この恋が、終わらない ~春の頃の恋は、まだ~

音瀬。

この恋が、終わらない


──ep.1 ほこりまみれの──



 退屈な場所を抜けて小さなガラス扉を開くと、木陰の隅に木製の古びたベンチがぽつりと佇んでいた。

 ところどころ異なる色合いを持ったそれに違和感を感じて軽く触れてみると、心なしか少し湿り気を感じる。


 昨日の今日だ。この陽あたりでは乾かなくとも不思議ではないだろう。


 せっかくの日に服が汚れてしまっても困る。

 そう思いベンチから離れると、木陰の先で痛いほどこちらを見つめる太陽と目が合ってしまった。


 生暖かいそよ風が、やんわりとまつげを揺らす。


 風に目を眇めても、瞼の裏までその明るさが届くほど、雲ひとつない高い青。

 それはまるで、今日という日を私に実感させるように深く、底のない色だった。


 青すぎる空に手を伸ばし、何を思うわけでもなくその温度を手の平で受け止めた。

 じわじわと、ゆっくり汗が滲んでいくのを感じる。




 翠雨すいうのしずくをさますようによく晴れた今日。

 




 君は、結婚する──。





 この門出に祝福を謳えるように、私は君との日々を振り返ろう。

 酸いも甘いも。できるだけ、艶やかに。


 君がこの先もどうか、その名に似合うやわらかな笑みで歳月としつきを重ねていけるように。




 私は君との思い出の旅に出る──。





──ep.2 ためらう風に漕いだ季節──



「きょうちゃん、授業おわっちゃったよ?」


 

 窓際の席はその時期、放課後まで暖かさが続くものだから、すっかり眠りほうけてしまっていた。

 5限は現代文だったような気がしたが、いつの間にやら6限も、ホームルームすらも終わりを告げているとは。

 成長期といえど、自分の熟睡具合は感心すら覚えてしまう。


 教科書を開くところまではぎりぎり記憶にあったような気もするが、もしかするとそれすら前日のことだったかもしれないのだから、春の陽気とは末恐ろしい。 


 そう、すべてはこの"春"のせいだ。


「ねえ、起きてるでしょ」

「んーん」

「ほら、起きてる」

 後方にあった声が移動し、突っ伏した頭のうえの方から聞こえたかと思うと、それに合わせてしゃがみこんだ彼女からふわりと甘い匂いが漂った。

 入学して数日経ったころ、何の香水を使っているのかと聞いたことがあったが、それらしきものは何も使っていないらしい。

 自然にこんな良い匂いする人いるの?生まれはお花畑かなにか…?と突っ込んでしまったのも、君がそれに吹きだしたことも、今では心を揺らす遠い記憶のひとつ。


「きょうちゃん、起きないとおいてくよ?」

「…おはよ、春」

 花のようにやさしく香る彼女の匂いはスーッと鼻の奥を抜け、私の心の真ん中をきゅっと掴み身体の温度を上げさせる。

 瞼を軽く持ち上げうっすらと視界を広げると、すぐ目の前には匂いの持ち主が同じく持ち合わせた大きな黒目で退屈そうにこちらを覗いていた。

「きょうちゃん、顔にあとついてる」

「ん、どこ」

「ここ」

 春がいたずらに笑いながら私の頬に触れた。

 近づいたことでより一層強く、春の陽の暖かさにより一層深く、その匂いが漂う。

 まるで、教室中を埋め尽くすように。

 陽を受け、目の前で光沢を放つその長い髪。この香りはそこから生じているのだろうか。

 確かめてみたい気持ちはあったが、手近にと、触れてきたその手を取ってスーッと身体いっぱいに押し込んだ。

「…またやってる」

「春の匂い…」

「する?」

「ん。ねむたくなる…」

「なにそれ、じゃあもうだめ」

 そうは言いつつも、軽く口をすぼめた春がその手を引くことはなかった。


 私を落ち着かせる春の匂い。

 いつまでも香っていたくなるそれは、まるで夏の日の木陰のような、冬の朝の毛布のような。


 ずっと抱えていたくなる。

 そんな匂いだった。


「きょうちゃん置いてかれたいの?」

「…チャリ漕ぐの私じゃん」

「一緒に帰れなくてもいいのって聞いてるの」

 校庭から聞こえる運動部のにぎやかな声。向かいの音楽室から響く吹奏楽部の拙い練習音。騒がしいそれらも、春という主役の前では心地よい背景に姿を変えてしまうのだから不思議なものだ。


「帰りお団子食べたい」

「はいはい…」


 ──今思えば、出会って間もないこのころ私はもう、とっくに君を好きになっていたのかもしれない。




 中学の頃の私は、お世辞にも素行の良い生徒とは言えないようなやつだった。勉強はさして嫌いではなかったが、授業という退屈な時間を過ごす気にもなれず、クラスメイトとも戯れる気は起きなかった。

 それに加え、世間から見れば少々複雑な家庭環境が背中を押したのか、ほとんど学校にも行かずじまい。気づけば毎日いつものゲーセンで時間を潰し、授業よりもよっぽどつまらないときを過ごしていた。


 いつのときも恋愛にかまけた母親がそれに怒ることはなく、むしろ学校なんて行ってもしょうがないと、それを推奨すらしていた。

 父親に関しては物心ついたときからいなかった。この世にいないのか、そこらへんで生きているのかすら分からない。母もそれを口にはしなかったし、私もまた、興味もなく知りたいとは思わなかった。


 たまに家に帰っても、年の離れた姉がいるかいないか。いたところであまり会話もなかったが、会えばお互い、なにをしているのかくらいの情報交換は行われていた。

 幸い、幼いころから面倒をみてくれていた姉の友人が「お前はやればできるんだから高校くらいは行っとけ」と。なんの気まぐれか山ほど参考書を押し付けてくれたおかげで私はなんとか受験を通過し、姉たちと同じ"中卒"というレッテルから逃れることができた。


 とはいえ"ここでも行っとけ"と言われるままに願書を出したその高校が、そこそこ偏差値の高い進学校だとはつゆ知らず──。



    *********



「しかも女子校って…」

 成留なるのやつ、やってくれたな──。

 と。まわりが入学式で浮かれている中、私は門の前でその場に相応しくないため息を一つ落とした。

 とりあえず入学式くらいは記念に出ておこう。後のことはそれから考えれば良い。


 そんなふうに適当に足をつっこんだ先で出会った。


「ねえ、これで"きょう"って読むの?」

「…あー、そう。」 

 

 ホームルームが終わり入学式前の空き時間、先に声をかけてきたのは春のほうだった。


──つづり……ころ…けい?さん?

──あ、それで"きょう"っす。頃で、きょう。

──あらぁ~間違えてごめんねぇ。"綴理つづり きょう"さんね!


 ヨミの確認も兼ねた点呼。若い担任が私の名を間違えるのは当然のこと。逆にどう読んだら"きょう"なんだよ。と、こうなるたびに心の中で母親につっこみを入れているのだから。

 幾度となく行われてきたこのやりとりは面倒そのもの。病院など頻繁に会わないような相手には正すことすらしないが、高校初日くらいは──と。そう思ったあのときの行動が春と話す機会をくれたのだから、気まぐれな自分をたまには褒めてやってもいいかもしれない。

「へえ、おもしろいね」

「…それは、どうも?」

「いい名前だなって」

「……どーも」

 会話というには短く、挨拶というにはちょっぴり長い。

 春との出会いは、そんなふうだったように思う。


 自分のような身なりの生徒はいなかったし、すでにクラスから浮いている私に話しかけてくるもの好きなんていないだろうと、教室でひとり高を括って机に突っ伏していた。

 そんな私のところにやってきたのは、規定どおりの制服をきれいに着飾り黒い髪をなびかせた、いかにも優等生といった感じのクラスメイト。可愛いの代名詞のような顔を引っさげ唐突に声をかけてきたのだから、思わず拍子抜けして会話がおぼつかなくなったことは大目に見てほしい。


 まあ、もう話すこともないだろうしどうでもいいか。


 そう思っていたのに。


「ねえ、きょうちゃん一緒に帰ってもいい?」


 入学式が終わると、春はまた私のところに駆け寄ってきたのだ。

 席が近いわけでもなかったのに。


「……なんで?てかきょうちゃん…?」


 春は自然に私をそう呼んだ──まるで今までずっとそうしてきたかのように。

 そのときの春の声を、私は今でも鮮明に覚えている。いつものそれより少し高くて外行きの…木漏れ日にかけまわる明るい子どものような声だった。


「きょうちゃん何通学なにつう?」

「え、話し聞いてる?」

「だめ?」

「…いや別に…」

 人見知りがちな私と違って春は人懐こい子犬のようで、それまで触れてきたことのないタイプ。つまりは苦手の部類だった。

「私、電車」

「あーごめん、チャリ」

「そっか、じゃあ送って?」

「……は?」

 やっと訳のわからない女から解放される。チャリ通でよかった。

 そう安堵したところで耳に飛び込んできた聞き捨てならない発言に、いぶかしげな顔を隠しきることはできなかった。

「だめ?」

「……あんた家、どこ?」

「春」

「あ?」

科木しなき はる。私の名前」

「あー、そ。で、家どこなの」

 まあ二つ隣の駅なら送ってやってもいいか…。なぜかこの日の私はそう思ってしまった。

 断じて春が可愛かったからとか、いい匂いがしたからとか…そういうわけじゃない。いや、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳と小ぶりなパーツを兼ね備えた春の顔は誰が見たって可愛いが、私のタイプではなかったし。思春期のちょっとした気まぐれが続いていただけ…きっとそうだ。


 惚れた弱みと言えるのはもう少しあとのことだから、とりあえずはそういうことにさせといてほしい。


「はい、乗って」

「ここに?」

「逆にどこ乗るつもりなの」

 鞄のすみっこでぐしゃぐしゃになっていたひざ掛け。

 それを自転車の荷台に敷いてやったのにも関わらず、一向に座る素振りを見せなかった春はやはり、優等生そのものだった。

「歩いて一緒に帰るのかと思った」

「これ引いて?あほくさ、なんのために送るわけそれ」

「お話しするためでしょ?」

「…いいから乗って」

 トントンと荷台を叩き強引にそこへ誘導すると、どこぞの映画の主人公のように足を揃えてちょこんと横乗りしたものだから、私はつい吹き出してしまった。

「…違うの?」

「んーん、いいよそれで」


 変わっているけど、なんだか無邪気で愛らしい。

 私にとっての春の第一印象はそんなところ。


 突き刺すような眩しい西日。それが並木道の風に吹かれた桜の花びらに反射し、きらきらと舞う。

 その中の一枚が目を掠め、自転車がよろけたそのとき。春の両手がぎゅっと、私の腰を掴んだ。

 ちいさくて、まるでその名前のようにあたたかかった。

「怖い?」

「…大丈夫」

「あっそ」

「これ何個開いてるの?」

「…ちょっ!」

 その指先が急に右耳に触れ、手元が狂った私はブレーキをかけた。

「急に、なに…!」

「きょうちゃんのそれ、気になってたから」

「だからって…びっくりするじゃん…」

「ねえ」

「なに」

「耳、よわいの?」

「…っるさい、もう!」

「ふふっ、きょうちゃん。明日も一緒に帰ろう?」

 くすくすと目を細めるその顔が憎たらしくて、ペダルをめいっぱい漕いで光に紛れた春の日暮れどき。


 これが、君との初めての日だった。


 ぺちゃんこの鞄を肩から背中へぶら下げ、かかとをずって歩く私。

 両手でお行儀よくそれを添え、背筋のスッとした春。


 髪色もスカート丈も、ボタンを留める位置さえも。なにもかも正反対の私たちが今日以降仲良くすることはないだろう。このときはそう思って疑わなかった。

 

 でも次の日も。また次の日も。春がしつこく話しかけてくるものだから。


「明日も一緒に帰ろう?」

 そう言うものだから。


 私は、心を許すようになってしまった。




 ──ピアスがいっぱいで気になったから?あと、きょうちゃんの声タイプだったし。


 どうしてあんなにしつこく言い寄ってきたのか、いつだが君に聞いたことがある。

 そんなこと?と思いつつも今はあの日、入学式にも関わらず、ばかみたいにピアスを外していかなかった若気の至りには感謝している。


 この一つでもなければ、あの桜並木での景色も君の手のぬくもりも。

 なにひとつ、思い出に残すことはできなかったかもしれないのだから──。




 それから春との距離が近づくまで、意外なことに時間はさほど必要なかった。

 

 性格も容姿も、そのうえ成績まで良い春は、誰とでも親しくなれる女子校の人気者。いつ目にしても誰かに囲まれている姿は私とは大違いだった。こちらから話かけることもなかったが、春は毎日のように私を起こしにきては、そっけない態度を取る私のそばを離れなかった。

 クラスメイトは私には近寄らなかったし、仲良くするだけ春の株は下がる。絡めば絡むほど損だというのに、そんなことはお構いなしに"きょうちゃんきょうちゃん"と。春はこれでもかと私に付きまとった。

 いつしかそれにすっかり慣れてしまいあっちに行けと言うこともなく、気づけば春が隣にいることは私の日常になっていた。

 そのうえ放課後になれば家まで送れと春が私を突きにくるものだから、中学とは打って変わり、高校をさぼることはなくなった。


 春がいたから、私は変われたように思う。


 真面目に授業を受けていたわけではなかったが、それでも学校というくだらない社会の中で過ごす気が起きたのは、春が変わったおもしろいやつだったからだ。

 私と接するとき、春は他の子といるときのそれとは違う顔を見せる。教室のなかでは"いい子"を演じていたのに、なぜか二人になると強気でわがまま。素顔がどちらなのか、最初は不思議なものだった。


 それが後者であると確信を持ったのは、入学式から何日か経った昼休み。

 隠れて屋上でたばこを吸っていたのがバレたときだったように思う。



    *********



「いつもこんなとこにいたんだ」

「まあ…我慢にも限界というものがあるんで…」


 ──カシャッ──


「──え?」

「よし。」

「いや、撮った?」

「うん」

「…なんで?」

「先生に見せようかなって」

「……えー…」

「そしたらきょうちゃんここ使えなくなるし、一緒にお昼食べれるかなぁって」

「おうおう…」

「どう思う?」

「んー、やめて?」

「じゃあ一個お願い聞いてくれる?」

「…なに?」

「明日から一緒にお昼」

「あー、うん。じゃあまあ…」

「あと、そろそろ──」

 春は私に近づいてきたかと思うと、持っていた8ミリショートをさっと奪い取り、戸惑うことなくそれに口をつけた。

「え、ちょっ、はるっ!!」

「なあに、きょうちゃん」

 かと思えばすぐにそれを遠ざけ、満足げな顔。

「や、なに?意味わかんないってまじ…」

「んー?全然名前呼んでくれないなーと思って」

 春は私の手にそれを戻すと、吸ってなくても匂いしちゃうかな?と軽く髪をなびかせながら、ブレザーの肩の部分をつまんで香った。

「でもきょうちゃん、自分は吸ってるのに私が吸ってたらいやなんだ?」

 ほっとして息をついた私とは対照的なその顔。

 口の端をくいっと上げたまま、春はたいそう嬉しそうに屋上を後にしていった。

「いや…こんなの吸えるかよ……」

 返されたそれを見つめながら、私はため息をひとつふたつ。

 春の小悪魔な一面にやりきれない気持ちを抱えながらズッズッと、たばこの火を力任せにかき消した。



 

 ──あのときなんであんなことしたの?

 ──きょうちゃんの写真撮りたかっただけ。

 ──…たばこは?

 ──んー、内緒?


