点で、もう来てた」

「あれ、そうだったんだ。なんかごめん、気を遣わせるだけの伝言して」

 あははと笑いながら櫻田は軽く言う。

「いいの、こっちこそ侑芽がしょうもない伝言頼んでごめんね」

 笑って返してくれると思えたら、こちらも重く考えず、言葉を選ばずに言える。

「実は羽田さんに早く会いたくて。早く登校してくれてて良かった。ちょっといい?」

「……え」

 唐突に言われて、梨香子はぎょっと櫻田を見る。告白してくるタイプであるとは思わなかったが、思わせぶりな切り出し方をされると俄かに緊張する。まさか朝からこんなに人が多い教室で、とは思ったが、枕詞が思わせぶりすぎる。

 どどどど、と鼓動が早くなる。

 なんと答えれば良いだろう、と頭が猛烈な勢いで回転していく梨香子は、ぎゅっと拳を腿の上で握り締めた。

「昨日別れてから、気付いたんだけど」

「……うん」

「連絡先知らないから、今日になっちゃって」

「……うん」

 鼓動の速さに比例するように、段々と耳が櫻田の声に集中していくのが分かった。聞こえていたはずの周囲の音が遠くの方で響く雑音に変わり、櫻田の声しか聞こえなくなる。

(どうしよう、断る? でもクリスマスが)

 誰も告白してきてくれそうにないし、侑芽との約束が、などと梨香子が、ぐるぐると頭の中で怒涛のように吹き出す告白を受けるか否かにおける判断要因の一つひとつを精査している間に、櫻田がこちらを見た。

 目が合った瞬間、息をすることを忘れる。

 受けるか、断るか。必死でそれを検討していた脳内の声はぴたりと凪ぎ、頭の中が真っ白になる。動悸だけが、今にも口を突こうとしている言葉だけが、梨香子の本心を知るようであった。

「これなんだけど」

 すっと差し出されたノートに目を落とし、梨香子は長い、それはそれは長く感じられる沈黙を持った。

「……え?」

 理解が追いつかない梨香子の口から、不可解を全面に押し出した声がなんとか出る。

「昨日、六限後半からずっと寝てたよね。世界史の宿題聞いてないんじゃないかと思って。岡本さんに聞いた?」

「……宿題」

「した?」

「……して、ないです」

「良かったら写して。一限だから」

 差し出されたノートをのろりと受け取る梨香子は、自分のあまりにも間抜けな早とちりに顔を伏せる。いつもは櫻田が目を逸らしていたというのに、まさかの梨香子が目どころか顔を思い切り伏せる羽目になろうとは、誠に遺憾である。

 真っ赤になっているであろう顔を隠したい一心で、梨香子は櫻田から借りたノートを顔の前で開く。几帳面で丁寧な字を凝視しながら、梨香子は何度も小さく深呼吸を繰り返した。とにもかくにも、この真っ赤に染まった顔をなんとかしなければ顔を晒せない。

「あー、綺麗な、字、書くのね。櫻田くん」

 梨香子は必死で言葉を搾り出す。何か言わなければ、自分の心が間に耐えられない。

「女子みたいなノートって、昔言われた」

「なにそれ」

「さあ。綺麗なノートって、褒め言葉なんだろうけど。昔はなんだか、それが恥ずかしかったな」

 声のトーンが沈んだような気がして、梨香子はそっとノートから目だけを出す。櫻田は一限の準備をきちんと整えた机に視線を落としたまま、筆箱から書くものを取り出していた。

「なんで恥ずかしいの? 褒め言葉でしょ、それは絶対に」

「と思って、浮かれたもんだったんだけど。女の子みたいだよねってくすくす笑ったその子の、なんていうか、笑い方が。あ、良い意味じゃないなって思ったっていうか」

 苦い思い出なんだな、と即座に悟らせるだけの苦い笑顔に、梨香子自身はそうは思っていない事を、即座に訂正したいという気持ちになった。

「ノートの取り方に男も女もないと思うけど、私が思ったのは、字が綺麗だなって事だけ。丁寧で、相手に見せる事をちゃんと考えて書いてる気持ちが見えるなって、思っただけだから。私、笑ってないから。誰と重ねてるか知らないけど、混同しないで」

 綺麗な字だね、と今一度重ねて言った梨香子をきょとんと見つめた櫻田は、最終的に「ありがと」と小さく笑った。櫻田に苦い記憶を植え付けたと思しき相手と一緒にされたくはない梨香子としては、向けられた笑顔にひとまずほっとする。

「それじゃあ、ありがたく写させて貰おうかな!」

 ノートを開く梨香子は時計を見遣り、十分に写す時間がある事を確認する。まだこんな時間かと思うと同時に、櫻田はいつも何時に登校するのだったろうと、ふと疑問を抱く。

 梨香子は通常、八時十分前後に登校する。

 いつも座って侑芽とお喋りをしていたら、櫻田が登校してくる。席に着こうとしている彼に大体朝の挨拶を投げるので、梨香子より遅い事はほぼ確定だ。

(もしかして、これの為に早く来てくれたのかしら)

 時計を今一度見遣り、まだ八時過ぎである事を確認する。本来であれば梨香子すら登校していないこの時間に櫻田が登校している事に、梨香子は沸々と再び起こる動悸に蓋をするように胸を一度押さえた。

 宿題をしているかもしれない梨香子が万が一していなかった時の事を考えて、早くに登校するとも限らない梨香子の為に、宿題を写す時間があるように、登校してくれたとしたら。――否、きっとそうに違いないと確信を持っている自分がいる。

(優しいんだな、基本的に)

