第17話 像の居場所

隣家の窓に映る自分の像を「定義」することで、直哉と澪は辛うじて一夜を乗り切った。だが、問題が解決したわけではなかった。翌朝、直哉が起きると、白いノートの余白に文字が浮かんでいた。


――像は消えたのではない。居場所を変えただけだ。


「居場所……?」直哉は呟き、手でノートをなぞった。


澪が隣室から出てきて、紅茶のカップを机に置いた。「つまり、鏡の中の“もう一人”は、窓の表面じゃなく、奥に退いただけ。居場所を変えただけなら、まだこちらを狙っている」


直哉は頷いた。「昨日は僕たちが“自分のものだ”と定義したから退いただけ。でも、定義を外したらすぐに戻ってくる」


澪はカップを両手で包み込みながら言った。「だから今日の課題は、“像の居場所”を把握することだと思う。どこに退いたのか、どうやって出てくるのかを突き止めなきゃ」


昼過ぎ、二人は大学の資料室で「鏡の家」に関する過去の記録を調べた。古い新聞の切り抜きには、数十年前に起きた“失踪”の事件が載っていた。


〈二階建ての旧家に住んでいた夫婦が、ある夜を境に姿を消した。家財はそのまま残され、窓のガラスには夫婦の影が揺れていたと近隣住民は証言〉


澪がページを指差す。「影は見えたのに、姿はなかった。つまり像の居場所がガラスの“奥”に移ってしまった」


直哉はノートに記す。〈像=ガラスの奥に居場所を移す/実体=消失〉。


さらに別の記録にはこうあった。〈像の居場所を確認する方法は“音”である。鏡の前で拍をとり、音と像の動きのずれを計測する。ずれが大きいほど、像は深く奥に潜っている〉


「音か……。社のときも音が基準になってたな」直哉が言う。


澪は頷いた。「拍を刻んで像の居場所を測る。もし深く潜っていたら、それは“引き込み”の段階に入っている証拠になる」


夕刻、二人は隣家の前に立った。窓は相変わらず鏡のように周囲を映し出している。直哉は鉛筆を指で弾いた。チ、と乾いた音。ガラスに映る自分の像も手を動かしたが、わずかに遅れた。


「一拍半くらい遅れてる」澪が観察する。「昨日より深く潜ってる」


直哉がもう一度音を鳴らすと、今度は澪の像が二重に映った。ひとつは彼女自身と同じ動きをしている。もうひとつは、まばたきをしない澪の像だった。


「やっぱり出てきた……!」


「まだ“完全な入れ替わり”じゃない」澪は冷静に言う。「居場所を二つに分けてるんだ。ひとつはガラスの表面、もうひとつは奥。奥に潜むほうが本体に近い」


直哉は息を整えた。「じゃあ対策は?」


「昨日と同じ。“定義”をこちらが先にすること。ただし今日は“居場所”の定義も加える必要がある。像がどこに潜っているのかをこちらから決める。そうすれば奥に退いた像は戻れない」


直哉はノートに書く。〈像の居場所=こちらが指定する〉。


ガラスに向かって彼は心の中で念じた。「これは僕の像だ。居場所はここ、表面だけだ」


像の遅れはわずかに縮まった。


澪も同じように念じた。「これは私の像。奥には居ない」


すると、二つに分かれていた澪の像のうち、無表情の方が揺らぎ、消えた。


部屋に戻ると、直哉はすぐにノートを開いた。


〈現象:鏡は像を二重化し、奥へ居場所を移す。

 本質:定義の空白を突き、像の所有権を奪おうとする。

 対策:像の居場所をこちらが指定する。表面に限定すれば奥の像は力を失う〉


澪は記録を見て言った。「理屈は分かった。だけど問題は、この“居場所の指定”が一晩しか持たないこと」


「一晩だけ?」


「そう。私たちが定義しても、時間が経てば揺らぐ。だから継続的に“定義し続ける”仕組みが必要になる」


「仕組みって……?」


「例えば、毎晩決まった時間に像を確認する。音で拍を測って、定義を上書きする。それを怠れば、奥に潜った像が再び表に出てくる」


直哉は深く頷いた。「つまり、これは“日課”にしなきゃいけないんだ」


ノートの余白に彼辞の文字が現れる。


――像は呼吸のようなもの。止めず、繰り返して定義せよ。


その夜、寝る前にもう一度窓を確認した。今度は澪と二人で音を刻む。直哉がチ、と鳴らし、澪が遅れてチ、と重ねる。鏡の中の像は同時に動いた。遅れはなく、奥の像も現れない。


「やっぱり、定義を重ねると安定する」澪が言った。


「でも、これを怠ったら……」直哉は声を濁す。


「奥に潜った像が出てきて、入れ替わりが起こる」


澪の言葉は淡々としていたが、その冷静さの裏に緊張が漂っていた。


直哉はノートに記す。〈像の管理=呼吸のような習慣/怠る=消失リスク〉。


そして余白にまた文字が現れた。


――見届けることは、像を呼吸すること。怠れば、像はあなたを呼吸する。


直哉は鉛筆を置き、窓の外を見た。隣家の鏡のような窓は静かだった。だが、その静けさは彼らが“定義”を怠らなかった結果にすぎないと理解していた。


「明日も確認しよう。毎晩欠かさず」


澪は小さく頷いた。

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