 なんであんなことをしたのか、いくら聞いても君が教えてくれることはなかったが、あのときの写真をお気に入りと言っては眺め、ほほえんでいた姿が懐かしい。


 あんなの、いつだって撮ることはできたのに──。




 さわやかな風がわかばを揺らし、夏がその顔を出しはじめたころ。

 私と春は、さらにその距離を縮めることになる。

 学校以外で一緒に過ごす時間も次第に増えてはいたものの、所詮は帰路の延長線。そこから初めてはみ出したのは、たしかこんな会話がきっかけだったように思う。


「きょうちゃんって、休みの日なにしてるの?」

「寝てるか、たばこ吸ってるか」

「……早死にしたいの?」

「…外も出るよ」

「どこ?」

「ゲーセン」

「……映画とかは?」

「んー…春、好きなの?」

「うん、一緒に行きたいなぁって」

 そんなこんな、はじめて春と出かけた先は映画館。

 たまに見ることもあったが、そこに足を運ぶことはほとんどなかった。映画も小説も音楽も。そういう類のものは一人で消化したい。誰かが近くにいてはそのものに集中することができないし、感情任せに泣くのもなんだか恥ずかしい。

 映画は部屋で、一人で観るものだ。

 春と出会うまで、私はそう思っていた。


 薄手といえど、長袖では昼間の陽が鬱陶しく感じられる春の終わり。すっかり手入れをさぼられた髪は肩をゆうに超え、その気だるさを一層深いものにしていた。


 待ち合わせ場所の駅。

 学校の最寄りからひとつ先のその駅は、都会というほどではないが少々賑わった場所。徒歩数分のところに大きなショッピングモールがあり、その5階にお目当ての映画館は併設されていた。駅近くの路地裏には、たまり場にしていたゲーセンもあったものだから、そこまで自転車を飛ばすのは当時の私には容易なことだった。


 休日の真昼間から外に出るのはいつぶりだったろう。なかなかベッドから出ることができず、鳴り続けるアラームに背中を押されるように慌てて家を飛び出した。

 慣れた手つきでそれをゲーセンの駐輪場に止めながら腕時計をちらっと確認すると、待ち合わせの時間まではあと1分ほど。

 春のことだ。きっともう駅前で待っているだろう。

 そう思い、待ち合わせの南口へ小走りで足を運ぶと、ロータリー脇の葉陰で涼むその姿を見つけた。

 流れる風にそよいでいたのは、いつものストレートと違い、ふんわりと巻かれた髪。手には小さいながらも厚みのある本。どこかのお嬢様のようなその姿に目を奪われ、吸い込まれるように私はそばへ駆け寄っていった。

「あ、きょうちゃん」

「ごめ、ちょっと寝坊した…」

 騒がしい足音に気づいた春が、本を読む手を止める。

 膝に手をつき呼吸を整えていると、小さめの白いポシェットの中から春は何かを取り出した。

「汗かいてる」

「…ありがと」

 屈んだ春が優しい手つきで額の汗を拭ってくれる。慣れない行為がむず痒くて、私はもういいよとその手を遠ざけた。薄黄色のタオルが額から離れ少し空気が揺れると、ふわりとさわやかな香りが鼻を掠める。春の柔軟剤の匂いはいい匂いだけど、本人の甘い香りとは少し違う。

「なに読んでんの」

「きょうちゃん言ってもわからないでしょ?」

「そりゃあそう」

 くすっと笑った春が読み途中のページへしおりを挟むと、それを合図に二人の足は目的地へと歩き出した。


 たった数分の距離。そこでの会話は学校でするそれとたいして変わりはない。あの先生はあーだとか、あの授業はどーだとか。その話のほとんどに共感を持てなかった私は、あのころ本当に春と同じ教室で過ごしていたのか怪しいところだ。普段寝てばかりの私と春とでは、そのくらい見えている世界も違ったということだろう。


 教室ではやや控えめにしている春が、二人のときは子どものようによく喋る姿が私は好きだった──。


「きょうちゃん!早く!」

 映画館に着くなり、春は嬉しそうに私の腕を引っ張り券売機へと急いだ。

「まじで映画すきじゃん」

「すき!きょうちゃんどこの席がいい?」

「どこでもいいよ、春が観たいとこで」

 本当は後ろの通路席がいい。あまり人が気にならないし、出ようと思えばすぐに出れるし。そのあたりを選びたいところだったが、私は春に任せ、横でぼけっと空席が表示されている画面を眺めていた。


 単純に、どんな席が好きなのかを知りたかったから。


「じゃーあー」

 その指が画面の上をくるくると泳ぐ。

「ここっ」

「お」

 止まったのは、一番後ろの通路席。

「だめ?」

「んーん、さいこう」

「へへ」


 春と私は見た目も中身も正反対だったが、ときどきこうしてピタリとはまる部分もあった。はまらないものも、それはそれでおもしろいと思える許容点であったし、なにより二人で過ごす時間は心地がよかった。春が読んでいた本のタイトルすら気にはならないし、選んだ映画も私の趣味ではなかったが、それでもこの日の思い出を"退屈"という名のついた引き出しに入れようとは思わない。

 お嬢様のような見た目でコメディホラーをチョイスするところも、ポップコーンではなくナチョスを選ぶところも。

 退屈とはほど遠く、今でもこの日の思い出が私の心くすぐっている──。


 春がお手洗いに行っている間、売店で飲み物とそれを購入した私は、フロアのベンチでぼーっと映画のプロモーションを目にしていた。それを真剣に見ていたわけではなく、こんな時間からこんなところであんな子と私は何しているんだろう、と。ひとりになり、我に返っていたのだ。

 当時、私は自分と同じような見た目をした仲間としかつるんでいなかった。もしあいつらと鉢合わせたら、春をどう紹介すればいいのだろうと、そんなことをぼんやり考えていた。

「クラスメイトで優等生で、育ちがよくて……変わった子…?」


 "急に声をかけてきたおもしろいやつ"──このときの私はまだ、春のことをその程度にしか思っていなかった。


 次に春を目にする、その瞬間までは──。


「……あ。」


 広告を見ている視界の端に映り込んできたのは、春の黒いワンピース姿。


 ──そういえば、私服見るの初めてだ。

  

 この日はじめて遠くから彼女を俯瞰的に見て、私はようやくそのことに気がついた。待ち合わせのときはうす暗い日陰にいたものだから、意識していなかったのだ。

 そのときの私の目に映った春のワンピース姿は、心掴むというより、揺り動かすと表現した方が正しいほどに魅力的だった。普段の制服姿も似合ってはいるが、どこか春を私と同じものとして縛る特有のものがある。だが、目線の先で黒いそれに包まれた春は、年相応ながらも大人びた憂いを帯びて、それでいて可憐で…。


 もう、教室で目にしてきた"変わったおもしろいやつ"ではなかった。


 きっとそれがいつもと違って新鮮だったから。

 しとやかな髪が、ゆるりと巻かれているのを初めて目にしたから。


 ──カシャッ──


「撮ったの?」

 私を探し、少し背伸びがちになった春の後ろ姿にスマホのカメラを向けてしまったのは、たぶんそんなところ。

「あー、」

 振り向いたその顔は、幼い子どもを諭すような表情をしていた。

 その視線を受けて言葉に詰まった私はさながら、いたずらがばれた子どものように春の目には映っていたことだろう。

「それ先生に見せるの?」

「いや、見せないけど…」

 どう言い訳しようかと、首筋のあたりを痒いわけでもないのに擦る私を見て、春がふふっと声をあげた。

「盗撮するほどかわいいって思ってくれたんだ?」

「ばっ、ちがくて!」

「かわいくなかった?」

 春が眉を少しハの字にして私を覗き込む。

「……似合ってる、けど…」

 耐えきれず、その視線から逃げるように私は顔を反らした。

 ニヤニヤという擬音が聞こえてきそうな勢いで頬を緩める春。それがおもしろくなくて、私は振り切るように入場口へ急いだ。

「もう、映画始まるから行くよ」

「きょうちゃんってワンピースが好みなんだ?」

「…春、だまって」

 凝りもせずに後ろから投げかけてくる春に、私は振り返ることなくそう言い放った。

 

 そのあとの映画の内容はまったくもって覚えていない。血まみれのゾンビや幽霊が次々出てくるのに、クスクス笑い声が聞こえるような、おもしろおかしいコメディ映画だったとは思う。


 春がナチョスのソースをこぼさないか心配で、ずっと横目で見張っていたこと。

 案の定、始まってすぐ思いきりソースをぶちまけたこと。

 春が慌ててタオルでそれを拭って、さらに被害を広げたこと。


 ほの暗い館内の中。

 スクリーンの明かりに照らされた春の横顔が、きれいだったこと。


 思い出すことといえば、そのくらい──。




 ──なんであの日、黒いワンピース着てたの?ナチョス対策?

 ──んー、どちらかというときょうちゃん対策かなぁ。

 ──なにそれ…。


 後々、クローゼットに白のそれが多いと知って問いかけたときの君の回答は、今考えてもさっぱり意味が分からない。

 つい撮ってしまったその後ろ姿。見返すことはあまりなかった。

 

 いつでもすぐに思い出せてしまうくらい、あの日の君が、私の心に深く刻まれているから──。




 映画のあとからの私は、少し様子がおかしかった。

 あの日の春がなぜか頭から離れず、教室でその後ろ姿を眺める日々が続いた。


 春の席は廊下側の真ん中より少し前の方。対する私は、窓際の一番後ろ。席を選ぶことができた一年次は最高だった。わりと緩かった担任には今も感謝している。あの先生には、身なりすら注意された記憶はないのだから──あの先生には。

 勤勉な春は最初から前の方の席を選んでいたが、何学期になっても私にそんな気が起きることはなかった。

 よって、私は春に気付かれることなく、その背を眺めることができたのだ。


 あの日の春と教室にいる春は同じ。ただ着ている服が、髪型がほんの少し違うだけ。それなのにどうして、私は授業中に寝ることもせずその背を見つめているのだろう。

 そんなことを考えているうち、終礼が授業の終わりを告げると、その日も春が私の席へと近づいてきてしまう。

「めずらしい、起きてる」

「ね」

「……きょうちゃん」

「ん?」

「授業中なにしてたの?」

「えっ、な、なんで?」

「ノート真っ白」

「あー、なにしてたんだろうね…」

「だいじょうぶ?」

「…じゃ、ないかも」

 ふーっと息をつき、その分だけ大きく吸い込む。

 そこに混じる春の匂いが身体中に広がると、私は途端に眠くなってしまった。

「あれ、寝るの?お昼は?」

「んーいいや。でも眠いから春はとなりにいて」

「なにそれ…」

「おやすみ」

「こんな暑いのによく寝れるね」

「暑いから余計なの」

 春の匂いは暖かいほどよく香る。

 気温か高いからなのか、その体温によるのか。


 君のその秘密を私が知るのは、ここからもう少しあとのこと──。



    *********


 

 窓を通り抜けて響き渡る蝉の鳴き声は、その夏の暑さに比例するほどの鬱陶しさだった。だがそれは単に暑苦しいだけではなく、学生にとっては夏休みが近づいている合図でもある。

 夏休み前ともなれば普通は浮かれ放題といったところだが、そんな雰囲気があの教室になかったのは、学期末テストの返却があったからだろう。中学とは違い、高校のそれは勉強のレベルが異なる──と、皆はよく言っていた。どちらもたいして習得していない私にはよくわからなかったが、空気の重い教室を見るにそうだったのだろう。


 ──別に、補習なんて出なければいいのに。


 そんな風に考えていた私があの夏。

 あんなに勉強する羽目になるとは、誰が思っただろう。


 それも、春の家で──。


 そうなってしまったことの発端は、夏休み前の担任との面談だった。

「綴理ちゃん、このままだとあがれないわよ?」

「こんなに授業でてるのにすか…」

「単位が足りてないってこと。あなたテスト全部白紙で出したでしょ…」

「あー、そうすね」

「とにかく補習はちゃんと出ないと!先生も単位出せないんだから」

「まあ…別にもらえなくても…」

「……先生の気持ちにもなってよ綴理ちゃん…」

 と、両者一歩も引くことのない、お互いが面倒だな、と感じている重い空気にすきま風を通したのは、他でもない学級委員。

「きょうちゃん、まだ終わんない?」

 前の扉をガラガラと開けた春が、その空気を断ち切ったのだ。

「まじ終わり見えない」

「科木ちゃん助けてよ、もぉ~!」

「きょうちゃん、先生困らせないの」

 別に断固として補習に出たくなかったわけではない。朝だって、がんばれば起きることはできた──はず。

「なんで補習いやなの」

「…いやとかじゃなくて……」


 春がいないから──。

 理由はそれだけだった。


 学校が退屈なことに変わりはない。一学期をほとんどさぼることなく通えていたのは春がいたからで、春のいない学校に行く理由がわからない。


 ただ、それだけのことだった。


 しばらく黙り込み、その気まずさから首筋を人差し指で擦っていると、見兼ねた春が口を開いた。

「私の家でやろっか、補習」

「……はい?」

「先生、それならどうですか?毎日レポート書かせますし」

「ちょ、ちょっ──」

「課題も他より多く出してもらっていいです」

「は、春!!」

「きょうちゃん、静かに。」

「だってそんな勝手に!」

「きょうちゃん。私もう帰りたいの。わかる?」

 この訳のわからない提案を担任が渋々呑んだことで、私はあの夏、春の家に通い詰めることになってしまった。

 今考えても、そんなめちゃくちゃな話があるか。

「よかったね、補習なくなって」

「いや、なんなら倍なんすけど…」

「いいじゃん、私にも会えるし」

「は?」

「だってきょうちゃん、それがいやだったんじゃないの?」

「……ちが、」

「そう?」

「……てか春んち知らないし…」

 面談終わりの帰り道、いつものように後ろから小生意気を叩いてくる春。

 この時期の二人乗りは──特に前の私には──暑くてだるい以外のなにものでもなかったが、早く帰りたいからという理由であんな意味不明な提案をする春が、夏になっても電車で帰るわけはなかった。

「うん、だから今日覚えて」

「はい?」

「今日は家まで」

「あ?」

「だめ?」

「……駅からどっち」

「ふふ、あっち」

「春の定期代、半分私にちょうだいよ」

「そしたらきょうちゃん、ずっと家まで送ってくれる?」

「…考えとく」

 ここは右、そこは左。コンビニが見えたら曲がって、とか。そんな風に耳元で説明してくる春の声がくすぐったくて。でも、それがなんだか鳥のさえずりみたいで心地よくて。


 うだる夏の暑さも忘れてしまうような、そんな穏やかな気持ちになれた夏の夕暮れ。今もあのときの心の温度を忘れることはない──。

 



 そして夏休みが始まり三日目。

 私はこの日も汗をたらしながら、春の家までの道を漕ぎ進んでいた。

 自転車を飛ばせば15分。それが私の家から、春の家までの距離だった。うるさい夏の日差しを受けてそれを漕ぐには少ししんどい、そんな距離。


 昼間の蒸した暑さを潜り抜け、やっとの思いでたどり着いたころにはすっかり息もあがりきっていた。

 すでに聞き慣れてしまった春の家のチャイムを鳴らすと、乱れた呼吸を整える。低めに髪を結ってきたのは正解だった。そこまで距離がないとはいえ、三十度を超える暑さのなかではその疲れもいつもの倍。今すぐにでもエアコンの効いた春の部屋で涼みたい──そんな私の願いが叶うには、思ったよりも時間がかかっていた。前日まではすぐに玄関を開けていた春が、この日に限ってはそうではなかったのだ。

「……あっつ…」

 しばらく様子を覗いながらも、一向に出てくる気配はない。

「…ねてる…?」

 照り付ける太陽に痺れを切らした私は、連続でチャイムを鳴らした。

 起きろ──と、そう念を送りながら。


 しばらくするとドタドタと玄関の奥から騒がしい音が聞こえ、やっと春がドアから顔を出した。

「きょうちゃんごめん…いまおきた…」

「……」

「きょうちゃん…?」

「あ、あぁ…おはよ、春」

 思いもよらないタイミングで初めて見ることになった春のパジャマ姿に、私はなぜか固まっていた。ちいさなボタンがついた、いかにもな。うすい春色のパジャマは、あれから何度目にしたことだろう。

「春も寝坊とかするんだ」

「あさ、よわいから……ふぁ…」

「ふっ、寝ぐせついてる」

「どこ?」

「ここ」

 よれた寝巻に、ぼさついた髪の毛。本当にさっきまで寝ていたんだなと思える無防備な姿。いつもの春とは、全然違った。

 寝ぐせを直してやると猫のように目を細め、春はまたあくびをこぼす。

「なんか…」

「ん?」

「いつもと逆でちょっと…」

「いつもこうならかわいいのに」

「いつもはかわいくないって言いたいの?」

 鋭い目つきをした春が現れたところで、早く中に入れてくれと、それをかわしながら私はドアの隙間に割り入った。


 三階建ての大きな一軒家。それが当時の春の家。

 駅から少し離れたその辺りは、名所の地主も住んでいると噂されるほどの高級住宅街。まわりにも大きな家はいくつかあったが、春の家はそれと比べても格別に立派だった。

 春の部屋は、一番上の階。

 すでに疲れぎみの足をもうひと踏ん張りと持ち上げ、階段を上がる。さわがしい蝉しぐれに混じるのは、そんな二人の足音だけだった。

「今日も春だけ?」

「いる方が珍しいから。夏休みはほとんど一人暮らし」

 だだ広い家の中に、春以外の気配を感じる日はあまりなかった。

「ふーん、うちみたい」

「きょうちゃんちもお母さんたち忙しいの?」

「うーん…春の家とは違う感じで?」

 なにそれ、と笑った春が部屋のドアを開け、一気にもれ出した冷気が体の熱を奪うと、やっと生きた心地がかえってくる。廊下もそれなりに涼しかったが、エアコンの風がどこにも逃げない個室とはわけが違う。

「生き返るー。部屋でけー。」

「きょうちゃんおおげさ」

 三階のワンフロアをすべて使った春の部屋は、もはやマンションの一室と呼べるほどの広さだった。

「この暑さのなかチャリ漕いでみなって」

「そのうち…ね」

「あ、実は乗れないとか?」

「……着替えてくるから、先にはじめてて!」

 それ以上聞くなといわんばかりの目力に押され、私はしっぽりと頷いた。


 後から知ったことだが、幼少期からほとんど自転車に乗る機会のなかった春に、この発言は痛恨の一撃だったらしい。


 ひとり取り残され、春の部屋を見渡した。

 すっきりしているというよりも、雑貨やインテリアの多い洒落た部屋だった。私では手に取らないようなかわいい小物があるかと思えば、レトロな鏡があったり、ぬいぐるみが敷き詰められていたり。ひとつひとつはバラバラなのに、どこかまとまりのあるその部屋は、春のセンスの高さを象徴しているようだった。


