第21話 道の終わりにある家

直哉と澪が「鏡の家」の一件を収めてから二週間が経った。長野の町も雪解けを迎え、川沿いの桜が芽吹き始めている。大学では新学期の準備が進み、澪はゼミの資料に追われていた。


そんな折、研究室の教授から澪に一本の電話が入った。


「境界町の件、聞いたかね。あそこに残る“家”の調査を頼みたい。旧街道の突き当たりにある一軒で、住んでいた人が次々と『町に入れなくなる』という訴えをしている」


「入れなくなる?」澪は眉を寄せた。


教授は淡々と説明した。「一度その家に滞在すると、町を出たのち戻れなくなる。駅まで歩けても、再び町に入ろうとすると道が消える。地図上では存在しているのに、本人には見えない」


電話を切った澪はすぐに直哉に話した。彼は顔をこわばらせた。「町そのものが拒むってこと?」


「そう。教授は『境界性の異常』と呼んでいた。つまり、あの家が町と外の境界を歪めているんだと思う」


直哉はノートを開き、余白に書き込む。〈境界の家=町への出入りを制限する〉。すぐに彼辞の文字が浮かんだ。


――境界は門でも壁でもない。通路の形をした意志だ。


二人は週末、境界町へ向かった。長野の中心部からバスで一時間。山に挟まれた小さな町で、古い商店街と川沿いの道がある。


町の端に立つと、空気がわずかに重い。直哉は息を深く吸い、違和感を感じた。「ここに来た時点で、もう“入る”か“出る”かの判定が始まっている気がする」


澪は頷き、地図を確認した。「教授の資料では、旧街道をまっすぐ進むと“境界の家”に着くとある。突き当たりにある、空き家のはず」


歩き出すと、道の両側に古い家が並んでいた。だが人影は少なく、店のシャッターもほとんど閉まっている。町全体が眠っているような静けさだ。


道の終わりに、その家はあった。二階建ての木造で、外壁は白く塗られているが剥がれが目立つ。窓はすべて閉じられ、玄関には古びた札が貼られていた。


〈ここより先は、町ではない〉


「……境界を自分で宣言してる」直哉は呟いた。


澪は慎重に周囲を見回した。「札の意味は“結界”だと思う。町に入れなくなる症状は、この家が自ら境界を引き直しているせいかもしれない」


直哉はノートに書く。〈家が境界を再定義している〉。


玄関を開けると、内部は驚くほど整っていた。埃はあるが、家具はそのまま残り、生活の痕跡も新しい。廊下を進むと、間取りが不自然に感じられる。


「おかしい……」直哉は呟いた。


「どこが?」


「部屋を一つ抜けるたびに、方向感覚が狂うんだ。玄関から見て左に進んだはずなのに、いつの間にか右端に来ている気がする」


澪は壁を指差した。「ほら、この壁。窓が二つ並んでいるはずなのに、外を見ると景色が重なってる。つまり、家の中で“町の外”がねじれて映ってるんだよ」


直哉はノートに書いた。〈間取りが境界を操作している〉。


二階に上がると、一室に奇妙なものがあった。床に白い粉で円が描かれ、その内側に古びた紙束が置かれている。澪が拾い上げると、日記のような記録だった。


〈この家に長くいると、町から出ることはできるが、戻れなくなる。町の風景は夢のように揺れ、入口が消える。私はそれを“境界の閉鎖”と呼んだ。閉鎖は一人称で進行する。誰かが境界を定義し直さない限り、町は入口を見せない〉


直哉は冷や汗をかいた。「つまり、この家に入った時点で“閉鎖”が始まる?」


澪は真剣な顔で頷いた。「そうだと思う。しかも一人称で進むというのは、“誰かが観測している限り”その人にだけ閉鎖が適用されるということ」


「じゃあ僕らは……もう始まってる?」


その時、窓の外の風景が揺れた。川沿いの道が曖昧になり、遠くの商店街が霞んで見えなくなる。


「やっぱり……境界が動き始めてる」澪が低く言った。


二人は急いで玄関へ戻った。外に出ると、町の風景ははっきりしていた。だが道を振り返ると、さっきまであった商店街が一瞬だけ消えた。


「これは……」直哉は声を震わせた。


澪は分析するように言った。「境界は“家の内部”で操作される。外に出ても、内部に入った人には閉鎖が続く。だから住人たちは一度出ると戻れなくなるんだ」


「じゃあどうすれば?」


「境界を“再定義”すればいい。つまり、この家が勝手に町を囲い込む仕組みを上書きする。具体的には……間取りを“記録”して、外に持ち出す」


「記録?」


「そう。家の中で部屋を巡り、その順番をノートに正確に書く。間取りを外に記録した時点で、それが“町の外の定義”になる。そうすれば閉鎖は解けるはず」


直哉はノートを強く握りしめた。


〈対策:間取りの記録による境界の再定義〉


彼辞の文字が浮かんだ。


――境界は曖昧さに宿る。曖昧を記録すれば、それは境界ではなくなる。


その夜、二人は下宿に戻り、計画を立てた。


澪は真剣な声で言った。「明日、もう一度家に入ろう。そして部屋を一つずつ巡り、間取りを記録する。途中で風景が揺れても、立ち止まらないこと。すべてを書ききれば、町に戻れなくなる症状を解ける」


直哉は息を呑んだ。「でも失敗したら?」


「その時は……私たちも戻れなくなる」


二人の視線が交わった。恐怖はあった。だが同時に、理屈が見えたからこそ挑む価値があると感じていた。


直哉はノートを閉じ、胸に抱いた。


「明日、間取りを記録して、境界を塗り替える」


その言葉で一日が締めくくられた。窓の外、境界町の灯りは薄く揺れ、まるで見えなくなる予告のように遠ざかっていた。

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