春の頃の恋は、まだ


──ep.1 私には──



「そっか。元気なんだ。うん…うん…わかった。ありがとう深白みしろゆうさんにもよろしくね」



 私は電話を切ると、スマホを椅子の上の鞄にしまい込み、テーブルの上の紙コップに手を伸ばした。

 こぶ茶を一杯、身体にグッと流し込む。冷たいそれが身体に染みわたり、今どのあたりを流れているのかが容易に分かると、自然と気持ちも切り替わるようだった。ふっ、と短い息をひとつついて深く息を吸い込み、心をごまかす。そしてそれを元あった場所に戻すと、私は楽屋を後にした。


 紙コップの淵には、真っ赤に擦れたそれが滲みだしていた。


 ──科木しなきさん入りまーす!

 昼でも夜でも関係なく業界で飛び交う馴染みの挨拶を両脇に受けながら、ひとりひとりとはいかないものの、私もそれに応えるように軽く会釈を並べる。そして白ホリゾントホリの前に立つと、よしっ、とちいさく拳を握って勢いよく振り向いた。

「お願いします」

 シャッター音に合わせて、踊るように次々とポーズを変えて。眩しいフラッシュの光にも、もうずいぶんと慣れたものだった。

 途中、カットがかかるとカメラマンの横からポーチをいくつもぶら下げた女性が私めがけてズカズカと足を鳴らした。

「春さん、またですよー」

「あっ…ごめんね?」

「もう、そんな風にかわいい顔されたら誰もなにもいえませんよ」

「えー、だめ?」

「だめです」

 彼女は犬にお手をするように手のひらを私の前に出すと、それを外せと催促してきた。私は渋々それに従い、右耳によく馴染んだピアスを壊れないようにそっと外して手渡す。

「子どもじゃないんですから…」

「ふふっ、大事に持ってて」

「はいはい、耳にタコができるくらい聞いてますソレ。撮影中はだめですよ、さっきの分使えないじゃないですか」


 ──すみませーん!大丈夫でーす!


 そう右手をあげて彼女が離れていくと、私は再び眩い光の中に包まれた──。


「はい、どーぞっ」

「ありがとう」

 撮影が終わると、すぐにチーフマネージャーの夕季ゆうきちゃんが先ほど預けたそれを返しにきてくれた。

「そんな顔しちゃって…大事なものなんですか?それ」

「うん、とっても」

 やっと私のもとに戻ってきたそれを右耳のちいさな穴にそっと通して、そこにあるのを確かめるようにその形を指でなぞる。

「でも旦那さんからじゃないんでしょ?」

「──うん。」

「はぁ…来週の結婚式、だめですよ?それで出たら」

「だめかな?」

「冬さんがでーっかい綺麗なの用意してるんですから」

「…そっか。」


 あと何回、私はこれを外さなければいけないのだろう。

 あと何回、これを外せば。


 私は大人になれるのだろう。

 

「これから式の打ち合わせですからね、着替えたらすぐ出ますよー」

「はーい」

 どんなに衣装の数が増えても、どんなに表紙を飾っても。たとえ、結婚式を来週に控えていても。

 心はいつまでもあのころに置いて行かれたまま。


 




 私には、忘れらない人がいる──。





──ep.2 焦りぎみに走らせた恋──


 

 私がまだたった16歳のころ。それは今から、だいたい十二年ほど前。

 桜の花びらがその役目を終えて、ちりぢりに地面をピンク色に染めるはじまりの季節。

 私はあなたのその声をはじめて耳にした。


 ──つづり……ころ…けい?さん

 ──あ、それで"きょう"っす。頃で、きょう。


 先生にそう言った姿が眩しく見えて、私はあなたに興味が湧いた。


 このころの私は、心に重たい鉛を抱えて息苦しい日々を過ごしていた。桜の花が散るのに、どうして四月ははじまりの季節なんだろう。どうして、春の花は桜といわれるのだろう。入学式でその花を見ても、そんなねじまがった考えしかできないほどに。

 

 初等部からエスカレーター式の馴染みの学び舎で、三度目の入学式。胸元には母からもらった桜のブローチ。私の名にふさわしいそれを見てもなにも思うことはなく、高校生になるといっても新鮮な気持ちは持てなかった。

 高等部からは外部生も合流することになるとはいえ、もともと内部生ともそれなりの関係性しか築いていなかった私にはそんなことはどうでもいいこと。どちらであろうと、たいして変わりはしない。

 裕福な家庭が多いその学び舎。女子校と呼ばれる箱のなかでは家柄が友人のそれを作りあげているようなもので。どうせ、私に寄ってくる人たちも内情はそんなところ。それでもはみ出すことはないように私なりにその輪の中で仲良くやってはきたけれど、それも初等部でおしまい。

 


 ある日、私は知ってしまった。

 自分が、自分ではないことを。



 初等部の最終学年が終わるころ、私は図書室でよく本を読んでいた。

 昔から本が好きだった。人と過ごす時間が嫌いなわけではないけれど、ひとりの時間の方がずっと楽で。本を読んでいればそれを邪魔する人は少ない。無理やり割り込んで声をかけてくるような人はいないから──そんなきっかけで読み始めた小説たちも、ずいぶんとその数を増やしていた。

 私はお気に入りの小説だけを部屋の本棚に構えておこうと、それに該当しないものを地下の物置に仕舞うことにして段ボールへと詰め込んだ。自分が思っていたよりも、引っ越すことになった本は多かった。

 

 普段あまり入ることのない家の物置部屋。埃っぽいその空間は想像よりも眠っているものが多く、空いている棚を探すのに少し時間がかかった。

 窓際の古い棚の上段に、ちょうど手元のそれが入りそうなスペースを見つける。いっぱい入ってて重たいから──と、そんな理由で下段に隠れていた段ボールを手元のそれと入れ替えた。ずいぶん軽いけどなにが入っているんだろう?そう思ったけれどわざわざ開けることはせず、軽いそれを持ち上げて空いている上段へと押し込んだ。


 そのとき、重みのないそれが傾いて、私の手から逃げるように床へと落ちていった。年季の入った段ボールから古びた書類が四方八方へ飛び出す。片づけるのめんどくさいな…とそんなふうに思いながら、私はそれをひとつひとつ拾い上げた。きっと母の仕事の書類だろう──日本語ではない文字がずらりと並んだそれを流し見しながら、その中にひとつ厚めの封筒があることに気づいた。


 ──なんだろうこれ。


 興味本位で封のされていないそれの中身を、私は覗いてしまった。


 何枚かの写真と、色褪せた紙──先頭にあったそれは出生届の控えだった。


 "科木 春"──と、私の名前。写真の中には、ベッドの上の赤ちゃん。

 私が生まれたころの書類たちなのだろう。こんな写真あったんだ、とそれをじっくり目に通す。家のベットみたいだけど、何歳のころだろう?まだ歳も重ねてないときかな?──と、日付の印字を探して写真を裏に返したとき、私は言葉を失った。


 そこに記載された四桁の西暦が、私の生まれ年よりも、五年も前だったから。


 印字ミス?と何枚かある写真を裏返してみても、その西暦はすべて私の生まれ年よりも若かった。日付は全部、違うのに。


 この写真は私じゃないのだろうか。いや、でも私の出生届と一緒に入っていたし…そう思ってもう一度"科木 春"と書かれたその紙を確認すると、私は言葉と一緒に瞬きすら失うことになってしまった。


 生まれ年も、その月も日付さえも。

 私の生年月日と違っていたから。


 なにひとつ一致していないのに、そこには確かに私の名前。どういうこと…?──そう思ったとき、その紙が不自然に厚みを帯びていることに気が付いた。


 ──これ、二枚ある…。


 長年仕舞ってあったのか、すっかり一枚になってしまいそうなそれを親指でずらすように擦ると、なんとか一緒になっていたものに分かれ目ができる。戻ってしまわないよう、私はすぐに爪の端でぺりぺりとめくりあげた。


 そして目を疑う。


 死亡届の、その文字に。

 そこに載る、私の名前に。


 私が亡くなっている。

 私が生まれる、その前に。


 いいや違う。これは私のものじゃない。だって私は言葉も瞬きも、思考すら止まってしまっても。こうして心臓がどくどくと動いているのだから。額に汗が、流れているのだから。


「……お姉、ちゃん……?」


 私と同じ"科木 春"。

 私と同じ"女"の表記。


 私はそのとき初めて、自分に姉がいることを知った。

 そして初めて目にした姉はもう、この世にはいなかった。

 

 私のものだと思っていた名前は、そのどれもが私のものではなかった。母が姉に授けた"春"という名前──桜の開花する三月生まれにはよく似合う。一ヶ月出遅れている私なんかより、ずっと。

 その名前が自分につけられたものではないとわかったとき、私はまるでこの世に存在していないのだと、そう言われている気分だった。


 これが姉のものならば私は一体だれなのだろう、本当の名はどこにあるのだろう──そう考えるたび、眩暈がした。


 幼いころ、母がくれた桜のブローチ。お気に入りだったそれも姉の存在を知ってからはガラクタになってしまった。目にするたび、お前は姉の代わりなんだと、そう私に囁いているようで。使わなければいけないとき以外、引き出しの奥に仕舞っておくようになった。


 母のことは好きだった。けれどそれを知ってから、私は母の目をまっすぐ見ることができなくなった。

 どうしてお姉ちゃんのこと黙ってたの?なんで私に自分の名前をくれなかったの?──そう思っていても、言葉にすることは叶わなかった。ただ、短い人生で終わってしまった姉の代わりに私は生きなければいけないのだと、幼心にそう思うようになった。

 母の大きな会社。それを継ぐことは小さいころから決まっていたこと。母の母も、そのまた母も。同じ業界でいろんな角度から視線を受けて、幼い私がその姿に憧れを抱くのは自然なことだった。私も母のように──と、自ら望んでそれを目指すようになったのはいつからだったか。

 だけどそれも、きっと本当は姉の役割。それがわかってから私は自分の中のなにかが切れたように、すべてがどうでもよくなってしまった。ただ姉の代わりに母の望むことをしてさえいればいいとそんなふうに考えて──誰もそんなこと、言ってはいないのに。


 それから母に甘えるのをやめた。わがままな性格もすぐ泣いてしまうところも、私の全部を隠すようにして。

 次第にそれが当たり前になって、母以外の前でも自分を出すことをやめていた。姉という仮面を被り、友人だった人をただのクラスメイトだと思うようになった。

 でも、それでよかった。母もまわりもそんな私を否定することはなかったし、なにより学校ではそうしていた方がみんなは喜んでいた。読書に逃げていた私が誰とでも笑顔で接するようになったのだから、そう思うのは当たり前なのかもしれない。

 姉がもし生きていたら、こういう人だったんじゃないか。そう考えながら日々、私は姉を演じ続けた──芝居の仕事が増えてきたのは、このころのおかげかもしれない。


 そんなふうに何もかもがどうでもよくなっていたころだった。

 

 あなたが私の前に現れたのは。


「あ、それで"きょう"っす。頃で、きょう」

「あらぁ~間違えてごめんねぇ。"綴理 頃"さんね!」


 いつもと同じ形式の入学式、飽きるほど聞いた校歌。これから始まるそれにうんざりしながら迎えたホームルームで、教室には見たことのある顔がチラホラ。また次の桜が散るまで適当に笑顔を作っていればいい──そう思っていたとき、あなたの声が耳を突っついた。


 "綴理つづり きょう"──先生が呼んだのは、あなたのその名前。

 

 中等部でお世話になったマイペースな先生は、きっと事前に確認していなかったのだろう。読みを間違えられたあなたは気だるげに声をあげてそれを正した。まるで"私は私です"と、みんなの前でそう言っているようで──。


 平然とそれを言ってのけるあなたの声に、心が傾いた。


 この学校で見たこともない明るい髪の色。解けた第二ボタンにゆるゆるのネクタイ、短いスカート。耳元で光る、たくさんのピアス。外部生といっても、そんな見た目であの学校に入ってくる人はあなただけだった。教室でただひとり机に突っ伏したその姿は、今思い出してもやんちゃで愛らしい。

「ねえ、これで"きょう"って読むの?」

「…あー、そう」

 普段は自分から人に興味なんて持たないのに、私はホームルームが終わるとそのやる気のない背中に声をかけていた。

「いい名前だなって」

「……どーも」

 なにを言ってもまるで興味を示さない表情に続かない会話、私を不審そうに睨むその目──あなたの全部が新鮮だった。こんなに名前の話をしているのに、私のそれを聞いてはこない。この人は私を、家柄やその名前で判断しないかもしれないと、そう思った。


 この人に本当の私を見せたらどう思うだろう。

 私を私として、見てくれるだろうか。


 そんな身勝手な思いが、あなたとの始まりだった。


 入学式が終わると、私はまたあなたに駆け寄って。

「ねえ、きょうちゃん一緒に帰ってもいい?」

「…なんで?てかきょうちゃん?」

 そのとき、初めて名前を呼んだ。大好きなあなたのその名前。

「きょうちゃん何通学なにつう?」

「え、話し聞いてる?」

「だめ?」

「…いや別に…」

 いつぶりだっただろう。人にわがままを言ったのは。あなたは迷惑そうな顔をしていたけれど、断ることはしなかった。

 だからまた、甘えてみたくなった。

「私、電車なんだけど」

「あーごめん、チャリ」

「そっか、じゃあ送って?」

「…は?」

「だめ?」

「…あんた家、どこ?」

 そしてあなたに、知ってほしくなった。

「春」

「あ?」

科木しなき はる。私の名前」

「あー、そう。で、家どこなの」

 そう言ったあなたに、私は心の鉛が少し軽くなるような思いを抱いた。名前を教えても、そんなことどうでもいいと言わんばかりにその名を呼ぼうともしない。この人はきっと私を私として受け入れてくれる──気だるい声がそう思わせてくれた。

 

 あなたのその落ち着く声。初めて教室で耳にしたときからずっと、大好きだった。


 トントンと自転車の荷台を叩いたあなたに、ここに乗れとそう言われて驚いたけれど、狭そうなパーソナルスペースの扉をほんの少し開けてくれたような気がしてなんだか嬉しかった。スカートで跨るのは気が引けて、横乗りで腰を据えた私を見てあなたは笑った。

 人生で初めての二人乗り──今もあなたとしかしたことはないけれど。でこぼこな道に揺られたり、降り注ぐ桜の花びらによろけたり。あなたの腰につかまって、その背の体温を感じて。なんでもないようなことが私にとっては新鮮で、あの日のことを思い出すたび心は温められてしまう。


 夕日に照らされたたくさんのピアス。その一つ一つがきらきらと反射して、私は手を伸ばしてみたくなった。

「これ何個開いてるの?」

 風になびいたあなたの長い髪が、私の手をくすぐる。

「ちょっ、急になに…!」

「きょうちゃんのそれ、気になってたから」

 文句を言いながら耳を赤く染めたあなたを見て、私は知った。

「耳、よわいの?」

「っるさい、もう!」

 自分が本当は、少しいじわるなんだということを。

 こんなにやんちゃな見た目をしているのに照れて赤くなるところがかわいくて、私は緩む頬を抑えられそうになかった。

 仕返しのように自転車のスピードをあげたあなたにもうひとつ、明日も一緒に帰ろう?とわがままを言って、それにあなたが不満そうにため息をついて。いつのまにか最寄り駅が顔を出したころ、初めて二人で見た夕日は暮れていった。


 思わず目を眇めるような西日も、嫌いな桜の花も。なんだかその瞬間のすべてが貴く思えて、私はその夜、なかなか寝付くことができなかった。



 きっともう、恋に落ちていた──。



 まわりに流されない性格も、尖った見た目も。自転車がよろめいたときに怖い?と聞いた優しいその声も。

 あなたの全部が、私の心をくすぐったから。



 それから私は毎日のようにあなたのまわりをうろついた。授業中も休み時間も、ずっと寝ているあなたにちょっかいを出しては迷惑そうな顔をされて。それでも私を突っぱねないあなたの後ろに毎日腰をおろして。


 もっと近づきたくて一緒にお昼ご飯を食べてほしいと頼んだり、屋上で煙草を吸っているあなたの後ろ姿を写真に残したり。もっとあなたに触れてみたい、なにかいい手はないかな?と、その煙草をあなたから取り上げたり──それにそっと口づけを落としてみたり。


「…え、っちょ、はるっ──!」


 驚いたあなたが私の名前を初めて呼んだ日、心にやさしい風が吹いた。

 嫌だった名前もその声に呼ばれるのは心地がよくて、私はすっかりあなたに夢中だった。


「…え、なに?意味わかんないってまじ」


 名前を呼んでほしかっただけと、そう返したけれど。

 本当はただ、あなたに意識してほしかっただけ。

 

 自分はそれを嗜むのに私がそうしていたら嫌なんだとか、そんな些細なことが嬉しかった。




 あなたに好きという感情を抱いたのは、桜の季節が終わってまださわやかな風が吹き抜ける夏の入口。

 休日は寝ているだけというあなたを無理やりひっぱり出して取りつけた映画の予定。あなたとのはじめてのデート──そう思っているのはきっとまだ、私だけだったけれど。

 なにを着ていくか一晩中悩んだ。大きなクローゼットには母がくれた数え切れないほどの洋服。この中のどれを着ていけば、私をかわいいと思ってくれるだろう──と。

 まずは薄い花柄の白いワンピースを手に取って鏡で合わせた。少し短い?こっちの方がいいかな?そんなふうに何枚も何枚も繰り返しているうちに、いつのまにかベッドはそれで埋め尽くされていた。


 そのとき私は気がついた。

 お母さんがくれた服、白ばっかりだ──と。


 たしかに私の肌には薄い色味が合う。だからすっかり慣れ親しんでいたけれど、自分で選んだ服って何色だったかな…そう思いウォークインの奥の方を探すと、少しレースのついた黒いワンピースがそこにぽつりと隠れていた。


 そういえば、お店で気になって買ってから一回も着てないな…と、きれいなままのそれを見て胸の奥がぎゅっとなった。


 母のセンスに間違いはない。だけど私は、私の選んだ服を着て、あの人にかわいいと思ってほしい──だから一面に広げていた白いそれを全部仕舞って、私はあの日黒いワンピースであなたのもとに向った。


「あ、きょうちゃん」

「ごめ、ちょっと寝坊した…」

 少し遅刻してきたあなた。かかとをずって歩くその足音で、すぐに誰かはわかった。持っていたタオルで額の汗を拭ってあげると、もういいよ…と少し赤くなった顔がいじらしかった。

 初めて見るあなたの私服。薄いグレーのパーカーに、ダボっとくすんだジーンズ。よく似合っているそれは、同じように着崩していてもいつもの制服とはやっぱり違って。


 その姿に、心がちいさく音を立てた。


 学校じゃない場所で二人きり。そう意識すると緊張でつい口が走った。それでもあなたは退屈そうな顔ひとつ見せずに、映画館に着くまでずっと私の話に耳を傾けてくれた。

「きょうちゃんどこの席がいい?」

「どこでもいいよ、春が観たいとこで」

 本当はどこがいいんだろう──と、どきどきしながら選んだ一番後ろの通路側の席。

「お」

「だめ?」

「んーん、さいこう」

 そう笑ったあなたにまたどきっとして。私はごまかすようにお手洗いへ逃げ込んだ。


 こうして二人で他愛もないことを話しながら過ごす時間は楽しい。あなたもきっとそれは同じだったようで、出会ったころよりもよく笑ってくれるようになっていた。

 それなのに、この日の私には不満があって。苦手な朝、いつもより早く起きて巻いた髪。時間をかけたメイクに自分で選んだ黒いワンピース。そのどれかひとつくらい、褒めてくれてもいいのにと。そんなふうに少し拗ねていた。


 だけど、広告を眺めていた私の後ろ姿をあなたが勝手に撮ったから、その機嫌もすぐに元に戻されてしまった。

「撮ったの?」

「あー…」

「それどうするの?」

「いや…どうもしないけど…」

 言葉に詰まりながら目をそらして首のあたりを掻くあなたを見て、もしかしたら──そう思った。

 そして、確かめたくなった。

「盗撮するほどかわいいって思ってくれたんだ?」

「ばっ、ちがくて!」

 まわりにいた人たちがびっくりするくらいのその声。泳いだ視線に、赤くなった耳。それがどうしてなのかを知りたくて、もう一押し。

「かわいくなかった?」

 上目がちに顔をのぞき込んでみる。

「……似合ってるけど…」

 そう言ってくれたことが、そう思ってくれたことが嬉しくて、私には緩む頬を抑えることはできなかった。

 おもしろくなさそうな顔をして入場口に逃げるあなた。それを小走りで追いかけて、捕まえて。

「きょうちゃんってワンピースが好みなんだ?」

「…春、だまって」

 またその頬を染めさせて。


 言葉にするのは苦手なのに、聞けば否定せずに表情や態度で教えてくれるあなたが。

 黒いワンピースを似合っていると、不器用にそう言ってくれたあなたが。


 私の心を、こんな簡単に揺らしてしまうあなたが好きだと思った。


 自分で選んだ自分の色。それを認めてもらえたような気がして、背負っていたものがまた軽くなって。

 あなたに隣にいてほしいと、そう思ってしまった。


 映画の内容はあまり──いいや、まったく覚えていない。

 だって、暗闇でずっと、あなたが私を見つめていたから。


 その瞳からあなたの気持ちが伝わってくるようで、心地がよくてそれを止めることはしなかったから、あなたはきっと今でも気づかれていなかったと思っているだろうけれど。


 ──きょうちゃん見つめすぎ…ポップコーン、さっきから膝に落としてばっかりだし…。


 そう思っていたことは、ずっと内緒。





    *********





 高校生の一ヶ月は、大人のそれよりもスピードが速い。朝日が昇って夕日が落ちて、月が鳴いて太陽が笑う。そうしているうちにすっかり夏も本番になったころ。流れ落ちる汗にも負けない速度で、私とあなたは恋人になる。


 初めてのデートから、あなたが私を意識しているのは一目瞭然だった。

 授業中でも休み時間でも、お昼ご飯も帰り道も。いつも私を追いかけるあなたの子犬のような瞳が愛らしかった。


 夏休みを迎える少し前、授業態度も悪くテストをすべて白紙で出したあなたは先生を困らせていた。進級したいなら休みの間の補習には顔を出しなさいと、そう言った先生の言葉に首を縦に振らず面談を長引かせて──。