「……はぁ…」


 一人になり、私はあらためて感じていた。

 春の部屋に、いるのだと。


 仲間の家に行くことはそれまでも多かった。多かったというよりも、自分の家にいることの方が少なかったのだから、いまさら人の家にあがる程度のことで緊張することはない。

 それなのに三日目にもなったこの日、私は妙にソワソワとして。それが一人で部屋に取り残されたからなのか、気の抜けた春のパジャマ姿を目にしてしまったからなのか──分かりきった原因に白黒つけるのはやめにして、少し落ち着こうと深呼吸をした。

「……意味な…」

 教室よりも強く香る春の匂い。それを身体いっぱいに吸い込んで身体の芯がぎゅっとなり、むしろ悪化するだけだった。

「なにが?」

 ぼやいていたところに戻ってきたのは、いつものその姿。

「あ、春だ」

「さっきまで春じゃなかったみたいに言わないの」

 もちろん変わったというほどではないが、うすい化粧をして髪をまっすぐに整えた春の姿は見慣れたもの──着飾ったいつもの春も好きだけど、朝日に照らされても隣でぐっすり眠る、子猫のような幼い顔はもっと好きだった。

「いや見慣れてるなって」

「そう?どっちがかわいかった?」

「……。」

「あ、どっちもなんだ」

「…早くやるよばか」

 だがこのときの私はまだ、その選択問題に答えを出せるほど自分の気持ちを整理できてはいなかった。

「はい、これ今日の分」

「…またこれやんの?」

「仕方ないでしょ、先生が用意してなかったんだから」

 やるとは言っても、担任から出された課題のプリントは二日目のうちにすべてやり終え、この日からは予備のプリントをひたすら解くという地獄だった。

「きょうちゃんが頭いいのしらなかった」

「別によくないけど…」

「なんでいつもやらないの?」

「目的ないし」

 勉強をがんばったところで、何になるわけでもない。将来の目標なんてこのときの私には微塵もなかったし、成績がよかったところでどうなるわけでもない。

 母や姉を見て、どうせこうなるんだったら無駄なことはやめようと、そうとしか思っていなかったのだ。

「ちゃんとやれば私よりできそうなのに」

「春の方ができるっしょ」

「じゃあ私がきょうちゃんに、勉強する目的あげよっか」

「は?」

 プリントを解いていた手を止め顔を上げると、両手で頬杖をつき、にんまりといたずらな笑みを浮かべた春と目が合ってしまった。


「卒業式も送って?きょうちゃん」


 このときの春の言葉が、私は嬉しかった。

 まるでずっと一緒にいてほしいと、そう言われているみたいだったから──。


「……一人でチャリ漕げないから?」

「きょうちゃん生意気!」

 頭を少し傾けてねだる春を直視してしまい、私はほとんど瀕死状態。それでもなんとかぎりぎりのところでかました反撃は思った以上に春にヒットしたのか、普段澄ましているその顔が慌てふためくのは子どものようでおかしかった。

「いつか春の後ろに乗れるの楽しみにしてる」

「やだ、きょうちゃん重そうだもん」

「…てかこれ毎日くる必要ある?家でやればよくない?」

「いいけど、きょうちゃんが困るでしょ」

「なんで?」

「私に会えないから」

 このあとの春の反撃は留まることを知らなかった。一本取られたことがよほど気に食わなかったのか、私の言葉を詰まらせ続け、インターバルなど与えてはくれなかった。


 そんなこんな戯れているうち、カーテンを通り抜けていた日差しもすっかり落ち着き、その姿を赤く変えようとしていた。

 課題のプリントもあと数枚で予備すら終わってしまう。ゆっくり解くべきか否か。いつもは問題を確認してからそれに当てはまりそうな部分を探すが、文章をすべて読んでみるかと、古典の長たらしい文に目を通していたときだった。

「ねえ」

「わっ、なに…」

 いつの間に移動していたのか、さっきまで机を挟んで向かいに座っていた春が隣りから声をかけてきたものだから、反射的に身を反らしてしまった。

「それ、痛い?」

 春が私の耳を指差す。

「痛くないけど」

「何個あいてるの?」

「いちにーさん…こっちは7?…春もあけたいの?」

「んーん」

 じゃあなんの質問だよと思いつつ、プリントへと目線を戻したところで、その指先が私の耳に触れた。

「ちょ、だから!急に触るのなし!」

「じゃあ触ってもいい?」

「……まあ…どうぞ…」

 別に拒むことでもないか…とそれを受け入れると、再びその手が耳元へと伸びる。来ると分かっていても、どうしてか身体に力が入ってしまう。

 あたたかい指が触れ、ふにふにと耳たぶを弄ぶと、次は二本の指がつまむようにしてその感触を楽しみだした。

「は、はる……そろそろ…あっ──」

 春の指が軟骨のそれを確かめようと、耳輪の淵を滑るようになぞったとき。そのくすぐったさに耐えきれず、私は声をこぼしてしまった。

「きょうちゃん、耳まっか」

「春が触るからでしょ…もうおしまい」

「ねえきょうちゃん」

「なに」

「今日泊まっていく?」


 今でもときどき頭のなかに浮かべてしまう。

 そのときの春の、甘いまなざしを──。


 少し前まで戯れていた空気が、その一言で一瞬にして変わってしまったように思う。

 なにこの空気…と、当時の私は初めて感じる春との甘やかな空気感に、つい。

「………や、バイトあるし」

 と逃げる選択肢を選んでしまった。我ながら心底どうしようもない。

「きょうちゃんバイトしてるの?」

「うん」

「どこで?」

「駅前のライブハウス」

 夕方からバイトがあったのは本当のこと。

 それに、急に泊まらないかと言われても困る──春が相手では。

「じゃあ、明日は?」

「……明日なら、まあ」

 春は身を乗り出して近づくと、二度と私を逃がしてはくれなかった。

「じゃあ今日は許してあげようかな」

「なにを…?」

「なんでもないっ」

 そう言って飄々と机の向かいへ戻っていった春の心が何を思っていたのか、このときの私にはわからなかった。

 さっきまでの空気はなんだったんだよ…と、文句のひとつでも言いたいところだったが、行き場のない思いは言葉ではなく鼓動へと姿を変えて、その日が終わりを告げるときまでずっと私の身体を鳴らし続けていた。


 そのあとの私はたったの一問も問題を解くことができず、ただ解いているふりだけをしながら時計の針が早く進むことをひたすらに祈った。

 そろそろ行かなきゃ──と足早に春の家をあとにすると、まだ早くなる鼓動をごまかすように、いつもより強めにペダルを漕いだ。


 沈みかけの夕日はやけに濃く、その頬を赤く染めていた──。


「あれ、ころ?お前今日19時からだろ?」

「……ちょっと、たばこ吸わせて…」

「いや、家で吸えよ」

 息のあがったバイトが夏休みに一時間半も早く扉を開ければ、店長が顔を歪めるのも当たり前──そのうえ、訳の分からない言い訳を並べていたのだから。

 裏の喫煙所でしゃがみこんだ私の頭には、あの眼差しと、その少し前に解いていた百人一首の内容がいったりきたりしていた。

 

 あれはたしか、十四番歌──。




 ──自転車、本当は乗れなかったくせに。

 ──…きょうちゃんだって、あのあとプリント解いてるふりしてたくせに。

 ──え、気づいてたの?

 ──気づかれてないと思ってたの?

 ──……。

 ──すぐ逃げるし。次の日だって──。

 ──すみません…。

 ──私は八十五だったなぁ。

 ──85?


 それからも君が自転車に乗っている姿を見ることはなかったし、私が君に勝てることもなかった。


 八十五の意味を知るのは、この会話からもう少し後のこと──。




 あくる日、前日の気まずさを残したままの私をよそに、春はなんとないような顔をしていた。

 自分が考えすぎだったのかもしれない。育ちの良い春はただ、今まで触れてくる機会のなかったピアスに興味が湧いて、友人とお泊りをしたかっただけ。きっとそうだ。それより、私と春は友人なのだろうか?たしかに毎日春を後ろに乗せて、時間があれば寄り道をして帰る。休みの日も一緒に過ごす時間は増えているし、こうして夏休みに入ってからもなぜか毎日顔を合わせている。とはいえ、校内で常に同じ時間を過ごしているかといえばそうでもない。私以外のクラスメイトとも春はそれなりにうまくやっているし、面倒な委員会にも参加して他学年との絡みも少々。


 送ってと、お昼を一緒にと。春はなぜそう言ったのだろう。

 どうしてこうも私につっかかってくるのだろう。

「その問題、むずかしい?」

「あ、いや」

 次々に浮かびあがる疑問になにひとつ答えを出せないまま、机の上のプリントをただ見つめているうちにその日もまた日は暮れてしまった。



    *********



「ど?」

「──おいしい!」

「でしょ」

 初めて春の手料理を──というわけにはいかず、春がこのときおいしいと言ったのは私が勧めたカップ麺。トマト味のそれを慣れない手つきでゆっくりと啜りながら、無邪気な笑顔をこぼしていた。

 夕食どうしようか?という春の問いかけに、カップ麺でもなんでもいいよ、と。適当に答えたそれがまさか採用されるとは思わなかったが、ちょうどたばこも吸いたいところだしまあいいかと、二人でコンビニ行ったのがこの少し前。

 即席麺コーナーの前で目を輝かせる人なんて、後にも先にも私は春しか知らない。

「まじで食べたことないの?」

「うん」

「どこのお嬢様?」

「どちらかというとお姫様?」

「…はいはい…」

 お母さんがちょっと過保護なだけ──。

 そう言って春はそのあとも美味しそうにそれを味わっていた。

「あっ…」

「ゆっくり食べないとやけどするよ?」

 ふーっと、湯気の立ったそれを冷ましながら片耳に髪をのけるその姿。

 

 私の箸は宙で置き去りになっていた。


 その仕草に、目を奪われてしまったから──。


「きょうちゃん聞いてる?ねえ」

「え、あぁ…ごめ、なに?」

「明日バイト何時から?」

 その声でハッと現実に引き戻され、ごまかすように慌ててスマホを取り出した。

「明日はー、昼過ぎから」

「じゃあお昼食べに出かけない?」

「なんか食べたいものでもあんの?」

「オムライス」


 のちに痛いほど聞くことになる春の「オムライス」が初めて私の耳に届いたのは、きっとこの日。

 なに食べたい?と聞けば、毎回返ってくるのは決まってオムライスかナポリタン。まるで小学生の男の子のような食の好みがかわいくて。


 そんなところも、好きだった。


「ガキっぽ」

「きょうちゃんだってハンバーグ好きでしょ」

「…なんで知ってんの?」

「お弁当に入ってるといつもちょうだいっていうから」

「ほーん…」

「ねえ、だめ?」

「春が起きれるならいいけど」

「きょうちゃんが起こしてくれるんでしょ?」

「……」

 いつもどおり二人で軽口を叩いているうちに、私のカップ麺の底は顔を覗かせていた──春のそれは、麺が伸びきっていたけど。

 

 夕食の後はあーだこーだとくだらない会話を続けながら、各々自分の時間を過ごした。春は本を読んでいたし、私はスマホで適当なゲームを触ったり外に出て一服したり。活字に向かう春の横顔を覗き見たりと、そんなところ。


 先に入ってという春の言葉に甘え、お風呂を借りたのは23時を過ぎたころだったか。あまりの浴槽の大きさに、温泉かよ…とひとりつっこんでしまったのも懐かしい。

 早々に済ませてお風呂からあがると、持ってきたパーカーへと適当に着替えを済ませた。春の家に私が借りれるような部屋着があるとは思えなかったし、案の定ジャージなど一枚も持っていなかったのだから、家を出るとき床に落ちていたそれを鞄につっこんだのは正解だった。

 入れ替わりで浴室に向かった春を見送ると、私は部屋に戻り本棚から適当に取ったそれを読みながら時間を潰した。

 難しい漢字の並ぶその小説の中身はあまり覚えていない。恋愛を題材としたその物語。タイトルぐらいは私でも見かけたことがあった。恋だの愛だの、こんなものを好んで読むなんてなんとも春らしい。

 そう思った。


 恋愛──それは当時の私には経験のないもの。


 かといって、それらしいことがなかったわけではない。

 不真面目ではあったが、傍から見ればそれなりに賑やかな交友関係はいつもすぐそばにあって、その誘いに乗ることも少なくはなかった。ただ、私の中には恋愛そのものに対する興味がこれっぽっちもなく、そこに特別な感情が生まることは当たり前になかったのだ。

 かわるがわる相手を変える母のように。報われないとわかっていながら、その関係にすがりつく姉のように。

 そう、なりたくはなかったから。


 春が埋めてくれるまでは気がつかなかった。

 当時、自分が空虚感を感じていたことにも、それをごまかすために誘いに乗っていたことにも。


 読んでも読んでも終わりの見えない文字の羅列に目が疲れてきたころ、部屋のドアが開いた。

「ただいま」

「……あ、おかえり」

「なに読んでたの?」

「なんかそこにあった見たことあるやつ」

 本棚を指差し、手の中の本の背を春の方へと傾けた。

「シェイクスピア?きょうちゃん読めた?」

「…なんとなく?」

 ふーん、と。

 どちらでも良さそうな返事をして春はドレッサーに腰をかけると、頭を少し傾けながらドライヤーのスイッチを入れた。


 平然を装っていたが、このときの私に平常心というものはの字も存在していない。


 見惚れていたのだ。春の姿に。

 ドアの隙間から見えた、その瞬間から。


 胸元に小さなリボンのついた短めの白いワンピース。パフスリーブのそれを着たお風呂あがりの春が、どうしようもなく眩しかった。


 ドライヤーの風にそよいだ髪の匂いが部屋中を埋めていく。その香りは自分が浴室で使ったものとは少し違うように思えた。それはきっと、春の甘い匂いがその中に混じっていたからだろう。

 まじまじ見てはいけないと思いつつ、春を見ていたい。そんな相反する気持ちが二つ私の中には存在していた。前者は後者に負け、私は気づかれないよう、髪を揺らすその姿をこっそりと本の隙間から見つめていた。

 潤んだお風呂あがりの彼女がいつもより大人びていたからなのか、その部屋着が心を揺らしたからなのか。

 何に惹かれていたのか、このときの私が理解できるわけもなかった──。


 しばらくしてブォンという音とともにそれが風を止めると、春がふぅっと息をついてこちらへ振り向いた。

 急にその大きな瞳が自分に向けられ、胸がとくりと跳ねる。

「乾かしてないの?」

「伸びたからだるい」

「きょうちゃんせっかく髪きれいなのに」

「こうやってれば乾くっしょ」

 その視線をごまかすように、肩にかけていたタオルを手に取り、雑に髪を拭ってみせた。

「だめ、やったげる」

「い、いいよ…」

 近づいてくる春に必死で抵抗していた私の姿はきっと、超がつくほど滑稽だったことだろう。

「いいからおとなしくして」

「……」

 願いも虚しく、膝立ちで近寄ってきた春に捕まったその図は、さながら飼い主とペットといったところ。

 柔らかい春の手が、そっと髪に触れる。どんな顔をしていればいいか分からず、視線だけを本に戻しながら、私はそれが終わるのをひたすら待った。

「いつから──の?」

「ん?」

 ドライヤーの音で春の声が遮られる。

 頭を少し傾けて"もう一回"と促すと、頬に触れてしまいそうなほど春がその距離を縮めてきた。


「髪、いつから染めてるの」


 耳を撫でたその声に、身体中の熱が中心に集まっていく。


「……小3、とか…」

「ふふっ」

「…なに?」

「きょうちゃんは期待をうらぎらないなーって」

「いや、姉が勝手に…」

「お姉さんいるんだ?」

「まあ…」

「でも黒髪のきょうちゃんも見てみたいなぁ」

「似合わないって」

 なんとか応えないと。

 そうぎりぎりのラインで自然に振るまえていたであろう私が、そこから一気にバランスを崩したのはこのすぐあと。

「──ッ」

「ごめん、痛かった?」

「いや、だい、じょうぶ…」

 それは髪を乾かしていた春の手が、私の耳を掠めたせい。

 別にどうというわけじゃない。触れたわけでなく、軽く当たっただけなのだから。痛いわけでもくすぐったいわけでもない。


 それなのに、私は思い出してしまった。

 前日の春を。その手の感触を──。


「赤くなってるけど」

「…あ、あぁ…暑いから…」

「じゃあ飲み物もってきてあげる」

 また昨日みたいな時間が迫ってくるかもしれない。そう思ったが、春はスッとその場を離れると、颯爽と部屋を出ていってしまった。私の異変に気づいた春が、何かしらからかってくると思っていたのに──。

 今思うと、ここで少し残念なんて思ってしまった私は、このころからすでにもう、春の手のひらのうえに足をおろしていたのだろう。


 なにはともあれ助かった。そう思い、春が持っていたそれを手に取ると、生乾きの髪を自分で乾かした。また耳元で囁かれたら困るし…と、私は寝坊した朝のように必死になって髪をゆすった。


 数分経ってすっかり髪も身体の熱も落ち着いたころ、春がどたばたと部屋へ戻ってきた。

「おっそ」

「待っててくれた?」

「春じゃなくて、お茶をね?」

「きょうちゃんかわいくない」

「…いいから早くちょうだい」

 いつもどおりの二人の距離感に安心しながら手渡されたグラスに口をつけると、思っていたのとは少し違う舌へのアプローチに私は顔を歪めた。

「……これなにちゃ?」

「こぶちゃ」

「…なんで?」

「なんでとかある?」

 常設のお茶の相場といえば麦茶か緑茶だろ。そうじゃなくてもせいぜい烏龍茶あたり。春の見た目なら、ジャスミン茶でもまあ許すのに──突然のこぶ茶は反則だろ…と吹き出した私に春が渋い顔を向けた。

