第3話消された声
月曜日の朝、出勤した佐伯真理子は、オフィスの一角にぽっかりと空いた席を見て足を止めた。
そこは、いつも軽口を叩きながら仕事をしていた田島の席だった。
「田島さん、今日は休み?」
何気なく隣の同僚に尋ねると、相手は小さく肩をすくめるだけだった。
昼休み、上司が事務的な口調で告げた。
「田島は転勤になった。今日から来ない」
理由を問う者は誰もいなかった。質問そのものが、沈黙という形で封じられていた。
――ただ、真理子にはどうしても思い出されてならなかった。
あの日、田島が声を潜めて「監視ばかりで息が詰まる」と漏らしていたことを。
そして、ほんの数日後、彼が忽然と姿を消したことを。
その夜、帰宅した真理子は思い切って父に打ち明けた。
「同僚がいなくなったの。転勤って言うけど、急すぎて……」
だが父は新聞を畳み、冷めた声で答えた。
「余計なことに首を突っ込むな。今は国が変わろうとしてる時だ。疑うような態度は、自分の首を絞めるぞ」
その言葉に背筋が凍った。――あの父ですら、監視の影を恐れているのだと悟った。
翌日から、オフィスでは田島の名が口にされなくなった。
まるで最初から存在しなかったかのように、会話の中から痕跡は消えた。
残された空席に目を向けると、周囲の人々はわざと視線を逸らした。誰一人として、その場所を直視しようとはしなかった。
数週間後、真理子は偶然、地下鉄の車内広告で「政府広報特集号」と銘打たれた雑誌の見出しを目にした。
〈新たな治安維持の成果 反政府的活動者を一斉摘発〉
気になって購入した雑誌の紙面には、フードを被った人物のぼやけた写真とともに、「国家を脅かす分子が排除された」と誇らしげな文章が躍っていた。
だが、そこに写る横顔の輪郭は、田島に酷似していた。
息を呑む真理子。手は震え、雑誌を握る指が白くなる。
しかし周囲の乗客たちは誰一人としてその記事に反応を示さなかった。見て見ぬふりをしているのか、それとも本当に気づかないのか。
そのとき真理子ははっきりと理解した。
――不満を口にした声は、この国では「存在ごと消される」のだと。
その夜、街のネオンはいつも通り眩しく輝いていた。人々は笑い、歩き、買い物を楽しんでいた。
だがその笑顔の裏で、誰もが心の奥底に同じ恐怖を抱えていた。
そしてその恐怖こそが、もっとも強固な管理と監視の網を編み上げていくのだった。
〈国民安全基本法〉の施行から二か月後。
政府は新たに「国民協力制度」の導入を発表した。
ニュースキャスターは明るい声で読み上げる。
「皆さんが日常で気づいた“秩序を乱す行為”を報告することで、より安全で安心な社会づくりに参加できます」
画面には「協力アプリ」の使い方が映し出され、スマートフォンで簡単に通報できる手順が紹介されていた。
職場の朝礼では総務部長が告げた。
「今後、会社としても積極的に協力するよう求められています。アプリをインストールし、定期的に使用状況を報告してください」
社員たちは無表情にうなずいた。
誰も拒否しなかった。拒否できる空気ではなかった。
昼休み、同僚の一人が囁いた。
「これって、結局は密告制度だよな……」
しかしその言葉を聞いた周囲は慌てて席を立ち、何も聞かなかったふりをした。
翌週からは学校でも、子どもたちに「安全ノート」が配られた。
「不審な人」「変なことを言う人」を見かけたら記録し、先生に提出するよう指導されていた。
小学生の子どもが母親に得意げに言った。
「先生が言ってたよ、協力するのは立派な国民の証なんだって」
母親は曖昧に笑いながらも、内心では寒気を覚えた。――子どもを密告者に仕立て上げているのだ、と。
やがて町内会の集まりでも「協力の実績」が話題にされるようになった。
「うちの班は先月五件通報しました」
「素晴らしい、地域の安全に貢献してますね」
拍手が起こる中、報告のない家庭は居心地悪そうにうつむいていた。
真理子のオフィスでも同じだった。
総務の掲示板には「協力件数ランキング」が張り出され、上位の名前には赤いマークがついた。
ある同僚は得意げに言った。
「こうやって国に協力してるって示せば、会社の評価も上がるんだ」
――協力しない者は目立つ。
それは「疑わしい者」と同義になりつつあった。
真理子は夜、自室でスマートフォンを見つめながら、アプリのアイコンをタップすることをためらった。
誰かを報告することで、ほんとうに「安全」が守られるのだろうか。
それとも、その行為こそが新たな恐怖を生み出しているのではないか。
窓の外では、監視カメラの赤いランプが静かに瞬いていた。
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