がらんどう

埴輪庭(はにわば)

和泉

 ◆


 がらんどうになった。昨日の喧騒が嘘のように家は静まり返っている。和泉はリビングの中央に立ったまま動かなかった。窓の外は厚い雲が空に蓋をしたような鈍色の朝。光は粘土のように重く、部屋の隅々に溜まった埃を白く浮かび上がらせる。空気は湿り気を帯び壁紙に染み込んだ長年の生活臭が澱のように鼻をついた。


 娘はもういない。


 姓が変わったからだ。白いドレスを着て幸せそうに笑っていた。和泉はその横で父親という役割を演じきった。借り物の衣装のように窮屈なモーニングコートを着て顔の筋肉を強張らせて、微笑み差し出されたグラスに口をつけた。


 キッチンへ向かう。


 シンクには昨夜使ったグラスが一つだけ残されている。ウィスキーの琥珀色の残滓が底で乾いていた。それを手に取り蛇口を捻る。冷たい水がグラスの内側を叩き昨夜の孤独を洗い流していく。


 洗面台の鏡に映る男はひどく疲れていた。四十と四年の歳月が刻んだ皺が目元と口元に深く影を落とす。弛んだ皮膚。生気のない眼差し。そこにいるのは自分であって自分でない見知らぬ誰か。鏡の向こうの男は和泉を冷ややかに見つめ返している。


 ──お前は誰だ


 そう問いかけても男は答えない。ただ和泉と同じように緩慢に口を開閉するだけ。和泉はゆっくりとリビングに戻りソファに深く身を沈めた。革の冷たさが背中に伝わる。視線を上げると壁に掛けられた古い柱時計が目に入った。止まっているのだが、いつから止まっていたのか思い出せない。振り子は力なく垂れ下がり時間はその表面で化石になっていた。


 まるでこの家そのものだ、と和泉は思う。時間が止まり全てが腐敗していくのをただ待っているだけの空間。


 娘はこの家から出て行った。それでよかった。これ以上あの娘を憎み続ける必要はない。これ以上あの娘の顔にあの男の面影を探して胸の内の炎を掻き立てる必要もない。これ以上父親という仮面を被り、愛情に似た感情が芽生えそうになるたびにそれを踏み潰す苦痛を味わう必要もない。


 終わったのだ。


 俺の役割は終わった──そんな安堵があった。身体の芯から力が抜けていくような深い安堵だ。それなのになぜだろう。胸にぽっかりと穴が空いたようなこの感覚は。がらんどうになったのは家だけではなかった。彼自身の内側もまた空っぽの洞窟のように冷たい風が吹き抜けている。


 二十年前の雨の日を思い出す。


 季節は梅雨の盛りで、一日中灰色の雨が降り続いていた。当時住んでいたアパートの窓ガラスを雨粒が執拗に叩いていた。生後三ヶ月の赤ん坊がベビーベッドで甲高い声で泣き続けている。ミルクの時間だった。和泉はキッチンで手際悪くミルクを作っていた。哺乳瓶の温度を確かめるために手首に数滴垂らす。熱すぎもせずぬるすぎもしない。


 テーブルの上には一枚の書き置きがあった。


「沙耶をお願いします。ごめんなさい」


 響子の丸みを帯びた見慣れた文字だった。その文字は何の感情も伝えてこない。ただのインクの染み。その紙切れの横には離婚届が置かれていた。彼女の署名と捺印は既に済まされている。相手の男は響子より一回りも年下の同じ職場のアルバイトだった。若く筋肉質でいつも軽薄な笑みを浮かべていた男。和泉が持ち得なかった全てを持つ男。


 赤ん坊が泣き止まない。その声は和泉の頭蓋骨の中で反響し思考を麻痺させる。和泉はミルクの入った哺乳瓶を手に寝室へ向かった。ベビーベッドを覗き込むと赤ん坊は顔を真っ赤にして手足をばたつかせている。その小さな顔。響子に似ているようでどこか違う。あの男の面影がそこにはあった。