 一緒に帰ろうと待っていた私は痺れを切らし、補習のなにが嫌なのかと問い詰めると、眉を情けなく下げたその表情で理由はすぐにわかってしまった。

「私の家でやろっか、補習」

「……はい?」

「先生、それならどうですか?毎日レポート書かせますし、課題も他より多く出していいです」

 そう提案したのは、寂し気な視線が訴えていたから。他意はなかった──たぶん、きっと。


 先生は苦渋の表情を浮かべながらも、科木さんなら…とそれを呑み、私は満足げな顔であなたを連れて教室を後にした。

「よかったね、補習なくなって」

「いや、なんなら倍なんすけど…」

 夏休みの大半を私の家で過ごすことになり、帰り道中ずっとあなたはばつの悪そうな顔をしていたけれど、本当はそう思っていないこともこのときの私にはもうお見通し。

「いいじゃん、私にも会えるし」

「は?」

「だってきょうちゃん、それがいやだったんじゃないの?」

「……ちが、」

「そう?」

「……てか春んち知らないし」

 ──やっぱりきょうちゃん、それがいやだったんだ。

 素直になれない不器用さにも、ずいぶんと慣れたものだった。

「だから、今日は家まで送って?」

「あ?」

「だめ?」

 私がそうやって顔を覗くと。

「……駅からどっち」

 きまって少し黙り込んだあと、あなたは絶対に断らない。

「ふふ、あっち」

「春の定期代、半分私にちょうだいよ」

「そしたらきょうちゃん、ずっと家まで送ってくれる?」

「…考えとく」


 いつまでずっと、あなたと一緒にいられるだろう。


 私は生あたたかい夏の向かい風に、その気持ちをそっと流した──。




 言いつけをしっかり守ったあなたは毎日私の家のインターホンを鳴らした。

 ぬいぐるみや雑貨の多い私の部屋が、あなたにはあまり似合わなくてなんだかおかしかったけれど、二人で過ごす時間はやっぱり楽しくて、はじめて気づくことも多かった。普段はおろしているのに勉強するときは髪まとめるんだ、とか。意外と集中力あるんだな、とか。


 横顔、きれいだな…とか。


 一番意外だったのは、実は勉強が苦手ではないということ。やり方はわかっていなくても、少し公式を教えればものの数分で難しい課題をすらすらと解いてしまう。学校ではその見た目のせいでコネだとかなんだとか、本当は受験も受けていないというような噂を囁かれていたけれど、この人ちゃんと実力で入ってきたんだな──と。私はまた、そんなあなたを好きになっていった。

 やればできるのにどうしてやらないのかと聞いた私に"目的ないし"と答えたあなたを見て思った。この人はきっかけをくれる人がきっとそばにいなかっただけ。だったらどんな理由でもいい。私がそのきっかけになりたい、と。

「じゃあ私がきょうちゃんに勉強する目的あげよっか」

「は?」

「卒業式も送って?きょうちゃん」

「………一人でチャリ漕げないから?」

 頬から力が抜けてニマニマと。嬉しそうな顔をしているくせに、そんなふうに茶化してしまうあなたは本当に不器用で、それを感じるたびに私の胸は温度をあげてしまう。でも、私が自転車に乗れないことをいじった罪は大きく、そのあと私はいつもの倍、あなたをからかって楽しんでいた。


 そんなこんな戯れているうちに、カーテンを通り抜けて差していた日差しもすっかり落ち着き、夕日へとその姿を変えようとしていた。

 一緒に夏休みの宿題に手をつけていたのに、あなたよりも先に集中力が切れてしまった私は、真面目に課題に手をつけるその横顔をばれないようにこっそりと見ていた。真剣な眼差しをずっと眺めていたかったから、映画中のあなたみたいに視線が熱を持たないように必死だった。

 整えた眉に、少し切れ長だけど子犬のように愛らしい目。スッと通った鼻筋と、ちょっとだけ口角の下がった小さな口元。やっぱりきょうちゃんの顔好きだなぁ…そう思って、胸の奥がじんわりとした。

「ねえ」

「わっ、なに…」

 ちょっとだけ触れたくなって。顔を近づけて。

「それ、痛い?」

「痛くないけど」

 あの日のようにピアスを口実にして、あなたの耳に手を伸ばした。

「ちょ、だから、急に触るのなし!」

 そう言って持っていたシャーペンを手からすっ飛ばしたあなたがおもしろくて。私はもっと、その顔が見たいと思ってしまった。

「じゃあ触ってもいい?」

「……まあ、どうぞ」

 聞かれたら、あなたが断れないのを分かっているから。優しいあなたに少し甘えすぎているような気もしたけれど、頬を赤く染めているところを見ると、まんざらでもないのかなと口元は緩んでしまう。


 ゆっくり手を伸ばして、私の指がその耳に触れる。耳たぶが柔らかくて、あたたかい。最初は人差し指でつんつんと。その動きに合わせて形を変えるそれが気持ちよくて、ごろごろとしているピアスをよそに私はずっとその感触を楽しんでいた──口実に使ったこともすっかり忘れて。

 少し厚みのあるそれをたしかめたくて、親指を使って摘まむようにしてみると、あなたの身体がびくっと揺れた。目をぎゅっと瞑ってなにかを耐えるその顔と、指先からの感触に私は少しおかしくなってしまいそうだった。

 軟骨のあたりはどんな感触がするんだろう。耳たぶよりはもちろん硬そうだけれど、端っこの方は薄くて気持ちがよさそう──そう思った私は、気づけば耳輪の淵に人差し指の腹をツーッと滑らせていた。

 その感触が触覚に届く前に反応したのは、私の聴覚だった。

「は、はる…そろそろ…あっ──」

 あなたからこぼれたその甘い声が私の耳をくすぐって、次に反応したのは痛覚。ミツバチに刺されたみたいに胸の奥がチクチクと。

「きょうちゃん、耳まっか」

 目の前の耳がみるみるうちに色づいていく。顔や、その首までも。


 蒸気があがりそうなほど赤くなったあなたを見てわかった。

 あなたに触れてみたいのも、照れさせたいのも。私によってそうなってしまうあなたが愛しいからなのだと。


「春が触るからでしょ…もうおしまい」


 追い打ちをかけるようにそんなことを言うから。きっとそういう意味で言ったわけじゃないのに、私じゃなかったらそうならないの?と心はどんどん満たされてしまう。


 ──相手が私だから、きょうちゃんはあんな声をこぼしたの?

 そう考えれば考えるほど、どくどくとうるさく鳴く心臓が全身に血液を送り込んで、頭が熱で浮かされていく。


 もっと、あなたをそうしてみたい。もっとあなたに触れたい──。


「ねえきょうちゃん」

「なに」

「今日泊まっていく?」


 うまく働かない頭はあなたに向ってそう言葉を投げていた。

 驚いて丸くなったその瞳。それは一ミリも嫌だとは言っていなくて、それだけで声が出てしまいそうなほど嬉しかった。


「……や、バイトあるし」

 不器用でヘタレなあなたの精一杯の言い訳。言葉では断られているのに、そうは言っていない表情とその眼差しがたまらなくしおらしかった。


 だからこの日も、もう一押し。


「じゃあ、明日は?」

「……明日なら、まあ」

 ほら、もう逃げない。

「じゃあ今日は許してあげようかな」

「なにを」

「なんでもないっ」

 上機嫌な私とは対照的に、あなたはもともと下がりぎみな口元を余計にへの字に曲げて。でもそれも、私に向けてのものではないと気づけたのは、あなたが夕方私の家を出るまで問題を一問も解けていなかったから。

 ──自分の心と戦ってるのかな。

 必死に解くふりをするその姿に、私は目をやわらげた。


 あなたが帰ったその夜、明日はもう少し近づけるかな?と、私はまた寝付くことができず、どうしたらあなたから"好き"を引き出せるのかと頭を悩ませていた。

 もう少し寄り添ってあげた方がいいのかな、とか。なにかそう思わせる要素があればいいのかな、とか。未熟な私はそんなことばかり。

「うーん……八十五番歌って感じ…」

 お昼に解いた古典の問題集を頭に浮かべるうちに、いつのまにか私は夢の中に落ちていた。


 今思えば、なんて身勝手な恋だったのだろう。

 あなたに甘えてあなたを求めて。あなたにも同じだけ、私を求めてほしいなんて──。




 翌日のあなたの頭。それは私が想像した以上にお留守状態。

「その問題、むずかしい?」

「あ、いや…」

 前の日には簡単に解けていた問題にも手を止めて、ぼーっとして。解いている演技をすることすらも忘れ、私の様子をちらちらと覗う落ち着きのない視線。うすく茶色をおびた瞳は、抑え気味に私と課題のプリントをいったりきたり。

 からかったら拗ねちゃうかな…もう少し気づかないふりしてあげよう──そんなふうにあなたの視線をごまかしているうちに、また日は静かに暮れてしまった。



「──おいしい!」

「でしょ」

 あなたが得意げに眉を動かす。夕食に食べたのは、人生で初めてのカップ麺。"まじで食べたことないの?お嬢様?"というあなたに、どちらかというとお姫様?と冗談を返した。

 母も代々、そう、、育てられてきたから、私ももちろん例外ではなくて。身体によくないこともあるし、体系維持をするうえでも肌の調子を保つうえでも、好ましい食品ではない。

 おかしにジュースにカップ麺。あなたに出会うまで、そのどれもあまり口にしたことはなかった。別に強制されていたわけではないけれど、できればとそんなところで。母も食べていないし家でも出てこないのだから、必然的に口にする機会はなかった。禁止と言われれば食べたいと思う欲も出ていたかもしれないけれど、食べたければどうぞくらいのスタンスだったからその欲がなかったのだと思う──学校の屋上でそれを啜っているあなたを見るまでは。

 それでもそのものを食べたいというよりは、あなたが美味しいと思うものを知りたい──そんなところだった。


 あなたが教えてくれたトマト味のカップ麺。今でもたまに、その味を思い出してしまう。


 もくもくと食べていると、またあなたの目が私を追いかけていることに気がついた。さすがに食べているときはちょっと恥ずかしい。だから、少しだけ。またあなたにいじわるをあげた。

 お箸を持つ反対の手でゆっくりと片耳に髪をかけると、あなたはそれを見ておもしろいくらいに静かになってしまった。だらしなく口をあけて瞬きも忘れて。

「きょうちゃん聞いてる?ねえ」

「え、あぁ…ごめ、なに?」

「明日お昼オムライス食べに行きたいなって」


 私はあなたに出会うまで、自分が恋愛に対してこんなにも積極的だとは知らなかった。でもきっと、相手が優しいあなただから。かわいいあなただから。私はそうなってしまったのだろう。


 もちろん、あなた以外の前での自分なんて、今も知らないままだけれど。


 夕食を終えると、私は一つ、前日に眠れない頭で考えた策を使ってみることにした。ワンピースが好きなきょうちゃんならきっと反応する──そう思って新しくおろしたパフスリーブのそれ。

 お風呂あがりに着替えて部屋に戻ると、あなたは予想どおり…いいや、それ以上に私の姿に釘づけになってくれた。私の本棚から適当に取って読んでいたみたいだけれど、その手が止まり、エアコンの風がパラパラとページを戻してしまう。そんなことにも気づけないあなたは私が話しかけるとまたその本に目を落として、何食わぬ顔をして。


 ──さっきとページ違うよ、きょうちゃん…。


 心の中で呟いて、単純すぎるあなたに胸を焦がした。


 かわいいと思ってくれたら、あなたからこの距離を縮めてくれるかな…そんな考えは甘かった。ただ髪を乾かす私の姿を、ふたつの瞳は本の合間からこっそり覗くだけ。


 ──もう、きょうちゃん…見えてる…。

 それが鏡で丸見えだとも知らずに。


 私はそのだらしない顔を見て頬を緩めると、ドライヤーを一度置いてまだ乾ききっていないあなたの髪に手を伸ばした。

「乾かしてないの?」

「伸びたからだるい」

「きょうちゃんせっかく髪きれいなのに」

「こうやってれば乾くっしょ」

 タオル片手に髪を雑に拭った姿。それにまた胸がきゅっとして。

「だめ、やったげる」

「い、いいよ…」

「いいからおとなしくして?」

 抵抗することを諦めたあなたからタオルを取り上げると、そのきれいな髪にドライヤーをあてた。弱めの風に気持ちよさそうに目を細めるあなたはさながら子どものよう。


 あなたにもっと意識してほしい、振り向いてほしいと思っていたけれど、この調子では私はあなたを追い越してその先で振り返ってしまいそうな勢いだった。


「──ッ」

「ごめん、痛かった?」

 大半が乾いてきたころ、まだ少し湿り気のある根本の部分を乾かそうと、わしゃわしゃとしていた手を頭の上の方に持っていったとき、指先が耳を掠めてしまった。

「いや、だい、じょうぶ…」

 今度はわざとじゃなかったのに。あなたが身を震わせてまた耳を真っ赤に染めたから、私の心にも同じ色が滲み出てしまったのは仕方のないことだった。

「赤くなってるけど…」

「…あ、あぁ、暑いから…」

 どうしよう。ちょっと、私、なんだか。

「じゃあ飲み物もってきてあげる」

 おかしいかもしれない──そう思って、すぐに部屋を出た。

 私の指が耳の先をほんの少し掠っただけ。それだけで、そんな些細なことで赤くなって、言葉に詰まって。しどろもどろに瞳を揺らしたあなたのせいで、鼓動がドライヤーの音をかき消してしまいそうだった。

 その音があなたの耳に届く前にと、私はなんともないような顔をして部屋をあとにした。あなたの前ではそうできても、ドアを閉めて一人になった途端それは顕著に表れて。尻もちをつくようにドアの前にへたり込むと、マラソンのあとみたいに浅い息を繰り返しては、あなたの瞳を思い出してまた胸が苦しくなって。

 

 あなたから好きを引き出したいのに、これじゃ私が──。


 私は頭の熱を放出するようにしばらくリビングの端で涼んだ。このままでは、口にしてはいけない言葉が飛び出てしまいそうだったから。

 一息ついてこぶ茶を飲むと、窓を開けて外の風にあたった。頼りない夏の夜風が一生懸命に身体から熱を取り上げ、十五分ほど経ってやっと身体は落ち着きを取り戻した。

 

 もう大丈夫。あなたを見ても、気持ちを先走りさせたりしない。

 それはあなたを、傷つけるだけだから──。


 そうやって私は言っておかなければいけないことを何一つあなたに告げないまま、恋に溺れて浮かされて。

 そうしていることが何よりもあなたを傷つける結果になってしまうと、そんなことにも気づけずに。


「おっそ。…これなにちゃ?」

「こぶちゃ」

「…なんで?」

「なんでとかある?」

 部屋に戻った私が当たり前のようにこぶ茶を差し出すと、普通麦茶とか緑茶でしょ、とあなたは笑った。そんなこと言われても我が家にはこぶ茶しかないし、それが私は好きなのだからなにも笑うことないのに…と私が怒って、あなたがそれをなだめて。そんなふう夜が更けていったころ、ふぁっとあなたはあくびをひとつ落とした。

「ねむい?」

「うーん、ちょっと…布団敷くのてつだう」

「布団?」

「え?」

「ないよ?」

「…床で寝ろって?」

 ハハッと軽く笑ったあなたを不思議に思って、私はすぐそこにあるベッドを指差した。

「あるじゃん」

「え、一緒にねんの?」

「だってダブルだし」

「……まじ?」

「きょうちゃん寝相わるいの?」

 いやそういうことじゃ…と、ばつの悪そうな顔をしたあなたに、こんな大きいのになんの文句があるのだろうと、私は言葉を続けた。

「床がよければ床でもいいよ?」

「………ベッドで寝ます…」

 そう言ってあなたは足取り重くベッドに身を沈めた。


 思い出すだけで恥ずかしい。このころの私は本当に子どもで、ただ"きょうちゃんと一緒に寝たい"と、そう思っていただけ──他意なんて、なかったのに。


 あなたがどうしてそこまで顔を引きつらせたのか。それを知るには、そう時間はかからなかった。



    *********



「ねえ」

「なに」

「いつまでそっち向いてるの?」

「…こっち向きが寝やすいから」

 ベッドに入って数十分が過ぎたころ、私は日課の読書にひと段落つけてしおりを挟むと、サイドランプの灯りを消した。奥側に転がったあなたは寝てもない癖に、そのあいだずっと反対側を向いたまま。そこになにもありはしないのに。


 つまらない──そう思った私は横向きに転がったあなたの左頬に手を伸ばして、それをぎゅっとつねりあげた。


 窓じゃなくて、私を見てほしかったから。

 あなたの顔が、見たくなったから。


「痛って!ちょ、はるっ」

 頬を擦りながら反射的に振り向いたあなたと目が合う。それが嬉しくて、私は子どものころのように笑みをこぼした。

「暴君かよ…」

「そういえばきょうちゃんのすっぴんって初めて見る」

 普段からメイクが濃いわけではないけれど、要所要所素材を生かすように施されたそれは"しっかりしているな"という感じだった。適当なのにそういうことはちゃんとしているところも、あなたの好きなところのひとつ──私服はパーカーばかりだったけれど。

 ──すっぴんだと本当に子犬みたい。

 そう思って、ヒリヒリする…と顔を歪めたあなたの頬に指先で触れた。

「…そんな変わんないっしょ」

「でもちょっと、幼くてかわいい」

 私がつねった部分。少し赤くなってしまったその箇所も、顔全体が同じ色に染まってはもうどこかはわからなくなった。

 あなたはまたそっぽを向いて、パーカーのフードに顔をうずめた。そんなことをしても丸見えなのに。

「ね、腕枕して」

「は?やだよ」

「いいから」 

 私は強引にその腕を引っ張ると、近寄って頭をすり寄せた。

「……重い」

 そうは言っても、それを引き抜こうとはしないのがあなた。

 夏でも長袖で寝るんだと、またあなたのことをひとつ知れたような気がして頬は勝手に緩みだす。パーカーの生地から、あなたの柔軟剤の匂い。少し強めに香るそれは、それでも匂い自体はやさしいもの。


 あなたみたいな匂いで、大好きだった。

 だから今も、忘れられない。 


 なんの柔軟剤使ってるの?と前に聞いたとき、そんなの知らない、そう言われると思っていたけれど、意外にもあなたはすらすらとその商品名を口にして。これが一番いいから、とか。他の種類もある、とか。聞いてもないのにいろいろ教えてくれたっけ。そういうの、やらなそうなのに。

 洗濯も料理も、家事はなんでも自分でやっているというあなたに、どうして?と聞いたことがある。親が使いものにならないからと、短い返事で返したあなたの家族のことは当時あまり知らなかった。お姉さんとお母さんのことをあなたは話そうとはしなかったし、私も無理に聞き出すことはなかったから。


 あなたのお姉さん。ゆうさんと私が今でも連絡を取るほどの仲になるなんて、当時の自分に言っても信じないだろう。



    *********



「ねえ」

「……」

「耳、触ってもいい?」

 あなたの腕の上でじっとしてその匂いに包まれていると、眠くなるどころかすっかり目が覚めてしまった。暗闇でおぼつかない瞳が、目の前にあるあなたの耳の形をおぼろげに映して、また触れたくなった。

「……」

 寝てないの、ばればれなのに。狸寝入りをしたあなたに、耳元でもう一押し。

「だめ?」

 こういえば、あなたが断れないのを知っているから。

「……好きにしたら」

 ほら、やっぱり。


 冷房の風に少し冷たくされた指先でその耳を撫でる。感じる部屋の温度は二人とも同じはずなのに、どうしてあなたはこんなに熱くなっているのか。それが知りたくて、私は手を止められなかった。

 淵をなぞって、丸く膨らんだ壁を軽くつまんで。そうしているうちにふと思った。中はどうなっているんだろう──と。

 欲に駆られた私は許可も取らずに、人差し指でその小さな耳の中に入り込んだ。狭くて、他よりもずっと熱い。形を確かめるようにくるくるすると、指が四方八方からその熱を吸い上げて境目がわからなくなる。だから、まだ冷たいままの中指も──。


「……は、るっ──」

 そうやって感触を楽しんでいると、あなたがふいに声をあげた。

 手が私のそれを止めるように軽く触れても、私は止まれなかった。


 熱のこもったその声が、心を撫であげたから。


 頭で思うよりも先に二つの指が動き回り、もうその全部が熱くなってしまったころ、その耳の持ち主は肩を揺らしながら浅い呼吸をひたすらに繰り返していた。私は生まれて初めて感じるなんとも言えない気持ちに戸惑って、指をそっと引き上げた。


 なんかこれって、ちょっと…。

 そう思ったときにはもうあとの祭り。


「きょう、ちゃん……?」


 呼吸を荒く乱したあなたが、私を組み敷いていた。


「春だけ、ずるい」


 余裕のないあなたの瞳が、すぐ目の前で揺れる。


「…かわいい」 

 あなたの口から漏れたその言葉が胸を突き刺して、私の時が止まる。でも、そんなことはないというように、暗い部屋には時計の針とあなたの呼吸、そして二人の鼓動だけが響き渡っていた。

「……ん…」

 私の耳にあなたの熱い手が触れる。滑る指に声にもならないなにかが私からこぼれ落ちて、やっと気がついた。


 どうしてあなたが、一緒に寝るのを拒んでいたのか。


 私がそうしたよりももっと深く、あなたが私の中に沈み込んで身体が勝手に震える。

 私の頭はもう、使いものにならなかった。


 どのくらい続いたのかも不確かなその時間。覚えているのは、あなたの指の熱さ。


「春…」


 私を呼ぶ声。


「……ちゅーしてもいい?」

 

 濡れた瞳。


「──だめ?」


 あなたの乱れた瞳が私を好きだと、そう言っていて。

 私を真似たその聞き方が、憎らしいのに愛くるしくて。



 答えるかわりに、私はそっと目を閉じた。

 


 桜の散る四月、あなたのその声に惹かれてからまだ三か月ほどの夏の夜。


 私はあなたの想いを、唇から受け取った。

 

 初めてのその感触を、私のそれが今も覚えている。熱くて甘くて、やわらかくて。繋がったそこから気持ちが途切れることなく注がれ、ずっとそうしていたいくらい心地のよい──あなたのこと以外なにも感じることができなくなってしまったその感触を。

 

 落ち着きのない鼓動が、短く切れる吐息が。あなたのものか私のものかもわからずに、ただ暗い夜に溶かされていった。


 言葉にしなければいけないことを、月と一緒に雲の合間に隠して。


 あなたがこの夜、私の部屋で呼んでいた本はたしか、ロメオと──。





    *********





 私の青いアルバムの中で、一番ヘタレているのはその翌日のあなただったように思う。まるでなにごともなかったかのような顔をして、すべて忘れたみたいに爽やかな態度を見せて。