「なに、おいしいでしょ。」

「おいしいけどおもろい」

「どういうこと!」

「どーどー……ふぁ…」

 じゃじゃ馬をなだめるように春をあやすと、そこまでの感情の疲れからかあくびがもれた。

 時計を見ると、時刻は25時になろうとしていた。

「ねむい?」

「うーん、ちょっと…布団敷くのてつだう」

「布団?」

「え?」

「ないよ?」

「…床で寝ろって?」

 自分から誘ったくせに夏とはいえ床で寝かせるつもりなのかと、私は乾いた笑いを吐いた。

 冗談やめてと笑っていると、春が真顔でベッドに指を向ける。

「……なに」

「あるじゃん」

「え、一緒にねんの?」

「だってダブルだし」

「……まじ?」

「きょうちゃん寝相わるいの?」

 そういうことじゃ…と言いかけて春の方を見ると、別に普通でしょと言わんばかりの澄まし顔。提案した相手に助けを求めたのが間違いだったのだ。

「床がよければ床でもいいよ?」

「………ベッドで寝ます…」

 選択肢など、あってないようなものだった。


 人と寝ることに抵抗があったわけじゃない。相手が春だということに問題があったのだ。なぜそう思っていたのかはわからない。いや、分かってはいけないと、きっと無意識に自分をごまかしていた。


 このときには私はもうたぶん、春を。

 そういう意味で意識していたから。



    *********



「ねえ」

「なに」

「いつまでそっち向いてるの?」

「…こっち向きが寝やすい、から…」

 ダブルとはいえ、その距離で顔を合わせて寝るのは相当なあいだ柄でも容易いことではない。

 きょうちゃん奥側ねと、春に言われるまま逃げ場を失ってしまった私は、反対側の窓を見つめながら頼むから早く寝てくれとひたすら願っていた。

「そうなんだ」

 春が納得するなんて珍しい。そう思ったとき。

「痛って!ちょ、はるっ」

 その手が私の左頬をつねりあげた。

 反射的に振り向いてしまった私に、春は満足そうに顔。

「暴君かよ…」

「そういえばきょうちゃんのすっぴんって初めて見る」

 ヒリヒリと痛む頬を大げさに擦っていると、次は指の背がそれを撫ではじめた。

 いったりきたり、何度も何度も。細く長い春の指が、頬のうえを泳ぐように。

「…そんな変わらないっしょ」

「でもちょっと」


 ──幼くてかわいい。

 

 春に他意はなかっただろう。

 でもその言葉に、すでに落ち着きを失くしていた私の胸がとくっと跳ねた。

 ありがたいことにクールだのなんだのと容姿を褒められることはあっても、かわいいと表現する人はいなかった。だから少し照れただけ。ただそれだけと、私は往生際の悪さでまた自分をごまかした。


 パーカーでよかった。

 なんの気ないその発言に染まってしまった頬も、大きめのフードで隠せていただろうから。


「ね、腕枕して」

「は?やだよ」

「いいから」

 強引な君主は私の左腕を引っ張ると、そのまま頭をすり寄せてきた。

 なんてわがままなんだと思いつつ、凝りもせずに私は顔を背けつづけた。

 左腕から伝わる春のあたたかい体温とその匂い。いつもなら眠くなるはずのそれも、この日ばかり逆効果だった。

「…重い…」

 そうぼやく私を無視したまま、春はそこに居つづけ数分は経っていただったろうか。左腕が少し痺れを覚えはじめたころ、その気配が落ち着いた。

 やっと寝たか──と、息をついたとき。

「ねえ」

 春がさらにその身を寄せてきた。

「耳、触ってもいい?」

 私の耳元で、そう囁いて。

「……」

「だめ?」


 春はずるい。

 何かを求めるとき、きまってそう問いかけてくる。

 その疑問形の聞き方は許しを問っているように見えても、結局はどうしたいかを私自身に選ばせるのだ。


「……好きにしたら」

 まるで、私が春を求めているかのように。


 こんなことになるなら、あのとき急に触るななんて言わなければよかった。許可を取られるほうがよっぽど恥ずかしい。


 そう思ってももう、あとの祭り。


 冷房で少し冷たくなった春の指先が、私の耳を撫でたその感触。今でも思い出すたびに胸がうるさくなってしまう。

 

 冷えた指との温度差に、きっと春は気づいていただろう。

 このときの私の頭の中が、春でいっぱいだったということに──。


 熱を持った耳は春の指が今どこにあるのか、知りたくもないことをより詳細に私へと伝えていた。耳たぶから上に向かいゆっくりとその淵をなぞったかと思えば、内側の丸い壁を優しくつまんだり。好き勝手するその指に呼吸が乱れはじめたころ、人差し指が迷いもなく耳孔の中に入り込んできた。


 それはもう、ピアスに興味があるというには、あまりにも道を外れすぎていた。


 春の指が穴の形を確かめるようにくるくると動きまわるたび、音圧が直に響き、どうにかなってしまいそうだった。私の身体から熱を吸い取った春の人差し指とは別に、冷たいままの中指もそこに混じると、もう自分が声を我慢できているのかも分からなかった。

「…は、はるっ…」

「……」

 その指がどちらも同じ熱を持ちはじめ、動きまわっているのが何指なのかもわからなくなったとき、それがゆっくりと私の外へ出ていった。


 息のあがりきった私は、判断力というものがからっきし底をついていた。


 でなければ、きっと思わない。

 横でそしらぬ顔をしている春に、自分も触れたいなんて。


 春に私を、意識させたいなんて──。


「きょう、ちゃん…?」

 まるで長距離走のあとのように浅い息を繰り返したままの私は、くるりと身体を半回転させ、暇を持て余していた右手を支えに春に覆い被さった。


「春だけ、ずるい」

 さすがの春もこの展開を予想してはいなかったようで、突然のことに丸くなった瞳が私を下から見上げていた。この日初めて、まともに目を合わせたような気がした。


 出会ってからその大きな瞳をあんなにも強く見つめたのは、きっとこのときが初めてだった。

 それに──。


「…かわいい」


 そう思ったことも。


 長い一瞬だった。

 勢い任せのその言葉がまるで二人の時間を止めたように沈黙が続く。暗い部屋で音を立てるのは、時計の針と私の浅い呼吸。それに二人の鼓動だけ。


 春に意識させようと、そう思っていたのに。

 意識してしまったのは私の方だった。


 春に触れたい──。

 気づけば私は春の耳に手を伸ばしていた。

「……ん…」

 こぼれ落ちたそのちいさな声。

 私の思考を鈍らせるには、それで十分だった。


 少し熱くなった春の耳に嬉しさのようなものを覚えながら、それ以上に熱い自分の指を滑らせた。むこう側が透けて見えるほどに薄くやわらかいそれ。触れているのは自分の方なのに、まるで触れられているかのように胸の奥が疼いていく。


 けして大きくはないのに、控えめにもピンと立った春の耳が私は好きだった。

 はじめて触れたこの日の感触は、春に小言を言われても忘れることはできなかった。


 私の指先が、ずっと覚えている。

 荒々しく漂うその熱い体温さえも──。


 暗闇におおよそ目が慣れてきたころ、春の様子を覗ってしまったのは失敗だった。私の腕の中でちいさくなって、両手をきゅっと握り締めしながら固く目をつぶり、一生懸命それに耐える春の姿。


 私の頭はもう、使いものにならなかった。


「春」

「……」

「ちゅーしてもいい?」


 気づけばそう口に出していた。

 いいや、口に出したあとも気づいていなかったかもしれない。

 

 私はもう、春のこと以外は考えられなかったのだから。


 私を見つめるその瞳はあまり驚いていなかった。

 まるでそうなることが分かっていたかのように、やさしく目を細めて。

「だめ?」

 春の口癖を真似てそう聞いた私に微笑みながら、そっと瞼を下ろした。


 それを合図に。吸い込まれるように。


 桜の咲く四月。"じゃあ送って"と言った春と出会ってから、たった三か月ほどの夏の夜。

 

 私は気づかないうちに自分の中に芽生えた整理のつかない想いを、それがなにかもわからないままに唇から春へと伝えた。


 はじめて触れた春のそれは何にも表現できないほど柔く、私のすべてを溶かしてしまいそうなほどにやさしいものだった。


 そして私はその感触にやっと気づいた。

 女の子と、しているのだと。

 今までのそれとは違う感触が、潤んだその瞳が、今も私の心に沁みついて離れることはない。


 春の甘い匂いが意識を鈍くして、あふれる吐息も揺れる鼓動もどちらのものかなにひとつわからないまま、月のない暗い夏の夜が二人を包んでいった。


 春に恋をしている──私のそんな想いすらも。

 


 "恋が盲目というのなら、暗い夜こそふさわしい。"



 溶け落ちてしまいそうな淡い意識の中で頭をよぎったのは、春の本にあったそんな一編だった──。




 ──ドライヤーしてるときこっち見てたでしょ。

 ──……。

 ──きょうちゃん鏡でバレバレ。

 ──…じゃあ春だってこっち見てたってことじゃん。

 ──だってきょうちゃん、ずっとソワソワしてるんだもん。

 ──それはっ…。

 ──急にスイッチ入るし。

 ──いや、春があおりすぎなんだってば…。

 ──そこがぼんやりしてるからでしょ。

 ──どこ?

 ──こーこーろ。

 ──…なにそれ?

 ──きょうちゃんもちょっとは本読もうね?


 お茶を取りに行った君が、ドアの前で顔を赤く染めていたことを知るのは、ここからもっと時間が経ってからのお話──。




 翌日、二人の様子はそれまでとは打って変わる──ということは存外なかった。

 夕べの熱帯夜が嘘のように、すがすがしい朝日に照らし出された私と春は、まるで二人の間になにごともなかったかのように同じベッドで目を覚ました。

 おはようと言葉を交わすと、春はまだ寝ぼけていたのか目をこすりながらあくびを一つ。

 すべて夢だったのかもしれない。そう思ってしまうくらいにいつもどおりだった私たちは、家を出るまでのあいだ春の淹れてくれたこぶ茶を飲みながらゆったりと過ごした。


 今思い返しても、もう少し気まづい空気があってもよかったと思う。


 そのまま春がご所望だったオムライスの店へ、電車に揺られること15分ほど。ひんやりとした車内で春の好きな映画の話しをしたり、お店のメニューを見ながらハンバーグもあると騒いだり。そんなふうに窓の外の景色は次々と流れていった。


 私たちよりもはるかに先輩であろう昔ながらの洋食屋──これから幾度も行くことになるとは、このときの私は思ってもいない。

 春はお目当てのオムライスを、私はナポリタンを。ハンバーグもあったけど、なんとなく春が好きそうだと思ったから。

 案の定、出されたそれを目で追いかけ、一口ちょうだいと予想どおりのことを言う春に私は吹き出した。


 そこまではよかった。


「きょうちゃん食べさせて?」

 空気が変わったのは、春のこの一言から。

「…自分で食べたらいいじゃん」

「スプーンしかないもん」

「あー…」

 まあそれならと、適当にフォークに巻き付けたそれを春の口元へ持っていったとき、淡く染まるそれが視界に入り私の手は止まってしまった。

「きょうちゃん?」

「……」

「食べたいなあ?」

「あ、ごめ」

 固まる私に早く食べさせろと圧をかけた春は、ひな鳥のようにナポリタンを一口でぱくり。

 見るなと思いながらも、私はどうしてもそのうすい唇から目をそらすことができなかった。

「ねえ」

「へ?」

「見すぎ」

「あぁ…あー、なにを?」

「全然ごまかせてないし」

「あー、あぁ?」

「…でも、おぼえてるならいい」

 そう呟き目線をオムライスに戻した春を見て、私はやっと昨夜のことが現実だったのだと思い知った。


 いきなり覆い被さったうえにキス?それってやらかしてない?春はいいっていったけど…いや、言ってはないか…え、なにしてんの…?


 そんなふうに心の中で自問自答を繰り広げながら、出会って日の浅いクラスメイトに、そのうえ同性のお嬢様のような子に手を出してしまったことを認識したせいで、私の頭は容易くパンクした。

 とにかくなにか、なにか春に言わないと。

「あの…昨日、えーっと」

「うん、私はおぼえてる」

「えーっと……忘れてもらえたり、する…?」

 焦りながら絞り出した私の"なにか"は、まったく話にならない赤点以下のゴミ回答だった。

 過去に戻れるというなら、私は迷わずこのときを選ぶだろう。いいや、必ず選べ。

「忘れてほしいの?」

「でき、れば…?」

「…いいよ、忘れてあげる」

「…ごめん」

 春の顔をまっすぐ見れないまま、すっかり味のしなくなった赤いそれをかっこんで、バイトのため春とはそこで別れた。別れ際も春はいつもと変わらない様子だったから私もそれ以上なにも言わず、不安定な空気感が二人を包み込んでいた。

「あ、そうだきょうちゃん」

「ん?」

「明日から一週間くらい来なくていいから」

「んえ?…なんで?」

 距離を取られたのかと身体がこわばった。

「おばあちゃんのとこに顔出すの」

「あー…、そっか。」

「じゃあまたね」

「ん」


 いつもの春なら寂しい?とか、聞いてきそうなものなのに…まあとにかく春が忘れてくれると言ったんだから私も忘れることにして、今日来るバンドのことでも考えよう。そうやってつっかえたものを水で無理やり流し込むように、私は気持ちをバイトへシフトした。



    *********



「ころ、今日めっちゃやる気あんじゃん」

「ころじゃねーっての…時給あげてよ」

「ほんっと生意気なくそがきだわ。ねーちゃんそっくり」

 普段やらないような雑務に手を出すことで忙しさを飾り、バイト先ではひたすら気を紛らわせた。同世代の昔馴染みや、やんちゃな先輩、いつまで経っても私の名前を覚えようとしない店長。

 

 春以外の人と久しぶりにくだらない時間を過ごし、私は思った。

 そうだ、こんなんだった──と。

 

 春に出会うまでは適当な人と適当に過ごしながらこうして一日を潰していたのに。近頃の私はどうも春のことばかりを考えすぎで、それがきっとよくなかった。明日からしばらく会えない時間が続く。その間、春のことを考えるのはやめよう。そうすれば、この胸のよくわからない靄だってきっと消える。そう自分に言い聞かせた。

 

 今思えば会わない日ではなく、会えない時間──そう感じている時点で、私の心はすでに自分の気持ちに気づいていたのだろう。



 定刻より10分ほど押して、その日のライブは幕を開けた。

 ライブハウスでバイトをしていた理由は、規則が緩かったのもあるが、一番の理由はバンドの演奏を無料タダで見れるということだった──幼いころから私を"ころ"と呼びつづける店長が、受験を勧めてきた姉の友人ということもあったけど。

 名前があってないようなバンドが多い中、この日のバンドは大当たり。割と名の知れた曲も多く、客足が落ち着いてきた3曲目の途中、私もその重い扉を身体で押し開けた。

 まるで別の世界に入り込んだかのように、一瞬で熱気と爆音に襲われるその"始まりの瞬間"が私は好きだった。重たい扉を一枚押すだけで、自分のいた世界を置いて自由になれる。まるで生まれ変わるようなその瞬間はいくつになってもたまらないもので、大人になった今も私は子どものように胸を躍らせながらその瞬間を楽しんでいる。


 適当に開いている端のスペースに身を置いて、ほらよと店長に渡された緑の瓶に口を付けた。

 ──あの人、私がいくつなのか分かってんのかな。まあ、分かっててもやるんだろうけど。

 そんなことを考えていると、ドライブぎみに歪みを効かせたギターのイントロが聴けよと言わんばかりに鳴り響いて私の意識を戻す。しっとりとした前の曲から雰囲気の異なるそれは、まるでこじ開けるように4曲目をかき鳴らした。耳によく馴染んだその曲に夢中になって、ギターのフレーズやドラムのリズムキープに目を奪われる。


 いつもの私なら、そのはずだった。

 

 だがこの日は何曲目を迎えてもその傾向が見られることはなく、うす暗いそこで一人になった私の頭に浮かんでくるのは、たったひとつ。


 ──春、今どうしてるかな。


 麺を啜るのが苦手で一生懸命にカップ麺と格闘していたその姿。お風呂あがりの艶めいた白い肌に、しなやかな髪。こぶ茶を笑ったことに膨れたその顔、耳を撫でた指の感触。熱い息づかいも濡れた瞳も、首もとから香る引き込まれそうな甘い匂いも。


 胸の奥底にこびりついて、離れなかった。


 耳が痛くなるほど唸る爆音も私の心には響かず、ライブに集中することは叶わなかった。そんな経験、このときが初めてで、この先もきっと起きえないだろう。

 

 私は目の前の演奏をぼーっと見つめ、それをただの風景にしながら考えていた。

 

 このまま何もなかったかのように、春と元の関係に戻るのか──と。

 でも、じゃあ。元の関係って、一体なんだろう。私と春は、どこに戻れるというのだろう。春はどうして私につっかかって。私は春とどうなりたくて──。


 見えそうな答えまであと少し。立ち込める靄がそれを邪魔していた。

 