 検査をした。少なくとも、和泉と元妻の娘ではない。つまり、憎い男の血を引いているということだ。


「うるさい」


 和泉は呟いた。声は自分でも驚くほど冷たく乾いていた。赤ん坊は彼の声に反応するようにさらに激しく泣き叫ぶ。和泉は哺乳瓶を赤ん坊の口に押し込んだ。赤ん坊はむせながらも必死に乳首に吸い付く。ごくごくと喉を鳴らす音が部屋に響いた。


 ──このまま哺乳瓶を押し込んで、窒息させてやれば


 ふとそんな考えが頭をよぎる。そうすれば全てが終わる。この憎しみの連鎖もこれから続くであろう出口のない日々も。


 しかし和泉は何もしなかったし、なによりもできなかった。


 赤ん坊の小さな手が彼の指を握った。温かく柔らかい感触。その温もりが彼の皮膚を焼くように感じられた。和泉は振り払うこともできず、ただミルクを飲み干す赤ん坊を無表情に見下ろしていた。


 ──義務だ。これは義務だ。あの女が放棄した責任を俺が果たさなければならない。あの女のように無責任に投げ出すわけにはいかない。俺は違う。あの女とは。そして俺の母親とも


 和泉が七つの時母親は家を出ていった。男に惑わされたのだ。まあよくある話といえばそうだろう。理由は子供だった彼には知らされなかった。ただ、ある朝母親の姿がなく食卓には冷たいパンと牛乳だけが置かれていた。父親は何も言わなかった。それから父親はさらに寡黙になり、家の中は音が消えた。


 母親の記憶は時間と共に薄れ、匂いも声も輪郭の曖昧な幻影になった。ただ捨てられたという事実だけが彼の身体に冷たい杭のように打ち込まれていた。


 ──だから俺は捨てない。この赤ん坊を。この憎い男の血を引く子供を育て上げる。成人するまで。それが俺の復讐だ。


 俺はあいつらとは違う、そんな思いでずっと和泉は生きてきた。


 ◆


 沙耶と名付けられた娘は、和泉の感情など意に介さずすくすくと育った。


 初めて「お父さん」と呼ばれた日。公園の砂場で沙耶はよちよちと和泉の足元に駆け寄り、その太腿にしがみついて舌足らずにそう言った。


 周囲にいた母親たちが微笑ましいものを見るような視線を向ける。和泉は無理やり口角を上げて沙耶の頭を撫でた。その髪は猫の毛のように柔らかかったのを和泉はおぼえている。


 その時和泉がおぼえた感情は当然喜びではなかった。かといって憎しみだけでもない。名付けようのない感情。和泉はその感情から逃れるようにすぐに沙耶の手を引いて公園を後にした。


 小学校の運動会。


 和泉は保護者席の隅で一人腕を組んでグラウンドを眺めていた。父親たちが自分の子供に声援を送りビデオカメラを回している。その輪の中に和泉は入っていけない。沙耶が徒競走で一位になった。ゴールテープを切った後、沙耶は満面の笑みで和泉に向かって手を振った。和泉は小さく頷き返すことしかできない。よくやったという一言が喉に詰まって出てこない。代わりに胸を満たしたのは奇妙な疎外感だった。なぜ俺がここにいるのだろう。なぜ俺は父親のふりをしているのだろう。


 沙耶が高熱を出して寝込んだ夜があった。


 真冬の凍てつくような夜だった。沙耶は小さな身体を震わせ苦しそうに喘いでいた。額に当てた濡れタオルはすぐに温くなる。和泉は何度もそれを冷たい水で絞り直し甲斐甲斐しく看病をした。


 これも義務だ──そう、自分に言い聞かせながら。


 ふと沙耶の寝顔を見ているとその顔が響子の若い頃の顔と重なった。そしてその奥にあの男の薄ら笑いが見えたような気がした。


 ──いっそこのまま死んでしまえばいい。そうすれば俺は解放される


 その考えは毒のように彼の思考を痺れさせた。


 和泉は沙耶の首筋に手を伸ばしかけた。その白いか細い首。しかしその瞬間、沙耶がうわ言のように「お父さん」と呟くと。和泉の手は凍りついたように動かなくなった。和泉は自分の内側に潜む底知れない暗闇に慄然とした。