 あなたからなにか言ってくれるのを待っていたけれど、オムライスを食べに連れて行ってくれた洋食屋さんで言われたのは、私が聞きたい言葉とはほど遠いものだった。

「あの…昨日、えーっと……」

「うん、私はおぼえてる」

「えーっと………忘れてもらえたり、する…?」


 今思い出しても、きょうちゃんの意気地なし!──そう言ってやりたくなる。

 私の目を見もせずに、できれば忘れてほしいとそう言ったあなたに腹が立って、ごめんと言われて傷ついて。


 ──きょうちゃんはそうじゃなかったかもしれないけど、私はファーストキスだったのに。


 そう思っても伝えることなんてできなくて。


 ──明日からおばあちゃんの家に帰省するから、しばらく会えないのに。


 あなたにそれを伝えても、そっかと、それだけで。

 またね──とバイトへ行くあなたの背中を見つめていた私の瞳は、きっと聞き分けの悪い子どもように潤んでいたことだろう。


「春ちゃん?もういいの?」

 家に帰った私はあからさまに落ち込んでいて、久しぶりに母が戻ってきているというのにその手料理にも箸が進まずぼーっとしていた。

「あぁ…うん、おばあちゃんのところ行く前だし」

「そう?…あんまり気にしなくてもいいんだからね?」

「うん、ありがとうお母さん」

 優しい母にそう嘘をついて早々に食事を終えると、部屋に閉じこもりひたすら読書に耽っていた。悲しいことがあったときに逃げる先は今も変わっていない。私じゃない誰かの世界に入り込んで現実逃避。いやなことを忘れるにはこれが一番だから。


 数時間読み入ったあと、網戸からの夜風に喉の渇きを感じた私は、紅茶でも淹れるかな…と残り数ページになった本にお気に入りのしおりを挟んだ。

 階段を降りてリビングのドアに手をかける。そのとき、外行きぎみの母の声が耳に入った。誰かと電話してる?──そう思いドアのすりガラスに顔を寄せると、そっと聞き耳を立てた。

『あ、春、急にごめん。ちょっと昨日のこと、話したくて…』

「ええっと、春ちゃんのお友だち?」

『あっ、えっ?』

 聞き馴染みのある声が耳に届いて私は急いでドアを開けると、母に駆け寄りその身体をインターホンから引き離した。

 友だち!──それだけ言うと、あなたがこれ以上下手なことを母に言わないよう、慌てて玄関へ駆け下りた。親戚でも間違える私と母の声。インターホン越しでは、あなたに聞き分けられるわけもないのだから。

「春あの、ごめん、私その──」

「きょうちゃん、ストップ!」

「あれ、春…?」

 急にドアを開けた私に、あなたはインターホンを指差しながら目をきょとんとさせた。

「はぁ、はぁ…きょうちゃん、なにしてるの…」

「え、だって、今」

「それ、お母さんだから……」

「……へ?」

『こんばんはっ』

「……あ、こんばんは…」

 声を弾ませた母に"ちょっと出てくる"と伝えて、私は近くの公園まであなたを引きずっていった。まるで言うことを聞かない犬のリードを引くように。


 公園のベンチにあなたと二人。誰もそこにはいないのに、あなたはなかなか口を開かなかった。けれど落ち着きのない戸惑いを帯びた瞳がなにを思っているのか私にはお見通し。

 でも、それでもやっぱり、あなたから言ってほしいから。

「で、きょうちゃんはなんで来たの?」

 私は少しだけ、その手を差し伸べることにした。

「……会いたくて」

「だれに?」

 一つずつ。

「…春に」

「それはどうして?」

 ゆっくりと。

「……それは…」

 順を追っても言葉に詰まってしまうあなたに、じゃあなんで急にきたのよ…と私は痺れを切らした。

「答えられないならいい、私明日早いから」

「春──!」

 ベンチを立つと、あなたが私の腕を掴んだ。でも私は振り向かず、そのまま足の動きを止めなかった。

「きょうちゃんと話すことない」

「私はある……昨日のこと、忘れられない」

「………忘れてって言ったくせに…」


 やっと少し素直になってくれたあなたに足を止めると、ちいさな風がひとつ吹いた。






「春…」






 ぎゅっと、あなたが私の手を取って。












「彼女になってほしい」











 これがあなたの告白。

 あなたらしくてストレートで。女同士とかなにも気にしていなくて。


 それもいいけれど、でも。

 

 でも私は、すっ飛ばしたその理由が、どうしても欲しかった。



「…どうして?」


「……好き、だから」


 だから最後に、もう一押し。


「…だれを?」






「──…春が好き」






 不器用なあなたの精一杯の告白は、今でも胸の奥に染みついて離れることはない。

 

 情けないあなたの、そよ風のようにやさしい声。


 どんなにへたくそでどんなにかっこわるくても。小説や映画のように情緒的じゃなくても。


 私はあなたのこの告白が好き。


 だって、きょうちゃんらしくて、あったかいから。



「……ばか」

「ごめん」

 振り向いて駆け寄って、あなたの胸に顔をうずめて。そして自分が泣いていることにやっと気がついた。

「キスしたくせに…」

「うん」

「忘れられるわけないでしょ…」

「うん、私も」

 あなたの告白がうれしいからなのか、忘れてと言われたことが悲しかったからなのか。どうして頬が濡れるのか分からないから、私はあなたの胸をポカポカと叩き続けた。あなたは木漏れ日のようにやさしい瞳でそれを受け入れてくれた。

「ヘタレだし、気づくのおそいし…」

「うん……ん?春いつから私のこと好きだったの?」

「……きょうちゃんなんか、きらい…」

 そんなわけがないのに、そのやさしさにまた甘えて。

「春、彼女になってくれる?」

「……私、付き合ったらめんどくさいかもよ?」

「いや、もう十分…」

「なに?」

「なんでもないです…」

 私が笑って、あなたもつられて。その顔に目を奪われて、私よりも少し背の高いあなたを見上げた。


「ねえ、春」

「うん?」

「ちゅーしてもいい?」


 答えなんてわかってるみたいに、瞳は触れあって。


「だめっていったらきょうちゃん我慢できるの?」


 わざと聞いてきたあなたへ、最後にもう一つ。

 甘い声でいじわるをあげた。



「──…できない」



 その言葉を合図に、月が照らす影はひとつになった。

 触れた部分から伝わるその気持ちがこぼれないように、背中にそっと手を回して、私の気持ちもあなたに届くようにぎゅっと抱きしめた。


 ふたりの気持ちが夏の夜風に流されてしまわないように、ひたむきにあなたを想いながら──。




 私を家に送り届けたあなたは、乗ってきた自転車を忘れて帰って。朝になれば"寝る前のこと覚えてる…?"なんて電話をよこして。


 "きょうちゃんじゃないんだから忘れるわけない"と、そう返した私にまた口をつぐんでいた。私は一睡もできなかったのに、すやすや寝ついたのかなと思うと、少しだけ悔しかった。




 きょうちゃんが好き。

 

 本当は私も、あのときあなたの気持ちにそう応えたかった──。




    *********




 翌日の私は当たり前のように寝不足で、行きの飛行機では母が心配するほどに眠り込んでいた。祖母の家についてもあくびが止まらず、睡眠はちゃんと取らなきゃだめよ──と小言を言われるくらいに。


 一週間、あなたに会えない退屈な日々。スマホをあまり見ないあなたはチャットをいれても気づかないから、夜にできる電話だけが毎日待ち遠しかった。

ふゆ、あなたがちゃんと面倒みてあげないと」

「母さんまたそんなこと言って……春ちゃん気にしなくていいのよ?」

 昔から繰り返される祖母と母のそんな会話も、目の前の食事も頭には入ってこない。あなた以外が入る隙間は、この日の私の頭には少しもなかったから。

「なに言ってるの、あなただって春ちゃんの歳のときはいろいろ好き勝手してたでしょ」

「はぁ、またその話…」

「ようちゃんようちゃんって、ろくに帰りもしないで」

「……ようちゃんの話はやめて」


 ──ようちゃんって誰だろう。


 こういう言い合いは日常茶飯事だったけれど、その名前には聞き覚えがなかった。私が幼いころに離婚した父も、そんな名前ではなかったはずだ。気になったものの、この二人の間に割り込むと余計に話が長くなってしまうからそれはやめておいた。


 早く食事を終わらせてきょうちゃんに電話をかけたい、声が聞きたい。やさしすぎる恋の温度に浮かされ、あなたのことしか頭になかった私は、次に続く祖母の台詞で自分の立場を思い知らされることになる。

「それで?いつから春ちゃんは向こうに行かせるの?」

 音も立てず、静かに箸が止まる。

「二十歳前に、とは思ってるけど」

「それじゃあ遅いわよ、あなただって高校生のときはもう向こうに行ってたでしょう?」

「そーねぇ……じゃあ高校卒業くらいかしら?どう?春ちゃん」


 私の前で私の話が、私を置いていったまま進んでいく。

 そんなことは慣れっこだったけれど、まだ時間はあると、そう思っていたから。


 だから私は──。


「………お母さんは、私にどうしてほしいの…?」

「うーん、将来を考えるなら早めに…とは思うけど、もしあなたが──」

「うん、わかった。そうする」

「…そう?じゃあ高校卒業したら一緒に向こうに行きましょうか」


 言えなかった。嫌だ──と。


 祖母の求めることが、母の望むことがきっと、姉にたいして求めたそれなのだから。

 私はあなたといたいという理由だけで、それに背くことはできなかった。



 私の母は、モデルを育成する企業の責任者だ。


 名の馳せた海外モデルが多く所属する母の会社は、世界的に見てもトップレベルの大企業。祖母も母も、当人たちは若いころ、その業界でたくさんのスポットライトを浴びながら多くの実績を残したレジェンド級。

 もともと大きかったその企業を一回りも二回りも大きくしたのは、モデルだけでなくコレクションの運営に手を出した曾祖母と、ブランド事業にも参入した祖母。そして、デザイナーとプランナーを抱え込んだ母の功労。

 中でも私の母の功績は計り知れず、もともと現役時代から桁違いに名声を博していた母は、その売り上げだけでも代々のそれとは比べ物にならないほど。絶頂期中頃で電撃的に引退を発表すると、経験を生かして育成サイドへ。それから若くして会社を継ぎ、独自のやり口と手広い商法で、傾いていた経営を一気に立て直した優秀な経営者でもある。

 

 私は生まれながらにして、その跡を継ぐことが決まっていた。

 それは別に、嫌々というわけでもない。


 幼少期、母がステージで輝く姿を見て憧れを抱いた。いつか私も同じステージに立ちたい──そう思って、自分からその道を志した。祖母と違い、母がそれを無理強いすることはなかったし、今でもその夢は私の中にある。

 

 ただそれは形を変えて、自分の夢ではなく、姉のモノになってしまったけれど。


 "形だけの責任者"──何代か前の代表は端から経営サイドへと回り、モデルとしての実績を何一つ積まなかった。当然、経営はうまくいかず、まわりからは形だけと、そう呼ばれたそうだ。


 だから私は母のように実績を作るため、いずれ日本を離れることになっていた。


 経験がまったくないわけではなかった。小さなころから母のスクールでパーソナルレッスンを重ねて、十代に入るころには海外でコレクションに参加することもしばしば。

 "科木しなき ふゆの娘"である時点でそれなりに注目を浴びて、このころでもまあまあの経験を積んでいた。高校時代はまだ、日本のメディアにはあまり顔出しをしていなかったから、それにあなたが気づくこともなかったけれど。

 学業を優先させたいという母の思いもあり、それは長期休みや休日を利用してのことだったから、祖母が早く本腰を入れさせたいと思っていることも知っていた。

 

 "いずれ"はそう遠くないと分かっているつもりだったけれど、それは私が思っていたよりもやや急ぎ足でやってきてしまった。


 "まだ経営から手を引かなし、春ちゃんなら二十歳からでも大丈夫よ"という母の言葉を鵜呑みにしていたから。

 もし日本の大学でやりたいことがあれば出てからでもいいと、口々にそう言われていたから。

 

 私はまだもう少し、自分の時間があると思い込んでいた。

 

 だからあなたを好きになって。

 だからあなたにも好きになってほしかったのに。


 それなのに、その"いずれ"がこんな目の前に迫っているなんて──私はこの日それを知って、無邪気にあなたに恋心を寄せた自分を責めた。



『春?聞いてる?』

「あ、ごめん……ちょっと眠たくて」

『じゃ明日またかける』

「…きょうちゃん寂しくならない?」

『……まあ、なるんじゃない』

「もう一回言って」

『やだ、おやすみ』

「あ、きょうちゃん──」

『ん?』

「…んーん、なんでもないっ」

『?じゃ、切るわ』



 本当はこのとき、あなたに伝えたいことが、伝えなければいけないことがたくさんあった。


 自分の家のこと。仕事のこと。高校を卒業したら、海外に行くこと。



 そしてその、先のこと。



 戻ったら、きっとあなたに伝えよう。

 私はもう切れている電話を握りしめ、着信履歴に残るあなたの名前をただじっと見つめていた──。





──ep.3 その名前──

 


 風がその匂いを変えて、秋が顔を出したころ。私は高等部にあがってから初めての体育祭を迎えた。


 今までと同じ校庭で、さほど変わらない競技。それなのに、今でも忘れられないほどの思い出になってしまったのは、あなたのせい。


 先生に任された実行委員の仕事は慣れたもので、中等部も何度かやっていたことだった。

 参加競技決めの総合の時間、あなたは教卓に立つ私の話をなにひとつ聞かずに窓の外をぼーっと眺めて。

綴理つづりさん?」

「…………あ、はい」

「聞いてました?」

「いえ... 」

「個人競技、まだ選んでないの綴理さんだけですよ?」

「…いや、出ないし…」

「……はい、じゃあこれで──先生、全競技決まりました」

「ちょちょちょ、」

 私が話してるんだから、少しぐらい耳を傾けてくれてもいいのに。何にそんな気を取られているのか。嫉妬に似た気持ちを抱えた私は<100m走>と大きく書かれたその下に"綴理 頃"とあなたの名前をフルネームで書いてやった。まわりのクラスメイトは私とあなたの刺々しいやりとりにひやひやしていたけれど。


 100mを選んだのは、委員会の先輩があなたの名前を昔よく総体そうたいで見かけたと言っていたから。


 でも本当は、足の速いあなたの走る姿を見たかった。一緒に体育祭に出たかった。無理やり名前を書いた理由は、ただそれだけ。


「なんなの」

「なにが?」

「100m」

 よほど出たくなかったのか、あなたは帰り道、私を乗せて自転車を漕ぎながらぶつくさと文句を並べていた。

 本当に嫌だと言われたら、無理に参加はさせないつもりでいたけれど。

「私が選んだ競技、やなの?」

「……」

「綴理さんの走ってるとこ見たいなあ?」

「…わーったよ!出りゃいんでしょ…だからその呼び方やめて」

 あなたが断れないのを知っていたから、きっと参加してくれる──そう信じていた。

「こうやって呼ばれるのうれしいのかなーって」

「…ばかじゃないの?」

 かしこまった喋り方で話しかけられたことに、教室の後ろで頬を緩ませていたことを私は見逃していなかった。

「ねえ、きょうちゃんって敬語とか好きなの?」

「あーもう、っるさい!!!」

 ごまかすようにあなたが立ち漕ぎでスピードをあげる。

 照れたその行動がかわいくて、私は怖くもないのにキャッとわざと大きな声をあげた──。



 それから放課後はしばらく、私が準備に追われて忙しくなり、あなたもあなたでバイトがあって。あまり二人の時間も取れないまま体育祭当日を迎えた。

 それが始まっても一向に姿を見せないあなたに、きっとそろそろ起きて重い足をジタバタさせていることだろうと"きょうちゃんそろそろ起きた?"──そんなチャットを入れてあなたを待っていた。


 返事こそなかったけれど、100m開始のアナウンスが校庭に響いて少し経ったころ、あなたは気だるそうに姿を見せた。

「きょうちゃん!おそい!」

「あー、ごめ」

「連絡返さないからこないかと思った」

「あ、忘れてた」

「しかも長い方だし」

「あー、ね?」

 100mに参加する人は皆、短いジャージを身につけているのに。あなたときたら、あくびを漏らしながらやる気のかけらもなくて。

「はい、行って!きょうちゃん次だから。一位とったらご褒美あげる」

「いやそんなんでやる気出さないし…」

「綴理さん?」

「…チッ……はぁぁぁもう」

 いってらっしゃい。そう言って、舌打ちをしたあなたにゼッケンを被せて背中を押すと、そのため息を勢いにするようにあなたは渋々駆け出していった。

 もう同じ回の走者は位置についていたから、そこまで走る分ハンデになって一位は難しいかもと思っていたけれど、ドンッという音とともにレースが幕を開けると、私は息をすることすら忘れてしまいそうになった。


 颯のように風を切るあなたが、こんなにもかっこいいと知らなかったから。

 その真剣な眼差しに、心を奪われてしまったから。

 

 少しいじわるをして、全員が運動部のグループにあなたの名前を書いた。どうせちゃんと走ってくれないだろうし、とか。もし走ってこの人たちを追い抜いたら、とか──準備中もずっと、あなたを思い浮かべて。


 そんな中でもあなたは、すべての風を跳ねのけるように前を行く背中を次々に追い抜いていった。


 思わずまわりも見惚れてしまうほどのきれいなフォームで、すらっと伸びた足がテンポよく振り出されていく。


 ──タンッ タンッ タンッ。


 重心を低くして、胸元を前に突き出しながら腕を強く振りかざす姿。整ったその呼吸に、つい自分のそれもつられてしまう。

 

 もしかしたら、本当に一位を取ってくれるかもしれない──私はゴール前に移動してその姿を待った。


 コーナーをその枠線の淵ぎりぎりまで攻めたあなたは、白いテープまであと数メートル。直線に入ったラストスパート、まだそんな力が残っていたのかとすかさずギアチェンジを重ねて。残りの背中はあとひとつ、サッカー部のキャプテンのそれ。


 ──がんばって、きょうちゃん。


 そう思ったとき、あなたはいつまでも抜かせないその背中にへこたれた顔を見せて、呼吸に変なアクセントが見え始めた。少しずつ緩やかにペースダウンしていくその車輪。

 

 ──もう、肝心なところで…。


 だから私は、最後にもう一押し。

 小さくなったその火種が風に吹かれてしまわないように。

 

 しゃがみ込み、ありったけの想いを込めて。

 あなたにとびきりのエールを投げた。



    *********



「………はぁ、はぁ……うっとおしい…」

「ウインク効いた?」

「……ほんっと、めんどくさ…はぁ…走るのも、春も…」

 

 一位を取ったあなたに、本当はすぐにおめでとうと、抱き着いてそう言いたかったけれど。汗に輝いたその顔にそっとタオルを投げて、まだ実行委員の仕事があるから──なんて私は逃げた。

 

 あなたをまともに見ることなんてできやしなかった。

 だって、恋を覚えてしまった私には、あなたのその姿があまりにも眩しすぎたから。



    *********



「先生、校庭にいるから私がやるね」

「ん」

「…いたい?」

「…別に」

「もう、きょうちゃん訳もしらないのに出てくるから」

「……」

 一位を取ったそのすぐあと、腫れた頬を抱えたあなたは私と保健室にいた。

「でも我慢できてえらかったよ、きょうちゃん」

「あの赤髪、次会ったらぜったい殴る」

「だめって言ったでしょ」

「痛っ」

 頬を冷やしながら、反対の手で暴れる子犬の額にでこぴんを少々。

「昔から不器用なの」

「春、知り合い?」

「みんなだいたいエスカレーターだから」

「ふーん」

「妬いてる?」

「……て、ない」

 取っ組み合いの喧嘩でもしたのか、と。外見からそう思われても仕方はないけれど、その頬の腫れは、ただあなたが私のために一方的に受けたもの。

「でも千早ちはやさんって、きょうちゃんにちょっと似てる」

「や、どこが…」

四条しじょうさんのことになると熱くなっちゃうところ?」

「いやだから、どこが──」

「だってきょうちゃん、いつもだったらあんなとこ入ってこないでしょ?」

「……」

「相手が私じゃなくても、つっかかったの?」

 なにも言い返せないあなたは口をすぼめて、腰かけていたベッドにそのまま背中から倒れ込んだ。



 千早ちはや 瑞月みづき──あなたがしばらく赤髪と呼んでいた彼女は、頬を腫れさせた張本人。

 

 100mが終わったあとのハードル走で、ひとりの生徒が転倒した。それはもう、豪快に。私は駆け寄り、その子猫のような生徒を保健室へ連れて行こうと、怪我をした足の具合を聞いていた──そこにやってきたのが、瑞月。

「うちで診るからいい」 

「でも一回保健室に…」

 強引に子猫を連れて行こうとする瑞月と、けが人の症状を記録につけなければいけない私は、ほんの少し言い合いになってしまった。

「春」

「あ、きょうちゃん…」

 そこに現れたのが、久しぶりの全力疾走に疲れ果てたあなただった。

四条しじょうさんが怪我しちゃったから保健室──と思ったんだけど」

「あんたしつこい、深白みしろは連れて帰るって」


 四条しじょう 深白みしろ──それが子猫の名前。豪快にすっころんだ生徒で、瑞月の幼馴染。


「瑞月…先生に言った方が…」

「なんかもう、邪魔だからそこどいて」

 怯えた子猫の鳴き声も聞かず、瑞月は突っぱねるように私の肩をトンッと押した。強い力ではなかったけれど、不意に押されたことで私はバランスを崩し尻もちをついた。なんてことなかったのに、横で見ていたあなたはそれに吠えてしまった。

「謝りなよ」

「は?」

「春に謝りなよ」

 そう言って、今にも殴りかかりそうな勢いで。別にたいしたことなかったのに、すっかり頭に血をのぼらせて。

「──帰るよ、深白」

「いや、ちょっと待、」

 ドッ──という鈍い音とともに、校庭のコンクリートに叩きつけられたのはあなた──手を出したのは瑞月の方だった。

「痛っ……ちょ、ほんと、」

「きょうちゃん、だめ」 

 瑞月はなにごともなかったかのように、あたふたした深白をおぶってそのまま校庭から出て行ってしまった。

 

 瑞月の家は開業医。

 深白の家は花道の家元。


 あの学び舎の中でも、とびぬけて家柄の良い二人を知らない生徒はたぶんあなただけ。私も初等部からその存在は知っていたし、怪我をした深白に声をかけた時点で瑞月がすっとんでくることはわかっていた。幼馴染の二人は、離れているところを見たことがないほど、当時からいつもぴったりくっついていたから。

 小動物のような深白を引っ張る鬼のような瑞月──その姿を目にしたことがない生徒はいなかっただろう。深白になにかあるたびに、どこからか匂いを嗅ぎつけて瑞月は飛んでくる。まるでスーパーマンみたいに。だからこのときも来ることはわかっていたし、頑なに保健室に連れて行くのを嫌がったのがなぜなのか、私は気付いていた。

 

 ──私だって、きょうちゃんの頬を先生には触らせたくない。


 きっと、そういうこと。


 二人のことも、瑞月が嫌がった理由もわからないのに突っ走って。

 私のために怒って、私のために殴られて。

 

 私のために熱くなったあなたがどうしようもなく愛おしくて、守られているということがたまらなくうれしかった──本当はああいうの、面倒で嫌いなくせに。


 相手が私じゃなくてもそうしたのかと聞いた私にむくれて、ベッドに倒れ込んだあなたは都合の悪い表情を隠すように両腕で顔を覆ってしまった。

「かっこよかったよ、きょうちゃん。一位ありがとう」

 だから私は、早くあげたかったその言葉を口に出した。

 あなたはへの字にしていた口元を解いて、ぽかんとした顔で私を見つめていた。

「きょうちゃん?」

「………あ、ごめん」

「なに?見惚れちゃった?」

 ぼーっとしたあなたをそう、、からかった。どうせ少し言葉に詰まったあと、別に──そう言うと思っていたから。

「………最近」

「うん?」

「あんま会えてなかったから…」

 瑞月にみせていた猛犬のような姿はそこにはなく、あるのは捨てられた子犬のようなあなたの瞳。弱々しいその目が、私に"寂しかった"と、そう伝えていて。胸が奥がヒリヒリと痛んだ。

「──こっちきて、ご褒美あげる」

 私が両手を広げると、あなたは驚いた顔をしたあと、首のあたりを掻きながら少し照れくさそうに飛び込んできてくれた。

 

 肌寒い秋の午後、二人きりの保健室。

 少し冷えた、あなたの身体。

 私の肩にうずまって、赤くなったあなたの耳。

 控えめに私の背を抱いた、あなたの長い腕。

 

 そのすべてが、今でも心の中にある。

 思い出すたび胸の奥がじんとしてしまう、あなたとの大切な思い出だから──。



 私の肩であなたは、気持ちよさそうに目を閉じ深い息をついていた。

 

 ──春の匂い、落ち着くからねむくなる。


 そう言ってはよく私の匂いを感じていたっけ──きっと、このときもそうだった。

 やさしくて甘い香りがすると言っていたけれど、自分ではちっともわからない。出会ってすぐのころ、なんの香水を使っているのかと聞かれたけれど、なにも使っているものはなくて。

 ──え、自然にこんな匂いするひといるの…?……お花畑でうまれた?

