第16話 終焉、元の世界へ

 リリィの放った”Cána hlápë mi helcë” <氷中に揺らめく蝋燭>は、冷気を放ちながら青く輝く炎となり、バルゾの全身を包んだ。

 それは、すさまじい威力だった。


 “愛を糧に放たれる、氷よりも冷たく、炎よりも熱い攻撃魔法“。


 その説明の通り、それは愛の大きさに比例してその威力を増す魔法だった。

 学人を守らんと繰り出されたその呪文は、リリィの彼を思う気持ちの分だけ、大きな炎となり燃え盛った。


 学人は、その青く燃え上がる炎が、バルゾを、そして自らの居室を焼き尽くし、凍りつかせていくのを、尻餅をついたまま呆然と見ていた。

 リリィの姿は、大量の魔力消費により、またもや幼く変貌してしまっていた。

 それでも、彼女の冷たく燃える瞳は、先ほどと変わらずに力強くバルゾを見据えている。


 ――これが、アストリア王国の王女・リリィ=フィンディール。……すげえ。


 その恐ろしいまでに凛々しいリリィの姿に、学人はこれまでにない畏怖の念を覚え、鳥肌が立つのを感じた。


 ”Cána hlápë mi helcë” <氷中に揺らめく蝋燭>に焼き尽くされたバルゾは、もはや咆哮を上げることもできず、掠れた声で呻くだけだった。


「He…ru… Veruzáko……」

<ヴェルザーク……サ…マ…>


 その掠れ声から辛うじて聞き取れたのは、“ヴェルザーク”という名前だけだった。

 ついに小さな呻きすら聞こえなくなると、ついに彼の焦げた身体は塵となって学人の部屋から消えていった。


「マナト、無事か?……今度こそ、オークども全員を討ち取ったぞ!」


「ああ、……ありがとう、助けてくれて。最後油断して、……悪かった」


 軍師としての責任を感じて小さくなる学人に、リリィは気にするな、と、先ほどとは打って変わった可愛らしい笑顔を向けた。

 学人はそのギャップに感情のチューニングが間に合わず、変にどぎまぎしてしまう。

 そんな彼をよそに、リリィは真剣な表情に戻っていた。


「……“ヴェルザーク”と言っていたな。オークらしからぬ名だ。そうすると、やはりオークどもの影には彼らを操る何者かが……」


「……一度、フィグに報告してみるのはどうだ?」


 どんどん曇っていくリリィの表情を見て、学人は口を挟まずには居られなかった。

 彼女はその言葉にハッと顔を上げ、軽く微笑んで頷いた。


 ◇


 二人は、魔鏡パクトを手に、フィグへの通信を開始した。

 鏡面には、すぐに、心配と興奮の入り混じったような表情のフィグが映し出された。


「Aiya, Herinya Lirilissë!!! Cala ar valto úvëlya, cenienye. Nai tenn’ úvë nányë…!」

<リリィ様!!! 美しき健闘ぶり、拝見しておりました。よくぞご無事で……!>


「Nai tyenya Manato, nauco hostar i mi Ambar sina hrestanelye.」

<マナトの指揮のおかげだ。こちらの世界に来たオークどもは一掃した>


“マナト”という名前が出た瞬間、フィグはまた顔をしかめたが、姫に見咎められないうちにすぐに表情を戻した。

 リリィはそのまま言葉を続ける。


「Balzo quentë essë “Veruzáko”.… Órenyallo i nérin anta-nelya, merin nálye suhta sina essë yando.」

<バルゾが、“ヴェルザーク”という名を口にしていた。……以前依頼した件と併せ、この名についても調査を頼む>


「Hantale. Herinya Lirilissë, enta úvë ento tulluva sina-nna, nai? Naucor pusta i Ando, ar polin tanomenta sina men.」

<拝承いたしました。ところでリリィ様、まもなくこちらにお戻りですよね? オークどもの通った界門ゲートが特定できましたので、その位置を示します>


 その言葉とともに、魔鏡パクトには、位置座標が示されていた。


「Ná… ento quetuvan.」

<ああ……。また、連絡する>


 リリィはその位置座標を記録した。

 この界門ゲートを用いれば、残魔力のほとんどない今の状態でも、元の世界に帰ることができる。

 しかし、リリィの心は揺れていた。

 何も知らないまま隣で首をかしげている男の顔を見て、また胸が締め付けられるのを感じた。


 ◇


 フィグとの通信を終えても依然表情の晴れないリリィを、学人は心配そうに見つめていた。

 見つめているうちに、ようやくその事実に気が付いた。


「ていうかリリィ、お前また幼く……! それじゃ、もう魔力は……」


 オークを倒して、元の世界に戻る。

 それがリリィの目的だったはずなのに、これではまた振り出しではないか。


 ――必ず元の世界に帰してやるって言ったのに。俺が最後油断したせいで、余計な魔力を使わせちまった。


 学人は自責の念に駆られていた。


「大丈夫じゃ、マナト。まだ少しだけ、魔力が残っている」


 一方のリリィは、飄々とした口ぶりだった。

 あまりにあっさりと言われたその言葉の意味を、学人はすぐには解読できなかった。


 ――つまり、すぐ帰れるってことか? ……随分あっけらかんと言うんだな。いや、それが目的だったんだし、当たり前だけど。


 一刻前まで自責の念に駆られていたはずなのに、こうもにべもなく言われると、思わず相反する感情が湧き上がってしまう。

 

 学人はこの時になってようやく、「リリィが元の世界に帰る」ということの意味を理解した。

 それは、明日からまた一人で暮らすということだ。

 スーパーでバイトをしてもリンゴを持ち帰る必要はないし、帰ってもお帰りなさいと言ってくれる人はいない。

 

 彼女を元の世界に帰してやりたい気持ちは本物だ。

 それでも、ここにきて、名残惜しく、離れがたいと思う気持ちが、それを上回りそうになっていた。

 それほどまでに、彼がリリィと過ごした数か月間は濃密だった。

 学人は、まさにこの瀬戸際を迎えるまでそれに気づかず、呑気にリリィを送り出そうとしていた自分の想像力の欠如にうんざりしていた。


 ――でも、帰るな、なんて、今更言えるわけがない。こいつは、魔法大国アストリアの、気高き姫君なのだから。


 浮かんでいたのは、先ほどオークを討伐した凛々しい姫の姿。

 そもそも、こんな高貴な存在と、俺が一緒に暮らしていたこと自体がおかしかったんだ。文字通り、住むが違うのだから。

 ……楽しかった。良い夢を見させてもらったと思うことにして、明日からは俺も元の世界現実に帰ろう。


 リリィはそんな彼の胸中を知ってか知らずか、気まずそうにぽつりと呟いた。


「マナト、すまないな」


 ――すまないって、なんだよ。せめて、ありがとうだろうが。

 

 学人の胸に湧いた惜別の情は、行き場を失い苛立ちに変わりつつあった。

 しかしリリィは、その言葉を最後に学人に背を向け、最後の呪文を口にした。


「Envinyata ilya」

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