第19話 像の起源
夜が更けると、隣家の窓は再び光を帯びた。直哉は鉛筆を握りしめ、澪と並んでその光を見つめる。三日目に確認を怠ったとき、鏡の像は勝手に動き出した。幸いノートを証拠として突きつけ、定義を取り戻したが、危険は増している。
「今夜はさらに深く潜ってくるはずだ」澪の声は冷静だった。
「どうしてそう思う?」
「記録を見れば分かる。半分潜り込んだ像は“勝手な動作”を始めた。次の段階は、“こちらの行動を先取りする”」
直哉は眉を寄せた。「先取り……?」
「つまり、私たちがこれからする行動を、先に鏡の中の像がしてしまう。そうなれば“どちらが本物か”の境界が崩れる。最悪、こちらが模倣者にされて、奥に押し込められる」
「……入れ替わりだ」
「そう。だから、今夜は“なぜ像が生まれるのか”を突き止めないといけない。原因を理解しない限り、対策は一時的なものにしかならない」
直哉は大きく頷き、ノートを開いた。
翌日、二人は大学の郷土史研究室で古い資料を探した。澪が取り出したのは、明治期に書かれた民俗誌の一節だった。
〈鏡は魂を映す器である。だが、映すのは目に見える形だけではなく、未定義の部分も写し取る。人の生には“まだ自分でも決めていない行為や感情”があり、それが映されると“もう一人”として表れる〉
「未定義の部分……」直哉は呟いた。
「そう。自分がまだ選んでいない行為や感情。それが“像”になる。つまり像の正体は“自分の未決定の部分”なんだよ」
「だから、確認を怠ると像が勝手に動き出すんだ。未定義の部分を先に“選ばれて”しまうから」
澪は深く頷いた。「だから私たちは毎晩、定義を更新し続けなきゃならない。鏡は隙あらば、未定義を先に決めようとする。そうすれば、私たちは自分の行為や感情を奪われ、像に押し込められる」
直哉はノートにまとめる。
〈像の起源=未定義の行為や感情。
鏡はそれを映し取り、先に“決定”することで優先権を奪う。
対策=自ら先に定義し、空白を残さない〉
その夜、二人は隣家の前に立った。窓の奥で淡い光が揺れ、映し出された自分たちの像が並んでいる。
直哉が鉛筆を弾いた。チ。ガラスの像も同じ動きをした――が、その直後、像が手をもう一度鳴らした。直哉はまだ動かしていないのに。
「来た!」澪が叫ぶ。「先取りが始まった!」
像は次々に二人の行動を先回りする。澪が呼吸を整える前に、ガラスの中の澪が深呼吸をする。直哉がノートを開く前に、ガラスの直哉がページをめくる。
「このままじゃ、僕たちが模倣者にされる!」直哉が声を荒げる。
「証拠を出して!」澪は鋭く言った。「“今ここで自分が選んだ行為”を記録して、それを示すの!」
直哉はノートを開き、大きく書いた。〈僕は今、鉛筆を弾くことを選んだ〉。そして鉛筆を鳴らす。チ。
ガラスの像は一瞬遅れた。先取りを続けていたはずの像が、直哉の“選択の証拠”に従わざるを得なくなったのだ。
澪も同じようにノートに書いた。〈私は今、呼吸を三拍止めることを選んだ〉。彼女は三拍止まりを実行する。ガラスの澪は固まり、次に動きを揃えた。
「効いてる!」直哉が叫んだ。
「証拠は“選択”を記録すること。それで未定義を奪わせない!」澪の声が強く響く。
しかし、ガラスの像はすぐに反撃した。二人が書き終える前に、ガラスの像が別の動作を始めた。直哉の像がノートを破り捨てる仕草をした。実際の直哉はしていない。
「これじゃ証拠が無効にされる……!」
澪は素早く言った。「破られても、記録は残る。大事なのは“証拠を維持する意志”。紙じゃなく、行為そのものを記録にする!」
直哉は深呼吸し、再びノートに書いた。〈僕はノートを保持する〉。その瞬間、ガラスの直哉は破る動作を止め、再び同じ姿に戻った。
澪も続けて記録した。〈私は呼吸を三拍止め、次に小音を鳴らす〉。彼女が実行すると、ガラスの澪は模倣に戻った。
その後も攻防は続いた。鏡は先取りしようとし、二人は証拠を積み重ねる。やがて、ガラスの中の像が次第に動きを失い、ただ映すだけに戻った。
冷たい風が吹き抜け、窓の光が消えた。
「勝った……?」直哉は肩で息をしながら言った。
澪は額の汗を拭い、静かに頷いた。「勝ったというより、“像の起源”を突き止めたからだよ。像は未定義を映す。私たちが自分で選択し、その証拠を残す限り、像は力を持てない」
直哉はノートに結論を記した。
〈像の本質=未定義の部分。
鏡はそれを先に決めることで入れ替わりを狙う。
対策=“選択”を証拠として記録し、鏡に示す。
証拠は紙ではなく行為そのもの。〉
ノートに彼辞の文字が浮かんだ。
――見届けは、選択を記すこと。記さぬ選択は、像に奪われる。
翌朝、澪はまとめを口にした。
「社では“名”と“跡”が狙われた。ここでは“像”が狙われる。どちらも同じ仕組み。人がまだ定めていない部分を怪異は奪おうとする。つまり祟りや鏡の怪異は、“空白”を食べる存在なんだよ」
直哉は深く頷いた。「空白を残さない限り、怪異は入れない。逆に言えば、僕らが空白を放置すれば、すぐに食われる」
彼はノートを閉じ、胸に抱いた。そこに書かれた証拠は、彼自身の存在そのものだった。
窓の外、隣家は静かに佇んでいた。だが直哉は理解していた。静けさは、彼らが毎晩“選択を記す”限りにおいてのみ保たれるのだと。
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