 そう言ったあなたに笑ったのも、今はもう遠くに霞む懐かしいものになってしまった。


 私のために走って、私のウィンクで一位を取って。

 私のために吠えて、腕の中で大人しくなって。

 

 いつもクールなくせに、私のせいでそうなってしまうあなたが、好きで好きでたまらなかった。

 

 私の心をいっぱいの光で埋めてくれるあなたに、私もそれをあげたくて。そっと、その頬に口づけを落とした。


「はい、ご褒美」


 と、それを口実にして。


 初めて自分からあげたそれは、子どもじみていたかもしれないけれど、くっついている胸元からあなたの鼓動が早くなっているのを感じた。だから私はそっぽを向いた──それを受けた自分の頬が、きっとひどく色づいていたから。

 

 どのくらいそうしていたのか、お互いの体温がちょうど同じくらいになったころ、置いてけぼりにされた水嚢から水が漏れていることに気がついた私たちは、やっと二つに分かれた。



 

 高校一年生の体育祭。

 それが忘れられないものになったのは、実はこのあとのこと。


 しばらくそこで他愛もない時間を過ごしていたときの、なんとないありふれた会話だった。

「にしても腹立つ。あの赤髪なんて名前?」

「もう…千早さん」

「じゃなくて、苗字」

「苗字が千早なの、下は…たしか…瑞月だったかな?」

「ふーん……いい名前で余計むかつく」

 なにそれ、と。そのとき私は無理に笑っていた──できればもう、名前の話はしてほしくなかったから。

 

 私には名前がない。だってこれは姉のものなのだから。


 もうこの話はおしまいにしてほしい。そう思っていたけれど、訳をしらないあなたにそれが伝わることはなくて。

「だってなんか──あいつ"ハチ"って感じじゃん」

「ハチ?」

「うん、犬みたいだから」

「………そ、そう?」

 きょうちゃんの方がよっぽど…そう言ったらまた拗ねてしまいそうだったから、口にするのはやめておいた。

「あの子猫は?」

「それは同じ認識なんだ…」

「ん?」

「なんでもない…あっちは四条さん」

「あー、ぽい。下は?」

「深白」

 瑞月と違って、深白とは中等部でも何度かクラスが同じになったことがある。喋ったことこそないけれど、下の名前はスッと出てきた。

「んーーー、渚」

「…なに?」

「"渚"って感じ」

「四条さんの名前が?」

「ん」

 

 急に二人に名前をつけ始めたあなたに、なにがそう見えるのかは聞かなかったけれど、今思うとあなたの言ったことはわりかし的を得ていた。


 リードしているように見えていた瑞月は、実は深白がその手の中で転がしていたのだから。本人は今もそれに気がつかないまま、こっそり深白にリードを引かれている──さながら、飼い犬のように。

 大人しそうに見える深白は、自分しか目に入っていない瑞月をペットのように可愛がり、手名付けて、飼い殺して。たまに私たちに見せるその顔は、いつものそれとは一味違うもの。穏やかだったり荒々しかったり──まるで、あなたの言った渚のように。


 それを私たちが知るのは、もう少しあとの話だけれど。


「でも春はさ、」

「うん?」

「あ、春の名前ってさ?」


 あなたの言葉に、私の心臓がドクドクと脈を打ち始めた。季節は秋だというのに、額にじわじわと汗が滲んでいく。動揺していることを悟られないように、私は顔を俯けた。


 やめて、その先を言わないで。


 もしあなたにこの名を否定されてしまったら、私は──。



「春って感じするよね」

「………へ?」



 ぎゅっと握っていたその手に、ふいにあなたの手が触れて私は顔をあげた。



「ほら、なんかいつもあったかいし」

 ほころんだ瞳が私を見つめる。


「春みたいな匂いする」

 そっと近づいて、匂いを確かめるように首元を香って。





「春は春しか似合わない。春って感じ」





 このあとのことはよく思い出せない。


 覚えているのは、涙ぐむ顔をごまかすようにあなたに抱き着いて、頬にまたひとつキスを落としたこと。あなたがそれに驚いて身じろいだから、横に置いた氷嚢がぽちゃんと床に落ちたこと。


 

 自分の名前を、好きになれたこと──。



「きょうちゃん」

「ん?」

「名前呼んで」

「え、なんで?」

「はやく」

「??」




 ───春。




 好き。きょうちゃんが好き。

 


 そう言ってしまいたかった。



 私があげたかったのは頬にじゃなくて、本当は──。



 高校一年生の体育祭。それは爽やかですっぱくて、甘くてあったかくて、最後は少し苦い後味の残る。私の人生を変えてくれたあなたとの、今でも胸を鮮やかに染める何にも代えられない思い出。








 



 そしてまた季節が巡って、木枯らしが冬が連れてきたころ。

 私は、あなたと一緒に卒業できないということを知る。



 まだあなたに、なにひとつも伝えられていなかったのに──。




 

──ep.4 揺れたのは──

 


 ──……さん……さん!



 手元の紙切れに書かれた鮮やかな文字の形だけを見つめながら、私は考えている。

 あの人は今、どうしているだろうか。


 ──私も最近家のことが忙しくて会えてないけど、瑞月が言うにはあんまり変わってないって。でも、元気だとは言ってたよ?


 電話口の深白の言葉が、繰り返し頭に浮かぶ。変わってないって、一体いつからの話だろう。


 私が最後にあなたを見たのは、もう十年ちょっと前。最後の日のあなたの顔は、忘れようとしても頭に沁みついてけして離れてはくれない。その声も、やさしい瞳も。

 元気って、どういう元気なんだろう。身体が?心が?それとも両方?そういえば、風邪とかひいてるの見たことなかったな…あんまり健康的な生活してなかったけど、もともと丈夫なのかな…でも熱とか出したらすぐ寝込みそう。見た目と違って弱い人だから。くしゃみも犬みたいだったっけ、太陽の光見てよく──…


「春さん!!」

「わっ、びっくりした…」

「びっくりしたじゃないですよ、何回呼ばせるんですかもう!」

「あ、ごめんね夕季ゆうきちゃん」

「ちゃんと聞いててくださいよ、もう来週なんですから」

「……そっか、早いもんだね」

「なんですかそれ…結婚するの春さんなんですから、もうちょっとちゃんと聞いててくださいよ?」

「うん」

 目の前の紙切れに書かれた当日のプランニング。仕度も挙式も、撮影も披露宴も。目がくらむほど豪華で、華々しいそれ。そこに載っている内容のなにひとつも、私は意見を出してはいないけれど、きっといい日になるのだろう。手がけているのは祖母と母なのだから、間違いはないはずだ。


「──は、──で、──だといいかなと思ってまして」

 プランナーの言葉ははっきりとして聞き取りやすいのに、どうして頭に入ってこないのだろう。聞くつもりはあるんだけどな…そう思って、自分の思考の大半を占めているのが今もあなただということに、私はしかたなく笑った。

「それで披露宴の席順なんですけど、こんな感じでいかがですか?」

「……」

「春さーん、聞かれてまーす」

「あっ、ごめんなさい。はい、これ大丈夫です」

「全部これでよろしいんですか?なにも変更なく?」

「──はい。」

 にっこりと笑って応える。笑顔を作るのにももう慣れた。

 席順なんて別にどうでもよくて。だって式に出る人はほとんど、知っているようで知らないそれなのだから。業界関係の人と会社の関係の人と、祖母の知り合いに母の知り合い。私には関係ないから、どうでもよかった。

「でも春さん、ご友人とかこの位置でいいんですか?」

「うん、いいよ。大丈夫」

 友人と言っても、モデル仲間たちのことだろう。春ちゃんのお友だちに招待状出しといていいかしら?と言う母には、二つ返事で返した。母が思う私の友人が誰なのかは知らないけれど、呼びたい相手など、私にはいないのだから。


「あと、当日の装身具なんですけど、冬さんがいろいろ準備してくださってまして──」

 プランナーが白い手袋をはめて用意していたボックスを一つずつ開けると、ご丁寧に中身をすべて見せてくれた。ネックレスがこうで、ヘアアクセサリーはああ、、で。どれも高そうだから壊さないように気をつけないと…ただそれだけを思って眺めていた。

「ピアスはええっと…これですね」

「……これ、お花ですか?」

「そうですね、モチーフは桜って聞いてます」

「へー綺麗ですねー、春さんにぴったり!いつもつけてるやつもお花ですもんね。さすが冬さん」

 真ん中に大粒の真珠がついた、白い桜のピアス。一枚一枚の花びらが大きくて美しい。私の耳から零れ落ちてしまいそうなほどに。


 母の気持ちはありがたいけれど、私の花はこれじゃない。


 右耳をそっとつまんでその形をたしかめて、私の花はこれだけだと、そう想いを胸に秘めた。


「夕季ちゃん、お願いがあるんだけど」

「なんですか?…あ!だめですよ?いつものやつじゃ」

 それはわかっている。きっと言えば母が否定することはないだろうけど、結婚式という公の場で安価なものをつけていては誰になにを言われるかわからない。会社の顔としても、私は母が選んだものをするべきだ。


 だけどひとつだけ。抵抗できるならば、させてほしいから──。


「これ、後ろイヤリングにしてほしいの」

「はい?そんなことですか?まあ、すぐにできると思いますけど…」

「そっか、よかった」

「でも春さんピアス開いてますよね?」

「……右耳だけだから、両方揃えてもらえればなって」

「?だったら左耳穴開けたらいいんじゃないですか?…あ、痛いの嫌とか?」

「…まあ、そんなとこ」


 なんとか夕季ちゃんを説得すると、私はドレスの最終チェックに向かった。

 この穴にほかのものを通したら、私の心が痛むから。だから、嘘はついていない。



 今もまだ私の心は、あなたの居場所を失くせないでいる──。



 私の敷かれたレールの上には、モデルとして実績を残すこと、会社継ぐこと。そのほかにもうひとつ、この時代には似つかわしくないものがある。


 それが来週に迫った"結婚"だった──とは言っても、式が来週というだけで籍はもう入れているのだけれど。


 会社を興したのが女性なら、それを受け継ぐのも女性。代々そうなってはいるけれど、その横に夫というものがあって初めて代表としての責を認められるのだ。

 表に顔を出すことの多いこの業界では、独り身だとなにかと不便も多く、下がついてこない。そんなことでと私も思うけれど、実際は本当にそんな些細なことで会社は簡単に歯車を回さなくなる──祖母が就任当時、そうだったように。くだらなくて滑稽で、いやになってしまう。


 日本を出てから、多くのコレクションやファッションショーに出演してきた。ブランドとのタイアップに、雑誌の撮影に。今ではそこから広がってドラマや映画など、女優としての露出も増えてきている。


 "実績"という名の駅を通り過ぎた私に残された途中駅、それはもう"結婚"だけ。

 

 そろそろ、と言われていたのをずいぶんと先延ばしにして、気づけば三十歳まであと二年ほど。もう逃げられないところまできてしまった私は、諦めて自分の──いいや、姉の。その役割を受け入れることにした。

 

 母の決めた結婚相手はいい人だ。昔、食事会で一緒になったことも何度かあって、彼も同じ境遇だから話しはしやすい。

 相手は誰でも、自由に恋愛していいと母は言ったけれど、いまだにこのピアスを捨てきれない私にそんなことができるわけもなく、予定通り彼と籍を入れた。

 

 恋愛感情はそこに一切ない。あるのは少しの名声と、息の詰まりそうな気持ちだけ。


 籍を入れるだけのこと──そう思っていたけれど実際にその日がくると、気持ちを海のように底のない場所に深く沈められた気分になって。苦しくって。気づいたときには涙がこぼれていた。


 結婚の話も昔から決まっていたことで、それを嫌だとは思っていなかった。


 16歳の卯月、あなたに出会うまでは。

 その恋を、知ってしまうまでは。


 あなたが愛しくなればなるほど、そのことを伝えることができなかった。私からあなたに恋をしたのに。あなたもそうなってほしいと、けしかけたのに。私たちにはいつか終わりがあって、私は日本を離れて。そんな大事なことが、なにひとつあなたには言えなかった。

 

 恋をしてみたい。そんな好奇心だけで始まった恋だったら、どんなによかっただろう。ほとんど一目惚れだった私はあなたを知りたくて。そうしているうちにそれが初めての恋になって。


 あなたに恋をした自分を何度責めても、その気持ちを止めることができなかった。


 私が好きになればなるほど、あなたも私を好きになって。そうやって私はどんどんあなたから目を背けたまま、その恋という花に水を与え続けた。


 あのころ、花はきれいに咲いていた──突然引き抜かれるとも知らないままに。


「春さんちょっと一回全部着飾ってくれません?写真撮っておきたいので」

「うん、わかった」

「あーちょっとちょっと、これ忘れてますよ」

「……ピアスは、今日はいいや」

「えぇ、でも──」

「いいの。」

「…じゃあイヤリングにしておきますよーっ」

「ありがとう」

 

 右耳のピアス。

 ちいさなちいさな白いつつじの花は、私にとってかけがえのないもの。


 初めて二人で過ごす私の誕生日、不器用に差し出したあなたの恥じらった顔がどうしても忘れられない。目を閉じればすぐに瞼の裏に浮かんでくる──あのときあなたが言ったことも。



    *********



「つつじ?」

「あ、そう。」

 いつだったか。私の香りを花みたいだと言ったあなたに、好きな花を教えたことがあった。


 ──つつじの花。


 それはまだ幼等部に通っているころ、園庭の端にひっそり身を置いたその花を、私はよく眺めていた。大きなその花びらは陽の光を受けても色を変えず、なににも染まらないその美しさに心を惹かれた。

 とくに花に詳しいわけでもないから、これが一番、みたいなことでもなかったのだけれど、なんの気ないその会話を覚えていてくれたことに心はまた熱を持った。


「…どうしてこれにしたの?」

 だってそれを話したとき、たしかあなたは"春はもっとやさしい匂いがするのに"と、なぜか少し不満そうにしていたはず。

 それに私は"つつじ"としか言わなかったから、普通は赤やピンクを想像するもの。


 なのにどうして。

 私の眺めていたつつじが、白い花を咲かせていたと、あなたはわかったの──?


「……花びらが春っぽかったから…」

「私っぽい…?」

 顔を近づけて問い詰めると、向こう側が透けて見えるから…春の肌っぽい──と、あなたは少し目をそらして、ひとり言のようにそう呟いた。


 うれしかった。

 そうやって思ってくれたことが。

 好きな花を覚えていてくれたことが。


 白い花を選んでくれたことも。

 それが、桜じゃなかったことも──。


「あけたらつけなよ」


 あなたはきっと知らない。

 白いつつじの花言葉を──。


 それをもらって、私の胸がどんなに鼓動を揺らしたのかを。


「……じゃあきょうちゃんがあけて、今」

「え、いま…?」

 白いそれをあなたがくれたから。私はあなたに、その痕を残してほしくなった。

「うん」

「……親とか、だいじょうぶ?」

「わかんない。でも、今がいい。今きょうちゃんにあけてほしい」

 あなたのパーカーの袖をきゅっと掴んで目を閉じた。きっといつものわがままだと思っていただろうけど、私の中でその重みはいつものそれと違う。


 あなただけの痕を、今すぐに残してほしい。

 私を、あなただけのものにしてほしい。


 だからお願いきょうちゃん──断らないで。


「……はぁ……おいで」

 あなたは私の手を取ると、眉を下げながらしかたなく微笑んだ。

「…いいの?」

「ん。でもちょっと痛いよ?春、我慢できる?」


 あなたにそうされるなら、どんな痛みでも構わない──そう言いたかったけれど、私は黙って頷いた。



「はい、これ。あと氷」

「さんきゅ」

「あんたまたあけんの?」

「あけねーよ」

「あ、じゃあ春があけるんだ?」

「だから呼び捨てすんなって……」 

「結さんありがとう」

「ん。気を付けなー」

 ピアッサーはあなたによく似たお姉さん、ゆうさんの余りをもらった。結さんはいつも私のことを"春~"と可愛がってくれて、それは今でも変わらない。もし姉が生きていたらこんな感じだったのかなとよく思ってしまう。あなたに似て不器用で口が悪くて、でも優しくてどこかあたたかい人──返事の癖まで、あなたにそっくりだった。


「どっちにあけんの?」

「…きょうちゃんがきめて」

 そう言うとあなたは私の耳たぶを交互に触れて、こっちかな、と右耳を氷で冷やしてくれた。ひんやりと当たるそれが心の熱も吸い取ってくれたら、きっと今ごろ楽だったのに──。

「いつもそんな丁寧なの?」

 慣れた消毒の手つきに、他の人にも開けたことがあるのかなと、子どもじみたことを口にしてしまった。

「んー?自分はどうでもいいけど春だから。ここあけるよ?」

「──あ、うん…」

「怖い?」

「……うん…あんまり顔、見ないでほしい…」

 怖いのと嬉しいのとで、もう自分がどんな顔になっているかもわからなくてそう言うと、あなたが私の手を引いた。

「おいで」

 そう言って、座っているその長い足の間に私を引き寄せて。

「あっちむいて」

 後ろから。

 ガチャンッ──と。

「……あいた?」

 そう振り向くと、あなたは私を抱きしめて、首筋にちゅっと小鳥のようなキスをひとつ。

 耳がじんじんと熱を持ったのは痛みからなのか、あなたにつけられた痕が嬉しいからなのか、のぼせた頭ではよくわからなかった。


 ──どうせなら、もっと痛くてもよかったのに。

 歪んでいるかもしれないけれど、美しいだけの恋ではないと知っていたから、どうしてもそう思ってしまった。

 

 家に帰ると心配性な母に少し怒られて、学校でも先生に心配されて。ふさがっちゃったと、あなたにもそう嘘をついたけれど。


 本当はずっと、大事に育ててた。

 だって、あなたがくれたものだから。


 ピアスを見るたびに思う。

 私はあなた以外を、この痕に入れたくない──と。


 ──そういえば、これってどうやって…。


 安価とはいえ、きっと当時のあなたにはちょっと値の張るものだっただろう。あの時期、バイトはそんなに詰め込んでいなかったはずだけれど……。


「…あぁ、そっか。クリスマスのときのバイト代──…」



    *********



 体育祭も終わり、秋とは比べものにならない寒さを連れて冬がやってきたころ、私は悩んでいた。


「春ちゃん、このブランドから専属のお誘いがあったんだけど…」

「………えぇ?」

 見せられた企画書には、よく見るどころの騒ぎではないそのブランド名が、あちらこちらに散りばめられていた。

「なかなか直々にオファーがくるようなものではないわね…でも──」

「いいよ、受ける」

 きっとこれは大きなきっかけになる。どうせ出ていくのならそれは大胆な方がいい。断る理由はなかった。

「そう?よかった、おばあちゃんがね、先に返事しちゃったのよ勝手に…もう…」

「…おばあちゃんらしいね」

「ごめんねぇ。でも受けてくれるみたいでお母さんもうれしいわ。あ、でも」


 ──契約の都合で一年ちょっとしたら向こうに行くことになるから、高校は転校になっちゃうけど大丈夫?