 "ここにいてもなにひとつ変わらない、きみに届きたい"



 そのときステージから聞こえてきたその歌詞が、私の霞んだ思考を晴らした。

 

 なにがどうとか、理由なんてどうでもいい。

 そんなこと、後からだってどうにでもできる。だから、だから今はただ。


 春に会いたい──。

 

 それを、それだけを背負って、私は気づけば箱の重い扉をこじ開けていた。

 まるで自身の心をそうするかのように。


「ころ?おまっ、何して──」

「ごめ!チャリ貸して!」

「あぁ?…ったく、時給さげっからな?ほれ」

「ありがとう成留なる!!」

「呼び捨てすんなくそがき」

 雑に投げられたその鍵を受け取ると、明日埋め合わせるから!と、つい昔馴染みの呼び方をしてしまった店長に頭を下げて私は必死で車輪を転がした。


 昨日の春を、忘れたくない──。


 かるい風が吹き抜ける夏の夜。その気持ちをペダルに乗せるように、無我夢中で自転車を漕いだ。

 ちりぢりとした雲を風が洗い流して、降りそそぐ月あかりが照らしたのは私のたしかな恋ごころ。

 

 高校一年の夏、私ははじめて恋を知った。



 ──キーッ──


 通り越してしまいそうな勢いで春の家に着くと、急にかけられたブレーキが不満そうに声をあげた。それを無視してスタンドに足をかけると、一本足のそれは錆ついていたのかうまく言うことを聞かなかった。

 ──成留のやつ、こんなときにオンボロよこすなよ…。

 私は春に会いたい気持ちを焦らすそれに、同じくチッと不満を返してやった。


 自転車との格闘にも決着がついたところで、馴染んだインターフォンに手をかけた。

 春に会ったらなにを伝えよう──そんなことも考えていないまま勢いでそれを鳴らした私の耳に、プツッ─とスピーカーの切り替わる音が届いた。

『はい?』

「あ、春、急にごめん。ちょっと昨日のこと話したくて…」

『ええっと、春ちゃんのお友だち?』

「あっ、えっ?」

 春の声とその母の声。

 今の私でもそれを聞き分けることは難しいのだから、このときの私がそれをできないのは当たり前。スピーカー越しではなおのこと。

「春あの、ごめん、私その──」

「きょうちゃんストップ!!」

 春がふざけているだけ。そう思い込み話し続ける私を止めたのは、玄関のドアを乱雑に開けた他でもない春本人だった。

「あれ、春…?」

「はぁ…きょうちゃん、なにしてるの…」

 階段を駆け下りてきた様子の春は、息を整えながら呆れた表情で私を睨みつけた。

「え、だって、今」

「それ、お母さんだから…」

「……へ?」

『こんばんはっ』

「……あ…こんばんは…」

 これが私と春の母との、初めての会話。

「お母さん、もういいから…ちょっと出てくる」

 遅くならないようにね?というその声から逃げるように、春が私の手を引いてスタスタと歩き出した。

 その背中が何を思っているのか分かりそうで分からないまま、私は春のあとをただ着いて歩いた。


 春の家から少し歩いた場所。2分ほどの距離にある路地裏の小さな公園は、そうと呼べるのかも分からないほど遊具もなにもないところだった。あったのはベンチと、もうしわけ程度の砂場だけ。

 今でもたまに訪れてみたくなるほどよく通ったそこで春は足を止めると、振り向いて口を開いた。

「くるなら電話して」

 引き続き、私を睨んだまま。

「親いると思わなくて…ごめん」

「明日からでかけるから、戻ってきてるの」

「……気をつけます」

「それで、なにしにきたの」

「あーえっと……」

「…長くなるならそこ座って」

 ライブの開演は20時。そこから考えると、そのときの時刻はたぶん21時を過ぎたくらい。お風呂を済ませていたのか、春の格好は短いショートパンツにゆったりめのカーディガン。足元は急いで出てきたのが分かるサンダル。ため息をこぼされても、私には責める資格なんてありはしなかった。

 言われるままにベンチへ腰を下ろすと、隣に座った春が少し屈んで私の顔を覗き込んだ。

「で、きょうちゃんはなんできたの?」

「……会いたくて…」

「だれに?」

「…春に」

 春は顎の下に手をつきながら頭を傾け、私に一つずつ答えを探させた。

 まるで、毎日の補習の時間のように。

「それはどうして?」

「……それは…」

 春と離れた数時間、頭の中に浮かんできたことは山ほどあったのに、いざその大きな瞳に見つめられると私はうまく言葉を紡げなかった。ここまできても、自信がなかったのだ。自分の心が痛いほどに揺れ動くこの想いが、本当にそれなのかどうか。

「…答えられないならいい、私明日早いから」

 うじうじとした私に痺れを切らした春がベンチを立つ。

「春──!」

 私は咄嗟にその手を掴んだ。

 ここでまた別れたら、きっと後悔する。

 そう思ったから。

「きょうちゃんと話すことない」

「私はある…昨日のこと、忘れられない」

「……忘れてって言ったくせに…」

 ぼそっと呟いた春が足を止めた。

 振り向かないその背はかすかに震え、壊れてしまいそうなほどにちいさかった。きゅっと結ばれた手に、風に揺らいだ長い髪に、そのすべてにまた心が揺り動かされる。





「春」





 私は夜風にそっとためらいを手放すと、春に向かって一歩、その想いを踏みだした。













「──彼女になってほしい」










 口から出ていったその言葉は、なんとも格好つかずなガキのそれ。

 でも、やり直せると言われても、私は同じ台詞を言ってしまうだろう。


「…どうして?」


「好きだから」


「…だれを?」


 振り向いた春の目に溜まった涙が、苦しいほどにきれいだったから。

 こぼれ落ちた小さなしずくが、月あかりに輝いて見えたから。




「春が好き」




 だから私は何度やり直せるとしても、きっとこのだらしのない告白をしてしまうだろう。 

 たとえ春にやめてと言われても、そのいとおしい顔を見逃すことなんてできるわけがない。



「……ばか」

「ごめん」

 春は答えるの代わりに私の胸に飛び込んで顔を埋めた。 

「キスしたくせに…」

「うん」

「忘れられるわけないでしょ…」

「うん、私も」

 泣きながら私の胸をポカポカと叩く春がかわいくて、私はされるがままにそれを受け入れていた。

 こんなに嬉しい痛みは、うまれて初めてだった。

「ヘタレだし、気づくのおそいし…」

「うん…ん?春いつから私のこと好きだったの?」

「……きょうちゃんなんかきらい…」

 月が赤くなったその耳を照らして、素直じゃない春に私はもう一度。

「春、彼女になってくれる?」

「……私、付き合ったらめんどくさいかもよ…?」

「いや、もう十分…」

「なに?」

「なんでもないです…」

 春がいたずらにクスっと笑い、私もそれに応えるように微笑みかけた。


 私より背の低い春が、丸い瞳で私を見上げ、頬を伝う涙をそのままにはにかむ姿。


 それはもう、言葉にしようもない。



「ねえ、春」

「うん?」

「ちゅーしてもいい?」



 まるでお互い答えなんてわかりきっているように、見つめ合って瞳をかよわせて。



「だめっていったらきょうちゃん我慢できるの?」

「──…できない」

 


 私はまた、その甘い匂いに誘われ吸い込まれていった。

 そのちいさな存在が腕の中に在るのを確かめるように、月が照らす私と春の影が重なった。


 照らされた恋ごころを両手に抱えて、好きという気持ちをそこから注ぐように。

 その心に、私の想いが届くように──。



    *********



「きょうちゃん大丈夫?」

「なにが?」

 どのくらいそのやさしい時間が過ぎていったのか。短かったのか長かったのかも曖昧なその時間が過ぎていくと、公園の砂利を黒く染める影は徐々に二つに戻っていった。

「明日から私に会えなくて」

「……まあ、だめなんじゃない」

「…今のもう一回言って」

「やだ」

 家まで送る途中の道で、少しくらいは素直になろうと、私が返したその言葉。それに春はめずらしく動揺していたように思う。

 聞こえなかった!と駄々をこねるその手を取ると、離れてしまわないようにぎゅっと手繰り寄せた。


 二人の想いが、夏の夜風に流されてしまわないように──。



 ──きょうちゃんなにで帰ったの?



 春を家まで送り届け緊張の糸がすっかり解けた私は、届いたそのチャットを見るまで自分が自転車を置いてきたことにも気づいていなかった。

「あんた成留美なるみのチャリどこほっぽって……て、けむっ。窓開けて吸えばか」

「痛っ…叩くなよ…」

「明日ちゃんとチャリ返しなよ、おやすみー」

 ただうす暗い部屋の中で、震える手と心をその煙でごまかすように燃えかすを増やし続けていた。


 窓の奥に見えた月は、今まで見るどんなそれよりも大きく、まぶしかった──。


 


 ──忘れてって言ったの、一生忘れてあげない。

 ──あぁー…。

 ──ほんときょうちゃんって

 ──わかった!きょうは夕飯いいとこ連れていくから!

 ──ほんと?じゃあオムライスがいい。

 ──また…?

 ──なんか言った?

 ──いーえ。


 翌朝、寝る前のこと覚えてる?と連絡した私に"きょうちゃんじゃないんだから忘れるわけない"と。

 そう返した君が寝不足だったことを知るのは、また別のお話──。







 たいていの物語にはプロローグというものが存在する。

 日本語でいえば序章であるそれは、本編の前置きともいえる重要な部分──そう君はよく言っていた。


 きっと、私と君とを物語にするのなら、つまらない世界が色づき始めたこの日までをそう呼ぶのだろう。


 夕暮れの温度も、空の匂いも、月の静けさも。


 君のせいでそのすべてが愛おしくなってしまった、ここまでをきっと──。

 




──ep.3 瑞の白煙──

 


 太陽が少し動いて、影の位置が変わる。

 ぼーっとしているうちにどれくらいが経ってしまっただろう。


 早めに着いたとはいえ、いつまでもこうしていられないことは分かっている。

 もうガキとも呼べない年齢の私には、ひたすらに青い空を見つめて、あの頃のように成すべきことから目を背けている暇はないのだ。


 そろそろ行かないと──。


 そう思いながら、もう一本。

 それに火をつけたところで、ガラス扉がキーッと音を立てた。


きょう

「なんだ…瑞月みづきか」

「ここだと思った」

「まあ、やめられるものじゃないんで…」

「ちょっとは身体大事にしな」

「瑞月がそれ言う…?」

 火貸して、と何食わぬ顔で差し出された手に使い古したオイルライターを乗せる。

「ありがと」

「ん。」

 戻されたそれをポケットに放り込むと、ふーっと横から煙が立った。

 ひと吸い目の、深みのある白。

 か細い風がそれに勝てることはなく、日差しをかき消すようにそこに溜まりもやもやと空間を支配していく。

深白みしろは?」

「お手洗い──だったけど、今はそこでもじもじしてる」

「あーぁ…」

 指差された方に目を向けると、待合スペースの端にちょこんと座る寂し気な影がひとつ。

 泳がせるその心もとない視線は、まるで飼い主を探すよう。

「…瑞月、ここにいるって教えたの?」

「ちょっと一服って連絡は入れた」

「あー…探してるねぇ…」

「はぁ…いつもああなんだから」

 その様子を見ながら、相変わらず、と二人で笑い合う。

 

 ひと通り深白の観察が終わったところで瑞月の表情が戻ると、いつものそれと変わらないような硬い表情で手元のものを深く吸いあげた。

「結婚か、春も」

「…んね。」

「実感ない」

「うん」

「……頃、だいじょ──」


 ──キーッ──


「あ、瑞月いた…ちゃんとどこか言わないとわかんないよぉ…頃、おはよぉ」

「おはよ、深白」

「瑞月、ご祝儀袋どこにやったの?」

「……ごめん頃、ちょっと戻る」

 瑞月がちゃちゃっとそれを消して深白の腕を掴むと、またガラス扉が唸る。

 二人の背中を微笑ましく見ていた私に、深白がこっそりと頼りないウインクをよこした。


 瑞月も瑞月なら、深白も深白。

 ああ見えても、昔から深白の方が周りは見えているのだ。


 ありがと、と片目をつむりハンドサインで返すと、深白がちいさく手を振った。

 それに気づいた瑞月の心底おもしろくなさそうな顔。

 これも今まで何度目にしてきたことか。


「本当の飼い主はどっちなんだか…」

 閉まったそれにぼそっと呟いて、私はぐーっと、その両手を空に向かって伸ばした。

 左腕に着けられた時計の針は、もうすぐそこに迫った式までの時間を刻んでいた。



「……落ち着かないな、二人も」

 


 そして、私も。



 過ぎたあの日々に想いを寄せながら、私はもう少し──と。

 

 二人のいなくなった穏やかな木陰に身を寄せた──。





──ep.4 結い留めたのは──



 私と春のはじめての夏は、少し焦りぎみにその恋を走らせて幕を閉じた。


 数日会えない間が続きながらも、頻繁にかかってくる春からの電話に頬を緩めた夜が懐かしい。

 春がこっちに戻ってくると、タイミング悪く私もバイトが忙しい時期に入り、学生の短い夏はあっという間に終わりを告げた。


 もっとも、ここまでが異常に早かっただけのこと。

 私たちにはもう少し、お互いを知る時間が必要だったのかもしれないと思うところもある。

 とはいえ、止まれと言われて止められるものはきっと恋ではない。大人になった今でもそう思うのだから、子どもと大人の境界線なんてあってないようなもので。


 慎重に歩みを進めたところで、この結果が変わることはなかったように思う。




 しんみりとした切ない空気が風の匂いを変えたころ。秋がそっと顔を出していた。


 その時期は窓際も当たり席ではなくなり、足元から迫る冷気に身体をこわばらせる日々が続いていた。

 わかりやすい冬の寒さよりも、身をひそめながらこっそり迫ってくる秋の方が私はどこか苦手で。我慢できる寒さとはいえ、昔からそれに弱い私は二学期、学校に行くのが余計に億劫だった。

綴理つづりさん?」

 教壇の方から聞こえた名前は、寒さに気を取られ冷たい窓を睨みつけていた私のもの。

「……あ、はい」

「聞いてました?」

「いえ... 」

 馴染みのあるその声が、いつもとは違う形で私を呼ぶものだから、ほんの少し心臓が落ち着きを失くした──内容はいつものそれと変わらないのに。

「綴理さんは"散漫の秋"ですか?」

「……」

 次々に私を責め立てる実行委員の発言に、教室の空気もずいぶんとひんやりしていたように思う。

「いま綴理さん待ちですよ?」

「え、なにが?」

「個人競技、早く選んでください」

「…いや、出ないし…」

「……はい、じゃあこれで。先生、全員決まりました」

「ちょちょちょ、」

 春はチョークを取ると、タタタッと黒板に"綴理"の文字を書いて、強制的に総合の時間を締めた。

 ──聞こえてたのかよ、地獄耳…。

 席に戻った春の背中に心の中で文句を言いながら、なんでその字がすぐ書けるわけ…と、私は嬉しい気持ちもひとつ同じ場所に持ち合わせていた。



    *********



「なんなの」

「なにが?」

「100m」

 いつもの帰り道、あの傲慢さはなんなんだと、後ろの春に勝てることはないと知りながらも私は不満をこぼしていた。

「だってきょうちゃん足速いんでしょ?」

「どこ情報それ」

「先輩が言ってた。昔総体そうたいの陸上でよく名前見たって」

「……情報漏洩じゃん」

「情報収集って言って」

「……そもそも私、長距離型だし」

「きょうちゃんは私が選んだ競技、やなの?」

「……」

「綴理さんの走ってるとこ見たいなあ?」

「…」

 私の左肩に顎を乗せ、くすぐったい口調で耳をくすぐる春。

「ねえ、綴理さんっ」

「んんっ…はぁもう…出りゃいんでしょ…だからその呼び方やめて」

 私はすぐに音をあげてしまう。

「なんで?さっき教室で顔緩んでたのに」

「はい?」

「こうやって呼ばれるのうれしいのかなーって」

「…ばかじゃないの?」

「ねえ、敬語とか好き?」

「あーもう、っるさい!!!」

 小生意気なその口を止めるように私が立ち漕ぎでスピードをあげると、怖くもないくせにキャッとわざとらしく春が声をあげた。

「もしかして照れてます?」

「ません。」

「じゃあかわいいとか思ってます?」

「…ません。」

「ねえ綴理さん。」

「だからその呼び方やめ──」

「私のこと、好きですか?」

「…あーもう……です…」


 この日も連敗つづきの私は、ほぼ強制的に体育祭への参加を決められたのだった。

 総体なんていつの話やら。真面目に走ったのだって、いつが最後だか。面倒にもほどがあるけど、まあ、春が喜ぶなら…走ってみてもいいか。

 と、惚れた弱みにどっぷり付けこまれていた私の心情はそんなところ。



    *********



「ころ、最近なーんか不機嫌よな」

「いや別に」

 体育祭の日が近づくごとに、実行委員を任されていた春は準備に忙しなく追われ、私はそれを横目に見ながら、会えない放課後に舌打ちをしてバイトに明け暮れていた。

 腑に落ちないことがあると仕事に逃げる癖は、今も昔も変わっていない。

「なに、彼氏とうまくいってねーの?」

「ブッ──!!」

「きったね」

 思わぬ発言に飲んでいた水を噴き出すと、店長が身にかかったそれをおおげさにタオルで拭き取りはじめる。

「急に変なこと言うから…」

「お前、不器用そうだもんなぁ…」

「いやだからそんなんじゃないって」

「わかりやすいとこ、ゆうにそっくり」

「……いつまでも縋りついてるようなやつと一緒にしないでください」


 いつからだったか。

 恋で姉が泣くようになったのは。


 何かあるたび酒を飲んでは酔っ払い、缶を潰し泣きながら夜を過ごして。新しいそれを買いに行けと、何度夜中に叩き起こされたことか。


 恋なんてばからしい。


 春に出会うまでの私がそう思っていたのは、母よりも姉の影響が大きかったように思う。異なる相手にそれを求める母よりも、返してはくれないと知りながら同じ相手に想いを寄せ続ける姉の方が、幼い私にはよっぽど滑稽に映っていたのだから。

「……結、まだそいつのこと好きだって?」

「でしょ。毎日ばかみたいに酔い潰れてますよ。まただめだったって泣きながら」

「………お前、結の相手って…知ってる?」

「さあ、興味ないですし。」

「あ、そう…」

「なんすか、変な顔して」

「るせ、仕事戻るぞ」

 そんな風に話をしているこのとき、私はまだ気づいていない──長年、姉を泣かせ続けている相手が、目の前にいるそいつだということに。



    *********



 当日の朝、私はなぜか自分の競技に間に合う時間に目を覚ましていた。

 前日の夜に目覚ましをかけたのは寝ぼけていたからであって、断じて春と一緒に体育祭に出たいなどと、そんな青くさい気持ちからではない…はず。


 時刻は11時を少しすぎたころ。

 とっくに体育祭が始まっている時間ではあったが、すぐに出れば100mには十分間に合う。

「……さっむ…リモコンどこ…」

 だが、秋の寒さは私が布団から出ていくことをなかなか許そうとはしなかった。

「…あー、やばい。めんどくさくなってきた」

 温んだ布団に意識をひっぱられそうになったとき、枕もとのスマホがブブッと揺れた。

 

 ──きょうちゃんそろそろ起きた?


