第4話 地下の囁き

 秋の風が冷たく街を吹き抜ける頃、真理子はある夜、旧友の由紀から突然の連絡を受けた。

「少し、会えない?」

 電話口の声は低く震えていた。だが、そこに宿る切実さは、拒むことなどできない響きを持っていた。


 二人は人目を避け、駅前のカフェの隅に腰を下ろした。

 由紀は紙コップを両手で抱え込み、まるでその温もりに縋るようにしていた。目は落ち着かず、宙を泳いでいる。

「ねえ……あの監視システム、ただの治安維持じゃない。『反政府的』って決めつけられた人たちが、次々と……」

 言葉を濁した由紀の瞳に、一瞬、怯えと諦めが同居する影が走った。


 真理子の胸に、田島の姿が蘇る。

 あの突然の失踪。誰も理由を語ろうとしなかった空白。――やはり彼も「反政府的」と断じられ、消されたのだろうか。

 心臓がかすかに早鐘を打つ。自分もまた、見えない鎖に繋がれているのではないか。


「私たち、黙っていたら、このまま全部奪われて支配される」

 由紀はさらに声を落とした。

「地下で集まってる人たちがいる。情報を共有して、監視の目をかいくぐって……。もし興味があるなら」


 テーブルに滑らせられた小さなメモ。消えかけた鉛筆の数字列は、ただの符丁であるはずなのに、真理子の目には禁断の呪文のように見えた。

 触れれば戻れない。けれど、背を向ければ、自分もまた「見えない穴」に吸い込まれるかもしれない。


 ――翌週。

 地下鉄を降りた真理子は、雑居ビルの裏口へと歩みを進めた。足取りは重く、それでも引き返す勇気の方が彼女にはなかった。

 扉を開くと、薄暗い部屋に十数人の男女が集まっていた。スーツ姿の青年、学生服の少女、年配の男性。皆、怯えた表情を浮かべながらも、眼差しの奥に何かを宿している。それは恐怖を上回る、ぎりぎりの強さだった。


「ここにいる全員、もう気づいている。あの政策は国民を守るためじゃない。政府は俺たちを監視し、支配するために動いているんだ」

「監視カメラと密告者を使い、政府に楯突く人々を消している。だが、我々は負けない」

 中心に立つ男の声は低く、それでいて胸の奥を震わせた。

 誰もがうなずき、小さな拍手を送る。その音は、真理子の耳にはひどく脆い硝子の破片が触れ合うようにも聞こえた。


「これからは細心の注意を払い、密告されないよう協力してほしい。やがては同じ志を持つ仲間とも連携し、政権を揺るがす力にしていく」


 熱気に包まれながら、真理子の胸の奥に「希望」という久しく忘れていた言葉が灯った。

 それはか細い火で、今にも吹き消されそうな小さな炎だったが、同時に暗闇の中で確かに輝いていた。


 ――だが、帰り道。

 街角の電光掲示板に、政府広報が無機質な光を放っていた。

〈国民の安全を脅かす不穏分子を摘発中。通報は専用ホットラインまで〉


 画面には笑顔の市民が「安心」と記されたカードを掲げていた。

 その笑顔が、真理子には不気味に歪んで見えた。現実を映しているのか、それとも作り物の幻なのか。

 ――どこかで、誰かが今この瞬間にも囁きを密告している。そう思うと、背筋に冷たいものが走った。


 風が吹き抜け、身体をすくませる。

 この小さな地下の集いは、本当に希望の芽なのか。それとも、政府が巧妙に仕掛けた罠なのか。

 胸に生まれたはずの火は、不安という影にすぐさま覆われ、再び揺らぎ始めていた。

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