 有名な海外ブランド。専属ともなればその仕事量は計り知れないだろう。きっと私は広告塔になるのだから。そうなれば契約開始時期から向こうに移り、本腰を入れた方が話は早い。きっとそれが母と祖母の考えだったのだろう。契約書にも、どうせ聞く前にサインはされていた。


 私は母の問いに、きょうちゃんと卒業したいから嫌だ──とは言えず、そのまま黙って専属の話を受け入れた。

 

 一緒にいられるのもあと二年。そう思っていたのに、それがまた半分になってしまった──あなたへの想いは、増えるばかりなのに。

 これ以上に縮まらないことを祈りながら、私はくる日もくる日もあなたにそれを言い出せないまま、時間と冷たい風だけが通り過ぎていった。


 そんな私の荒んだ心に灯りを灯したのも、またあなただった。

「さむい?」

「……ん」

 普段から低体温のあなたの敵は、ほかでもない冬の季節。吹きすさむ風に身をちぢこめながら、その日もめいっぱいにペダルを漕いでくれたけれど、いつもよりあなたは増して無口で。

「きょうちゃん大丈夫?」

「ん、春があったかいからいける」

 そうはいっても、信号がぼやっと赤くなり自転車がその動きを止めると、冷え性なその身体に北風は容赦なく襲い掛かる。身震いしたあなたは肩をすぼめてすっかり小さくなって。どうしてこんな寒さに弱いのに、この人はマフラーも手袋もしないんだろう…そう思いながら私は、マフラーの端をあなたにも巻いてあげようとそれに手をかけた。

 けれど、前日のテレビ番組を思い出してその手が止まる。すかさず手袋を外すと、長い髪を少しよけて、あなたの両耳に手の平でくっついた。一瞬身体がびくっとしたけれど、すぐに力が抜けて肩もだいぶ元の位置に戻ってきたようだった。

「あったかい?耳あっためるといいんだって」

「ん?」

 両耳をふさいでいるのだから聞こえないのは当たり前か、と少し身を乗り出してあなたの顔を覗いてみる。寒さにこわばった身体から緊張が解けて、気持ちよさそうに目をつむったあなたの顔がそこにあった。まるで、飼い主におなかを見せる子犬のように、だらしくなく緩みきって。ほかの人の前ではいつも、しかめっつらなのに──そう思うとまた、あの言葉を口にしたくなってしまった。


 いまなら。あなたに声が届かない今なら。



「好き──…」



 気づいたときには、そう声に出していた。


「ごめ、なんか言った?」

「んーん。」

 幸いにも、右折してきたバイクのマフラー音がその言葉の面影すら残さずに攫いあげ、あなたにそれが届くことはなかった。


 ──よかった。聞こえてなくて…。

 

 私はその言葉を、あなたに言ってはいけなかった。

 何度頭に浮かんできても、何度心を揺さぶられても。どんなにそう想っても、どんなに応えたくても。その気持ちをひらすらに閉じ込めて。


 いつか、私たちには終わりがある。


 それをわかっていたから、私はあなたに何もあげられなかった。なにかを残したら、きっとあなたは苦しむことになる。そんなのは、私だけでいい。


 好きと囁いたあなたの落ち着く声も、やさしい瞳でするそのキスも、不器用に渡してくれたつつじの花も、その痕も。すべてを心に刻みつけてしまった私はきっと、もうあなたを忘れることはできないだろう。


 そして、あなた以外を好きになることも──。


 保健室の頬へのそれも、この日の言葉も。本当はそれすら、してはいけなかったのに。身勝手な恋がその色を濃くするたび、私はあなたを傷つけている罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。


「あ、春。25ってさ」

「…ごめんきょうちゃん、その日家の用事があって」

 大事な日にあなたが誘ってくれても、それに応えることすら私にはかなわない。

「あー、そか…」

 あからさまに落ち込んだその背中を見て、なにか言わなくちゃと、そう思ったけれど"一緒に過ごしたかった"とは、この日の私には言えなかった。

「会いたいって思ってくれてた?」

 だから少し茶化した聞き方で、空気だけでも変えようと思った。むくれて別に──と、あなたがそう答えていつもの空気になって、また二人で笑って。


 そうなると思っていたのに。


「ちょ、きょうちゃん…?」

 あなたが急にブレーキを握ったから、止まった車輪の反動を受けて私はその背にぶつかった。

「……」

 なにも言わずに、あなたが私の手を握る。その手は冷たいのに、私の心にはちいさな光が灯って、みるみるうちに全身があたたかくなった。


 どうしてあなたはいつも、私に忘れられない思い出を残すんだろう。

 辛いのに、苦しいのに。それなのに私はまた、あなたを好きになってしまう。


「…初詣、連れてってくれる?きょうちゃん」

「…ん」

 私はその手にありったけの想いを込めて握り返した。

 


 きょうちゃん。好き。



 大好き。



 それから──。






 ごめんなさい。





 心の中で、何度もそう呟いた。




 クリスマス当日はつまらない食事会に例年のごとく参加して、名前も覚えていない母の会社の人たちに笑顔を振りまき、ひたすら表情筋が疲れて一日は終わる。それだけだったはずなのに。


 今でも思い出すのはちょっと恥ずかしいような日になってしまうなんて、当日の朝は思いもしなかった。


 夕刻から開かれた大きなパーティー。私は前年よりもずいぶんとつまらない顔をしてそこにいた。


 ──せっかくきょうちゃんが誘ってくれたのに。


 そんな風にあなたに会えない不満を募らせながら、きつく締められたドレスにもうんざり。母がこの日のためにわざわざ発注してくれたスカーレットのドレス。スレンダーラインのそれが嫌なわけではなかったけれど、どうせならあなたに見てほしかった。

 

 いつもより手の込んだ編み込みもメイクも、少し高いヒールも。どんなに着飾ったって、あなたがいなければそこに意味はないから。


 いつもの私なら、お開きが告げられるまでそこで笑顔を作れたのに。この年だけは、それができなかった。


 ──どうですか?

 と手を差し伸べたのはほかでもない。来週ともに赤い道をゆく人。母の顔に泥を塗るわけにはいかず、私はその手を取るしかなかった。つまらない音楽がつまらない数分を繋いで、私は彼と踊った。


 それが嫌で嫌で、たまらなかった。あなた以外に触られるのも、腰を抱かれるのも──あとから聞いた話では、彼も親の言うことを聞いての行動だったそうだけれど。

 私は母に先に帰ると伝えると、胸に次々浮かんでくる黒いシミを吐き出すように外へ飛び出した。


 タクシーに乗り込み雑に行先を伝えると、すぐにそこを後にして──本当はすぐにあなたに会いたかったけれど、会ってなにを話せばいいかもわからない私は、そのまま自分の家へ向かうしかなかった。

 高速を降りしばらくすると、見慣れた道が目に入り胸を撫で下ろし、さっきまでのことがすべて夢だったらいいのにと思いながら、暗い窓の奥をじっと見つめていた。


「わ、なんかいるなぁ…あぁ今日クリスマスですもんねぇ」

 そのとき、前から運転手さんが声をあげて、なんだろう?と、後部座席からその目線の先を追いかけた。


 ──……トナカイ…?


 目の前の暗い道に、トナカイ。それも必死に自転車を漕いで。

 浮かれた人がいるもんだな…そう思って視線を外そうとしたとき、私は目を疑った。


 前カゴのへこんだシルバーカラーのそれが、あなたの自転車によく似ていたから。


 そんなわけない。バイトだって言っていたし、こんなところにいるわけない──そう思っても、淡い期待が胸の奥を勝手に膨らませていく。

 じっと、目を凝らしたそのとき、トナカイの頬のあたりがキラッと光った。

「すみません!停めてください!!」

 ヘッドライトを反射したのは、あなたの耳元のピアスたちだった。

「こ、ここで?!」

 急に大声をあげた私にびっくりしながらも、運転手さんはキッ──とブレーキを踏んだ。


 ──…やっぱり。


「トナカイさん?」

 窓をゆっくり開けて声をかけると、トナカイはものすごい勢いで振り向いた。

「なにしてるの?きょうちゃん」

 それがおもしろくて、あなたに会えたのがうれしくて、私は緩みきった頬を隠しもしなかった。

「すみません、ここで」

 そう伝えて暗い道でタクシーを降りると、豆鉄砲を食らったようにきょとんとしたあなたの姿に声を弾ませた。

「その格好、もしかしてサプライズ?」

「ち、ちがう!」

 ブンブンと手を振り回しながら、ああ、、でこうでと、あなたはトナカイになってしまった経緯を一生懸命に教えてくれた──あわてんぼうなのは、サンタじゃなかった。


 ──バイト先のライブハウスのイベントで嫌々着せられて、そのイベントがカップルだらけでそれに充てられて、そのうえ喫煙所で赤髪と子猫に鉢合わせて、あいつらが目の前でいちゃつくから──!!!


 その慌てふためく様子がおかしくてあまり話が入ってこなかったけれど、たしかそんなことを言っていたはず。

「──で、会いたくなっちゃったんだ?」

「あ。……まあ…」

 勢い任せに言ったはいいものの、きっと私に言うと都合が悪いことまであなたは口にしていて。それに気づいた顔がイタズラのばれた子どものようで、かわいくて仕方がなかった。

「それでその格好のまま出てきたと」

「……会いたかったんだから仕方ないじゃん…」

 

 ねえ、だいすき。

 今日ね、ほんとはね、嫌だったの。

 あなた以外に触られたのが。


 そう言ってしまいたい気持ちは心の奥に必死に押し込めて。

「…きょうちゃん、私も会いたかったよ?」

 伝えられるそれだけをあなたに告げた。

「…ん。てかそんな服はじめて見た……」

「ちょっと食事会。疲れたから先に出てきちゃった」

「そっか……」

「きょうちゃん?」

 ぼーっと、私を見つめて瞬きもしないあなた。見惚れてくれてるのが分かって、また好きと、言ってしまいそうになった。それと同時に、着飾った時間も悪くなかったなと思えた──あなたの目に映ってやっと、このドレスにも意味ができたのだから。

「あ、うん?…ごめ、なに?」

「どうしたの?頭がお留守だけど」

 だからまた、ちょっとからかって。


「あ、いや……綺麗だなって…」


 うれしかった。

 うれしいという言葉が適切なのかもわからないほど、胸がぎゅっとなった。


「ねえ、きょうちゃん」

「ん?」

「……あの日のワンピースとどっちが好き?」

 胸に溜まったぐちゃぐちゃのものをあなたにかき消してほしくて、そう聞いてしまった。


「……春にはあっちの方が…似合う。と、思います…」


 少しの沈黙のあと、あなたがくれたその答え。自信なんてまるでなくて、目も合わせずにしどろもどろだったけれど。


 それでも、私には一番の答えだった。


 心の揺らぎがどのくらいまでなら、それは"うれしい"に収まるんだろう。こんなに痛いくらいでもいいのかな──そう思った。


「…………100点あげる」

 痛くて、苦しくて、辛くて。

 それなのに、胸があたたかい。

 恋がこんなに難しいなんて、どんな小説にも書いてはいなかった。


「…きょうちゃん、私プレゼントほしい。」

「……はい?…プレゼントってな──ちょ、はる?!」

「いこ?」

 あなたの声を遮って手を取って、いつものように自転車の後ろに腰をかけた。邪魔な長いスカートを手で雑に絞って。


「…こんな時間にどこ連れてけって?」

「…どっか」

「なにそれ…」

 うな垂れたトナカイに、お尻をぺちぺちとするようにわがままを言い続けた。

「お願い聞いてくれないの?」

 甘い声で、囁いて。

「だ、だって」

「恋人なのに?」

 もうひと押し、もうひと押し──と。


「………親へいき?」

「うん。だめ?」


 早く、早くあなたに。


「──…だめじゃない」


 ここから連れ出してほしい。


 この胸の奥で騒がしく揺れる想いを、あなたに。




 あなたに、触れてほしい──。




 着ぐるみのたるんだ足元を捲し上げて、トナカイは北風を切りながら自転車を走らせた。

 後ろに赤いドレスの、私を乗せて。


 何度も遠回りをしながらあなたの家に着いたころ、冬の夜はその深さを一層に増して、暗い夜が私たちをのみ込んでしまいそうだった。

 少したばこの匂いがするあなたの部屋で、心に溜まった黒いそれがひとつずつ、あなたの光に照らされていく。

 私を好きだと伝えるあなたの濡れた瞳に吸い込まれながら、冬の寒さを追い出すように、抱きしめ合って夜に溶けた。

 私の過ちも胸に秘めた想いも、全部を夜の合間に重ねて。許しを得ようとひたすら泳いで。その岸辺であなたが手を差し伸べて。そんなふうに、何度も何度も。


 夢に堕ちるそのとき、瞼の隙間から見えたあなたのまなざし。木漏れ日ようなそのぬくもりに抱かれて、私はそっと眠りについた。

 今日という日が終わらなければいいのに。この幸せを阻む朝日なんて昇らなければいい。そう思いながら。


 それでも空は白んで、冷たい陽の視線に目を覚ます。瞼を開けば、飛び込んでくるのはあなたの木漏れ日。

 夜に沈む前も朝にほころぶそのときも、そこにあなたがいる幸せを噛み締めて、そっと心に仕舞い込んだ。


 やさしいそのぬくもりを、いつまでも忘れないように──。


きょう、あんた昨日バイト…うわぁ…」

ゆうどうし…おぉう、トナカイがサンタ抱いてる……」

「……顔洗ってくる、朝から変なもんみたわ」

「…なるほどねぇ……しあわせそうにしちゃって」

成留美なるみ、いくよ」

「ほいほい、お幸せにっと」


 もう少しこのままでいたいから──と、あなたはもうひと眠り。頬をつついてその寝顔を眺めていたとき、急に部屋のドアが開いた。びっくりして寝たふりをした私に、二人は気がつかなかったみたい。

 成留なるさん──あなたのバイト先の店長で、結さんの恋人。この日から私のことを"サンタ"と呼ぶようになったこの人は、今でも季節なんてお構いなしに私をそう呼んでくる。



 私は今でもたびたび、この夜を夢に見てしまう。

 私を呼ぶかすれた声、求めて揺れる熱い瞳、あなたの部屋のたばこの匂い。

 そのすべてが、愛は涙と同じあたたかさだと教えてくれたから。


 この夜、心を照らした光は今もまだ、私の中にある──。



    *********

 

 

 あなたがいつか私のことを忘れられますように──そう祈った新年はあっという間に季節を転がして、また桜の花が散ったあなたとの二度目の春。


 まるでなにかの兆しのように、二人はクラスが分かれた。とはいっても、教室は隣同士だったけれど。

「あっ、あの……」

「──あ。」

「体育祭のとき、その…ええっと…ごめんなさい…!」

「えっ、かわいい。」

「……え?」

 深白との初めての会話は、たしかこんな感じ。もじもじと、その擬音が身体中から出てきそうなほど挙動不審な子猫が急に身をすり寄せてきたことで、私は自分の中にある母性を知った。


 私は深白と、あなたは瑞月と。それぞれが別々の教室で新しい風に吹かれることとなった。


 深白はいつもおどおどして弱々しくて、それでいてなごやかで。私はそんな深白を愛でるようにして可愛がった。春ちゃんやめてよぉ…と言いながらも深白はくすぐったい笑顔をよく見せていた。

 今までの私なら、たとえ向こうから話かけられたとしても、教室という狭い空間でこんな風に誰かと関係を築いたりはしなかったのに。いつからどうして私はこうなれたんだろう。わかりきった答えを考えるのは時間の無駄だけれど、どうしても考えてしまう。


 あなたがいなかったら、私はいまも独りのままだったのかな──と。

 

 深白とはよくあなたの話をした。ああでもないこうでもないと、あなたの愚痴のろけを言ったり、かわいいところを話したり。他にできる人もいなかったから、うんうんと深白がそれを聞いてくれることが嬉しかった。

「いないと思うといっつも屋上で──だもん」

「あぁ…それ瑞月もおんなじ」

「ほんと?先生にばれたりしなかった?ごまかすの苦労しない?」

「あー……どう、だろ…?」

「みーしーろー?」

 きょろっと目をそらした深白がわかりやすくて、私は近づいてほんの少し圧をかけた。

「えへへ。先生には私から言ってあるから…」

「なんて?」

「"瑞月は繊細で緊張しいだから、たまに屋上で黄昏てても許してあげてください"って」

「…それって瑞月は」

「うんっ、知らないよ?」

「……。深白って、ほんと…」

「だって瑞月、一人じゃだめだめだから…」

 こうして深白はいつも瑞月の知らないところで、そのリードを固く握りしめていた。

「瑞月って繊細なんだ?」

「うん、すぐシュンッてするよぉ」

「えー、どういうとき?」

「うーん…私が他の人と話しているときとか…」

「………あれが?」

 教室の後ろの扉の前で、中に入らず私を睨みつけている瑞月を指差した。

「うん、あれほんとは悲しい顔なの」

「……へえ、あの狂犬みたいな顔が…」

 どう見ても、怒っているようにしか見えなかった。

「瑞月は忠犬だよぉ。春ちゃん見てて?」

 そう言うと、深白は瑞月にむかって小さく指で"×"を作ってみせた。それを見た瑞月は、怒った顔をさらに歪ませて、フンッと声が聞こえそうな勢いでその場を去っていく。

「ね?」

「…ごめん、今のなに?」

「いい子にしててって合図。瑞月には"今はダメ"って言ってあるけど…」

「ぷっ、あっはは!じゃああの顔って、悲しいが増した感じなんだ?」

「そう、忠犬でしょ?どっちかっていうと、狂犬はきょうじゃない?」

「きょうちゃんはねぇ──」

「春」

 そこに、ズカズカとあなたが後ろの扉から入ってきた。

「あ、きょうちゃん」

「もう帰っていい?やってらんないわ、あんなやつと隣の席で」

「どうして?屋上いっしょにいったらいいのに」

「…やだよ、時間ずらしてる」

 あなたと瑞月は私たちとは対照的に、当時はよくいがみ合っていた。

「また喧嘩したの?」

「いや、瑞月がっ」

「だめっていったでしょ?」

「……」

「本当に先に帰っていいと思ってる?」

「…」

「きょうちゃんが先に帰ったら、私はどうやって帰るの?」

「……はぁ…わかったよもう…」

 そう言って、あなたが不満そうに教室を出ていくと、深白がそれを見てクスクスと笑っていた。

「頃は猛犬なんだねぇ」

「そ。言うことはちゃんと聞いてくれるから」

 

 こうしてお互いの愛犬をうまく飼い慣らしながら、私たち四人は同じ時を過ごすようになっていった。深白の家でテスト勉強をしたり、瑞月の家に泊まったり。夏がくれば誰かの別荘でバーベキューをしたりして、友だちっていいものだなと、そうとまで思えるようになった自分に私は驚いていた。

 あなたが居なければ、きっとこの二人とも出会えなかった。


 そして時雨月、忘れもしない二年次の文化祭。その催しに浮かれて騒がしくなる校内をよそに訪れた、私とあなたとの初めての喧嘩──とはいっても"初めて"以降はなかったけれど。


 原因は……誰だろう。きっと瑞月なんだろうけど、根本は私だったのかもしれない。


 深白と瑞月は私とあなたのような関係ではなく、まだ恋という糸をひとつに繋げられていなかった。

 瑞月が深白をそういう意味で好きだというのは、距離の近い私たちでなくとも学校中が周知の事実だったというのに。もちろんその中には深白も含まれていて、瑞月だけが取り残されたまま、当時その一歩を踏み出せないでいた。

 理由は深白の初恋にある──相手は同じ千早でも、瑞月ではなく、楓。

 

 "千早ちはや かえで"──瑞月の姉にして、深白の初恋の人。

 瑞月によく似た、でも瑞月とは違って目つきの優しいその人は、誰も近づけない幼馴染という二人の間に割って入れる唯一の存在だった。幼いころ、泣き虫だった瑞月に代わってよく深白の手を引いていたのだという。だから深白はその手に憧れて、幼心に"初恋"という言葉を使い、瑞月にそれを話した。


 そのことをずっと胸に抱えたままの瑞月は当時、姉によく突っかかっていて。それを深白が止めては、また胸に抱えるものが増えての繰り返しだったそう。

 ところが、どこから風に乗ってきたのか、深白の縁談の噂が瑞月の重い足を動かし、文化祭で想いを伝えたいと、なんともロマンチストにそう相談してきたのだ──私に。


 なんで私?と当時は頭を抱えたけれど、瑞月が言うには"あんなの手名付けてるんだから"って。そういうことだったらしい。

 瑞月は"頃にはまだ言わないでほしい"と言って、私もそれに賛成した。きょうちゃん、そういうの鈍感だし──と。


 でもそれがよくなかった。瑞月が私との時間を増やすということは、必然的にあなたは深白との時間が増えていく。幼すぎた私はその恋心を拗らせて嫉妬して、勝手に傷ついた。

 

 信じることと好きの違いなんて、このときは知らなかったから。


「深白、あたしのことどう思ってるかな」

「……またその話?」

 相談と言っても、大半は同じそれ、、を瑞月が真顔で呟くだけの時間。早くきょうちゃんと帰りたいのに──そう思いながら聞いていた私はきっと、心があなたで濁りきっていたのだろう。

「なんかもうやめようかな」

「……はぁ…ちゃんと言いなよ、瑞月」

「…」

「大丈夫、深白なら」

 深白も瑞月に同じ想いを寄せていることを私は知っていたけれど、それを私の口から言うのは違う。だから曖昧な言葉でしか、瑞月を支えることはできなかった。

「春はどうやって頃に言ったの?」

「私は──…」

 私は言えていない。

 あなたが好きと、そんなことも言えないのに、私が瑞月の背中なんて押していいわけがなかった。

「え、もしかして頃から?」

「うーん、まあ」

「へえー、あのばかもそういうこと興味あったんだ」

 あの夏の夜、私を組み敷いたあなたはずいぶん手馴れていた。経験はあったのかもしれないけど、怖くて私がそれを聞くことはなかったから、興味があったのかは知らない。

 でも、焚きつけたのは、ぜんぶ私。

「なんて言ってきたの?あのばか」

「──…内緒」

 あの告白は私だけのものだから、瑞月には教えたくなかった。

「でも瑞月、ちゃんと言わないと。手の届くうちに」

 まるで自分に言い聞かせているようだった──あなたのそばにいられるうちに、すべて話せと。

 

 お手洗いに向った瑞月と別れて、私はその日、一人であなたの待つ教室へ戻った。扉に手をかけたとき、後ろのドアから見えてしまった──かわいいとそう言って、深白の頭を撫でるあなたが。


 瑞月には助言できても、自分はそれを実行できない。そうやって暗い考えでいたから、私はその姿に嫉妬してしまったのかもしれない。


 あなたの声がかわいいと囁くなら、それを受け取るのは私がよくて。あなたのその手が触れるなら、それも私がいい。


 そんなふうに拗らせた──嫉妬できる立場でもないのに。



「ごめん、傘重い?」

「んーん」

 そんな自分に飽き飽きして、私は文化祭前日の帰り道、秋雨あきさめに打たれながら口をつぐんでいた。

「…さむい?」

「さむくない」

「……どっか寄って帰ろうか?」

「……」


 気を遣うあなたの優しさが余計に沁みてしばらく黙り込んでいると、あなたが重苦しく口を開いた。


「………春、瑞月といた方がたのしい?」


 あなたのその一言で、最初で最後になったこの喧嘩が幕を開けた。

 あなた以上に私の心を震わせる人なんていないのに。それをわかってほしいのに。


「……それはきょうちゃんでしょ。深白のこと好きなの?」


 気づけば嫉妬というもやがその形を明確に、言葉として口から出ていってしまった。


「はい?なんでそうなるわけ?」

「深白のこと、かわいいと思ってるくせに」

「春も深白にかわいいっていうじゃん」

「それとは別でしょ」

 醜い感情が止まらなかった。


「……春こそ、瑞月のことどう思ってんの…」


 あなたの言葉に私は自転車を飛び降りて、そして初めて一人で家路についた。


 私があなた以外に好意を寄せるわけがない。あなたしか見えていないし、あなたが好きだから私はこんな、、、になってしまったのに。

 それなのにたった二文字も言えず、出てくるのはあなたを傷つける言葉ばかり。

 

 わかってほしくて、言えなくて、傷つけて、傷ついて。

 私はもうなにが嫌なのかも曖昧になって、ぐちゃぐちゃの感情を雨で洗い流すように、傘から逃げ出した──。



 そして文化祭当日、あなたの姿は学校になかった。それもそのはず。私があなたの連絡を一切取らなかったのだから。

 あなたの優しい声を聞けば、私はまたそれに甘えてしまう。だから電話を取ることも、きっと"ごめん"と書かれているチャットを開くことも、あのときはできなかった。

「頃とどうしてそうなったの?」

「……」

「春ちゃん、言って」

 こういうときの深白は、四人の中で一番イニシアチブが高い。

「私が嫉妬したから…」

「だれに?」

「きょうちゃんと……深白見て…」

「わたし?!…なんでぇ…」

「……きょうちゃん、頭撫でてた。」

 二日目の自由時間、私は深白に聞くに堪えない話をポツポツと吐き出していた。

「んーそうだったかなぁ…でも私──」

「わかってる、深白のことはわかってるし…そこに瑞月がいるのも知ってる」

 深白の胸のあたりを指差してそう言った。

「……ちがうの…私、きょうちゃんに言えてないことがある」


 このときだっただろうか。深白にすべてを話したのは。家のことに結婚のこと──もうすぐあなたから離れなければいけないことも。その全部、あなたには言えないのに、深白に言うのはおもしろいほどに簡単だった。


 私は自分が醜かった。


 嫉妬したのは、深白にじゃない。いつかあなたの隣に立つその誰かに、私は嫉妬の雨を降らせていたのだ。深白の姿に、知りもしない先の相手を重ねて。


 それが自分ではないと、分かっていたから。


 すべて聞き終えた深白はなにも言わずに私を抱きしめた。小さいその手で、力いっぱいに。

 私は少し泣いて、深白も少し泣いていた。

 これ、返すね──最後に深白はそう言って、私の頭をそっと撫でた──。



 涙が乾いたころだったか。クラスメイトの何人かが焦り気味に私に声をかけてきたのは。


 ──なんか保護者受付に、やばい人たちがいて…。

 ──"春呼んで"って、言ってるんだけど…科木さんのことじゃないよね…?


