第16話 曇り硝子の隣人
直哉が長野に戻ってきたのは、祟り神の社での出来事から一週間後だった。
村を離れたとき、社は確かに静まり返っていた。塩の皿も米の粒も安定し、村人たちが日常を取り戻したのを見届けてから列車に乗った。だが、落ち着いた心持ちは長く続かなかった。下宿へ戻る道すがら、胸の奥に薄いざらつきが残っているのを彼は自覚していた。
「人は“封じ直した”と言って安心する。でも、本当にそれで終わりなのか?」
自分の思考をノートに書き留めた瞬間、ページの隅に細い字が現れた。
――終わりではなく、形を変えて続く。
それが“彼辞”の答えだった。
澪は大学に戻り、研究室での調査報告をまとめている。直哉は下宿先の一室に荷物を置き、生活の再開を図った。だが隣家のことが気になった。木造二階建ての古い家。窓が大きく、昼間でもカーテンを閉め切っている。そのカーテンの奥に、夜になると微かな光が揺れる。蝋燭のような、電球のような、判断できない灯り。
「誰が住んでるんだろう」
大家に訊ねると、「あそこはもう誰も住んでいないはずだよ」と首を振られた。数年前から無人で、管理もされていないという。だが確かに灯りは毎晩のように揺れている。
夜、直哉は布団に入りながら壁に耳を澄ませた。
物音はしない。ただ、壁越しに微かな反響があった。人の声ではない。木材やガラスが共鳴するような低い震え。翌朝、彼は意を決して隣家の外観を調べた。
玄関は固く閉ざされ、鍵穴には埃が詰まっている。だが窓ガラスは不自然なほど磨かれていた。表面は曇り一つなく、鏡のように周囲を映している。
「鏡みたいだ……」
直哉が呟いたとき、ガラスに映った自分の顔がふいにずれた。頬の線が少し遅れて動いたのだ。彼は慌てて後ろを振り返ったが、誰もいない。再びガラスを見つめると、今度は普通に映っている。
その瞬間、ノートの余白に文字が浮かんだ。
――鏡は、映すのではなく、試す。
その日の夕方、澪が下宿に顔を出した。彼女は大学のレポートを抱えたまま、壁際に視線を向けた。
「直哉、隣の家……見た?」
「見た。鏡みたいな窓があって、自分の映りが遅れた」
澪は表情を曇らせた。「やっぱり。研究室の資料に載ってた。“鏡の家”って呼ばれてる。古い記録によると、住人はみな次第に鏡に吸い寄せられていって、最後には姿を消す」
「姿を消す?」
「正確には“別の像と入れ替わる”。表には出てこなくなるのに、窓の奥には生きているみたいに映っている。それが何を意味するのか、誰も説明できていない」
直哉はノートに書き込む。〈映像と実体の乖離/像と入れ替わる=消失〉。
澪は続けた。「今のところ、この現象は“観測者”が重要らしい。鏡に映る像がずれるのを“気づいた人”が危険にさらされる。逆に、気づかずに過ぎた人は何も影響を受けない」
「じゃあ、僕はもう……」
「危うい位置にいる。でも、記録することが防御にもなる。社のときもそうだったでしょ」
直哉は鉛筆を強く握った。
翌晩、二人は隣家の前に立った。月明かりに照らされた窓ガラスは白く輝き、やはり鏡のように二人を映している。
「動きがずれるか、確認する」澪が言った。
直哉が手を上げる。ガラスの中の像も手を上げた。だが、像は一拍遅れて動いた。
「やっぱり……」
澪が記録をとろうとした瞬間、窓の内側にもう一つの像が現れた。澪と同じ姿形の女。だが表情は一切なく、顔の輪郭が曇り硝子のようにぼやけている。
「直哉、下がって!」
澪の叫びに、彼は後退した。だがガラスの中の“もう一人の澪”は動かず、ただ無表情に立ち尽くしている。
「これが“入れ替わり”の前兆だよ。像が増えると、どちらかが吸い込まれる」
「どう防げばいい?」
澪は深呼吸をして答えた。「像の動きを“こちらが決める”こと。社で跡を自分で決めたのと同じ理屈。ガラスに映るのは受動的に見えるけど、意識を先に置けば、鏡は従う」
直哉はノートを開き、余白に大きく書いた。〈像=跡/先に定義した者に帰属〉。
その瞬間、ノートに彼辞の文字が現れた。
――鏡は従う。定義を持たない者に。
「つまり、受け身で見てしまえば、鏡の側が勝つ」澪が解説する。
直哉は手首の跡に指を置き、深く息を吸った。鏡に映る自分を見つめ、「これは僕だ」と心の中で強く念じた。するとガラスの像の遅れが消え、完全に一致した。
澪も同じように心で定義した。ガラスの中の“もう一人の澪”は揺らめき、やがて消えた。
「……消えた?」
「違う。まだ奥にいる。けど、今は“帰属”をこちらに譲っただけ。完全に消したわけじゃない」
澪はそう言い、冷や汗を拭った。
部屋に戻ると、直哉はノートに今日の出来事をまとめた。
〈現象:鏡が像を遅らせる。像が増えると入れ替わりが起こる。
本質:鏡は能動的に奪うのではなく、“定義を欠いた観測者”を取り込む。
対策:自らの像を“自分のもの”と先に定義することで防御可能〉
澪は記録を覗き込み、補足した。「つまり、“祟り神の社”と同じく、ここでも“空白”が怪異の原因。名や跡が奪われたのと同じ構造で、今度は“像”が奪われる」
彼辞がまた文字を残した。
――見届けることは、欠けたものを定義すること。定義できぬ者が、消える。
直哉は鉛筆を置き、窓の外を見た。隣家の窓はただ月光を反射するだけだった。だが、奥底にもう一人の澪が潜んでいることを、彼は理解していた。
「これは、まだ始まりにすぎない。僕らが気づいた以上、あの鏡は必ず次の形で迫ってくる」
澪は静かに頷き、言葉を継いだ。「でも、今回は理屈が分かった。奪われるのは“定義のない部分”。ならば一つずつ、自分の像を定めていけばいい」
二人の視線が交わる。ノートの上には、白紙の余白が広がっていた。そこに次の戦いの舞台が映り込んでいるように感じられた。
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