第18話 定義の乱れ
隣家の窓に対する“定義の習慣”を始めてから三日目、直哉は小さな油断をした。
その夜、大学の課題に追われて確認を忘れたのだ。時計が午前一時を回ったとき、彼は机に突っ伏して眠ってしまっていた。鉛筆が指の間から転がり、白いノートは開いたまま。そこに細い文字が浮かんでいく。
――定義が遅れると、像は隙間に入る。
直哉は夢の中でその声を聞き、はっと目を覚ました。窓の外を見ると、隣家のガラスが月明かりに照らされていた。そこには自分の姿が映っている。だが、動きが遅れていた。昨日までは一致していたのに、一拍のずれが戻っていた。
「しまった……!」
直哉は急いで鉛筆を鳴らした。チ、と短い音。ガラスの中の像も同じ動作をしたが、やはり一拍遅れていた。
その時、背後から澪の声がした。「直哉、確認を忘れたでしょう」
彼女は眠そうな目をこすりながらも鋭く言った。
「うん……。今日、課題で手一杯で……」
「それが危険なんだよ。鏡は毎晩、定義を更新しないとすぐに隙間に入ってくる。昨日までは防げてたけど、一日怠けただけでこれだよ」
澪は自分の鉛筆を取り出し、低く短い音を鳴らした。二人で重ねると、窓の像は一瞬だけ揺らぎ、遅れが半拍まで縮んだ。しかし完全には戻らない。
「半分だけ潜り込んでる……」澪が眉をひそめる。
翌日、二人は再び大学の資料室で過去の記録を調べた。そこには次のような一文があった。
〈像が半分潜り込むと、次に現れるのは“別の動作”である。観測者がしていない行為を像が勝手に始める。それは“入れ替わり”の準備であり、像が実体を奪うための前段階〉
「別の動作……つまり、自分がしていないことを映すってこと?」直哉が問う。
澪は頷いた。「そう。ずれがただの遅れなら、まだ表と奥が繋がっている。でも、勝手に動き始めたら、それは奥の像が“こちらに出ようとしている”証拠になる」
直哉は息を飲んだ。
「つまり今夜が正念場なんだな」
「そう。もし奥の像が勝手に動き出したら、“定義の優先権”を奪い返さなきゃならない。その方法を考えておかないと」
夕刻、澪は自治会館の古文書を持ってきた。そこには「鏡の儀式」に関する古い伝承が書かれていた。
〈像の居場所を定めるには、音と息を合わせること。だが、ずれが進行した場合は“証拠”を持ち込め。自らの存在を証明する記録を鏡に示せば、像は退く〉
「証拠?」直哉は首を傾げる。
「そう。社でやった“記録の逆順”に似てる。鏡は“定義の空白”を突くから、こちらに証拠があれば空白は消える。証拠とはつまり、“私がここにいる”と示すもの」
「じゃあ、ノートの記録が役立つんだ」
「その通り。今夜はノートを使って自分の存在を証明しなきゃならない」
直哉は強く頷いた。
夜。二人は再び隣家の前に立った。月は半分雲に隠れ、ガラスは鈍く光っている。
直哉が鉛筆を鳴らすと、ガラスの中の像は遅れて動き、次の瞬間、勝手に右手を胸に当てた。直哉自身はそんな動作をしていない。
「始まった!」澪が声を上げた。
「どうすれば……?」
「ノートを見せて! 記録をそのまま鏡に映すんだ!」
直哉は慌てて白いノートを開き、余白をガラスに向けた。ページには〈僕はここにいる〉と書かれている。
すると、ガラスの中の像は一瞬動きを止めた。胸に当てた手を下ろし、ノートの文字を見つめるように固まった。
澪はすかさず鉛筆を鳴らした。チ。直哉も続けてチ。二つの音が重なり、窓の奥から冷たい風が吹き出した。
「証拠が効いてる!」
直哉は心の中で強く念じた。「これは僕だ。僕の像だ」
像の遅れが縮まり、やがて完全に一致した。勝手な動作も止んだ。
下宿に戻り、直哉はノートにまとめを書いた。
〈現象:定義を怠ると像は半分潜り込み、勝手に動作を始める。
本質:空白を突き、“定義の優先権”を奪う行為。
対策:自らの存在を証明する“記録”を提示し、証拠を鏡に見せることで退けられる〉
澪はページを覗き込み、補足した。「つまり、“定義”とは日課だけじゃなく、記録の継続と組み合わせて初めて有効になる。私たちが存在を記している限り、像は完全には取って代われない」
ノートに彼辞の文字が浮かぶ。
――像は空白に棲む。記録は空白を埋める。埋められた像は、出てこられない。
直哉は鉛筆を置き、深く息をついた。「危なかった……。でも理屈ははっきりした。日課を守ること、記録を欠かさないこと。それさえすれば、入れ替わりは防げる」
澪は真剣に言った。「でも逆に言えば、これを一度でも怠ったら即座に危険になる。だからこそ、私たちの生活そのものを“儀式”に変えなきゃならない」
直哉は窓を見やった。隣家のガラスは静かで、彼自身を正確に映していた。だがその静けさは、彼らが油断すればすぐに崩れる。
ノートの余白に最後の一行が刻まれる。
――鏡は待っている。あなたが記すのをやめる、その瞬間を。
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