 見計らったように届いたその短い文章。

 それは私を学校に向かわせるには、申しぶんない長さだった。

「……行くか」

 重い腰をあげてジャージに着替えると、走るだけだしと鞄も持たずにそのまま部屋を出た。

「お、ころ」

「げ、成留なるゆうになんか用?」

「ちょっとな。…なに、もしかして体育祭とかでんの?お前」

「…別に」

「やっぱ相手できたろ」

「…うるせっ」

 家の前ですれ違った店長を雑にあしらうと、私は自転車のスタンドを勢いよく蹴飛ばした。



 駐輪場の隅にそれを止めていると、校庭の方から100m開始のアナウンスが聞こえた。

 間に合っているのかいないのか。自分の走る順番もわかっていない私は、カチッと鍵を閉めると小走りで校庭へ向かった。

 活気に満ちたその様子に、よくそんな元気があるものだなと、同年代の精神的な若さに感心を覚えながらお目当ての人を探していると、入場ゲートのような場所にその姿を見つけた。

 こんな大人数が同じ服装をしている中でも、春のことはすぐに見つけられるんだなと自分に呆れ笑いを浮かべていたとき、その人は私に気づくと、鋭い睨みを効かせながらドシドシと音を立てる勢いで近づいてきた。

「きょうちゃんおそい!」

「あー、ごめ」

「連絡返さないからこないかと思った」

「あ、忘れてた」

「しかも長い方だし」

「あー、ね?」

 走るときはだいたい短パンか。こんな寒いのにご苦労なことで…と周りを見渡していると、急に上から被せられた何かに視界が遮られた。

「…なにこれ」

「ゼッケン」

「えー、ださー…」

「着てない方がださい」

「……はい」

 ごもっともと、私より大人な春の言うことを聞いて仕方なしにそれに腕を通すと、まだ着きれてないうちに後ろから背をトンッと押し出される。

「はい行って!きょうちゃん次だから」

「え、このまま?」

「一位とったらご褒美あげる」

「いやそんなんでやる気出さないし…」

「綴理さん?」

「…ちっ……はぁぁぁもう」

 春はずるい。

 今まで何度そう思ったことか。数え切れないことにはわかりもしない。

 舌打ちもため息も、そんな春に弱すぎる自分に対してのものだ。

「いってらっしゃい、きょうちゃん」

 私はため息を助走に変えるように走り出した。

 がんばってとかじゃないのもまたずるい──そう思いながら。


 同じ回であろう走者たちはすでに位置に着いており、入場ゲートからそこまでの距離を詰める私は不利そのもの。

 ──てかこれ、そもそもスタートに間に合うわけ…?

 と、頭の中で愚痴を言っているうちにドンッという音が校庭中に響き渡り、各自が一斉に足を踏み出した。


「……はっや…」

 

 正直、そこまでは全くもってやる気はなかった。

 陸上に手を出したのは気まぐれで、当時の担任の誘いを断りきれなかっただけ。ブランクもずいぶんあったし、前を行く背中の勢いはすごいし、こんなの無理だろと。号砲が鳴り響いたときまではそう思っていた。けれど、少し前で競い合うその背中を見て、負けたくないという気持ちがふつふつと湧き上がってしまった。

 昔から勝負ごとに負けるのは好きじゃない。相手が強いとなればそれはなおらさ──私が負けても良いと思える相手は、今でも春だけだ。


 思えば早いもので、私は軸足に重心をグッと乗せると、その重みをバネに一歩、また一歩と踏み出し、向かってくる風を切りながらペースを上げていった。

 長く息を取り、足の間隔は大きく。スタートのロスを取り戻すように、がむしゃらに地面を蹴り上げた。

 靴がコンクリートと摩擦してキュッキュッと甲高い音が鳴る。それに合わせて呼吸のリズムを調整し、身体が思い出してきたフォームに気持ちを馴染ませていく。

 

 そうだ。走るのって、こんなんだった──。


 たばこのせいで息はあがるし、観客はうるさいし。おまけに風も冷たい。それなのになんでこんな一生懸命になって走ってんだろ、あほらしい。

 そう思いながらもひとり、またひとりとその背中を追い越していくと、残り数メートルのところで前の背中はあとひとつになった。


 抜けるか。いや……無理かも。

 なんかこの人めっちゃ速いし、足もそろそろ限界…。

 

 専門にしていた長距離と違って、当たり前に100mは短い。じわじわとそのチャンスを狙いにいけるそれとはわけが違い、一瞬一瞬を調整しながらハイペースでこなす必要がある。成長した身体を慣れないその形に合わせていくのは至難の業であり、このときすでに運動などしていなかった私にはなおのこと。

 ──ちょっとは練習しておけばよかった…。

 そう後悔しても遅く、もう諦めるかと白いテープの方に目をやったとき、私は思い知ることになる。


 ──パンッパンッ──


 自分の中に、やる気ってちゃんとあったんだ──と。


「おつかれさま、ウインク効いた?」

「………はぁ…はぁ…うっとおしい…」

 久しぶりの運動で死ぬ思いをしながらゴールの奥に倒れこんだ私の顔に、ぼさっと春が小さめのタオルを乗せた。

「……ほんっと、めんどくさ…はぁ…走るのも…春も…」

 秋でも汗ってかくんだ…そう思いながら、私は浅い呼吸の合間にタオルから香る春の匂いを感じていた。

「てか、なんか…みんな早くない…?」

「うん、きょうちゃんのグループみんな運動部だから」

「……まじでふざけてる…」

 満足そうに笑った春は、まだやることあるからとその場からすぐに離れていってしまった。

 一生分のダメージをくらった私にそれだけかよと思いながらも、荒い呼吸を繰り返す私には言い返すこともできず、その場にしばらくへたり込んでいた。


 少しかすれた秋の雲。いわしのような、絹のような。

 風に乗るそれを見ながら、久しぶりに感じる心地よい疲れに身を任せ、もう一生走らないと、そう心に誓った。

 そのとき、少し離れたところからやいやいと騒がしい声が聞こえ、気だるい身体を引きずるようにして私は声の方を向いた。

「だからいいって」

「でも一旦保健室に…」

「このまま連れて帰る」

 なんともめんどくさそうなその会話。

 こういうのは関わらない方がいいに決まっている。そう思いあくびをひとつ──しようと思ったが、私はそれをのみ込んだ。

 そのごたごたの中心にいるのが、春だったから。

「先生に診てもらった方が…」

「うちで診るからいい」

「でも千早ちはやさん、」

「あんた、しつこい」

 なにやら登場人物は他にも二人ほどいるようで、騒がしく喚いているのは春が相手にしている赤髪ショート。

 学校も体育祭も、走るのも。面倒ごとはなんだって大嫌い。揉めごとはその中でも一番に近かった。自ら進んで仲裁なんて、普段の私なら考えることもしない。相手が春じゃなかったら、疲れきったその重い腰をあげることもなかっただろう。 


 一番めんどうなのは恋であると、それを私が知ったのはこのとき──。


「春」

「あ、きょうちゃん…」

 珍しく手を焼いている春が新鮮で、このまま見ているのもいいかもと、少し思ってしまったことは今でも春に内緒にしている。

四条しじょうさんが怪我しちゃったから保健室、と思ったんだけど…」

「だから深白みしろは連れて帰るって」

 ──誰が誰だよ。

 そう口に出てしまいそうな気持ちを抑えながら、やいのやいの言っている方に私は目を向けた。

 縮こまって足もとを押さえている子猫のような方が、きっと春のいう"四条"で、この目つきの悪い赤髪ショートのいう"深白"なのだろうと、それだけは分かった。

「で、あんたは?」

 私は赤髪にその名を問いかけるように手の平を前に出す。

「千早さん。連れて帰るって聞かなくて…」

「…なんで?」

 私の頭の中にはハテナマークが絶えず浮かび続けていた。

「なんでもいいでしょ」

瑞月みづき…先生に言った方が…」

「なんかもう、邪魔だからそこどいて」

 トンッ──と。力にすればそれくらいだったのかもしれない。

 だけど、春がよろけて尻もちをついたものだから。

 私はつい。ほんとについ。ちょっとだけ。

「謝りなよ」

 去ろうとするその赤髪の肩に手をやって、口を出してしまった。

「なに」

「春に謝りなよ」

「……帰るよ、深白」

「いや、ちょっと待、」

 ドッ──。

 という鈍い音とともに校庭のコンクリートに転がったのは、赤髪ではなく私の方だった。

「痛っ……ちょ、ほんと、」

 思わず手が出そうになったところで、それを止めたのは春だった。

「きょうちゃん、だめ」

「……」

 どうしようという顔をしながらあたふたするその子猫をおぶって、赤髪はそのまま何を言うでもなくその場を去るのだった。

 叩くならまだしも肘打ちってなんだよ…と、やられた右頬を擦りながらその背中を睨みつけていると、きょうちゃん目、と春に諭されてしまい、私はやり場のない気持ちをどうにかしてやろうと空を見上げて低いトーンで"あーーー"と叫ぶのだった。

「しずかに」

「………はぁ、もう帰る…」

「だめ」



    *********



「はい、ここ座って」

「…いいって。このくらい」

 春が保健室に連れていったのは、先ほどの子猫ではなく、どちらかといえば犬。それも大型犬にあたる私の方だった。

 トントンと、子どもに言い聞かせる母親のように春はベッドの上を叩いて見せた。

「……」

「私にも殴られたい?」

「…いーえ」

 別に殴られたわけじゃ。そういう場だったら、負けなかったのに。女子校のちょっとした揉めごとで普通手が出るなんて思わないじゃん──負けず嫌いの大型犬はそう吠えたい気持ちを抑え、重たいため息をついて渋々そこにおすわりをする。

「先生、校庭にいるから私がやるね」

「ん」

 春は手際よく棚から氷嚢を取り出すと、冷凍庫から氷を何個か取り出し、その中に水と一緒に流し込む。空気を器用に抜いて蓋を閉めると、ベッドの脇に丸椅子をひとつ構えてそれに腰かけ、私の右頬にそっとそれを押し当てた。

「…いたい?」

「…別に」

 にぎやかな校庭とは一変、校舎の片隅にある保健室では、およそ同じ空間とは思えない静かな時間が流れていた。

「もう、きょうちゃん訳もしらないのに出てくるから」

「……」

「でも我慢できてえらかったよ?」

 ぽんぽんと、やわらかくほほ笑みながら頭を撫でられる。それに自分の不機嫌がスッと姿を消していくのさえ、この日の私にはおもしろくなかった。

「次会ったらぜったい殴る」

「だめって言ったでしょ」

「痛っ」

 額に受けたデコピンに顔を歪めながら、もう少し優しくしてくれと春に目線で訴えかけた。

「千早さん、昔から不器用なの」

「知り合い?」

「みんなだいたいエスカレーターだから」

「ふーん」

「妬いてる?」

「…て、ない」

 でもきょうちゃんにちょっと似てると、春がクスっと笑ったものだから、私はおもしろくなくてまたため息をひとつ。

「や、どこが…」

「四条さんのことになるとちょっと熱くなっちゃうところ?」

「いやだから、どこが」

「だってきょうちゃん、いつもだったらあんなとこ入ってこないでしょ?」

「……。」

「相手が私じゃなくても、つっかかったの?」

 自分の行動がどうにも恥ずかしく、私はドサッとベッドに背中を預けた。

 今でもこのときのことを思い出すたび、その青臭さに発狂したくなるのだから、この日私がそこで音をあげたことも、むしろそこまでよく我慢したと褒めてやりたいくらいだ。

「きょうちゃん照れてる。かわいい」

 寝そべった私の頬を、前屈みになった春が人差し指でツンッと突いた。顔を見られたくなくて私は腕でそれを覆うようにして隠したが、伸びてきた腕がいとも簡単にそれを解いてしまう。

「隠さないの」

「……」

「きょうちゃん」

 春の瞳が私を捉えた。

 心の奥底までも見透かされそうなその深い瞳に見つめられると、私はきまって動けなくなってしまう。

 それは身体だけでなく、思考も同様。

「かっこよかったよ?一位、ありがとう」

 そう言って春が穏やかに笑って。

「……」

 心まで、止まりそうになった。

「きょうちゃん?」

「……あ、ごめ」

「なに?見惚れちゃった?」

 はにかみがちに笑うその表情が。いつもと違うアップの髪が。

 おめでとうじゃなくて、ありがとうだったことが。

 すべてが胸をかき乱したから、私はもう機能していなかったように思う。

「………最近」

「うん?」

 だから、自分をコントロールすることなんてできなかった。

「あんま会えてなかったから…」

 気づけばそう口にしていた。

「…私も寂しかった」

 うまく言えない私の代わりに、春はそれを読み取って言葉に変える。


 私には、いつも足りないところばかりだった。それでも春と同じ時間を過ごせていたのは、その足りない部分を彼女が補ってくれていたからだ。


 こんな昔のできごとを振り返っては、私はまた春に想いを寄せてしまう。


「──こっちきて、ご褒美あげる」

 春が両手を広げ、私を腕の中へと呼び込む。

 ──キスまでして…しかもこっちからいくスタイルですか…。

 なんだかな、と頭をかしげつつ身体を起こすと、私はその腕の中に控えめに身を寄せた。

 少し冷える部屋の中で春のあたたかい体温が私を包み込んでいく。しなやかなその身体とトクトクと鳴る春の鼓動が気持ちよくて、まあこういうのもいいかと私はその背に手を回し、肩に顔を埋めた。

 寒い時期でも、春のあたたかい匂いはあいかわらず私を睡魔に誘い込む。すっかり落ち着きを取り戻し、まぶたが重くなった次の瞬間だった。


「はい、ご褒美」


 頬に、やわらかな感触が降ってきたのは。


 初めての春からのそれが、私の心を引っ掻いた。


 どんなに子どもじみたものでも、たとえ頬であったとしても。たった一瞬でも好きな相手からもらうそれが、こんなにもあたたかく心を乱すなんて。


 私は15歳の秋まで、そんなことも知らなかった。


 二人きりの静かな部屋。遠くから聞こえるざわめきの中には、鼓動の音だけが深く入り混じる。高鳴る鼓動がどちらのものなのか、くっついていることには分かりようもない。

 

 だけど、私はわかってしまった。

 お互いが同じくらいに胸を焦がしていると。


 春の耳が、ほんのりと染めあげられていたから──。

 



 ──ハグとかほっぺとか。

 ──…うれしかったくせに。

 ──まあそうですけど…瑞月あのときなんであんな頑なだったんだろうね?

 ──きょうちゃん、まだ気づいてなかったの…?

 ──え?

 ──はぁ…私がどうして保健室に先生呼ばなかったと思う?

