第8話 クールダウン

 相対する男性の顔は、大きく歪んでいる。家の行いを心底恥じているのだ。

 倫理観が現代社会にチューニングされている。

 これはきっと、私よりも、飛鶴に近い。

「……実家は火の車でしたから」

 金銭的援助と、金を生まない私の対処。父にとっては一石二鳥であっただろう。

「……驚きも、嘆きもないのか」

「予想の範囲内でした」

 私の返答に、彼は言葉を失った。

「――とにかく、俺はお前とどうこうなるつもりはない。お前はお前の人生を生きたらいい」

 鵯越多雨は、残ったコーヒーを口にする。

 突き放したような人の背面には、大きな窓ガラスが美しい背景として存在していた。

 上部にあるステンドガラス。きっと心に余裕があれば、美しいと愛でられる。

「俺の方から婚約を破棄する。ただ俺が、お前のことを気に入らなかったと。斎藤舞鶴に一切の非はないと、俺が責任を持って保証する。だからお前は」

「承服いたしかねます」

 真っ向から、鵯越多雨の目を見据える。

 途中で遮られた格好になったからか、戸惑いを隠せていなかった。

「――舞鶴様、多雨様はあなたを」

「私は」

 執事の苦言を制し、右手を強く握りこむ。

 視線は決してそらさない。

「もう戻るところはありません」

 きっぱりと言い切って、言葉を紡ぐ。

「鵯越多雨様。私をここに置いてください」

 彼は唇を噛む。

「――お前は自分がなにを言っているか分かっているのか」

「はい」

「家の道具になりたいか。親の意のままでいいというのか」

「違います」

「違わないだろう。自分から子供を産むための道具になりにいこうだなんてどうかしてる」

「――あなたとどうこうなる気持ちは微塵もありません」

 空気が一気に固くなる。

 彼は胡乱げにこちらを見ていた。

「十八になるまでで構いません。私をこの家に置いてください。そのあとは出ていきます」

 震える身体を叱咤して、ソファから立ち上がる。

「私にできることであれば、なんでもします。あなたが誰かと仲を深めようが、私をどう扱おうが構いません。ただ二年、私に人生を立て直す時間をください。家に戻していただいても、私は自分の人生を歩めません」

 深く、深く、頭を下げる。

 この人は、私よりも、私の処遇に憤ってくれている。

 立場が上である自分から婚約破棄を申し出てくれるのも、すぐに帰れと言い放ったのも、私の立場や被る不利益を最小限にしようとしてくれている配慮の表れだ。

 だからこそ、受け取れない。

 今まで同じ時間を過ごした家族より、彼のところにいるほうが、きっと私は息を吸える。打算でいい。今はそれでいい。

 なりふり構っていられない。

「お願いします。今からでも、私は自分を生き直したいんです」

「……頭を上げろ」

 困ったように言う次期当主は、少し瞳を揺らしていた。

「――舞鶴様」

 口を開きかけた次期当主に言葉を発せないように、執事の声が割って入る。

「――なんでもするとおっしゃいましたね?」

「……こだま」

「お話に割り込む形となり大変申し訳ございません。しかし、今結論を出すには、少し熱が入り込み過ぎているように思います。ですからどうか、この場はお開きにさせていただけませんか」

 主と執事は、長いこと視線を交差させていた。

「――わかった」

 主が先に視線を逸らす。

「斎藤舞鶴、今すぐに出ていけとは言わない。俺も少し、状況を整理する時間が必要だ。これからのことを考えるにしても、双方の当主とのすり合わせは必要になる。それまでの間は、客間を使ってくれ。なにかあれば、そこの卯一郎に言うように」

「は、はいっ!」

 名指しされた柿本さんは、ピンと姿勢を正す。

 話は終わりとでも言うように、鵯越多雨は部屋を出ていった。

「柿本、できることとできないことがありますので、要望を受けたらまず私に相談するように」

 てきぱきと指示を出す執事は、私の方に向き直った。

「こちらの都合で大変申し訳ございません。身支度を整えられたあと、念のため病院で調子を診てもらった方がよいでしょう。柿本をつけますので」

 結論は棚上げになった。これがいいことなのとか悪いことなのか。私には分からない。

 少なくとも最悪な状況でないことだけは、確かだった。

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