 私と深白は頭にハテナマークを浮かべたまま、一応…行く?と、保護者受付のある一階に降りると、そこには見知った顔がふたつ。


「あ、いたいた!春ー!」

「おう、サンタぁ」

 その場になに一つとして合っていない柄の悪さを放ち、こちらに手を振ったのはゆうさんと成留なるさん。

「うわぁ…」

「だ、だれ……?」

「きょうちゃんのお姉さんとその相手の人…」

「あぁ~……なるほど…」

 その見た目から深白もずいぶんとしっくりきたようだった。

「サンタまた動物連れてんなぁ。なにその子猫」

「……」

「がおー!!っと。あ、わりわり」

 ドンッと一歩足を踏み出し、両手で脅かすような素振りを見せる成留さんに、深白が腰を抜かした。

「ちょっと、成留さん!だめですよ!きちゃうから!」

「なにが?」

 そう言っているうちに、騒々しい足音がすぐ後ろまで。ほんとにいつも、どこから嗅ぎつけてくるんだか。

「ほらもう…めんどくさい…」

「深白、大丈夫?…この人たち、誰」

 成留さんを敵とみなした瑞月がものすごい形相を浮かべて。おっ?と成留さんが楽しそうに眉をあげたところで、そこに割って入ったのは結さん。

「はいはい、おわり。めんどくさいのはこっちだっての」

「あーそうだったわ」

「春、行くよ」

 そう言って結さんがこっちに来いと、指で私を呼びつけた。

「え、私まだ──」

「成留美、連れてきて」

「ほいほい」

 そのまま私は成留さんに担がれ連れ去られるのだった。

 ──瑞月、がんばって!

 去り際、このあと想いを告げると言っていた瑞月に口パクでそう伝えて。


「あのガキずっと壁にボール投げつけて拗ねてんの、まじうるさい」

「……」

「どうせ頃がなんかしたんでしょ?」

「……」

「え、春なの?」

「………」

「…ったく、雨ってだけで鬱陶しいのに……とっとと解決して」

「よくいうよ。自分だって…」

「成留美、うるさい」

「へーい」


 そうやって私の文化祭二日目は、勝手に二人が終わらせてしまった。──でも、それも今では思い出せば笑顔になれるような楽しい思い出のひとつ。



    *********


 

「とりあえず座って」

 あんたうるさいから拉致ってきたわ──そう言って結さんに投げ込まれたあなたの部屋。

 空気が重いのは、秋のせいか雨雲のせいか。その喧嘩のせいか。

 佇んだままの私に、あなたはベッドをトントンと叩いて。

「時間、大丈夫?」

 こんなときでも、私を気遣ってくれた。それが苦しくて、私は下唇をヒリッとするくらいに噛みしめた。


「…はぁ……こっちきて」

 あなたはボスッとベッドに背中を預けると、そのまま私の手を取って引き寄せた。その腕の中にぶつかるようにして収まると、頭にあなたの手が降ってきて、それから優しく撫でられる。

 スーッと。あなたが息を吸う音がして、ゆっくりと口が開かれた。


 ──ごめん。

 ──あんなこと言って。

 ──……瑞月に嫉妬した。最近、春ずっと一緒にいるから…。

 ──前に春が、瑞月と私を似てるって…そういうのもあって。

 ──…傷つけてごめん。


 どうして。謝るのは私の方なのに、なんであなたが。

 あなたはこんなにも優しいのに、どうして私は。


 いろんな想いがこの恋をかき混ぜたから、私は涙を止めることができなかった。あなたのグレーのパーカーに、それが水玉のようにポタポタ染みて。

「謝ってほしいわけじゃない…」

「うん」


 違う。

 本当に言いたいことはそうじゃないのに──。


「好きだよ」


 そう思っていたとき、大好きなあなたの声が言った。私が本当に言いたかったそれを。

 同時に瞼にあたたかいものが降ってきて。

「好きだよ、春」

 離れるともう一度。

 形にならない想いを、あなたの声が囁いた。


 苦しい。苦しい苦しい。

 それなのに、あなたが好きでたまらない。そう想ってしまう心があふれて止まらない。

 

 あなたの瞳に映った私の泣き顔は、どうしようもできないその想いを必死に伝えているようだった──。



    *********


 

「え、あの二人付き合ってなかったの?!」

「きょうちゃんがそんなんだから、瑞月は私にだけゆったの」

「あー、はっは…」

 そのあと瑞月の相談の話を打ち明けると、やっぱりあなたは何も気づいていなかったようで。

「深白やるなぁ…」

「…また深白の話?」

 深白と二人で何を話していたのかは知らないけれど、私はまたやきもちを焼いたふりをしたり。

「いや深白に思うかわいいと、春に思うかわいいは全然ちがうから」

「どう違うの?」

 すっかりもとの雰囲気に戻ったのが嬉しくて、あなたとそうやって話すのが楽しくて。

「……あれは赤ちゃんとかそういうのと同じで」

 いつものノリで話していたから、考えもしなかった。


「春はその…そこにいるだけでいいっていうか…白いつつじが、風に揺れてる…みたいな…」


 あなたがそんなことを口にするなんて。

 そんなふうに、思っていたなんて。


 私はぎゅっと、これ以上ないくらいの力と想いを抱えてあなたに抱き着いた。

「ほんときょうちゃんってばか、へんてこなことばっか言う」

「…ごめん」

「私、ほかの人なんか──…」

「……春?」


 言葉に詰まる。

 言いたい。言ってしまいたい。


 ほかの人なんかいらない。

 きょうちゃんだけでいい。

 きょうちゃんが好き。


 それを声に乗せることができなくて、私はあなたの腕の中で縮こまっていた。

 そのとき、あなたがそんな私の背をそっと撫でて微笑んだ。ゆっくりでいいよ──そう言うように。


 だから、言葉にできないこの想いが伝わってほしいとそう願って。


「きょうちゃんだけだよ。私はずっと──」


 そんな小さな声が、私の精一杯だった。ずっとずっと、あなたがどんな人と一緒になっても、私が結婚しても。

 

 私の好きは、きょうちゃんだけだから──。


 聞こえたかな?そう思って、首をかしげ顔を覗いたとき──初めてあなたの涙を見た。

 透明なその雫が私の心の水面に落ちて、静かにその輪を広げていく。あなたがくれた光がその輪に反射して、心がきらめきの中に揺れた。

 

 その涙に届く距離にいるのに、私にはそれをすべて拭うことはできない。


「今日…泊まっちゃだめ?」


 だから、せめて。この日はずっとあなたのそばにいたいと思った。

 

 涙を溜め込んだ瞳が微笑んで唇にあなたのそれが触れると、肌寒い部屋で強く抱きしめ合った。

 私はもうすぐ離れなければいけないと知りながら、あなたという光を両腕に閉じ込めた。







 ──卒業式、送らなくていいよ…きょうちゃん…。

 

 眠るあなたの耳元で静かに呟いた私の言葉は、雨音に流れて消える。

 翌日の雨上がりの空は、いつもより儚げな顔をしていた。










 そして私は、あなたの前から姿を消した。


 初恋を、風に散らして───。





──ep.5 セピア色の心──


 

 私とあなたに、三度目の春はこなかった。


 高校の最終学年を迎えるその手間で、私は日本を発った。

 あなただけに、なにも言えないまま。


 最後の日のあなたは、それに気づいたわけでもないのに。春が遠くにいる夢みた──と、私の頬をいとおしそうに撫でた。

 その瞳が、その手の感触が、体温が。今も私を蝕んでいる。


 

 そのあとのあなたがどうしていたのかはわからない。深白や結さんとはあれからも連絡は取っているけれど、私はそのことを詳しくは聞けない。ただ元気でいるのかどうか、確認できるのはそれだけだった。それすら本当は、聞いてはいけないのに。二人も私の気持ちを悟ってか、あなたの名前を出すことはない。

 

 前触れなく引っこ抜かれた花は、まだしぶとく心に根を張って。毎朝、陽の光を浴びるたびにその芽を出してしまう。水なんてあげていないのに、抜いても抜いてもあなたが心から離れないのは、私の心が長雨の中にあるからなのか。

 

 思い出に押しつぶされそうになりながら、何度夜を越えれば大人になれるのだろう。

 新しい季節をいくら数えたところで、それは叶わなかった。

 

 眠れない夜にあなたを想い、夢であなたに出会って朝がくればまた恋をする。毎日毎日、あなたが私の中から消えることはない。


 夏でも冷たい指先、整った鼻筋、子犬のような拗ね顔、いつも左側にできる寝ぐせ、落ち着く声。


 好きと告げる、その瞳──。


 くしゃみをする前に縮こまるその癖さえ、沁み込んだものをなに一つも手放せないまま、セピア色の心をごまかしながら滑りゆく季節につかまって、私は歳だけを重ねていった。淡い歳月に想いを寄せながら忙しいふりをして。毎日を必死に転がして。

 それでも。何枚衣装を変えようが、何度表紙を飾ろうが、ピアスすら外すことはできない。

 着替えのときに、撮影中に、ランチのあとに。あなたに会いたい。声が聞きたい。そう思ってしまう。


 もう最近は辛いという気持ちすら感じられなくなった。

 あなたが心の中にいるだけで、私はそれでいいと思っている。

 悲しさに押し潰されそうなとき、仕事でくじけたとき。胸が詰まって迷うたび、あなたのやさしい瞳が浮かんで私を支えてくれる──もう十年以上も前の、あのころの瞳が。

 

 私はこの気持ちを愛おしく思う。

 どんなに醜く滑稽でも、あなたへのこの気持ちを胸に抱いて歩いていこう。近頃はそう思うようになった。


 いよいよ、本当に末期かもしれない。




    *********




「科木さん入りまーす!」



 結婚式と言っても、ほとんどは何かのイベントのようなそれは日本に戻って行われた。挙式の前は撮影に追われて、挙式が始まればフラッシュの波。涙のひとつも浮かびはしないけれど、めでたい席であることに変わりはない。私はいつものように笑みを浮かべて、自分で思っていたよりも落ち着いたまま挙式を終えた。


 隣にいる人。それは誰でも構わない。誰と愛を誓っても、この気持ちが消えることはないだろうから、私は前だけを見て歩かなければならない。それが私の役割で、きっと姉のそれ。そんなこともまだ母に聞けないのだから、子どもじみた私の中身はあのころのままなのだろう。

 

 そう思っていたとき、遠くからあなたの優しいまなざしを感じた。

 気のせいなのに、あなたがいるわけもないのに。心が勝手に反応して、少し苦しくなった──。



 披露宴が始まると所せましに招待客が詰め寄った。地主や経営者、同業のそれ。見たことあるようで、ない人ばかり。念入りに組み込まれた乾杯などのスケジュールが一通り終わると、各テーブルに挨拶に回り、記念撮影に追われる。貼り付けた笑みもそろそろ限界になってきたとき、疲れで吐いたため息を馴染みのある声がかき消した。



「春、久しぶり」



 あなたの声。



 によく似たそれが。




「──結…さん?」


「春ちゃん!おめでとう」

「春、おめでと」

 深白に、瑞月。

「よう春、似合ってんじゃん」

 それから。

「……成留さんいつから私のこと名前で呼ぶようになったの?」

「……こんなとこで花嫁にサンタとか言えねえだろ普通…」

 懐かしい皆の姿に、すっかり貼り付けていた笑みが本物に変わっていく。

「みんな来てたんだ…連絡くれたらよかったのに」

「なに春、知らなかったの?」

「招待状もらったんだから来るよぉ…」

 結さんと深白の言葉に、私はいつだかの母の言葉を思い出した。そういえば、お友だちに出しておくとか言ってたんだっけ──モデル仲間だけだと思ってたのに。

「そっかぁ、ありがとう。何年ぶりだろ…みんな変わってないね」

「結はちょっとふとっ──」

「成留美、うるさい」

「あ、瑞月…今はだめだよぉ…」

「だってさっきからみんな深白のこと見てる」

「見てるのは春ちゃん…手離して、もう」

 本当に、みんなそのまま。何も変わっていなかった。懐かしいその空気に、つい表情が子どもに戻ってしまう。

 私は知らぬ間に肩の力が抜けていた──この日、初めて。


 そして気になるのはもちろん、あなたのこと。

 今日という日に名前を出してもいいものだろうか。ここにいないということは、来ていないということだろう。

 それなのに、それをわかっているのに。


「あの……きょうちゃんって──…」

 私は口にしてしまった。


「……」

 全員が一斉に口をつぐむ。気まずそうに目配せをしながら、来ていない──という言葉を押し付け合うように。


「あ、ごめん…気にしないで?」

 私はそうまた笑顔を張り付けて、胸の奥のチクチクとした痛みをごまかした。

 そもそも招待状が届いているかもわからないのに、淡い期待を抱くのはよそう。もしあなたに会えたところでなにをできるわけでもない。

 あなたに合わせられる顔など、私は待ち合わせてはいないのだから──。


 しばらくみんなと戯れすっかり疲れを吹き飛ばすと、私はお色直しのため会場を後にした。




「おい、なんで来てたこと誰もいわねぇの…」

「成留美だって言わなかったじゃん…」

「空気に…飲まれました…」

「あたしはそういうの面倒なんで」





 そう、四人がヒソヒソ話していることも知らずに──。




    *********




 ちょっとお花摘んでくるから──そう言って夕季ちゃんを先に行かせたのは失敗だったかもしれない。すっかり控室の場所を忘れ迷ってしまった。時間もあまりないし、早く着替えないとまたグチグチいわれそうなのに。

 ひたすらホテルの中をうろちょろしていると、まったくもってそんな影もないところにたどり着いてしまい、私は深いため息をついた。

「……どこここ…」

 打ち合わせ中ろくに話を聞いていなかったのが仇になってしまった。あっちだっけこっちだっけと、そこら中をさまよっていたとき。


 角を曲がった先で見えた背中に、私の心臓がその動きを止めた。


 見間違うはずない。


 少し猫背で丸まった姿勢と、細身なのにしっかりとした肩。長い手足に揺れる明るい髪──耳元に光る、それ。



 私が、間違えるわけない。




「きょうちゃん……?」




 振り返らなくてもわかってしまう。

 足を止めた目の前の人が、あなただと。



「………来てくれたんだ…」



 目の前にあなたがいる。

 くる日もくる日も、胸を焦がしたあなたが。私の前に。



「……ん」



 たった一音。そのそっけない返事が耳をくすぐって、身体中が熱を持ちはじめる。


 あのころの風が、空の匂いが、夕暮れの温度が。

 その色づいたすべてが私の中を駆け巡っていく。

 




 どうしよう。




 私。




 あなたが──。






 目頭が熱くなり、目の前の背中がじわじわと滲みはじめる。

 会いたいと、声を聞きたいと。あれほど思っていたのに。いざ目の前にすると息が詰まって、言葉なんてひとつも出てきやしない。

 溜め込んだあなたへの想いは、こんなにも心に積もっているのに。

 




「おめでとう」





 ずっと聞きたいと思っていた大好きなあなたの声。やっと聞けた。


 でも、私は。


 あなたからだけは、その言葉を聞きたくなかった。



 ありがとう。

 私がそう言えば、この会話は何事もなく終えられる。それでいい。それができれば、私は大人になれる。


 それなのに、たった五文字の言葉が紡げない。

 だめだと思えば思うほど、目から溢れるしずくを止められない。

 激しくこみ上げる感情の波に押されて、声が漏れそうになる。

 だめ。声をあげたら、泣いていることをあなたに気づかれてしまう。早く、早くありがとうと、平気な声でそういわなくちゃ。

 そう思えば思うほど、呼吸のリズムを忘れて息が続かなくなる──必死に唇を噛んで声を押し殺しても、それは意味をなさなかった。



 あなたが、振り向いてしまったから。



 目が合う。視線が触れる。

 あのころの面影をそのまま、あなたはなに一つも変わっていない。


 大好きだった。あなたの優しい目が。

 私をいつもあたたかい気持ちにしてくれるその瞳が。


 ずっとずっと、恋しくてたまらなかった。



 涙でぼやっとするけれど、それでも分かる。



 あなたも、泣いてるって。



 もう、もう──。


 私、やっぱりきょうちゃんが好き。


 きょうちゃんじゃなきゃ、いや。



 何秒だっただろう。何分かも、何時間かもわからない。その揺れた瞳と見つめ合ったまま、息をすることすら忘れて、私はただひたすら言葉にできない想いを心に閉じ込め続けた。




「……あの日のワンピースと、どっちが…好き?」




 ありがとうの五文字。

 それが出ないのに、どうしてこんなことを言ってしまうんだろう。


 そのうえ、あの日だと。

 あなたからのその言葉を待っているなんて。


 浅はかで軽率で、うすっぺらくて惨めで。

 どうしてあなたを前にすると、いつもこうなってしまうんだろう。




「………きれいだよ、春」









 あなたは大人になっていた。

 




 いつまでも子どもなのは、私だけだ──。

 




──ep.6 しあわせ──


  

 挙式のあと、私はすぐに籍を抜いた。


 母に泣きついて、祖母に怒られて。それでもあなた以外の人と一緒にいることは、もう私には耐えきれなかった。

 あなたの思い出だけで生きてゆけるけれど、もう誰かのものではいたくなかった。

 

 姉が生きていたら、こうはならなかったかもしれない。もっとうまくこなせていたかもしてない。そう思うと、身体中がひきちぎれそうに痛んだ。だけどそれでも、譲ることはできない。


 あなたに恋をしたのは、姉ではなく私なのだから。

 私は、あなたを想うこの気持ちだけは、私のものでありたいと願った。


 幸い活動名は旧姓のままだったこともあり、こっそり籍を抜いておけば問題ないだろうと、祖母のことは母がなんとか説得してくれた。

 こうなるのであれば最初から偽造でもなんでも。そうしてくれたらよかったのに。それなら私は、あの人と一緒になれたかもしれないのに。

 けれどそう思ってももう遅い。言葉足らずだった自分が悪いのだ。母にも祖母にもなにも言えず、あなたにだって。すべては自分の責なのだから、私に誰かを責める権利などない。


 深白にもすべてを話した。あれからずっとうちに秘めていた想いを雪崩のように打ち明けて。勝手にひとりですっきりして。私がどんなに醜い感情をさらけ出しても、深白はなにも言いはしなかった。ただそっと、電話越しに一緒に涙を流して、寄り添うように"春ちゃん"と、私の名前を呼んでくれた。



 あの人は、大人になっていた。

 だから私ももう大人にならなければいけない。


 離婚したからといって、あなたにそれを告げる気はない。一緒になろうとそうしたわけではないから。

 青いころ、勝手にあなたに恋をして、振り回して、そして置いていった。そんな私に、いまさら資格なんてありはしない。


 それに、あなたにはもう、きっと別の人がいる。

 こんなにも私の心を掴んで離さない素敵な人だから。そうに決まっている。

 

 ──………きれいだよ、春。


 最後に大好きなあなたの声を聞けてよかった。

 その声に呼ばれて幸せだった。


 だから私も、あなたの幸せを願って。

 この恋を終わりにできるように、大人になりたい。

 あなたが、そうであるように。


 少しずつでもかまわない。

 たとえわずかな歩幅でも。日々を繋いで、夜を躱して。

 

 いつか、いつか──。



 この恋が風に薄まることを祈って、私は未熟な自分から踏み出した。





 







 そして、それから二年のときが経った桜月。


 私はまた、日本に戻ることになる──。





──ep.7 はかない言葉──



「科木さん!どこ行ってたんですか、楽屋こっちですよ」

「……」

「科木さん?おーい、聞いてます?」

「………」

「…すみません、楽屋のAってどのフロアですかね?」

「……」

「あれ、これ時間止まってる?」


 

 現場マネージャーの露木つゆきちゃんの声が、なにも耳に入ってこない。

 それが私に向けられているということはわかるのに、思考も時間も止まってしまったようだった。



 あなたと、私のものだけ。


 

 どうして会ってしまうんだろう。


 どうして──。




    *********



 あれから二年。私は残念にも、まだあなたが心に灯した光を消せないまま、向かってくる日々をひとつずつこなしていた。

 ずいぶんと小さくなってしまったそれを失くさないように、思い出のかけらを糧にしながら。ただ、前と少し違うのは後ろを振り返らなくなったこと。

 あの日交わした言葉と瞳。もう終わっているのだと伝えるそれが、捨てきれずにいた想いに区切りをつけた。

 誰かと幸せを見つけるあなたを想って、私は前に進もうとおぼつかないそれで必死に足掻いていた。目指す先がどこなのかもわからなかったけれど。


 一年前の冬、一本のオファーがあった。

 韓国もののそれは音楽バンドがメインのシーズンがいくつもあるドラマ。そのヒロインとして、私は抜擢された。


 女優業は好きだった。役を演じているときは誰でもない何かになれるから気持ちがいくらか楽だ。幼少期から姉を演じようとしてきたおかげで、誰かになりきることに対する評価もまずまず。

