第9話 外の空気を吸いに行く
使い慣れていない長財布を開くと、ピン札が十枚ほど入っている。
小銭を入れるポケットには、財布のお守りなのか、小さな縁起物のガラス細工が入っていた。
大きいものしかないことに恐縮しながら、かかった医療費を支払う。お釣りと領収書をもらい、しっかりとしまってから、病院を出る。
駐車場に行くと、一台の車がパッシングした。ここにいるよという合図だ。運転席に、屈託のない笑顔で笑いかけてくる人がいる。
「……すみません」
扉を開けて、助手席に座る。
「いえ、こちらこそ!付き添えず、申し訳ないです」
シンプルな洋服に身を包んだ柿本さんが、きまり悪そうにする。
ふるふると首を振って、気にしていないことを示した。
十代半ばの女性に、そこまで年が離れていない男性が内科の診察に付き添うと、どうしても目立ってしまう。
「診察、いかがでしたか?」
「異常はありませんでした。薬も処方なしです」
「よかったです!」
私は意識を手放した後、最寄りの病院で念のための診察を受けていた。
往診の受付時間と折り合わなかったこと。執事である川端さんの「外の空気を吸って気分転換をされたほうが」という意見から、柿本さんと連れ立っての外出となったのだ。
ただ、『外出時は目立たないように。お嬢様呼びも注意をひくため禁止』と厳命されていた。実家では、なにくれと世話を焼いてくれるような付き人はいなかった。自分がお嬢様であるという自認もない。むしろ過度なお嬢様扱いをされないほうが、こちらも気を使わなくてすむので楽だった。
シートベルトを締めていると、運転席から遠慮がちな声がする。
「舞鶴様、申し訳ないですが、一か所寄りたいところがありまして。少し帰りが遅くなりますが、よろしいですか?」
「はい。どちらまで?」
「郵便局まで。私書箱を確認するだけなので、たいして時間はかかりません」
構わない旨を告げると、柿本さんは笑顔で礼を言う。
車は緩やかに発進した。
「鵯越家が運営している会社かなにかの私書箱ですか?」
「いえ、多雨様が個人的に持っているものです」
私書箱は、はがきでの懸賞の応募先として使われるイメージだ。
私の疑問を読んだのか、柿本さんは前方を見ながら口を開く。
「今は住所がわかれば、簡単にどんな家に住んでいるか確認できてしまいますから。ストリートビューで一発ですよね」
私は曖昧に相槌を打つ。
「多雨様は急ぎでなければ郵便でのやりとりが多くて、毎日のように郵便物を受け取ることになります。だから郵便物の管理と防犯を兼ねて、私書箱を設置しているんです」
民家が立ち並ぶ道を通り抜けながら、柿本さんは続けた。
「……申し訳ありません」
まるで口癖のように、柿本さんは謝罪の言葉を口にした。
「なぜ謝るんですか?」
「目立たないようにとはいえ助手席に座らせていますし」
「全く気にしていませんよ?」
「どこかにドライブすることも、俺の権限ではできないので」
かけられる言葉を、すぐに見つけることはできなかった。
移動中話したところによると、柿本さんは新人のハウスキーパーなのだという。
担当は家事全般。その他買い物や荷物の荷受け・発送など、細々としたものを受け持っている。
ただ、目下修行中の身であるということで、執事の川端さんの指示に従って行動するよう求められているようだ。
川端さんの「外の空気を吸って」も、必要なことだけ済ませて真っすぐに帰ってきなさいという意味を含んでいた。
今回であれば、病院に行ったあとは寄り道せずに帰ること。
まるで必要最小限度の換気をしているようだ。
「……いいえ。郵便局へ行く提案をしていただけて、私も嬉しかったです」
ほんのわずかでも。
あのお屋敷から離れて、心が軽くなれるならば。
何物にも代えがたい時間だと思う。
「――ささやかでも、気分転換になるのであれば、なによりです」
この人ならば。裏表なく、答えてくれるかもしれない。二人で車移動という絶好の機会を、少しも無駄にしたくなかった。
「川端こだまさんは、長く執事を務めているんですか?」
「そうみたいですね。詳しくは分かりませんが、なんでも多雨様が子供の頃から仕えていたとか。その分仕事に厳しくて、いつも学ばせてもらってます」
「では、鵯越多雨様は、どういった方ですか?」
一縷の望みをかけた質問は、少しだけ返答に間があった。
「初対面では、近寄りがたいと感じるかもしれません」
私たちのファーストコンタクトを思い返すように、柿本さんは饒舌さを潜ませる。
「厳しいですけど、優しさも持っている方だと思います」
運転に集中する横顔は、いたってまじめなものだった。