 ──俺は何を考えている


 和泉は逃げるように部屋を出て、冷たい廊下で壁に背中をもたれて座り込んだ。心臓が激しく鼓動していた。自己嫌悪が胃液のように込み上げてくる。


 ──俺は最低だ


 だが同時こうも思った。


 ──なぜ俺がこんな苦しみを味わわなければならないのだ。全てあの女が悪い。あの女とあの男が


 思春期になると沙耶は口数が減った。和泉と沙耶の間の会話は必要最低限のものだけになった。


「ご飯だよ」「ああ」


「行ってきます」「ああ」


「ただいま」「ああ」


 食卓には食器の触れ合う音だけが響く。それは和泉にとって心地よい静寂だった。娘との間に感情的な繋がりを築く必要がない。ただ食事を与え寝る場所を与え学校に行かせる。それだけで父親の役割は果たせる。


 しかし沙耶は時折和泉の顔を窺うような視線を向けた。何かを言いたげにしかし何も言わずに俯いてしまう。


 その視線が和泉を苛立たせた。


 何を求めている。俺に何を期待している。俺はお前の本当の父親ではないのだぞ。お前の身体には俺の血は一滴も流れていない。お前は俺の妻を奪った男の娘なのだ。


 その言葉が喉元まで出かかって何度も飲み込んだ。それを言ってしまえば全てが終わるからだ。二十年近くに及ぶ復讐が。彼の存在理由そのものが。そして何よりそれを言えば和泉は自分を捨てた母親と響子と同じ種類の人間になってしまう。


 それだけは許せなかった。


 ──俺はお前たちとは違う


 その一点においてのみ、和泉は自分の存在を肯定することができた。


 ◆


 沙耶が結婚したい男がいると告げたのは一年前の秋のことだった。


 男は斎藤 雄介と名乗った。歳は沙耶の三つ上で市役所に勤めているという。初めて家に連れてきた日、斎藤は緊張した面持ちで深々と頭を下げた。真面目そうで誠実そうな青年だった。沙耶はその隣ではにかむように幸せそうに微笑んでいた。


 和泉は無表情に二人を見つめていた。斎藤の顔を値踏みするように観察する。平凡な顔。特徴のない顔。しかしその目の奥に若さゆえの自信と未来への楽観が見て取れた。和泉がとうの昔に失ったもの。


 憎しみは湧いてこなかった。


「娘さんを僕にください」


 男がありきたりの台詞を言った。和泉はしばらく黙っていた。沙耶が不安そうに和泉の顔を見た。


 やがて和泉は静かに口を開いた。


「沙耶をお願いします」


 それだけだった。斎藤は一瞬戸惑ったような顔をしたがすぐに「ありがとうございます」と再び頭を下げた。沙耶の顔がぱっと明るくなる。その表情を見て和泉は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。それは嫉妬だったのかもしれない。自分以外の男に娘があんな顔を見せることへの。


 ──いや違う。これは安堵だ。ようやくこの重荷から解放されるのだという


 和泉はそう自分に言い聞かせた。


 結婚式の準備が進む中で、和泉は徹底して傍観者に徹した。式場の選択も衣装選びも招待客のリストアップも、全て沙耶と雄介に任せた。和泉はただ求められた時に金を出しただけだ。


 そんな和泉に、沙耶は時々不満そうな顔を見せた。


「お父さん少しは興味持ってよ」


「お前たちの式だ。お前たちが決めればいい」


「でもお父さんは私のたった一人の家族なんだよ」


 その言葉がガラスの破片のように和泉の胸に突き刺さった。


 ──家族。俺とお前が家族だと? 笑わせるな。俺たちはただの同居人だ。契約に基づいた。俺はお前の保護者という役割を演じお前は俺に保護される子供という役割を演じてきた。それだけだ。そこに血の繋がりも愛情もない


