第1話

 梨香子は、自分を非常に高くかっている。

 勉学は試験の点数で言えば中の上から上の下、そう悪いものではなく、運動も割と得意だ。抜群のスタイルと親から譲り受けた愛らしいと自負する顔、もてないはずが客観的に判断しても、ない。

 そんな梨香子を手に入れる男に関しては、梨香子はこう見えてちゃんと吟味する。適当な相手に自分の隣を与えるつもりはないので、軽く見られるが身持ちはかたい方であると思う。生を受けて十七年、彼氏と呼べた相手は今のところ二人だけだ。もて女としては少なかろうと、我ながら思う。

「羽田さん、前。プリント」

 ぼんやりとしていた梨香子は名を呼ばれてはっと我に返り、前から回ってきていたプリントをやっと認識する。

「あ、ごめん」

 梨香子は慌てて受け取り、後ろに回しながら声をかけてきた隣席のクラスメイトに小さく頭を下げる。

「ありがと」

 ううん、と現在梨香子の隣席に座する櫻田は、小さく首を振る。

 この櫻田もまた、梨香子に気がある男子生徒の一人と認識している。大きな眼鏡が妙に様になっているような、見ようによってはださいような、絶妙に判断がつかない櫻田は、非常におっとりとした性格で口数も少ない。

 櫻田からの好意を感じたのは、隣の席になってからの事。新学期になってから席替えがあったので、ここ二ヶ月ほどの話である。

 誰が隣になるのかと、わくわくどきどき胸弾ませる程度の情緒の持ち合わせはある。

 爽やかな風、穏やかになりつつある陽の光が差し込む窓際の特等席を引き当てた梨香子は、先に席についた。隣が誰であれ大いに満足のいく籤運であった梨香子は、櫻田が隣にやってきた時、「まぁ悪くない」との感想を抱いた。

 特に好意を抱く異性もなかった梨香子としては、物静かで粗野な部分がないと認識していた櫻田に対し悪い印象はなく、むしろぼんやりと窓景を眺めるにあたり邪魔にならないと判断したための感想であった。

 一番前なんだけど、と嘆く侑芽をあやしながら、隣に視線だけを投げて宜しくねと声をかけると、櫻田は梨香子に話しかけられた事に心底驚いたように目を丸くした。宜しくと小さく呟き、慌てて目を逸らした櫻田の頬に仄かな赤みが差したのを見た時、梨香子は彼の好意の一端に触れた。

(クリスマスの、彼氏。……まぁ、ないか)

 梨香子はちらりと櫻田を見遣り、肩を竦める。

 隣の席になってから二ヶ月程度、櫻田とはこの程度の会話しかした覚えがない。毎日朝の挨拶は必ず交わすが、それ以外にこれといって話をする事はない。帰りは互いのタイミングで席を立つために、別れの挨拶を交わす事の方が稀だ。

 梨香子が「おはよう」と声をかけると、櫻田ははっとしたように一度こちらを見て、やはり目を逸らす。

 他のクラスメイトと話をしているのを見ている限り、梨香子と話をする時だけあからさまに声が小さく、また、目を逸らす回数が極めて多い。好意と思しきものは、挨拶を交わす度に一つ、また一つと積み上がっていき、今では梨香子の中では「ほぼ確定」のラインまで到達している。

(告白してくる度胸もなさそうだし)

 梨香子の中ではほぼ確定であれど、梨香子は好意には気が付かないふりをする人間である。告白して来なければそこまで、梨香子から行動はしない。

(クリスマスまでに彼氏)

 本日最後の世界史の授業に、梨香子はうつらうつらと瞼が重くなっていくのを感じながら、ぼんやりと侑芽との約束の事を考える。侑芽とは違って現在想う相手がいる訳ではない梨香子としては完全に告白待ちの状況にはあるものの、告白をしてくれそうな相手に心当たりがない。

(案外告白して来ないからなぁ)

 梨香子に好意を抱いているであろう相手には心当たりがあれど、いざその想いを伝えてくるだろうかと考えると、思い当たらない。

 梨香子の体感では、実際に想いをぶつけてくるのはせいぜいで一割だ。理由には思い当たる節があり、梨香子自身が「思わせぶりな態度」を取らないように心掛けているから、これに尽きると思う。もしかしたら両想いかもと思えた時に、大概の人間は告白をする。完全に脈がなかろうと思う状態で博打に出る人間の方が少数派だが、梨香子自身はそういう人間が嫌いではない。それほどまでに好きだ、という事だと受け取るからである。