 映画やドラマは今までも何本か経験したけれど、拘束期間の長い契約書を見るに相当大きい話なのだろう。受けない手はない。そう思って、すぐにそれにサインを済ませると、私はまたモデルの仕事に戻るのだった。

 


 それから数か月が経って年が明け、まだかすかに肌寒さの残る三月の上旬。私は日本に戻ってきた。

 ここにくるのも挙式をあげたあの日以来。向こうよりはまだ幾分かあたたかいけれど、久しぶりに感じる日本の風は、私を受け入れていないような気がした。


 空港に着いたのは予定時間より一時間も遅かった。

 チーフの夕季ちゃんは兼任している別のタレントに付き、私のお供はまだ幾ばくか頼りない露木つゆきちゃん。彼女はちょっぴり変わっていて、いつも何かしらやらかすけれど、それでも憎めないのはその人柄のおかげだろう。今回も飛行機のチケットを取り間違えてくれたおかげで、危うく日本来られないところだった。


 なんとか手配した車に乗り込むと、私は撮影先のスタジオへと向かった。台本の下読みはしたけれど、場所はどこだったかな。と、ペラペラ資料に目を通しているうちにいつのまにやら夢の中。着いたころには、シュートはもう目前だった。


 駐車場に入ると、急ぎ目で車から降り立った。荷物をピックアップしてから行きますという露木ちゃんの言葉に、先に入ってるねと返して、私はとぼとぼスタジオの中に入っていった。

 とりあえず楽屋にいければ──そうスタジオの中を右往左往。ここかな?と思った場所は薄暗く、あいにく楽屋ではなさそうだった。


 ──また迷っちゃったかなぁ…。


 そう思ったとき、機材室と書かれた扉の奥から、がさごそと音がすることに気がついた。


 この際、誰でもいい。とりあえずスタッフさんを見つけて案内してもらおう。そのくらいの気持ちで、すみませんと声をかけた。


「はーい!」

 バタバタと急ぎ足でこちらに向かう大きな音。

 でもそれよりも私は、その声に、瞬きという行為を忘れてしまった。


 こんなところにいるわけない。

 あなたの声じゃない。

 落ち着いて。これから撮影なんだから。


「お待たせしてすみません、どうしまっ…した、か……」

 

 手に持たれていたものがすべて、床に打ちつけられていく。ゴッゴッ──と、鈍い音を立てながら。


 ──きょうちゃん、マイク壊れちゃうよ…。


 そう思ったけれど言わなかった。


 どうして会ってしまうんだろう。

 あなたとのことを終わりにしようと、少しずつ前に進もうと思っているのに。目が合っただけで、いとも簡単に心の奥は疼いてしまう。


 そんな単純な自分に嫌気が差した。


 後ろから追いかけてきた露木ちゃんによって、あなたと会話を交わさないまま、私はその場を後にした。


 心だけを、またあなたに置き去りにして──。




    *********




「久しぶりだね、春」

「瑞月──!元気にしてた?」

「うん。あたしは、、、、、元気」

「ん?私も元気だよ?」

「──…そうだね」

 瑞月の言葉に軽く首をかしげながらも、最近の深白はどうのこうのと、撮影までの間、近況報告に花を咲かせた。


 撮影先のスタジオ──それはスタジオではなく、ライブハウス。


 バンドものでそのシーンからのクランクインなのだから、別におかしなことは一つもないのだけれど、場所をもっとよく見ておけばよかった。

 ライブハウスの名前。それは成留さんの系列のもの。資料にしっかり目を落としていれば、気づけたかもしれないのに。



 それぞれが大人になる中で、成留さんはもともとやっていたライブハウスの拡大に成功し、あれやこれやと手を伸ばしていた。各地に同じ規模の箱を作ると、音楽以外にも幅広く対応できる環境が時代に合っていたのか、みるみるうちにその業績を伸ばしていった。昨年、新しく大きい箱を構えたという話は、私も結さんから聞いていた。


 そこ任されているのが瑞月だった。瑞月は学生時代から姉の楓さんとバンドを組んでいて、楽器や機材が好きだった。楓さんが音楽活動を辞めて稼業を継ぐと、瑞月は成留さんの元で働き始めた。もともと医者になりたくないとは言っていたけれど、最初に聞いたときは私も少し驚いたもので。それでも本人は、こういうの触っている方が好きだからと、日々楽しく働いているらしい。


 それは深白から聞いていたけれど、あなたまでいるなんて──。


「頃が意外とやり手でさ、ここ任されたのもあたしじゃなくてあいつ」

「…そうなんだ」

「あたしは技術部のほう仕切ってて、上に立ってんのは頃の方」

「あのきょうちゃんが…」

 うな垂れた学生時代からは想像もつかない。私の知らないあなたがきっとたくさんいて、それを喜ぶべきなのに、それなのに──。

「意外でしょ?結構頭切れるし向いてるよあいつ──ばかだけど」

 瑞月は節々に冗談を交えながら、撮影前の私をリラックスさせる。

「まあ…なんかあったら話聞くからいつでも声かけて」

「うん、ありがとう。でも瑞月もね?」

「あたし?」

「深白、いま大変なんでしょ?」

「あぁ…うん、いつも以上にうじうじしてる」

 深白も一年前、稼業を継ぐために独り立ちしていた。花道の家元を継ぐというのは、消極的な深白にとっては大変なのだろう。人の上に立つような性格ではないし、深白には少し荷が重いそうで、ここ最近は珍しく瑞月に甘えきっているのだという。

「じゃ、邪魔そうだからあたしそろそろあっち戻る」

「うん、今日はよろしくね」


 瑞月が去っていくと、私も頭を切り替え撮影に臨もうと自分の心を叩いた。


 瑞月がいてくれてよかった。

 ざわついた胸を、欺くことができたから。




    *********



 

 それから一週間。私があなたと顔を合わせることはなかった。


 それもそうだ。瑞月のように技術まわりのスタッフならまだしも、施設のいち、、スタッフがそうそう現場に立ち会うことなどない。情報管理の厳しいこの業界で、関係者でもない人が現場に入るなどありえない話で、ましてこちらはクライアント側なのだから当たり前のことだった。何か理由があって入ったとしても、演者に気安く話かける者などいない。瑞月だってその辺を理解して、コソコソとやってくれているのだから。

 

 私から探しにいけるわけもないし──と、そう思っているうちに、あっという間に一週間が過ぎていた。


 ここでの撮影は一ヶ月あるけれど、私は明日以降、出番に少々の空きができる。今日の夜には一旦向こうに戻って、フィッティングなどの細々した仕事を片付ける予定になっている。そのためにもNGを出さないよう、今は気を引き締めるときだ。仕事のことだけを考えていれば、きっと大丈夫。

「あ、科木さん」

「露木ちゃん?どうしたの?」

「それ、外さないと…夕季さんがうるさいですよ?」

「あーそっか…今日髪アップだもんね…ありがとう」

 私は右耳からそれを外すと、こぶ茶に口をつけて楽屋を後にした。


 大人になれ。

 そう、自分に言い聞かせながら──。



 撮影は順調に進み、お昼と夕方の境くらいになると出番がひと段落したため私は楽屋に戻った。次にくる自分のセリフに目を通しながら時間を潰しつつ、お手洗いにと楽屋を出たその帰り、急にあたり一帯が暗闇に包まれた。どうやら、近くに落ちた雷の影響らしい。春の嵐といわんばかりに、外の天候は大荒れを見せていたから無理もないだろう。


 ──今はライブシーンの撮影のはずだけれど、どういう感じになってるんだろう。一旦中断かな…こういうときの空き時間は不安定で困るんだよね…。


 そう思いながら、まあ楽屋から近かったし戻れるでしょと、私は暗闇の中を歩いてみることにした。


 しかしどういうわけか、歩けど歩けど楽屋は一向に姿を現さない。もともとほんの少し方向音痴ぎみ、、だけれど、きっと暗いから。そうに違いない。そう自分を励ましていると、その暗さを余計に意識してしまい背筋のあたりがゾッとなった。

 知らない場所で一人きり。行き先はわからないし、スマホを楽屋に置いてきたせいでこの暗闇から出ることもできない。なんだか、今の状況は私の人生によく似ている。


 寒いし怖いし、早く電気つかないかな。

 そう思いながら歩みを進めた先で、身体がなにかにドンッと、ぶつかった。


 ──感触からして人っぽいけど…こんなところで?露木ちゃん?

 

 光のないここでは、目を凝らしても視覚はさほど頼りにならない。私は声という情報を求めて口を開きかけた。




「春…」




 けれどそれは聞くより先に向こうから戸を叩いてきた。


 たった二文字、呼ばれるだけでわかる。

 ここで私をそう呼ぶのは瑞月と──。



「きょう、ちゃん…?」



 どうして私だとわかったのだろう。こんなに真っ暗なのに。



「こんなところでどうしたの?」

「楽屋、わからなくなっちゃって…」

「…スマホは?」

「置いてきちゃった……お手洗い、行ってたから…」

 ボソボソと言い訳のように答える。

「そっか…春の楽屋一緒に──…春?」

 案内しようとあなたがふいに私の手を取って、暗闇に震えていたことがばれてしまった。

「…怖い?」

「………ちょっと、だけ。」

 子どもみたいで恥ずかしくて、小さな声でそう言うと、あなたの手が私のそれをぎゅっと握った。

 懐かしい感触に頬がだらしなくなって、手だけでなく心までもそうされているような、そんな感覚に襲われる。


 暗くてよかった。この顔を見られたくはないし、こうして暗いところなら、あなたと少しばかり自然に会話ができる。


「あっ、あぁ、ごめん…」

 あなたは無意識だったのか、我に返るようにそれを解こうと力を緩める。けれど、私はぐっと掴んで離さなかった。

「………いかないで…」

「……」

 すぐ振り払われるかと思ったけれど、戸惑いがちにその手がゆっくり力を取り戻していく。


 そのぬくもりに安心して恐怖という感情はなくなるのに、そのぬくもりにときめいて心は落ち着けないまま。

 この鼓動に気づかれてしまったらどうしよう。どんな言い訳なら、あなたをごまかせるだろう。


 そう思ったとき、かすかに感じた。

 俯いた瞼に突き刺さる、やさしい眼差しを。

 

 あなたが私を見つめている。

 そんな気がして視線をあげても、暗闇に不慣れな眼ではよくわからない。それなのに、見えもしないのに。その方向から視線を外すことができず、釘付けになる。

 あなたと見つめ合っている。

 そう思うだけで、どこからか見えない波が押し寄せてくる。

 

 早く戻らないと露木ちゃんに心配をかけてしまうのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように、私はそこから動くことも、瞬きをすることもできなくなっていた。


 どれくらいそうしていたのか。しばらく経って左頬あたりの空気がほんのり動くと、ひんやりとしたものが触れた。


「……きょうちゃん…?」


 少し冷たい、あなたの手。なぜだかあたたかく感じるそれが頬に降り、その懐かしさに心の水面が揺り動かされてしまう。

 頬が熱を帯びている隙に、淀んだ空気が次は大きめに動いた。鼻先でかすかに触れたのは、あなたの脆い息。


 あなたが私に近づいてきている。

 そんなわけないのに、そうじゃないとわかっているのに、淡い期待が愚かにも瞼を閉じさせようとした。



 そのとき──。



 それを遮るように、ふたりは光に包まれてしまった。


 蛍光灯の強い明かりが差して急な眩しさに目を細めるうち、あなたは"ごめん"と、そう言って走り去っていった。


 あなたがなにをしようとしたのか。

 私がなにを受け入れようとしたのか。


 それは暗がりではよくわからない。


 そういうことにしろと、私の頭がそう言っていた。




    *********




「……どうぞ…」

「おじゃまします…」 

 ドアが開かれると、先に中に入るよう促される。戸惑いを抱えながらゆっくり足を踏み入れ、雨に汚されたヒールを片方ずつ脱いだ。

 自然と目の前の階段に向かう足を、その声が止める。

「あ、ちょ…こっち…タオル出すから…」

「あっ、ごめん…」

「いや…。」

 無意識とは恐ろしいものだ。何年経とうが、身体が勝手に動いてしまう。


 玄関からさほど遠くはないのに、洗面所までの距離がいやに長く感じられる。

 中に入ると大きめのグレーのタオルを手渡され、懐かしい匂いが鼻を掠めた。

「これつかって」

「ありがとう」

「……風邪ひくから、先はいる?」

 ぎこちなく指差されたお風呂場。それも記憶の隅にずっと眠っていたもの。

「うん……あ、でも」

「あー、そっか…ちょっと待っててなんか持ってくる」

 着替えを取りに行った背中を見送ると、この季節の雨にすっかり冷え切ってしまった耳を研ぎ澄ませる。

 バタンッ──と上の階のドアが閉まる音を確認し、私は心のうちを放出するように深く息づいた。




「どうしよう、これ……」




 私は今。


 あなたの家にいる。





 ことの発端は数時間前。

 暗がりに頭をごまかしたすぐあとのこと。


「どうしましょう…」

「んー、どうしようね…」

 

 露木ちゃんが頭を悩ませていたのは、そのあとのスケジュールのことだった。電気は戻ったけれど、機材の都合で撮り終えていたデータの一部が消失。明日からのスケジュールを組み直すことになり、今日の撮影もそこで中断された。

 もともと私は明日からこの案件に関してはオフ。一旦むこう戻るため空港に向かう予定だったが、雷雨と強風によって飛行機が飛ぶことはなかった。国内便ですら相次いで欠航が発生し、いくら待ったところで今日の便はない。日本での滞在を余儀なくされたが、こうなることは想定外。ホテルの手配などなく途方に暮れていた。

 露木ちゃんが悪いわけではない。夕季ちゃんがいたところで、そこまで手を回してはいなかっただろう。

 都心から少し離れた地域で、そもそもホテルの数は少ない。まして所属の私を泊めるとなれば、露木ちゃんの希望に敵うものを見つけるのは難しかった。

 この天候では空だけでなく、地上の運行状況も悪い。移動することも良い案とは言えず、幼い担当は考えあぐねていた。

 下手になにかあって責任を問われてしまうのは露木ちゃんだ。どこでもいいとも言えず、私は大人しく彼女の判断を待った。

「ちょっといいところないか聞いてきます!」

「うん、無理しなくていいからね」

「はーい!しまーす!」

 露木ちゃんはやっぱりちょっと変わっているな、そう思いながら雑誌を読んで時間を潰した。


「科木さん!ありましたよ!いいところ!!」

「ん~?…って、瑞月?」

「おつかれ、春」

 数分経って、勢いよく戻ってきた彼女はなぜだか瑞月を従えて、目をひんむくような提案を私にぶつけてきた。

「ご友人がいたならそう言ってくださいよぉ!」

「???」

「一番安全じゃないですか!」

「…ごめん、なんの話?」

「頃の家、泊まりなよ」

「きょうのいえ……え、えぇ?」

 なんの冗談かと、私は顔を少し前に押し出すようにして、続く瑞月の言葉を待った。

「まだあそこ住んでるから」

「…から?」

「あいつ今日車で帰ると思うし…どっちにしろちょうどいいでしょ」

「え、なにが?」

「……いいから行きなよ。見てて鬱陶しい」

「ちょ、ちょっと、瑞月!」

 私はそのまま瑞月に背を押され、気づくとあなたの運転する車の中に放り込まれていた。


 あなたもどうやら瑞月に無理やり説得されたようで。

「………さむくない?」

「うん…ごめんね、急に」

「気にしないで。わるいの瑞月でしょ」

 車内での会話はそれだけだった。


 車運転するんだ。今は自転車じゃないんだね。

 さっき、あの暗闇であったことって──。


 本当はそんな会話をしたかったけれど。ミラー越しの真剣な顔にまた落ち着きをなくした私は、移動中ずっと口をつぐんでいた。


 ──普通、友人とはいえ任せないでしょ…露木ちゃん、あとで夕季ちゃんに怒られてもしらないから…。


 私はため息をつきながら、雨がなぐる車の窓をじっと眺めていた。

 

 

   *********



「お風呂ありがとう…あと、これも…」

「あ、あぁ……ん。」

 貸してくれたパーカー。私には少しサイズが大きくて、それに着られている姿を見られることが気恥ずかしい。

「なんか食べたいものある?」

「なんでもいいの?」

「作れるものなら」

「じゃあ……オムライス」

「……ん。ソファでも座ってて」

 私はソファに腰をおろすと、ふっと息をついた。

 あなたの家の匂い、身体中を包む柔軟剤の香り。それからソファの感触に、時計の針の音。懐かしいそのすべてにどうにかなってしまいそうで、私は頭を小さく振って余計なことを考えるなと自分に言い聞かせた。



「はい、おいしいかは保証できないけど…」

 しばらく経ってあなたがキッチンから戻ってくると、その両手には湯気のあがったオムライス。

「ありがとう…──きょうちゃん?」

「んえ?」

「座らないの?」

「……あ、いや…こっちで食べようと思って…」

「…?…椅子使ったら?」

「…じゃあ…失礼、します…」

 気まずいのはわかるけれど、だったら私が床で食べるのに──そう思いつつ、向かいの席に腰をおろしたあなたと、いただきますと手を合わせた。

「──おいしい」

「…ん」

 こうして向かい合ってご飯を食べるのは一体いつぶりなのだろう。

 優しい味つけのシンプルなオムライス。あのころよく食べに連れて行ってくれたけれど、あなたの作ったそれは初めてで、つい頬が緩みそうになる。

「あ、飲み物出すわ」

 席を立ったあなたの背中を確認すると、私は入り込んでいた卵の殻をこっそりティッシュにくるんだ。卵を割るの、きょうちゃんは上手だったような気がするけれど記憶違いかな…そう不思議に思いながら、足元のごみ箱にそれをポイッと放り込む。

「ごめん、うちこぶ茶ないけど…どうぞ」

「……んーん、ありがとう」 

 ──私がこぶ茶好きだって、まだ覚えてるんだ。

 あなたの発言に他意はない。それをわかっているのに、こんな些細なことでときめいてしまい心がむず痒い。

 私はよくない感情を追い払うように髪を耳に追いやって、オムライスだけに集中しようと食事に手を戻した。

「……春、それ──」

「頃ーッ!!!」

 私を指差してあなたがなにかを言いかけたけれど、ガチャッと雑に開けられたドアの音とそれに続く明るい声に遮られてしまった。

「げ、よう……」

「あんた帰ってくるなら連絡くらい…あら?こんな夜中に女連れ込んでなぁにしてんの?」

 声色からして、きっとはじめましての女性。

 もしかしたら、あなたの──。

 そう考えて動揺してしまい、顔をうまく見ることができない。

「連れ込んでねえよ…そっちこそ帰るなら連絡しろ…」

「いいじゃない~、自分の家なんだからいつ帰ったって~」


 やっぱり、そう、、なのかな。でもお邪魔しているのはこちらの方だし、挨拶はしないと。もうここは、私の居場所ではないのだから。


「あの、こんばんは…遅い時間にお邪魔してすみません…」

「こんばんはぁ~!……って……ふゆ…?」

 その人が口にしたのは母の名前。それに驚いて顔をあげて、その顔つきにびっくりして、それから少しホッとした。

 

 ──結さんにそっくり。この人、きっと親族だ…あれ…どうして私、安心なんて…。


「だれだよもう…よう、あっち行ってて」

「あっ、ごめんねぇ、昔の知り合いにそっくりで〜!苗字、科木しなきとかだったりする?」

「あ、はい…冬は私の母です」

 そういえば、いつだったかの母と祖母の会話で"ようちゃん"という名前を聞いたような気がする。この人が、その人なのだろうか。母の知り合い──にしては、ずいぶんと若いけれど…。

「なるほどねぇ……あんた、好きなんでしょ?」

 その人が私を舐めるように見たあとで、あなたにそう言った。

「ブッッッ!!……グホッ、ゲホッ」

「顔真っ赤にしてガキだねぇー、恋愛とか興味あったんだ?」

「もうっ!いいから出てけって!!!」

 ようと呼ばれたその人の腕を掴むと、あなたはドアの外に放り投げるようにして追い出してしまった。



 その間、私は呆然としていた。


 その人の言うとおり。顔も耳も、首までも。あなたがその身を赤く染めあげていたから。





 ねえ、きょうちゃん。



 あなたもしかして、まだ──。



「ったく…ほんとあいつは…」



 あれから十四年も経っているのに……もしかしてずっと…?



 "恋愛とか興味あったんだ"



 誰にも。


 その間、誰にも、なの……?


 

 自惚れじゃないなら、どうしてそんなに赤くなって、首筋を掻いて…その癖が照れたときのやつだって、私、忘れてないのに。


「……ごめん。気にしないで、ほんとに。」

「…………母です…」


 そうやって、なんでもないように会話を続けるのも。


「あのひと苦労とか知らないから、ずっとあの見た目で勘弁してほしい」

 

 急に早口で饒舌になるのも。



 全部、そう、、だから……?




「明日、何時って言ったっけ…あ、いいよ私どくからここ座ってて」

「……9時に出れば大丈夫」

「ん。起きたらすぐ送ってく」

「…うん」

「あぁ、あの、私は自分の部屋で寝るから…春は、結の部屋で…」

「………」

「あーっと……同じ階いやだったら、私ソファで寝るけど…」

「ううん…」

 


   *********



「じゃあ…おやすみ」

「うん、おやすみ」

 そう言って、あなたとは部屋の前で別れた。

 今は使われていない結さんの部屋。あのころ何度か入ったことがあるけれど、今はそんなことを懐かしんでいる余裕もない。

 とにかく早く布団に入ろうと、それをめくればまたあなたの柔軟剤の香り。


 頭がおかしくなってしまいそう。

 

 夕食のあと、私は苦しくてなにも言うことができなかった。

 あなたが瞳を揺らしているのは、気まずいからじゃない。まだ私を想っているからだと、その気持ちに気づいてしまった胸がはちきれそうで、会話なんてできる状態ではなかった。

 早く私のことを忘れてほしいと、なにもあなたに残すことができなかった。訳も言わずに逃げ出して、再会しても謝ることすらできなくて。そんな卑怯な私を、あなたは恨んでさえいるべきなのに。

 

 それなのにまだあなたの心には私が居て、この十四年の間、ずっとあなたを苦しめ続けていた。


 結婚式だって。あなたはあのときどんな気持ちでそこにきて、どんな気持ちでそう、、言ったんだろう。

 私の幼稚な言葉に、どれほど心を潰して──。


 今日だってそうだ。あの暗闇でどんな想いで手を握って……どんな想いで私を車に乗せて。

 

 オムライスなんて、言わなければよかった。殻が入っていたのは動揺していたから。床に座ろうとしたのだって──。


 隣に座らないようにソファから移動したり、起きたらすぐ送っていくと言って、私を違う部屋に寝かせたり。



 きょうちゃん…。


 あなた今、隣の部屋で、どんな気持ちで──…。



 苦しくて泣いた。苦しいのは私じゃないのに、私を想うあなたを想って、私は泣いた。

 こうなってはいけなかった。私はあなたに、私を忘れてもらわなければならなかったのに。


 自分勝手に恋をして突然離れ、他の人と一緒になった姿を見せつけて。そしてまた目の前に現れるなんて、一体どれほどあなたを傷つければ気が済むのだろう。


 どうして気づけなかったのか。私があなたに恋をするたび、あなたも同じだけの想いを重ねてその根を張り巡らせていたことに。


 花を引き抜いたってなにも意味はない。

 私はあなたの中に、恋心を残してしまったのだ。


 夜がくるたび想って、夢で出会えば心を惹かれ、目が覚めてまた恋をして。


 きょうちゃんもこの十四年、ずっとそんな繰り返しでいたの…?



