第17話 そして、日常は続く

 学人はリリィの背後で、彼女が呪文を唱えるのを黙って眺めていた。


 ――ろくに挨拶もないのか。寂しがってるのも、俺だけかよ。


 胸に宿った苛立ちは、そのうち切なさを帯び始めていた。

 その全ての感情を押し込めるように、彼は唇をぎゅっと真一文字に結び、焼け焦げ、凍りついた部屋を眺めていた。


 すると、どうだろう。

 みるみるうちに、跡形もなく損壊した部屋が元通りに修復されていくではないか。


「………………!?」


 学人はきょろきょろと何度も部屋を見回す。


「マナト、何を驚いているのじゃ?」


 リリィはきょとんとしていた。

 その姿を見て、学人はますます動揺するばかりだった。


「お前、今、……転移魔法を使ったんじゃなかったのか?」


「何を言っておるのだ? 今使ったのは"修復魔法"じゃ。こんな少ない魔力では、転移魔法など使えぬ」


「でも、さっき、『すまない』って……」


「? 部屋をめちゃくちゃにしてしまいすまない、と言ったのだが……」


 そこまで聞いて、学人は全身が脱力するのを感じた。

 がくりと膝をつき、情けない笑顔を浮かべて、大きなため息をついた。


「なんだよ……俺はてっきり、お前がもう帰っちまうのかと……」


 そんな彼の様子を見て、リリィはまた、にんまりと満足げに口角を上げて顔を近づける。


「何じゃ? マナト。リリィと離れることが、そんなにも怖かったのか?」


 学人は俯いたまま答える。


「そうだよ。リリィがこのまま帰るって思ったら、すげえ嫌だった」


 予想外にストレートな学人の返答にカウンターを食らったリリィは、ぼっと顔を赤らめた。

 顔が熱い。きっと耳の先端まで真っ赤になっているのだろうと、自分でも分かるほどだ。

 ずっと胸に抱えていながら言えなかった、「帰りたくない」という思い。

 学人は、それをこんな風に造作もなく口に出して、リリィの心を掻き乱す。


 ――本当に敵わぬ、この男には。


 リリィは何かを決意したかのように深く目を瞑って息をつき、そして微笑んだ。


「案ずるな。リリィはまだ帰らぬ。……というか、この姿では帰れぬのだがな」


 ――界門ゲートから帰れることは、まだ言わないでおこう。……リリィの気持ちも、まだマナトには秘密。


 学人もその言葉を受けて、安心したように笑った。

 こうして、六畳一間の決戦は、ようやく終焉を迎えた。


 ◇


 二人にようやく再び日常が訪れた頃だった。学人は、リリィに唐突に切り出した。


「リリィ。……話があるんだ。」


 いつになく真剣なその眼差しに、リリィは否が応でもどきりとしてしまう。


「ずっと言おうと思ってたんだけど、……なかなか言い出せなかった」


 ――まさか。まさかまさか。


 胸の鼓動がどんどん早くなる。もはや、学人にも聞こえてしまいそうなほどだ。


「…………実は、俺……」


「マナト……」


 リリィは頬を染め、期待に満ちた瞳で、学人を見つめる。


「……俺、もう一度、大学受験に挑戦することにした」


「…………へ???」


 あまりにも綺麗な肩透かしを食らい、リリィは裏返った情けない声を出してしまった。


「お前のおかげで、俺はまた外の世界に出られた。それに……『知識』が力になるって、よく分かったんだ」


 今回役に立ったのは、“RPG知識”だったが、もっといろいろなことを学べば、その分だけいろいろな場面で役に立つだろう。

 もっといろんなことを学びたい。もっといろんなところで役に立ちたい。

 一度刺激された「知」への好奇心を、学人は抑えることができなかった。


「俺には魔法は使えないけど。……『知識』を武器にして、俺なりに外の世界で戦っていきたいんだ」


 リリィは改めて学人を見る。

 初めて出会った頃のだらしなさ、弱弱しさは、いつの間にか見る影もなかった。

 目の下に拵えたクマこそ変わらないが、その目は力強く未来を映していた。


「……マナトらしい戦い方だ。心から応援しよう。……して、リリィに話とは、そのことか?」


「いや。……俺は、バイトも続けながら勉強することにする。だから……」


 学人は少し言いづらそうにリリィを見つめる。


「だから、リリィ。……俺に、勉強を教えてくれないか」


 リリィからオーク知識を伝授されている時に、学人は思っていた。

 <天の叡智セレスティア・コード>から導かれる、圧倒的な知識量。

 そして、さらに驚くべきは、そのアウトプット能力だ。リリィは、物を教えるのが非常に上手かった。

 学人は、異世界コンカフェではなく家庭教師を薦めるべきだったか、と思い直したほどだった。


「リリィが……勉強を教える?」


 本人はその自覚がないようで、突然の申し入れに面食らっていた。


「もちろん、タダでとは言わない。報酬は……これでどうだ?」


 学人はにやりと笑い、後ろ手に何かを取り出した。

 それは、リリィを元の姿に戻した立役者、超高級リンゴ「サンふじ」だった。

 思わぬ報酬の提示に、リリィは思わず吹き出してしまう。


「……その話、乗ったぞ。前払いで頼もう」


 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑い、一緒に「サンふじ」を食べた。

 見慣れた光、聞き慣れた音、そして元に戻るリリィの姿。

 すっかり慣れていた二人は万全に準備を済ませており、もう丈の短くなったTシャツに戸惑うようなこともなかった。


「……おかえり、リリィ」


「……ただいま」


 少し照れくさそうにそう答えるリリィに、学人は胸がどくんと動くのを感じていた。


 ◇


 そして、現在。


「リリカちゃん、3卓様の対応お願い!」

「分かった、ユウカ。今行こう。」


 大人の姿となったリリィは、【あるかでぃあ】に復帰していた。

 魔力こそ回復したが、ヴェルザークの正体が掴めるまでは、リリィが戻ってもまた戦争の火種となるだけだ。

 それまでに、できるだけ魔力を温存しておくに越したことはない。

 その間に、この世界の知識を少しでも多くインプットすべく、少なくとも学人の大学受験が終わるまでは、こちらに残ることにした。

 ……もちろん、これがすべての理由ではないのだが。


 ――父上様、母上様。リリィのわがままをお許しください。……もう少しだけ、この男と、……このアキハバラに、居たいのです。


 心の中で両親にそう懺悔して、リリィは今日も秋葉原で奮闘する。


 学人は、スーパーのバイトと受験勉強。

 リリィは、【あるかでぃあ】でのバイトと学人の家庭教師。


 当初より少しだけ忙しさを増して、二人の新たな日常は続いていく。


 第1章 完

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