 梨香子に好意を抱いているとするならば、下心が全くないとは言えないかもしれないが、それでも恩着せがましくない姿に好感が持てる。

「あ。ちょっと出て来るから、写し終わったら机に置いといて」

「うん、ありがとう」

 顔を上げると、廊下に名前の分からない男子生徒の姿がある。彼と合流するように廊下に消えて行った櫻田と入違うようにして、侑芽が登校してきた。丁度櫻田を目で追っていたために、直ぐに目が合う。

「おはよ、梨香子。あれ、宿題今やってんの? 珍しいね」

 侑芽は、睡眠不足を思わせない溌溂とした笑顔で寄って来る。彼女の席は隣の列ではあるものの最前列であるので、後ろから二番目の梨香子とは少し離れている。

「寝てたから聞いてなかった」

「そんな時間から寝てたの?」

 鞄を放るようにして自席に置くと、侑芽は直ぐに引き返して来る。現在空席の櫻田の席に腰を据えるなり、宿題に勤しむ梨香子に言う。

「小原だけどさぁ」

「押せばいけるかも、でしょ? 案出た?」

 昨日、珍しく一人で帰路に着こうとしている小原に、侑芽は追いかけて共に下校するという夢イベントを勝ち取ったという。告白こそしなかったようだが、彼女が現在いないという言質を取り、十一月の三連休に予定がないという事実を突き止めたと昨晩散々聞かされた。その上で、三連休どこに、どのように誘い出すべきかという会談が有無を言わさず行われ、答えが出ないまま昨晩の会合は打ち切りとなった。

「梨香子の言う通り、もうこっちの下心はばれてると思うわけよ」

「でしょ。彼女の有無に三連休の予定を聞かれたら、誰だって好意を抱かれてるかもって考えるよ、普通」

 侑芽の気持ちはすっかりばれていると思って、ほぼ間違いなかろう。梨香子が小原なら、そう思う。

「梨香子も一緒に行こう」

「馬鹿な事言わないでよ」

 ノートを写す手を思わず止めて、梨香子は呆れ返る。

「いつからそんな及び腰になったの!? デートについて来いって!?」

「本命ってそんなもんじゃーん。なんかやっぱ、恥ずかしいっていうか、緊張するっていうか、ねーぇ。梨香子さま、お願い!」

 三連休に予定はないながら、冗談ではない。針の筵、お邪魔虫極まりないそんな場に付いてなどいけたものではない。

「他にも何人か誘ってよ。じゃないと嫌よ、気まずい事この上ない!」

「何人か誘ったら来てくれるのね? 本当ね?」

「……どこに行くかによるけど、まあ」

 わ、っと侑芽がぴょんと座ったまま跳ねる。もう梨香子を連れ出せるつもりでいるらしいが、実際おそらく、気まずくて堪らなかろうとも梨香子は侑芽に付き合うだろう。本命を狙う親友の頼みだ、本気で頼まれたら断れない。

「予定は空けといてよ、絶対」

 侑芽はうきうきと跳ねるようにしながら自分の席へと戻っていく。彼女の体から花がふわふわと舞っているように見えるのだから、浮かれに浮かれた恋する乙女とは可愛らしいものだ。まだ付き合っている訳でもないのにあの浮かれようは、羨ましいという気持ちすら沸く。梨香子にとっては、長らく感じた事のない感情だ。

(学校で顔を合わせるのが、楽しみなのよねぇ)

 前方に座って授業の準備をする侑芽の背中が眩しい。

 梨香子とて、恋を経験している。学校で顔を合わせる楽しみ、声をかけられる喜び、目が合う気恥ずかしさの中にあるぽっと胸に灯る熱、その全てが遠い記憶ではあれ、梨香子とて抱いた事がある想いだ。随分と前の事のように思うが、たかだが二、三年前の話である。

 胸が痛んだ覚えもあるが、記憶とは美化されるものだ。きらきらと輝く青春そのものだったなと思いながら、まだ青春真っただ中か、と梨香子は一人苦く笑う。

(駄目だ駄目だ、思考が枯れてる。クリスマスまでに彼氏、やっぱりがんばろ)

 ちょっと面倒になりつつあった気持ちを立て直すべく自分を鼓舞しながら、梨香子は残りの時間で黙々とノートを写しきった。

「間に合った?」

 声をかけられて顔を上げると、丁度戻って来た櫻田と目が合う。

「終わったところ。助かった、ありがとう」

 うん、と席に着く櫻田にノートを返しがてら、梨香子は表紙に目を留める。

 ――櫻田 夏

「……なつ、って読むの?」

 梨香子の視線を追って、櫻田はああ、とノートを受け取りがてら言う。

「そう」

「夏生まれ?」

「と思いきや、冬生まれ」

「じゃあなんで?」

 不思議な感覚だなとは思ったが、梨香子と感性が違うのはあくまで櫻田ではなく、櫻田の両親である。

「冬生まれって陰気ぽくない? なんかやだ。名前だけでも明るい方へ、夏にしよう、という事らしい。性格的にどっちかっていうと冬で正解なんだけど」

「あー、まあ、でも冬って名前よりは、夏の方が響きが素敵だと思う、かな」

「妹が冬なんだ」

「……ごめん、聞かなかった事にして」

 フォローするつもりが、完全に空回った。咄嗟に降参のポーズをとった梨香子に、あはは、と櫻田は可笑しそうだ。

「羽田さんって、思ってたよりも気さくだね」

「それは全く持って、こちらの台詞というか」

「そんな事言ってくれるの、羽田さんだけだけどね。女子とこんなに話したの久しぶり」

 そう言って綺麗に笑った櫻田に、もしかすると無自覚女たらしかもしれない、と梨香子は「夏」という名前と、妹がいるという新情報に加え、ひっそりと櫻田の評価を胸の中で認め直した。

 

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