第20話 封じの結末

隣家の窓が再び光を帯びたのは、四夜目のことだった。

直哉は白いノートを抱きしめ、澪と共に下宿を出た。夜風が冷たく、耳の奥まで刺さるように寒い。


「昨夜、“像の起源”が未定義の行為や感情だと突き止めた。だから今日の鏡は、きっと最後の段階に入る」澪は言った。


「最後の段階……」直哉は唾を飲み込んだ。


「うん。“こちらの存在そのもの”を先取りして、まるごと奪おうとするはず。つまり、ノートや言葉だけじゃなく、呼吸や姿勢、全部を模倣して先に定義する」


「それに勝つには?」


「簡単じゃないけど、理屈は分かってる。証拠を積み重ねるんだよ。記録として紙に書き、声にして、行動で示す。三重に証明することで、未定義の余地を残さない。それしかない」


直哉は大きく頷いた。


隣家の前に立つと、窓はまるで湖面のように二人を映した。最初は一致していた。だが次の瞬間、ガラスの中の直哉が先に鉛筆を弾いた。


「もう先取りしてきた!」


直哉が慌てて鉛筆を弾くと、像は勝ち誇るように口元をわずかに歪めた。今度は澪の像が先に呼吸を止め、三拍の静止を実行した。澪はまだ準備すらしていない。


「これが“存在の先取り”……」澪は声を震わせた。


「やられる前に証拠を!」直哉はノートに大きく書いた。〈僕は今、鉛筆を弾く〉。


彼は弾き、像も遅れて弾いた。優先権が一瞬こちらに戻った。


澪もノートに記す。〈私は今、三拍止めることを選んだ〉。彼女が実行すると、像は動きを止め、遅れて模倣した。


「効いてる……けど、これだけじゃ不十分だ。鏡は紙を破られたら無効化できる」澪が息を荒げながら言う。


直哉は強く頷いた。「だから三重に証明するんだな」


二人は行動を合わせた。


まず、ノートに記す。〈ここにいるのは私だ〉。


次に、声に出す。直哉が震える声で言った。「ここにいるのは僕だ」。澪も重ねる。「ここにいるのは私だ」。


最後に、体で示す。直哉は左手で胸を叩き、澪は右手で額を押さえた。これが二人で決めた“証拠の型”だった。


ガラスの像たちは一瞬混乱したように動きを止めた。ノートを模倣しようとすれば声が先に来る。声を真似すれば体の型が先に出る。追いきれず、動作がばらばらになっていく。


「今だ!」澪が叫ぶ。


二人は再び声を合わせた。「ここにいるのは私たちだ!」


ガラスの中の像が揺らぎ、奥に引いた。その瞬間、窓全体に罅が走った。鏡の表面に張り付いていた“未定義”が剥がれ落ちる音が響いた。


だが終わりではなかった。奥に退いた像が最後の抵抗を見せた。直哉のもう一人が、ノートを握りつぶす動作をした。澪のもう一人が、彼女の口を塞ぐ仕草をした。


「最後の試みだ……!」


澪は冷静に分析した。「奥の像は、“証拠そのもの”を無効化しようとしている。つまり、証拠を奪えなければ完全に退く」


直哉は考えた。そして決断した。「なら、証拠をさらに外に渡す。僕たちだけじゃなく、第三者に記録を残すんだ」


彼はノートを高く掲げ、声を張り上げた。「これが僕たちの証拠だ! 澪と直哉は、ここにいる!」


澪も続けた。「私たちが選び、記し、行動している! 鏡の奥にいるのは“未定義”でしかない!」


その瞬間、ガラスの像は大きく揺れ、音を立てて砕け散った。破片は地面に落ちず、空気に溶けるように消えた。


沈黙が訪れた。窓はただの古びたガラスになり、もう鏡のような光沢はなかった。


直哉は大きく息をつき、ノートに最後の記録を書いた。


〈鏡の家の結末:

 像の正体=人の未定義の行為や感情。

 鏡はそれを先取りし、定義の優先権を奪おうとする。

 対策=三重の証拠(記録・声・行動)で未定義を埋め、空白を残さない。

 結果=像は退き、窓はただのガラスに戻った。〉


澪はそのページを覗き込み、深く頷いた。「これで終わりだね。鏡は“空白を食べる存在”だった。でも、私たちが空白を埋め切ったことで、力を失った」


ノートに彼辞の文字が浮かんだ。


――怪異は常に“未決定”を狙う。見届けるとは、空白を定義し続けることだ。


翌朝、大家が隣家を見回りに来た。


「本当に、不思議だな。昨日まで鏡みたいに光っていた窓が、今日はただ曇って見える」


直哉と澪は顔を見合わせ、何も言わなかった。


「でも、これなら貸し出せそうだ。取り壊すか迷っていたけど……」


大家が立ち去ったあと、澪がぽつりと呟いた。「つまり、私たちがしたのは“祓い”じゃない。空白を埋めて、建物を普通に戻しただけ」


直哉は頷いた。「怪異は恐怖の存在じゃなく、隙間の現れ。人が自分の未定義を放置するから形になる。なら、僕らにできるのは記録して定義し続けることだ」


直哉はノートを閉じ、胸に抱いた。

その余白に最後の一行が浮かんだ。


――像は消えた。だが、未定義は常に生まれる。次の扉にもまた、像は潜む。


彼は目を閉じ、深く息を吸った。澪も横で目を閉じ、二人は静かに呼吸を揃えた。

鏡の家は終わった。だが、見届ける旅は続いていく。

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