 ごめんなさい。

 あなたに恋をして、ごめんなさい。

 


 いくら唇を噛みしめても、次々に溢れる涙を止めることはかなわない。

 口元が痛めば痛むほど、それにあなたの心の痛みが重なりこぼれ落ちていく。

 

 涙も、感情も、想いも全部。




「春…?どうしたの?」



  

 そのとき、ドアの外からあなたの声が聞こえた。

 

 必死に息を潜める。


 だめだ。泣いてはいけない。私はまたあなたに心配をかけて、その傷を増やそうとしている。これ以上、この人を傷つけていいわけがない。だからお願い、止まって。



「泣いてるの…?」


「……ううん…!」



 明るい声を必死に演じる。私はステージに立つ身だ。演技だって評価は高い。大丈夫、きっとごまかせる。観客はあなただけなんだから。




 ──ガチャ──




 それなのに。



 どうして。



 ドアは開いてしまうんだろう。



 

 一歩一歩、あなたが近づいてくるのがわかる。

 最後の抵抗で布団に潜り込んでも、ベッドの脇で足を止めたあなたによってそれが控えめにめくり取られ、なんの意味もなさなかった。


「…春、泣いてるよ…」


 涙で滲んで、あなたが見えない。


 どうしよう。


 止まれと思えば思うほど、大粒のそれが溢れて止まらない。心も感情もぜんぶぜんぶ、あなたに向かっていってしまいそうになる。


「旦那さんとなんかあった…?」


 冷たい親指がその一粒一粒をすくいあげるように拭って、大好きな声がそう言って。




 ねえ、なんで。



 なんできょうちゃん、そんなこと言うの。




 私こんなにずるいのに。

 どうして私の心配なんてするの。





 なんで、なんで──。




 もう限界だった。


 私は目の前のあなたに飛びついて両腕を首の後ろへ回すと、痛いくらいにしがみついた。



「…きょう、ちゃん…っ、きょうちゃん…」



 涙まじりに何度も名前を呼ぶ。


 あなたがここにいるのを確かめながら肩に顔をうずめ、境目なんて一瞬もできないくらい強く引き寄せる。



「……春…?」



 その声が好き。

 私を呼ぶ、せせらぎのような声が。



「どうしたの…?」



 その瞳が好き。

 私を包む、木漏れ日のような瞳が。



「…きょうちゃんっ……わたし、わたしっ…ごめんなさい…」



 言ってはいけないとわかっている。

 頭ではわかっているのに。それなのに。




 もうこれ以上、あなたへ向かうこの想いを潜めておくことなんてできやしない。






「……私、」




















「まだ、きょうちゃんのこと……んっ──」









 すべて言い終える前に、唇に降ってきたのは熱いものだった。次々と注がれるそれが私の言葉を止め続ける。

 

 震える瞳が伝えていた──はかない言葉なんて、必要ないと。


 そっか。私があなたの心をわかるように、あなたも私の想いがわかるんだ。

 きっと好きとか、そんな言葉にこだわっていたのは私だけで。そんなものがなくても、あのころからあなたの心にそれはしっかり届いていたんだ。



 触れた唇が溶けそうに熱い。キスをして離れて。近づいてまたキスをして。

 手を伸ばして。手が触れて。

 吐息も目線も全部絡まりながら、あなたの瞳に沈められる。


 その一瞬一瞬をすべて焼きつけるように、何度も何度も。


 濡れた瞳が、私を呼ぶ掠れた声が、震えるその指先が。あなたの全部が私を狂わせていく。


 まるでこの夜を止めないように何度も繰り返して、耳にこだまするその甘い囁きに意識すらふやけてしまいそう。


 もう、夢じゃない──。

 触れ合う瞳に心が締めつけられ、そのやさしい痛みが私にそう教えてくれた。

 




 心の奥でちいさくなっていた光がそのともしびを大きく揺らし、あのころの恋が形をそのままに息吹をあげた。

 胸のうちに秘めた想いをすべて両手に抱えて、私は夜のむこうへあなたと逃げだした。だれも見つけられないような、陽のあたる静かな場所を求めて。そのシナリオを、丸ごと全部書き換えて。






 捨てきれなかった想いが二人を包み込み、あのころと同じつぼみが生った。


 終わらない押し寄せる波を見つめていたのは、潤んだ月と瞳だけ。




 







 あなたと過ごす三度目の春。

 心を埋め尽くしていた雨音は止んだ──。





──ep.8 冬の要──


 

 眩しすぎる春の日差しに、あなたが目を覚ます。

 まだ慣れない目を瞬きで馴染ませる様子に、胸の中心がきゅっと疼くのを感じる。

  

 目の前にあなたの顔。

 ほころんだ柔らかいそのまなざし。

「おはよう、きょうちゃん」

 あなたの存在をまた確かめるように、まだ眠そうに蕩けた瞳に問いかけた。

「おはよう、春」

 掠れ気味に囁くその声が、朝日に照らされても幸せが消え去らないことを私に強く実感させる。





 そこら中に広がる甘い空気に包まれた次の朝。

 私は言った。ずっと、あなたのことだけを想って生きてきたのだと。


 いろんな話をした。離れていた時間をかけ足で取り戻すように。その距離を愛情で埋めるように。


 親のこと。仕事のこと。

 もう籍を抜いていること。

 あなたを忘れようと思ったこと。

 ずっと、謝りたかったこと。


 今もまだ、あなたを想っていること。


 今まで言いたかったそのすべてをすくいあげ、ひとつたりとも漏れがないように、言葉足らずにならないように、ごめんなさいと謝りながら。


 あなたは私の言葉ひとつひとつに頷いて。


「好きだよ、春」


 と、私が謝るたび、それしか言いはしなかった。

 

 十四年間、それしか言いたいことがなかったのだと、そう言って笑いながら泣いていた。

 


「これ、昨日びっくりした…」

「あ……」

「まだ待っててくれたんだ」

 あなたが私の耳たぶにそっと触れて、私はそれを付けたままだったと気づかされた。

 ──夕食のときに言いかけてたのって、それだったんだ。

「また開けたんだ?ピアス」

「んーん、あけてない」

「え、だって」

「きょうちゃんがあけてくれたやつ。ほんとはずっと大事にしてたの…」

 やっと言えた。ずっと言いたかった。

「ほら、こっちは開けてない」

 髪をのけて左耳を見せる。私はあなたしかいらないと、そう伝えるように。

「…春……」

「ずっと、きょうちゃんだけだったから」

 私が微笑んで。あなたが泣いて。それを見て私も泣いて。次はあなたがそれに笑って。


 繰り返される甘い朝。もう二人の間には、そよ風すらも通る隙はなかった──。




    *********




 再び想いを重ね合った私たちは、空白の時間を埋めるようにあのころを追いかけた。笑ったり怒ったり、泣いたりしながら。

 気持ちをたしかめ合って、あなたと一緒に暮らして。何度も季節を入れ替えて、またストーリーを転がして。


 そんなふうにやさしい光に満ちた日々を過ごしていても、たまにあなたの瞳が曇る日もある。

 今回もそう。なにに悩んでいるのかわからないけれど、遠い目を浮かべてぼーっとして。最初はあたたかい季節にぼんやりしているだけかと思ったけれど、夕飯に卵の殻が大量発生したところで、なにかあるんだろうなと勘づいていた。でも無理やり聞き出すのもどうかと思い、私はあなたから話してくれるまで問い詰めることはしなかった。


 数日経ってやっと話す気になったようで、あなたはとぼとぼ帰ってくると捨てられてた子犬のような顔をしてポツポツと語り出した──本当は、あなたの相談相手の深白から大体のことは聞いていたのだけれど。

 

「あの、春はさ…」

「うん?」

「私が同性なのって、どう…思ってる?」

「……ん?」

「いやだから、なんといいますか…」

 

 もたついたあなたの長い話を要約すると、幸せを感じれば感じるほど、それを私にも返せているのか、私を幸せにできるのか不安でたまらない。一度結婚をしている私の横にいるのが、本当に自分でいいのかわからない。同性の自分が隣にいることで、私が傷つけられるかもしれない──簡潔にまとめるとこんなところ。


「───と、いうわけなんですけど…」

「だから最近、そんな顔ばっかしてたの?」

「いや、あの、まあ……はい…」

「どっちでもいいよ」

「……はい?」

 その言葉の意味がわからないようで、あなたは首をかしげた。

「きょうちゃんが女でも男でも、どっちでもいい」

「……そうなの?」

「きょうちゃんは私が男だったらやなの?」

「やじゃないけど」

 眼をきょろっと上にしてクスッと笑ったところを見ると、きっと変な想像でもしているご様子。

「それと一緒。関係ないの、そんなの。きょうちゃんだからってだけ」

「……ありがとう、ございます…?」

「そんなことで最近ずっと卵の殻入り込んでたわけ?」

「あー……だから今日春が作るって言いだしたの?」

「うん、だめ?」

「だめじゃないけど…春の料理は……」

「もうっ!」

 私はあなたの手をぺちぺちと叩いてやった。私の料理が美味しくないのは、自分だってわかっているのだから、なにも言わなくてもいいのに。それを受けても幸せそうな顔をしているあなたを見て、やっぱり好きだな。そう思った。


「いたた…春、いたいって」

「うれしそうな顔してるくせに」

「あ、ばれた?」

「もうっ……結婚できなくても、私はきょうちゃんがいい」

「…春──…」

 あなたが私にゆっくりと近づいて距離を縮める。

 でもごめんきょうちゃん、今は──。

「すればいいじゃない?」

「よよよよ、よう?!」

 そう、来てるの。あなたのお母さん。


「なにしてっ、てか、くるなっていってんだろ?!」

「あんたに会いにきたんじゃないわよ、春とこのあとお酒飲むの!」

「もう飲んでんじゃん…てか春って呼ぶな、あと勝手に誘うな」

「きょうちゃん、誘ったの私」

「ねーっ、春ーっ」

 今や私は、あなたよりもあなたのお母さんと仲良くなっていた。頻繁に連絡を取っては、よくあなたの愚痴のろけを聞いてもらっている。あなたは頭を抱えながら、要も結も春に絡むなって、よく言っているけれど。


「結婚したらいいのよ、そんなのは」

「ばか、結婚できねの」

「式あげちゃえばいいのよ、戸籍がどうだってそんなの後からついてくるんだから」

「あのねぇ…」

「私だって女とあげたわよ?結産む前に。家にあったでしょ、ドレスの写真」

「ドレ、ス……あ、あれ?!…ッウ、ゲホッ」

 つまみに、と勝手に冷蔵庫からチーズを取り出すあなたのお母さんのその発言に思いあたる節があったのか、あなたは豪快に咳込んだ。

「あれ父親とじゃないの?!!」

「ちがうわよ」

「だって"一人目の奴"って言ったじゃん!!」

「だから、冬なんじゃない。あんたばか?」

「冬って、誰──え…?…まじ?」

「あれ、きょうちゃんまだ聞いてなかったの?」

「……なんで春は知ってるわけ…」



 そう。私の母の学生時代の恋人。それがあなたのお母さん。

 前に母の口から"ようちゃん"という名前を聞いていたから、その話をあなたのお母さんが教えてくれたときはあまり驚かなかったけれど、こんな運命みたいな話が本当にあるんだなと、表現しきれない気持ちが込み上げた。

 もちろん私の母もまた、私のように敷かれたレールのうえを行くことになっていたから、もともと"学生の間だけ"と二人で決めていたそうだけれど。

「まあ?冬が思ったよりも私にぞっこんだったから、あの写真があるんだけどねぇ」

 母にもそんな一面があるのかと、なんだか少しむず痒くなった。




 それから数日後、インターホンを鳴らしたのはまたあなたのお母さん──その横には母の姿。

 向こうにいた母を電話ひとつで急に呼び出したそうで、部屋にあがるなり、このふたり結婚させていい?とドストレートに言うものだから、私もあなたもすっかりお手上げ状態だった。娘さんをください、って。そんな感じなんだろうけど、映画やドラマとはひと味違うやり口に、さすがあなたのお母さんだなと私はしみじみ感じていた。

「……ようちゃん…急に電話してきて…今までどこいってたのよ…」

 と、母が呆れかえっていたところを見ると、きっとあなたのお母さんは何かやらかしていたのだろう──私のように。

「春ちゃんもいるし…ようちゃん、ちゃんと説明して」

「だからさあ!」

 あなたのお母さんのデタラメな説明。それじゃわかりっこないとあなたは言っていたけれど、母は慣れたものなのか、わりとすんなり理解していた。



    *********



 そして私は、気づけば母と二人で客間に閉じ込められた。あなたと、あなたのお母さんによって。これを機に話せと、そう言われたのだ。


 今の私にはきょうちゃんがいる。

 あなたが私の人生を変えてくれたから、だから、母にすべて打ち明けるのも、もう怖くはなかった。


 私は今までの思いの丈をすべて母に吐き出した。

 姉のことに名前のこと。仕事や、結婚のこと。


 それから、きょうちゃんのことも。


「春ちゃん…ごめんなさい、そうだったのね…」

「ううん、私こそ言えなくてごめんお母さん」

「少し長くなるけど……あなたの名前のこと、話すわね」


 私は唾をごくりとのみ込んだ。

 大丈夫。どんなことを言われても、私にはあなたがついているんだから。


「まずひとつ訂正すると、あなたの姉は"はる"じゃないわ」

「……え?」

「読み仮名まで読まなかったのね…ごめんなさい。あなたの姉は"しゅん"。科木しなき しゅん


 長年の思い込みに、私は開いた口を塞ぐこともできなかった。たしかにあのとき、あまりの衝撃にそこまでの確認はしていなかった。母の言っていることは事実だろう。それがわかると、今までの重荷が半分にはなってくれた。


 でも、それでも──。


「お姉ちゃんの名前を付けたのはお父さん。冬の娘で三月生まれだから"春"の字を使おうって」

「……」

「だけど…同じようなことを言った人がもう一人いたの」

「…もう一人?」

「ええ。そこで聞き耳立ててる人…ようちゃん、聞いたらだめよ!」

 ──やば、ばれた!頃、にげよ!

 そんな声が聞こえて、重い話の最中なのに私は少し笑いそうになってしまった。

「もう知ってると思うから言うけれど、当時私たちは恋仲で…悲しくなるから将来の話はあまりしなかった。でも一度だけ、子どもが生まれたらって、そんな話をしたことがあったの」

「……」

 私は黙って母の話に耳を傾けた。

「そのときあの人言ったの。──ハルだね。冬はあったかいのに冷たい名前だから、生まれる子はハルみたいなあったかい名前がいい──って」

「……あったかい名前…」

「どんな字がいいかまでは深く話さなかったけれど……私は心のどこかでずっとそれが忘れられなかった……本当に身勝手な話で、あなたには何の関係もないのに」

 母は切ない表情を浮かべながら何かを必死に堪えるように下唇を噛んで、それでも話しを続けてくれた。


「あなたのお姉ちゃんはものすごく未熟児だったの。予定日より何日も前に出てきてしまった。だから身体が弱くて、なかなか病院からも出てこれなくて。生まれて一年目に、ね…」

「しゅんちゃんが亡くなって、私は塞ぎ込んでいたけれど、そんなときにあなたは私のところにきてくれた」

「嬉しくて、自分で名前をあげたいって、おばあちゃんとあなたのお父さんとずいぶん喧嘩したわ…でも、私は譲れなかったの」

「どうしても、ハルをあなたにあげたくて。字はね、"陽"と"桜"で迷っていたの。あなたの顔を見てから決めようと思っててね?」

「でも分娩室であなたに会ったとき、そのあたたかい笑顔が、まるで新しい季節の日差しに喜ぶ芽生えのようだと思った」

「陽も桜も、そのすべてを纏った、春──その字が頭に浮かんできた。でも……そう思っていたとき、急にあの人きたのよ、病院に」

「しゅんちゃんのときはこなかったくせに。ようちゃんっていつも勝手にいなくなるから、そのときもどこにいってたのかわからなかったんだけどね?なにも言わずに、急にきたの」

「それで、あなたを見て言ったわ。名前は?って」

「私はまだ決めてないって答えた。そしたらあの人こういったの」


 ──うーん。きょうみたいな子だね。

 ──きょう?

 ──うん、外めっちゃあったかいから──…春。

 ──え?

 ──季節の春。そんな顔してる。


「私は胸が熱くなった。あなたにあげたかったその名前を、その字を、あの人が口にしたから。だから、心が決まったの。亡くなった子の漢字を使うなんてって、おばあちゃんに怒られてあなたのお父さんと喧嘩して…」



「それでも、私はあなたをはるだと思った。」



「でもそれがあなたの重荷になっていたなんて…私は母親失格ね…」

「お母さん……」

 私は母の話を聞いて涙がこぼれていた。

 きっと私が母の代に生まれていたら、同じことをしていた。そう思ったからだろう。

「本当にごめんなさい。私の身勝手な思いであなたを苦しめて」

「……私こそ、ごめんなさい」

「ううん。あなたは悪くない。私はあなたに、自分と同じ思いはさせない。だから、おばあちゃんのことも仕事のことも気にしなくていい。あなたが心に決めた人と一緒に笑っていきなさい。その春の日差しのような笑顔で、ね?」

 頬を伝う涙が、ぽたぽたと床に落ちていく。

 母はいつのときも私を想ってくれていたのに、私は今までなんて独りよがりだったのだろう。

「でもまさか、ようちゃんも同じ年の子を産んでるなんて…あなたたちが恋仲なのもびっくりだわ…」

 そう言って、母は少しはにかみがちに幸せそうな笑顔を見せた。


 それは、初めて見る顔だった。



 母が居て、あなたのお母さんがいて。

 私が居て、あなたがいる。


 この不思議なめぐり合わせは、きっと星まわり──。



    *********



「ということで、いい?結婚させちゃっても」

「ようちゃん、結婚と式は別だってば……」

「同じようなもんでしょ」

「病気とか、相続とか…いろいろあるの…」

「でも愛してるってことは同じでしょ。だから私、冬と挙げたんだし」

「……もうっ、娘の前で…」

「照れてんの?変んないねぇー冬は」

 キッチンの奥から聞こえるその会話。私たちとはパワーバランスがまるで逆な母たちのそれに、私もあなたも少し気まずい思いを抱いていたとき、それに気づいたのか母がリビングに顔を出した。

「今度こそ、春ちゃんの好きなようにしてね。会社はどうにでもできるから。あ、あときょうちゃん?ようちゃんみたいになったらだめよ?」

 そう母がいたずらに笑って、あなたは当たり前といわんばかりに深く頷いた。



 ──そういえばお母さんが来てからずいぶん無口だけれど、もしかしてあなた、人見知りしてる?



「きょうちゃん」

「ん?」

「もしかして、人見知りしてる?」

「んん?んーん」

 首を横に振っても、その文字でしかしゃべれなくなったあなたはそれを認めているようなもので。それがどうしようもなくかわいくて、私は母がいることも忘れまたあなたに夢中になってしまう。


「ねえ」

「ん?」

「式、あげちゃおっか」

 ほんの少し上目遣いで、そう問いかけた。

「……まじ?」

「いやなの?」

 そうじゃないとわかってて、いじわるをあげた。

「いやとかじゃ…」

 それからあなたに、もう一押し。

「だめ?」

「………」



 ──……だめじゃない。



 あなたが仕方ないなとそう言って。私がそれに微笑んで。横で母たちが"逆ね"と笑い合い、それを聞いたあなたが首筋を掻いた。








 そうして、あなたと過ごす何度目かの春。


 私とあなたは、白く包まれようとしている──。





──ep.9 春の頃──



 ──健やかなる時も 病める時も

 ──喜びの時も 悲しみの時も

 ──富める時も 貧しい時も

 ──これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い

 ──その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか








 「……つつじみたい…」




 「…………きょうちゃんっ、返事っ」




 「あっ、あぁ、はい、誓います」




 

 見惚れてくれるのは嬉しいけれど、誓いの言葉の返事は忘れないでほしい。

 私だって、白く澄んだあなたを前に、いっぱいいっぱいなんだから。


 

 この日のために二人で選んだ指輪。

 その交換も、なんだかおぼつかないあなたがかわいくて、告白された日のことを思いだしたりして。


 ベールアップの震える手。

 私を抱きしめるときのあなたの手と同じ。大切なものに触れるような、そんな穏やかでやさしい揺らぎ。

 


 不器用なあなたが私の胸をいっぱいにするから、私はその分、あなたを幸せにしたいと思う。

 どれくらいの想いを胸に抱えたら、あなたにそれが伝わるかな。



「ねえ、きょうちゃん」


「ん?」















「あの日のワンピースと、どっちが好き?」



















 「……きょうの春。」


















「──好き…」

 


 



 やっと言えたその言葉も。

 初めて私からする口づけも。



 そして私自身もぜんぶぜんぶ。

 あなたにあげたくて。あなただけにもらってほしくて。



 誓いのキスはあなたからの予定だったのに。

 先に飛びついてごめんね。




 だって、なんだか。

 あなたのものだって、そう言われているみたいで、うれしかったから。







「春」






「うん?」







「…あいしてる」







「……もうっ、きょうちゃんすぐ先いっちゃう……」







 ──私も、あいしてる。









 芽はつぼみになって、またあのころと同じ花を咲かせた──。










   *********





 

 

 

 



 想いは形にならないから、言葉は消えてしまうから。

 私はいつのときも、あなたの手に触れて、その瞳を見つめていたい。

 

 

 そして見つめ返すあなたの隣で、ともに季節を染めていきたい。

 





 


「きょうちゃん」

「ん?」

「帰り送って?」

「……え、チャリで?」

「ふふ、ウェディングドレスでも後ろ乗せてくれる?」

「……ん。」









 春の頃の恋は、まだ。───────




 

 







 




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この恋が、終わらない ~春の頃の恋は、まだ~ 音瀬。 @otose_

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