それならば、許嫁がいてもいいだろうに。
「――川端さんがぽろっと漏らしたことぐらいしか、把握できていないのですが」
柿本さんは前置きをした。
「多雨様は、女性の世話係と既成事実を作られそうになったことがあったそうです」
車内はなにも流れていない。ただ走っている音だけがする。
「家庭の事情で、多雨様は家族と離れて過ごしています。十代中ごろからあのお屋敷で、川端さんをはじめとした、ご両親から派遣された世話係とともに暮らしていました。ですが許せない一件が起こってしまって以来、女性の世話係をシャットアウトしています。――多雨様は、それ以外にも俺の知らないところで、きっとたくさんの苦労があった」
特殊な家の次期当主だ。自然な出会いを演出されて、親密な関係性を築くお膳立てをされていても驚かない。あの聡明そうな次期当主は、整えられていく人間関係に早くから気付いていただろう。
「……普通の生活を、されたいのかもしれません」
無意識に漏れていた。
「個人的な考えです!」
ぽろりと出てきた感想を打ち消すように、いつもより感情をオーバーに表現して付け足した。
「恋愛と結婚は別というような家柄ですから」
赤信号で止まり、柿本さんは私の方を見やった。
「俺は多雨様に幸せになってほしいです。が、舞鶴様にも、同じくらい、幸せになってほしいです」
言葉の意味を咀嚼する間もなく、柿本さんは前を向く。
「個人的な考えです、忘れてください」
つぶやきとともに、車は発進する。
そこからはお互いなにも話さず、ただ目的地までの時間を過ごした。
「――では、用事を済ませてきますので、舞鶴様は車でお待ちください」
柿本さんはそう言い残して、郵便局へ向かって言った。
駐車場にはパラパラと車が止まっている。
ほとんどは空だけれど、同じように、郵便局で用事を済ます人を待っているような様子の車もある。
これからのことを考えると、少し憂鬱になった。
鵯越多雨は「帰れ」と言ったけれど、「わかりました」とすぐに実行には移せない。
いろいろな根回しが必要になることくらいは私にだって分かる。
少なくとも、今日明日くらいまでは、あの屋敷で缶詰になるだろう。
さて、なにをしよう。
ペンフレンドたちに、『引越しします。住所が決まりましたらまた連絡します』という旨のハガキを出してしまおうか。
複数名とやりとりしているので、バタバタしていて何人か、出せていなかった人がいる。実家に届いてしまっては、きっと読むことができなくなる。
ハガキと切手は、ちょうどここで買える。川端さんから預かったお金で立て替えさせてもらって、あとで自分のお金から支払おう。
ふと見ると、車内のレバーの近くに、スマートキーが無造作に置かれていた。
私はシートベルトを外し、運転席のエンジンを切ってから、車のドアを開ける。
柿本さんが戻るのを待っていると、余分な時間がかかってしまう。
もしかしたら、この郵便局への立ち寄りも、かなりすれすれな行為なのかもしれない。
なら、私の用事を済ませるために時間をとらせるのは避けるべきだろう。
貴重品を入れたカバンとスマートキーを持って、外へ出た。
ボタンを何個か押して、ロックされたことを確認する。
歩き出すと、大きなカバンを肩にかけた柿本さんが、駐車場に入ってくるのが見えた。
ぎょっとしたように、身を強張らせている。
「柿本さ――」
「逃げてください!」
叫び声と同時に、私は口を塞がれた。
全速力で向かってくる柿本さんに、黒ずくめの男が二人ほど抑えにかかっていく。
スマートキーがぽろりと落ちる。
私は引きずられながら、大きな車に押し込まれた。
「お嬢様!」
スライドドアを閉めながら、車が発進する。
猛烈な眠気が襲ってきて、私は意識を手放した。
ピリリリリリリ。
会話を着信音が遮った。有能な執事は、主との会話中に着信音を発生させるようなへまはおかさない。
「――出ろ」
しかしいくつか例外は存在する。鵯越多雨の親世代からの無理難題であったり、斎藤舞鶴につけている柿本卯一郎からのヘルプであったり。川端こだまが優先して対処しなければならない案件に関しては、主の許可を得たうえで、常に連絡をとれるようにしている。
今回鳴った音は、柿本卯一郎からの着信音に設定していたものだった。
黙礼し、少し離れて執事は携帯電話を耳に当てる。
「――なに?」
ただならぬ様子に、鵯越多雨は注意を向ける。
「多雨様、緊急事態です」
携帯電話を耳から離し、執事は端的に告げる。
「斎藤舞鶴様が、何者かに誘拐されました」
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