 ──……なんでだろ…。

 ──好きな人の身体に触れさせたくないでしょ、普通。

 ──……。

 ──すぐ赤くなるんだから。


 はじめての君からのキスは、誰にも教えたくない秘密の場所を見つけたような、そんな大切に閉じ込めておきたい私だけのたからものだった。


 その感触も、胸を溶かしたあたたかさも。

 けして忘れることはないだろう。


 今も心の中に、ずっと──。



 初対面で壮大なエルボーを私に食らわせた瑞月とその飼い猫こと深白が、私たちと距離を縮めるのはもう少しあとのこと。あんなやつと仲良くなるとは、このときの私はこれっぽっちも思いやしない。

 今思い出しても、あの一撃には腹を立てられる自信がある。この話を掘り返すたび申し訳なさそうな顔をする瑞月がおもしろくて、ついからかってしまう私に、いつも謝るのはきまって深白の方。

 本当にどちらが飼い主なのか、そろそろはっきり答えを出してほしいものだ。



 世間一般で短いといわれる秋は、学生のスピード感からするとその倍の倍くらいの速さで過ぎ去っていくもの。

 振り返れば一週間程度の思い出しかないそれは、当時の体感にすれば三日ほどのものだっただろう。

 春という恋を覚えた私にとってはむしろ、凝縮すれば24時間にも満たなかった気さえする。


 そんな秋とは比にならない寒さを連れて北風が吹いたころ。模試や期末テストで学校中が忙しない空気のなか、私はというと一日のほとんどの時間をバイトに捧げていた。

「きょうちゃん、最近くるの遅すぎ」

「…そう?」

「今日も4限からだったでしょ」

「あー、だね」

「もうっ、卒業する気ある?」

「春がさせてくれるらしい」

「…自力作善って知ってる?」

「なにそれ」

 一人でもできるようになってよね、と春が昼休みにぼやくのも仕方がないほどに、学校にはくるものの授業への抜けも多くなっていた。

 それでも少しの前の私から比べればまだいい方で、なんなら入学してから一日たりとも全休していなことを褒めてすらほしいものだった。

 目の前でおおげさにため息をつきながら、小さな口でお弁当をつまむ春を見て私は思った──春が居なかったら、こうじゃなかったと。

「なに笑ってんの?」

「なんでもない」

 シフトを増やし抜けが多くなったのは後ろ向きな理由ではなく、むしろ私にとっては至って人間的な理由からだった。

 きっかけは先のシフトに頭を悩ませた店長との、こんな会話だったように思う。

「うーん」

「どしたんすか」

「ころ、お前25日って…出れねえよなぁ…」

「来月?冬休み入ってるし人足りないならでますけど」

「……お前クリスマスって知ってる?」

「あぁーーー、なるほど」

「……出れんの?」

「……まあ、ちょっと保留で」

「やっぱいんじゃねえか相手!」

 うるせえなと思いつつ顔を歪めて耳をふさぐと、そんなことはお構いなしに店長は話をつづけた。

「高校生とか浮かれまくりだろ。ばかみたいにプレゼントやったりもらったり」

「…そういう経験あんの?」

「ない。結が酒もってきたぐらい」

「…捕まれよ…」

「お前いまなんか言った?」

「いーえ」

 あのころは緩かったんだよ!と思い出ばなしに花を咲かせる年寄りを無視して、私はひとり考えていた。

 クリスマスなんてそんなもの、祝う習慣のなかった私にとってはその日すら忘れてしまうほどにどうでもよかったが、相手がいるとなると話は違う。たしかに、店長の言うように春になにかあげるのもいいかもしれない──と。

「だからさぁ、しょっちゅう駅前の店で…おい、ころ聞いてんのか?」

「成留」

「あ?店長って呼べ」

「来月シフト多めで」

「……ませやがってこのガキ…」

 私は意気揚々にそう告げると、店長を無視してバイトに戻るのだった──。



    *********



 すっかりバイト漬けになった一ヶ月はあっという間に過ぎ去り、気づけば冬休みも翌日に迫った放課後。

 その日は特別寒かった。

 私はいつものように春を後ろに乗せ、肌に鋭く突き刺さる風を切り裂くように自転車を漕いでいた。

 丈を短めに調整されたスカートはなんの利便性もなく、ただ風に揺れるだけ。見栄えが良いからとそんな安直な考えだけで、冬の寒さの中でもそのスタイルを貫いていたのだから、若さというものには到底頭があがらない。


 全身を洗い流すように吹き荒む風。それを受けて、手の感覚もすぐになくなっていった。

「さむい?」

「……ん」

 寒さに弱い私はなるべく体力の消耗を防ごうと、この時期は毎年無口になってしまう。もちろんこのときも例外ではなく、そんな私を春は終始気にかけていた。

 それでもこの冬はまだマシで。背に春という懐炉があるだけで、私はこれでも我慢できていたほうなのだ。もともと平熱が低いうえに冷え性の私には、後ろに春の存在があるだけで身体もその心もずいぶんと温度を保てていたように思う。


 寂しくなるような灰色の夕暮れ。

 信号がぼやっと赤く灯り、ブレーキをゆっくりと握った。自転車が動きを止めた瞬間、風は容赦なく身体へと襲い掛かる。身震いするほどのそれに縮こまっていると、両耳をあたたかい感触が包み込んだ。

「*****?」

「ん?」

 春がなにを言っているのかよく聞こえなかったが、あったかい?とか、そのへんのことだろう。

 春の手はその名の通り、秋でも冬でも関係なく、その季節の陽気のようにあたたかい手だった。まだまだ春の家までは距離があるというのに、寒さにこわばった身体から力が抜けて、私はまぶたが重くなっていくのを感じた。

「**──…」

 そんなことを考えていると、春がまた何かを口にした。

 だけど、ちょうど右折してきた単車のマフラー音がその声を遮ってしまい、私の耳に届くことはなかった。

「ごめ、なんか言った?」

「んーん。」

 春の右手を自分のそれでずらしてそう聞くと、手にもその体温が分け与えられ指が感覚を取り戻し始める。

「これあったかい?」

「うん、きもちい」

「耳あっためるといいんだって」

「なんかポカポカする」

 春の手は魔法の手だ。ときに不機嫌や痛みといった厄介者を相手にしながら、冬の寒さもスッと擁してしまう──私の虚しさや、恋しささえも。

「明日から毎日会えなくなるね」

「あ。そっか。」

 冬休みがくれば面倒な学校がなくなる。そうとしか頭になかったが、考えてみればそれは春の言ったことを意味するということ。

 私の単純な脳みそは、途端に冬休みを不快に思い始めた。

「デートくらい誘ってくれる?」

「…ん」

 私をからかうときの春の声は、いつもより少しトーンの高い甘えた猫なで声。他の人がやっても不愉快なだけなのに、私は毎度それをわいいと思ってしまう。

 放課後は毎日寄り道をして、休みの日も時間があえば頻繁に会っていたが、あらためてそれを"デート"と表現されるのは少しむず痒かった。

「あ、春。25ってさ」

 そういえば、と私は思い出したように口を開いた。すっかり会うつもりでバイト三昧の日々を送っていたが、どうせ共に過ごすものだろうと春にそれを確認していなかったのだ。

「…ごめんきょうちゃん、その日家の用事があって…」

「あー、そか…」


 少し。ほんの少し。残念に思った。

 と同時に、店長にそそのかされ浮足立っていた自分を恥じた。


 春は私と育ちが違う。

 クリスマスに家族が揃うことなどない私の家とは違い、家庭で過ごす用事があっても当たり前なのに。恋に浮かされた私はそんなことにも気づけなかった。

 当日会えないということに落胆してしまった心を悟られないよう、一生懸命に出した私の返事。それが隠し持つ意味も、きっと春には全部お見通しだったのだろう。

「会いたいって思ってくれてた?」

「……」

 私は自転車をキュッと止めると、なにも出てこない言葉の代わりに、春の手をぎゅっと握りしめた。

 春はそんな私の肩に頬をほんの少し預けて、やさしい声で耳を撫でた。

「初詣、連れてってくれる?きょうちゃん」

「…ん」

 木枯らしが揺さぶる心を収めるように、春の手が私のそれを強く握り返し、そのぬくもりで沈んだ気持ちが奥底から這い上がってくるような気がした。

 春の手にはやっぱり魔法がある──私はばかみたいにそう思った。

「屋台って、おしることかあるかな?」

「食べたい?」

「うん」

「じゃあ、あるとこ探しとく」

「ちょ、っと!きょうちゃん!」

 もうクリスマスなんて、どうでもよくなってしまうぐらい。

 私は春と迎える新しい年に心を躍らせながら、ブレーキもかけずに冬の坂道を駆け降りた──。



    *********



「そんな一生懸命働いて、お前も彼氏になんかやんの?」

「はい?」

「クリスマスのためじゃねえの?普通、一緒に過ごすだろ」

「ああ…」

 クリスマスも目前に迫ったころ、その存在を忘れていた私に声をかけたのは店長。

「当日シフト入れてもらっていいっす」

「え?…まあ、助かるけど」

 と、不思議そうに首を傾げたその横で、ふと私は考えていた。

 "彼氏"という言葉がどうにも引っかかると。

 

 ──春にとっての私は、一体なんだろう。


 あまり気に留めていなかったが、春にキスをしてしまったあの夜。悩みの種はその行動にもあったが、相手が同性だということも少しばかりは理由にあったはず。別に、まわりにそういう人がいたところでどうこういうつもりはないし、それに対して思うこともない。ただ、あのときは春から逃げようとした理由にそれを使ったまでのこと。付き合ってからというもの、そこについて悩むことも考えることもなかった。

 そもそも、春が女だとか男だとか。そんなこと私には心底どうでもいいことで。春がどちらであったにせよ、私は春の匂いに惹かれていただろうし、恋に落とされていたように思う。きっと春もそうであるからして、二人の間でこの手の話題が出なかったのだろう。けしてそこを避けていたわけではなく、単純に好きになった相手が春で、その相手の私が同性だったというだけの話。

 けれど、こうして"彼氏"という言葉で表されると違和感があるのも事実。そもそもからして、春も私も男ではないのだし──。

 

 店長の言葉にだらだらとした気持ちを思い浮かべながら、私は春へと関係を進めた自分の一言を思い返していた。

 

 ──彼女になってほしい。


 そこになにか特別な考えもなかったが、あれは正しかったのだろうか。

 自分でお姫様などと言ってしまうその見た目的にはなんの問題もないが、じゃあ私は春の目にどう映っているのだろう。店長のいう"彼氏"はおかしいけれど、かといって"彼女"──なんだかしっくりこない。なんで二択しかないんだろう。春は私のことをどう思っているのだろう。


 店長がやいやいと昔ばなしをしている横で、私はぼんやりそんなことを考えながらフロアの床を磨いていた。

「まあ…なんでもいいのか?」

「あ?…ころ、そこ磨きすぎじゃね…?」

 結果的に春が思っていることならなんでもいいかと、床の汚れを拭き取るようにその引っかかりもすぐに片付いてしまった。


 それほどに当時の私にとって、この話は二人の関係性に重要視されるものではなかったのだ。

 店長の言った"普通"という言葉から少しはみ出していたとしても、そもそも普通の環境で育っていないのだから、別にそこに準じる必要もない。普通なんて、真ん中を表したかっただけの昔の偉い大人が作った、単なる言葉の綾だ。

 

 将来を描くことのなかったこのころ、私はそう思って疑わなかった。

 こわいものなんて、なにひとつなかったのだから。

 

 だが大人になるというのは厄介なもので、強い意志とは反して誰かを守るために弱くなる部分もある。

 私の横で首を傾げていた店長が、当時そうであったように──。



    *********



 冬休みに入ってからも時間を作っては春と会っていた。

 "デートくらい"とそう言った春の言いつけを律儀に守り、私は不器用にも春を誘いながら、学校がない期間も買い物や映画、美術館に作家展と。まるで興味のない春の趣味に、自ら振りまわされにいった。


 年始にも会う約束を控え、冬休みは十分に充実していた。

 だから寂しいはずはない。クリスマスなんて、どうってことはないのだから。

 

 そう思っていたのに。

 

 クリスマス当日、どうしようもなく春に会いたくなってしまったのは私のだめな親がその教育を怠ったせいなのか、単純に聞き分けのない自分のせいなのか。

 頼むから答えは前者であってほしいものだ。


「似合ってんぞー、ころ」

「聞いてないんすけど…」

「こうやってるとちょっとはかわいげもあるな」

「いや、だからなんすかこれ…」

「トナカイしらねーの?」

「ちげえよ…」

 クリスマスイベント。

 そうスケジュール表に記載があったのはもちろん分かっている。けれど、こんなカップルだらけのイベントだとは聞いていないと。私はそう言っていたわけで。おまけに無理くり着せられたこのトナカイの衣装と、お前が着ているサンタの衣装はなんだと。

 まったく話の通じない店長に、私はわざとため息を吹きかけてやった。

「似合ってんのに」

「せめてそっち貸してよ…てかこれほんとなに」

「ん?クラブイベントみてえなもん」

「いやカップルしかいないし…てか皿回すひともいないじゃん」

「ここにいんじゃん」

 真顔で自分を指差した店長に、呆れ顔をしていたのは私だけではない。その場にいたバイト全員が同じを顔を向けていた。

「成留、ちょっとこっち」

 私は店長を裏の事務所に引っ張ると、じとっとした目つきで白状するよう圧をかけた。

「いやぁ、ちょっとバンドとんじゃって…な?」

 ブッキングしていたバンドのボーカルが、メンタル事情で急に飛んだ。その穴を埋めるため、適当にクラブイベントを立てたというのが、この日私がトナカイにされた理由だった。

「この時期払い戻しとかきついし…向こうはキャンセルポリシーがん無視だし?」

 バンドがこの手の理由で飛ぶことは珍しくはない。キャンセル料なんて払われた方が目を疑うが、それにしたってもう少しマシな手があっただろ、と私は一段と鋭い目つきで店長を睨みつけた。

 そのころ表ではすでにそのわけのわからないパーティーのようなそれが幕を開け、もうあとには引けないところまできてしまっていた。

「……はぁ…特別手当つけろよ」

「なんの?トナカイの?」

「うるせえ!成留!はやく!」

 私はがっくりと肩を落としながらそう吐き捨てると、トナカイとしての仕事をせっせと全うするのだった。

 この日以来、私が成留を店長と呼ぶことはなかった。



    *********



 もはやフリーイベントと化したそこではところ狭しにカップルがひしめき合い、酔っぱらったそれらが所構わずいちゃつき始めるもので、その地獄絵図に私のストレスはピークへと達していた。

 もっとも、ステージで誰よりも楽しそうに酒を浴びる成留のせいでもあったが。


 もういてもいなくても同じだろ、と逃げ込んだ先の喫煙所。なんとか繋ぎとめていた糸は、そこでぷつりと断ち切られることになる。

「いや、うそでしょ…」

「……それあんたの趣味?」

 短い赤髪を風になびかせた先約によって。

「もう勘弁して…」

「まあ、人の趣味に口は出さないけど」

 まったく表情を変えない赤髪に、んなわけないだろ!とぶん殴ってやりたい気持ちもあったが、このときの私にはそんな元気も残ってはいなかった。

 適当にジッとライターに火を灯すと、重たい煙を肺に放り込んで気持ちをごまかした。

「てかなんでここにいんの…」

「とんだでしょ、うちのバカ。あたしBass」

「…なーるほど」

 たしかに見た目からして音楽やっててもおかしくないかと思いつつ、あんないいとこの学校に通っていながらこいつはなんでここで一服しているんだと、それを聞きたいところではあったが、踏み込む仲でもないかと言葉を止めた。

「あんたコスプレ趣味なの?」

「…殴っていい?バイトだよバイト」

「へえ」

 なんとも興味のなさそうなその横顔に、私はため息なのか煙なのかも怪しいものを吐いて、一人になりたいと心から思った。

「捨てられたの?」

「はい?」

「飼い主いたでしょ、あんたの手綱にぎってた」

 子猫の手綱を握ってたのはそっちの方だろと、私は訳の分からない発言に頭を傾げた。

科木しなきさんだっけ。あんたみたいな犬、よく手懐けてるよね」

「…いぬって…おまっ、」

「まあ、本当はトナカイだったみたいだけど」

 次から次へと繰り出されるジャブにかちきれて手を出そうとしたところで、か細い声が私の動きを止めた。

「いた…もう、探したよ瑞月みづき

 振り向いた先にいた声の主は、この場に似つかわしくないフリルを纏ったあの日の子猫。

深白みしろ…こんなとここなくていいのに」

 まるで駐車場裏に見えた野良猫に頬を緩めるように、持っていたそれをササッと消し去って、赤髪はその目つきを緩めた。

「急に飛び出してっちゃうんだもん…」

「だって、それは楓が…」

「瑞月、帰って一緒にケーキ食べよう?」

 そう子猫が甘えるように飼い主の手を取った瞬間、その身体が首まで真っ赤に染まった。冬の暗い夜でも、わかるほどに。

 こいつこんな顔できんのかよ…と、私は口をポカンと開けてその様子をただ見ていた。自分も春の前でこんなだらしない顔をしているのだろうかと。

 子猫は大人しくなったその手を引いて出口の方へ向かい、去り際に振り返ると、手を合わせお辞儀を一つ私へ寄こした。

「お前も飼われてるじゃん…」

 子猫だと思っていたが本当はあっちが飼い主なのかも?と、私はこのころから瑞月と深白の不思議な関係を追いかけている。

 基本的には九割型深白がリードを引いているが、表向きに一割、瑞月に引かせてというのが近頃やっとわかってきたところ──まあ、瑞月は自分が引いてるつもりらしいけど。


 あんな表情ひとつ動かさないやつが、なんでそんな顔になれるわけと、私は一人になったそこでもやもやしていた。


 そしてたまらなく、春の顔が見たくなった。

 春のその手に、触れたくなった。

 

 瑞月と深白に充てられて春に会いたくなるなんて。こんな黒歴史、今でも二人には打ち明けたくない──このあとトナカイのまま、街を突っ切ったことだって。


 夕方から出ていると言っていた春はもう帰宅しているだろうか。そう思い23時を回った時計を見ながら、私はうるさく進むその秒針のように自転車をかっとばした。

 

 孤独を持て余す余裕は、とうに底をついていたのだから。


 もし春が帰宅していたとしても、こんな時間に家に押しかけて出てきてくれるだろうか?うちの親とは訳がちがうし、ただでさえ暗い時期のこんな時間に一人娘の春が外に出ることを親は許すだろうか?