 しかし和泉はその言葉を口にはしなかった。ただ黙ってテレビの画面に視線を移すだけだった。沙耶はそれ以上何も言わなかった。


 そして昨日、結婚式当日。


 和泉は教会の控え室でモーニングコートの窮屈な襟に指を入れながら鏡の中の自分を見ていた。まるで道化のようだ、と和泉は思った。


 係の者に呼ばれバージンロードの入り口でウェディングドレス姿の沙耶と並んで立つ。純白のドレスをまとった沙耶は見違えるように美しかった。化粧を施したその顔はまるで知らない女のようだった。


「お父さん緊張してる?」


 沙耶が囁きかけた。


「別に」


 和泉は短く答えた。


 パイプオルガンの荘厳な音が響き渡り扉が開かれる。眩い光と共に参列者たちの顔が見えた。その中に響子の姿はない。当然だ。招待状は出さなかった。ゆっくりと一歩ずつバージンロードを歩く。腕に絡みつく沙耶の指がかすかに震えているのが伝わってきた。和泉はそんな沙耶に軽く頷きかける。


 ──大丈夫だ。あそこまでは俺が責任を持って届ける。お前を幸せにしてくれる、あの男のいる場所までは


 そうして和泉は沙耶の腕を雄介の手に引き渡したが──その瞬間沙耶が和泉の耳元で囁く。


「お父さんありがとう。育ててくれて」


 その声は涙で濡れていた。


 和泉の身体が硬直した。


 ──ありがとう? 何に対してだ。俺はお前を愛したことなど一度もない。お前の存在を祝福したことなど一度もない。ただ義務だから育てただけだ。俺の自己満足のために


 それなのに。


 ──ありがとうだと? 


 和泉は何も答えられなかった。ただ雄介に一瞥をくれると、そのまま踵を返し自分の席に戻った。


 誓いの言葉。指輪の交換。誓いのキス。


 和泉には全てが遠い世界の出来事のように感じられた。彼の意識は沙耶の最後の言葉に囚われている。披露宴の席でも和泉はほとんど何も食べなかった。注がれる酒をただ機械的に口に運ぶ。周囲の喧騒が分厚い壁の向こう側から聞こえてくるようだった。


 沙耶が幸せそうに笑っている。


 雄介と見つめ合って。その笑顔を見るたびに胸の奥の黒い炎が揺らめいた。


 憎い。


 憎い。


 あの男の血を引く娘が幸せになることが。


 しかし同時に、不思議な感情が彼の心を支配していた。


 ──これでよかったのだ。沙耶が幸せになるのなら


 その矛盾した感情に和泉は眩暈を覚えた。


 ──なぜ俺はあいつの幸せを願ってしまうのだ。憎みきってしまえば楽になれるのに


 最後に、沙耶からの手紙が読まれた。


 和泉への感謝の言葉が綴られていた。不器用で口下手だけどいつも自分のことを一番に考えてくれた父親。尊敬していると。



 会場のあちこちからすすり泣きが聞こえる。

 和泉は顔を上げることができず、テーブルクロスの一点を見つめたまま奥歯を強く噛み締めていた。


 ──嘘だ。全て嘘だ。お前は何も知らない。俺がお前のことをどれだけ憎んでいたか。どれだけお前の存在を呪っていたか


 しかしその憎しみの底に、澱のように溜まっていた別の感情の存在にも和泉は気づかざるを得なかった。


 それは愛情と呼ぶにはあまりにも歪で不純なものだったが、それは確かにそこにあった。そして、そんな気持ちがあることに和泉はひどく安堵したものだ。俺は完全な化け物ではなかったのだ、と。


 しかしその安堵と同時に囁く声が聞こえる。


 なぜ憎みきれないのだ。なぜあの女たちと同じように全てを捨ててしまえないのだ──そんな声が。


 宴が終わり二次会にも行かず和泉は一人タクシーで家に帰った。


 がらんどうの家。


 沙耶の荷物はほとんどが既に新居に運び込まれていた。彼女の部屋はまるで最初から誰も住んでいなかったかのように静まり返っている。


 和泉はその部屋のベッドにしばらく座っていた。壁には沙耶が幼い頃に描いた家族の絵がまだ貼られたままだった。大きな太陽の下で和泉と沙耶が手を繋いで笑っている。拙いしかし力強い線で描かれた絵。和泉はその絵を壁から剥がした。そしてくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。