(無理かもな)

 少し思わせぶりな態度をとれば可能性はあろうが、梨香子はそれを良しと考えない。断るかもしれない相手にそれを行う事は、あまりにも失礼だ。後に断りを入れる可能性を考慮すれば、自分の首をも絞める行為である。

 顎に手を遣る梨香子は、ついた頬杖に頭を預ける。

 今日はまた頗る気候が良いなと、梨香子は半分開いた窓からの風を一身に受ける。あまりにも気持ちが良くて、低音で穏やかな世界史の教師の声が睡魔に拍車をかけて力を与えて来る。六時間目に世界史を組む教師にも非があろうと考えるのは、おそらく梨香子だけではないはずだ。

「羽田さん。羽田さん」

 誰かが呼んでいるなと頭のどこかでは思うのに、目が開かない。

 昨晩は見始めたドラマが面白くてつい夜更かしをしてしまったせいか、どうにも睡魔に打ち勝てる気がしない。起きなきゃと思うのに、瞼が言う事を聞いてくれなかった。

「羽田さん」

 心地よい声だな、と梨香子は自分を呼ぶ声に耳を澄ませ、思う。落ち着いた静かな声は優しく耳を擽り、風に乗ってか妙に響く。

 いつまでも聞いていたいように思うが、段々と覚醒してくる頭が、あまりに何度も呼ばせるのは申し訳なかろうと訴えてくるので、梨香子は仕方なく身を捩る。

「……誰」

 いつの間に突っ伏していたのか、のそのそと身を起こしながら、梨香子は自分を呼ぶ人物を見上げる。

 ざっと、風が見上げた先の髪を攫う。

 傾き始めた太陽は、西向かいの窓からふんだんに陽光を降り注いでくる。眩しくて目を細めた梨香子は、陽光が眼鏡に反射している事に遅れて気が付いた。

「羽田さん。岡本さんが、後でメールするって起きたら伝えてって」

 ぼんやりとした頭で見上げた人物にピントが合わない梨香子は目を擦りながら、言葉を反芻する。

「岡本……侑芽は? どこ行ったの?」

「後でメールするからって、教室飛び出してった。起きるまで待っていようかと思ったんだけど、ちょっと、そろそろ帰らないと」

 のろりと辺りを見回すと、教室はがらんとしていて人影疎ら、梨香子はぎょっとして覚醒する。

「今何時!?」

「四時半になるとこ」

 ええ、と梨香子は悲鳴をあげながら立ち上がる。梨香子を見下ろしていた人物と向き合って初めて、その声の人物の顔をはっきりと認識した。

「櫻田、くんは。え、もしかしてずっと待っててくれたの?」

 真正面から見る櫻田は少しだけ梨香子より背が高いが、あまり目線は変わらない。いつもは目を逸らす櫻田と、しっかりと視線が交わっている事に少しばかりの違和感を覚える。櫻田はやはり梨香子の目を見返したまま、梨香子の問いには答えずに言う。

「それじゃあ、伝えたから」

 じゃあ、と櫻田が踵を返す後ろ姿を呆然と見つめる。

 授業が終わってから一時間近くが経つ。徐に携帯の画面に目を遣ると、既に侑芽からは件のメールが届いており、【小原に突撃中。夜電話するね】とある。

(え、待って待って。一時間も待ってたって事?)

 侑芽が隣席の櫻田に言伝をして帰ったにせよ、用事があるならばもっと早くに梨香子を起こせば良いのだし、置き手紙を残してくれたのでも問題なかったはずだ。

 起きて侑芽がいなければ、梨香子は彼女に電話なりメールなりをしたであろうし、その程度の伝言のために一時間も待たせたとあっては、有難いというよりは申し訳ないという気持ちだけが勝つ。