 リビングに戻り和泉は戸棚の奥からウィスキーのボトルを取り出した。グラスになみなみと注ぎそれを一気に呷る。喉が焼けるように熱い。


 和泉はソファに倒れ込むようにして目を閉じた。


 ──終わった。全て終わった


 そして今朝。


 和泉はソファからゆっくりと身体を起こした。身体の節々が軋むように痛む。和泉は立ち上がり書斎に向かった。小さな埃っぽい部屋。本棚にはもう何年も開いていない専門書が墓石のように並んでいる。和泉は部屋の隅に置いてあった古い脚立を引き寄せた。そしてクローゼ-ットの中から一本の太いロープを取り出す。


 階段の手すり部分にロープを結びつけた。何度も強度を確かめるように強く引く。ロープはびくともしない。


 和泉はロープの端で輪を作った。


 全ての動作は驚くほど冷静で滞りがない──まるでずっと前からこの手順を練習していたかのように。


 これで終わる。


 これ以上娘を憎まなくて済む。


 これ以上娘の幸せを願いそんな自分に安堵し、そしてそんな自分を嫌悪するという堂々巡りの苦しみから解放される。


 和泉は静かに輪に首をかけた。ロープのざらついた感触が首筋に不快だが、あと一歩だ。


 階下へ体を投げ出せばすべてが終わる──そう思った矢先。


 ふと沙耶の顔が和泉の脳裏をよぎった。


 あの男と幸せそうに笑う顔。そして父親の訃報を聞いた時の顔。


 あの娘はどう思うだろう。


 育ててくれてありがとうと言ったあの娘は、父親の自殺をどう受け止めるだろう。


 悲しむだろう。きっと自分のせいだと責めるだろう。結婚したから父は一人になって死を選んだのだと。


 ──新しい人生の門出に、俺の死という消えない染みを残すことになる


 それは復讐としてはいかにも甘美な響きがあった。


 ──だがそれは同時に俺が最も忌み嫌った行為ではなかったか


 捨てること。残された者の心に癒えない傷を残して去ること。


 ──俺はお前たちとは違う


 和泉は荒々しく首からロープを外した。


 窓の外に目をやると、雨脚が強くなっていた。灰色の空から叩きつけるように降る雨が世界を洗い流していく。


 ──そうだ。じゃない


 和泉は亡霊のように立ち上がり、ふらつく足で玄関へ向かい車のキーを掴む。考えを変える、という選択肢はなかった。なぜなら、和泉は怖かったからだ。へ変わってしまう事が。


 そうなる前に、と思ったのだ。雨、車。としては十分だろうと和泉はやけに冷えた頭のどこかでそう考える。


 ──納得は、出来る。きっと、してくれる


 そう、納得だ。納得さえできれば人は大抵の事は乗り越えられるのだ。


 ──俺はできなかった


 できないまま生きていくのもいいだろう、現に和泉はそうしてきた。だがもし。もしも、この先の人生、沙耶への想いが、愛と憎しみが混じりあうそれが、後者の比率が大きくなってしまったら。


 ──きっと俺は、沙耶を殺す


 だから、


 ◆


 外に出ると冷たい雨が容赦なく身体を打った。


 和泉は車の運転席に乗り込みエンジンをかけた。ワイパーが神経質に雨を払い続ける。


 行き先はない。ただアクセルを踏み込むだけだ。


 夜の闇を切り裂いて車は速度を上げていく。街灯が白い線となって後方へ流れていく。


 速度計のメーターがぐいぐいと右へ流れていく。


「沙耶」


 和泉は娘の名前を口にした。口の端はやや綻んでいる。


 そして──フロントガラス一杯に広がる、電信柱。


(了)

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がらんどう 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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