 梨香子は慌てて机に置き去りの教科書類を鞄に突っ込み、教室を飛び出す。擦れ違う同級生達に別れの挨拶をしながら小走りに進む梨香子は幸い、下駄箱前で櫻田に追いついた。

「櫻田くん」

 梨香子が名を呼ぶと、櫻田はぎょっとしたようにこちらを見た。ついで視線を逸らすかと思ったが、今日の櫻田はやはり、梨香子から目を逸らさない。

「え、何?」

 どうして今日は視線を逸らす事なく、真っ直ぐに梨香子を見るのだろう。櫻田のきょとんと丸くした目は大きく、まじまじと見ると中々に愛らしい顔をしている。男前ではないが、大きな眼鏡のせいか年の割に幼くも見えた。

 息を整えながら近寄っていく梨香子は、えっと、と口籠る。ありがた迷惑だとは流石に言えない。

「ごめん、待たせて。ありがとうね」

「あー、うん、別に。読みかけの本を読もうと思ってたから、別に家で読もうと教室で読もうと、同じだし。気にしないで」

 そう言って貰えると多少罪悪感は薄れるが、今後は待たなくていいよと暗に伝えるには言葉を選ばねばなるまい。

(侑芽に言伝ないでほしいって言えばいいだけか)

 そもそも、その程度の事を託けて行った侑芽が悪いな、と梨香子は一人心の中で頷く。折角良かれと思って待っていてくれた人に、「起きるのをじっと待たれると何だか気持ち悪いから待つな」とは思っても言うべきではない。

「えっと、それだけ。じゃあ」

 梨香子は苦笑いを浮かべ、ひらり、と手を振った。既に靴を履き替えていた櫻田を見送る姿勢を取った梨香子に、櫻田は言う。

「ごめんね、起こさなくて」

「え?」

「羽田さんこそ、予定なかった? 気が回らなくてごめん。あまりにも、気持ちよさそうだったから」

 梨香子はかっと頬に血が昇るのを感じながら、両手を頬に添える。ひやりとした手が冷たくて気持ちが良い。

「やだな、そんなに爆睡してた?」

「すごい幸せそうだった」

 あははと、櫻田が笑った。あまりにも快活に笑うので、度肝を抜かれた梨香子を置き去りに、櫻田は続ける。

「大丈夫、よだれは垂らしてなかった」

 慌てて手を口元を隠す梨香子に、櫻田は踵を返しながら微笑む。

「本読んでたとか言ったけど、実は一緒になって舟漕いでただけだから、ほんと気にしないで。あ、寝顔眺めてたとかでもないし、これほんとに。それじゃ」

 ひらりと手を振って、櫻田は完全に梨香子に背を向けて歩き出す。

(……あんな笑う人なんだ、櫻田って)

 正直なところ、驚きを隠せない。

 おっとりと大人しい印象からか、どちらかというと陰気なイメージがあった。梨香子と話をする時に目を逸らすせいか、そのイメージがすっかり先行してしまっていたが、あんな風に冗談を言って、あんな風に溌剌と笑えるとは思ってもみなかった。

(わかんないもんだなぁ)

 梨香子は涎の形跡がないかを確かめるように口を手の甲で拭いつつ、遠ざかっていく櫻田の背中を見つめる。

 先程までは一時間も人の寝顔を見ていたのだろうか、と正直なところ少し気持ち悪く思ったものだが、ただ、本当に気持ちよさそうに熟睡する梨香子を思いやってくれただけで下心はなかったのだろうなと、あの笑顔を見て思える自分がいる。

 頼まれた事に責任を果たそうとする人だ、などと打って変わって株など上がるのだから笑顔というのは不思議なものである。

(今日はなんで目を逸らさなかったのかしら)

 梨香子は櫻田の姿がすっかり見えなくなってから、靴を履き替える。別れの挨拶をした手前、追いついて気まずい思いはしたくない。

(朝は、どうだっけ。確か普通に目を逸らしたような)

 目を逸らさなければ、いつもと違ったなら「おや?」と思ったはずである。そうと感じなかったという事は、朝の時点ではいつも通り目を逸らしたのではなかろうかと思い出せないながらに、思う。

(二人きりの方が話せるって、なに)

 大概は挨拶に目を逸らすような人間は、面と向かって話すにおいて更に緊張した様子を見せるものだ。だが櫻田はその逆で、梨香子と二人きりの状況において笑顔を見せた。

 梨香子の経験則に当てはまらない相手に、十一月を目前に控えた秋の香り漂う昼下がり、梨香子はほんの少し、興味を抱いた。

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