 過保護っていってたし、まずったかな…と、ハンドルにもたれながらそのスピードを落としたときだった。


「トナカイさん?」


 横を走っていた黒いタクシー。その後部座席の窓がゆっくりと開き、一番聞きたかった声に出会えたのは。


「なにしてるの?きょうちゃん」


 首がもげるんじゃないかという勢いで振り向いた私に、春は冬の寒さをかき消すように笑いかけた。


 すみませんここで、と春は運転手に伝え、その場でタクシーを降りた。

 車からゆっくり片足ずつ降りてきたその姿は、まるで絵本の世界から飛び出してきたお姫様のよう。

 スレンダーラインのドレス。スカーレットのそれは後ろで編み込まれた髪型と協力して、私の心にひとつ、同じ色で揺れるものを灯した。


 やさしい春色の君がいつもとは違う色に輝いていたあの瞬間。なんど思い返しても心に焼きついたその光景に慣れることはなく、頭がぼーっとしてしまう。

 

「その格好、もしかしてサプライズ?」

「ち、ちがう!」

 春が口元に手を当てて笑うものだから私はかくかくしかじか、そうなったアホらしい理由をお姫様にすべて話した。

 言いたいことは、そんなことではなかったのに。

「──で、会いたくなっちゃったんだ?」

「あ。…まあ……」

 しまった。喫煙所での言わなくていいできごとまでつい口走ってしまった。

 そう焦る私をさらに問い詰めるように、小さなパーティバッグのようなそれを後ろに回し、前屈みになった春が私の顔を覗き込む──その顔に、私が弱いと知っていながら。

「それでその格好のまま出てきたと」

「……会いたかったんだから仕方ないじゃん…」

「…きょうちゃん、私も会いたかったよ?」


 そう言った君の瞳が揺れていたことに、このときの私は気づけなかった。

 気づかないと、いけなかった。


「…ん。てかそんな服はじめて見た…」

「ちょっと食事会。疲れたから先に出てきちゃった」

「そっか……」

「きょうちゃん?」

 すっかりその姿に見惚れた私は、春の言葉がうまく頭に入ってこなかった。

「あ、うん?…ごめ、なに?」

「どうしたの?頭がお留守だけど」

「あ、いや……きれいだなって…」

 私がそう言うと、隠す素振りもなく頬を緩める春──きっとまぬけな顔を浮かべ続ける私の思うところなど、春は全部わかっていたのだろう。

「ねえ、きょうちゃん」

「ん?」

 そして続けてもう一つ。


「あの日のワンピースとどっちが好き?」


 今度はまっすぐな瞳で、私にそう問いかけた。


「……春にはあっちの方が…似合う。と、思います…」

 難しい問題だったが、私の中に答えは一つで。それをどう伝えれば正解なのかということが、この問題のネックだったように思う。

 少しの沈黙に答えを間違えたかもしれないと、冬なのに冷や汗をかきそうになったところで、春がいつもより赤く染められたその口を控えめに開いた。


「……100点あげる」


 その小さな声を、私は聞き逃さなかった。


「きょうちゃん、私プレゼントほしい」

「はい?」

 答えがあっていたことにほっとしたところで、私の心はまた容易くかき乱されてしまう。

「…プレゼントってな──ちょ、はる?!」

「いこ?」

 春は私の話なんて聞かず、自転車の後ろに腰をかけた。

 いつものように横乗りで、いつもより長いスカートを手で絞って。

「…こんな時間にどこ連れてけって?」

「どっか」

「なにそれ…」

「お願い聞いてくれないの?」

 甘い声で、耳を撫でて。

「だ、だって」

「恋人なのに?」

 私の心も頭のなかも、その全部をめちゃくちゃにして。

「………親へいき?」

「うん…だめ?」



「──…だめじゃない」

 


 私はそう応えると、邪魔な着ぐるみのたるんだ足元を捲し上げサドルに跨った。


 私を恋人と、そう言った君を後ろに乗せて、冬の夜風にも負けないスピードであてもなく自転車を走らせた。

 

 どっか──。


 そう口にした君の表情が曇っていたことにも気づけないまま──。


 何度も遠回りをしながら私の家に着いたころ、冬の夜はその深さを一層増して、暗い夜が二人をのみ込んでしまいそうだった。

 がらくたで散らかったモノクロの部屋で、春だけに色が見えた夜。私と春はその寒さを忘れるように抱き合ってぬくもりに溶けた。

 

 疲れて眠る君の頬をそっと撫で、この夜が明けなければ、幸せを奪う寂しい朝がこなければいいのにと。そう思いながら、私も夢の中に堕ちていった──。


「頃、あんた昨日バイト…うわぁ…」

「結どうし…おぉう、トナカイがサンタ抱いてる……」

「……顔洗ってくる、朝から変なもんみたわ」

「…なるほどねぇ。しあわせそうにしちゃって」

「成留美、いくよ」

「ほいほい、お幸せにっと」




 ──朝のきょうちゃん、心までお留守だった。

 ──……あれから成留にサンタって呼ばれてるの気づいてる?

 ──うん。昨日もゆってた。

 ──昨日会ったの…?ど、どこで…?てか、また…?

 ──そこのカフェ。結さんと三人でお茶してきた。

 ──いやっ…聞いてないよ…。

 ──だって言ったらきょうちゃん、行かせてくれないでしょ?



 私は今でもときどき、この幸せな夜を夢にみる。

 君の耳のかたち、まつげの長さ。首筋から香る、やさしい匂い。

 人とともにする夜がこんなにも満たされるものだと知ってしまったから。

 

 この夜、心に揺れた灯火あかりが今も消えることはない──。



    *********



 ずっとその隣で、君の笑顔を見れますように──。

 そう願った新年はあっという間に季節を転がして、つつじの花がその身を染める二度目の春。

 私と春はクラスが分かれた。


 分かれたといっても、5クラスあるうちで隣のそれに当たれたのは幸いだったと言える。

「……さいっあく…」

「よろしく、トナカイさん」

 その不幸中の。

「その呼び方勘弁して」

「あんたの名前しらないし」

 絶対いつかぶっ飛ばす──そう心に誓った私は瑞月みづきと。春は深白みしろと。私たちはそれぞれ、新しい風に吹かれることになった。


 もともと相性がよかったのか、小動物のような深白に母性をくすぐられたのか。春は常に深白をかわいがり、深白はそれにちょっと困った顔をしながらも二人はすぐに打ち解けていた。

 その一方、私と瑞月は顔を合わせるたび授業中でもお構いなしに言い合いをして、態度が悪いと二人揃って呼び出しを食らうような仲を築いていた。

 とはいえ、お互いの相方が仲良くやっているのだから、私たちの距離が縮まるのは時間の問題で。休み時間やお昼休憩、ひいては放課後までも。春と深白が揃って顔を出すものだから、いやが応にも瑞月とは一緒に過ごす羽目になってしまった。

 仲良くしなさい?という春と深白の言いつけに逆らえない二人は、徐々にいがみ合うのをやめた。

 一ヶ月程度で屋上での時間をともにするようになったところを見ると、さながらどちらも飼い主は相方だったのだろう。



 ときを同じくして、四月の中頃。

 はじめて春の誕生日を一緒に過ごしたのもこのころだった。

 

 クリスマス用に貯めていたバイト代。

 すっかり用なしになったそれを使うこのうえないチャンスに、あれでもないこれでもないと、春になにを贈ろうか私は悩み続けていた。

「つつじ?」

「あ、そう」

 最終的に選んだのは、ちいさな白いピアス。

 いつだったか、春の甘い匂いが花のようだと言った私に、なにそれと笑いながら好きな花を教えてくれたことがあった。


 つつじの花──。


 強く香るその匂いはやさしい春のそれとは似つかないが、向こう側が透けて見える白い花びらは春の肌によく似ている。

 そう思って選んだ、はじめての君への贈り物だった。

「うれしい…ありがとう、きょうちゃん」

 はにかみがちのその顔は、まるで道端に咲くそれのようだった。

「あけたらつけなよ」

「…じゃあきょうちゃんがあけて」

「ん、いいよ」

 そう言った私をじっと見つめて、春がはやくと手を引いた。

「え、いま…?」

 いつかの話だと思っていた私は、ベッドに座っているのに腰を抜かしたような気分だった。

 

 そのときの春の表情がなにを考えているのかわからなかった。遠くを見つめるようなその瞳が、どこか私の知らない先を見ているような気がして、私はその頬をそっと撫でた。

「…今あけたい?」

「うん」

「……親とか、だいじょうぶ?」

「わかんない。でも、今がいい。今きょうちゃんにあけてほしい」

 私の手にその手を重ねて春が頬をすり寄せる。

「…おいで」

 この手を離してはいけない。

 そんな気がして、私は春を手繰り寄せた。


 その手を引いて部屋を出ると、隣り合った部屋のドアを開ける。

「結、ピアッサー余って……あ。」

「……おう、ころ…と、サンタ…」

 そしてノックしなかったことをすぐに後悔した。

「……だから外でやれよ…」

「お前はノックしろよ…」

 いつのまにかそうなっていた二人に鉢合わせるのはこのときが初めてではなく、私も春も多少は慣れたもの。とはいえ、姉の上に乗っかる成留なんて、もちろん見たいものではない。

 私はバタンッとドアを閉めると、春を連れて自分の部屋に戻った。

「…ほんっと勘弁…」

「ふふ、きょうちゃん顔まっか」


 姉を泣かせ続けた相手が成留だったということに、当時は相当な衝撃を受けた。てっきりどこの馬の骨ともわからない男に泣かされているのだと思っていたのに。

 どういう経緯でそうなったのかなんてこのころの私には心底どうでもよく、聞こうとも思わなかった──発端が私だったと知るのは、大人になってからのこと。


「はい、これ。あと氷」

 しばらくすると姉が気まずそうに部屋のドアを開け、お前もノックしろよ…と私は心の中でぼやいた。

「さんきゅ」

 ポスッと投げられたのはピアッサーと氷の入った袋。

「あんたまたあけんの?」

「あけねーよ」

「あ、じゃあ春があけるんだ?」

「だから呼び捨てすんなって…」

「結さんありがとっ」

「ん。気を付けなー」

 馴れ馴れしくその名を呼ぶ姉に苛立ちつつ、余りものを寄こしてくれたことには素直に感謝した。

「あんなのと仲良くしなくていいから…」

「なんで?結さんいい人だし、きょうちゃんに似てるよ」

「あのねぇ…」

「"ん"って返事するところとか」

 やめてくれと、春の腕を掴んでグイッと自分の方へ引き寄せる。

「きょうちゃん強引」

「ちがくて…どっちにあけんの」

「…きょうちゃんがきめて」

 私が?と思いつつ、春の耳に手を伸ばした。

 左耳より少しばかり薄い右耳。こっちの方が痛みは少なそうだと、しばらくそれを氷で冷やす。それから慣れた手つきで消毒液をコットンに染み込ませると、丁寧に耳たぶを拭き取った。自分のときはどうでもいいが、相手が春となればそれはもう慎重に。

 準備もひと段落したところでちょんちょんと、目標の位置にアイライナーで印をつける。

「ここあけるよ?」

「あ、うん」

「怖い?」

「……うん…」

 あんまり顔見ないで──と春はめずらしく怯えていた。肩をすぼめて、瞼をぎゅっとして。

 その姿になんともいえない気持ちを覚えた私は手を取り、座っている自分の足の間へとそのちいさな身体を引き寄せた。

「おいで」

「……」

「あっちむいて」

 ご希望どおりその顔を見ないように。

 私の間で大人しくなった春に後ろからグッと。その手に力を込めた。


 ──ガチャンッ──


「んっ…」

 ピアッサーが音を立てたと同時に、耳にそれが貫通した。

 痛みを堪えたその声と、あいた?と無邪気に振り向いたその瞳。

 私はたまらない想いをなんとかしようと、そのまま後ろから春の身体を強く抱きしめた──。




 ──あれ痛かった?

 ──うーん、内緒。でもちょっと怖かった。

 ──深白みたいになってたもんね。

 ──どこが?

 ──なんか怯えた子猫みたいでかわいかった。

 ──……やっぱりきょうちゃん深白のことかわいいと思ってる。

 ──お、思ってない!それ春の方でしょ!

 ──私はいいの。深白かわいいもん。

 ──…暴君かよ…。

 ──結さんあのあと、こっそり塗り薬くれたんだよ?

 ──春に絡むなっつったのに…。


 数日経って、ばれちゃったと。君がファーストピアスを外してしまったから。またいつかあけたときにつけてくれたらいいよと、そんな風に答えながら私はただ笑っていた。


 そのいつかが、すぐそこだと。

 そう思っていたから──。



    *********



 私が瑞月のことを"赤髪"ではなく、名前で呼ぶようになってから四か月ほど経ったころ。

 春と私ははじめての喧嘩を経験することになる。


 それは秋の、学校中が浮かれる文化祭の時期。

 このころにはすっかり四人でいることが当たり前になっていた。深白の家でテスト勉強をしたり、瑞月の家に泊まったり。どれも春の家と同じくばかでかいそれに、私は毎回度肝を抜かれていたように思う。夏には深白家の別荘でバーベキューをしたりして、クラス替えも案外わるくないもんだな、と。そうとまで思えるようになった自分に私は驚いていた。


 春が居なければ、この二人と出会うこともきっとなかった。


 トナカイと罵られた瑞月にもずいぶん心を許しはじめたころ、その瑞月のせいで私は春と拗れてしまう。

 結果からいうと、それはなんともガキらしい単なる嫉妬。文化祭で深白に想いを伝えたいという、瑞月にしては大変かわいらしいその悩みが原因だった。


 瑞月が深白をそういう意味で好きだというのは、距離の近い私と春でなくとも、学校中の人が認識しているレベルで。むしろまだ伝えてなかったのかと、私はてっきり付き合っているものだとばかり思っていた。


 二人はいわゆる幼馴染。その間には絶対的に人を寄せ付けない壁のようなものがある。そう思っていたが、実はそこに介入できる人がひとり。

「この写真ちいさいころの二人?」

「ううん、私と」

「楓」

 深白の家に飾られた立派な写真立て。その中にいたのは、春が"二人?"と聞いたようにどう見ても瑞月と深白に見えたが、それは瑞月ではなく姉のほう。

 千早ちはや かえで──瑞月の姉にして、二人の幼馴染。

 この二人の間に割り込める唯一の存在だった。


 そして、深白の初恋の相手──ついでにいうと、クリスマスに飛んだボーカルでもある。


 深白の初恋を知っていて、胸に秘めたその想いを伝えられないままずるずると高校生になってしまった瑞月が、いよいよ痺れを切らして気持ちを伝えるために春を相談相手にしていたのだ。

 それは別に構わない。

 だがあのバカときたら、私にそのことを隠してコソコソと春を放課後に連れ出すものだから、幼い私が二人のことを疑っても仕方がないだろう。

 

 この話が面倒なのは、春もまた、私と深白に嫉妬していたということ。

 文化祭準備という訳の分からない理由づけで瑞月が春を連れて行ってしまうと、必然的に私と深白は二人で時間を過ごすことになる。

「あ、また頃だけ」

 ガラガラと私以外誰もいない教室の扉をその子猫が開けた。

 深白と過ごす、何日目かの放課後。

「なにしてんだろうね、毎日」

「"準備"だって」

「お前らクラス違うだろって」

「うん…瑞月うそ下手だから…」

「……深白は嫉妬とかないの?」

 二人が付き合ってると思っていた私は当たり前のようにそう聞いたし、深白も当たり前のようにそれに答えていた。

「うーん…頃は嫉妬してるってこと?」

「…気に食わないだけ」

「そっかぁ…私は二人が仲良くしてたらうれしいかなぁ…」

「はぁーっ、深白はかわいいねぇ…」

 そう言って、私は純粋無垢の代名詞のような深白の頭を子どもにするそれのようにわしゃわしゃと撫でた。

 春が後ろの扉からそれを見ていたとも知らずに──。

「瑞月は心配ないなってだけだよぉ…」

「ん?」

「昔から…私のことしか見えてないから…」

「…やっぱリード引いてるのって深白?」

「それは…秘密…」

 控えめに笑った正直な深白がおもしろくて、私は二人に嫉妬しつつも深白との放課後を純粋に楽しんでいた。


 準備期間のほとんどをこんな風に過ごしていたから、私も春もお互いに思うことがあるのに気づけないまま、迎えてしまった文化祭前日。

 ついに痺れを切らしたのは、私。


 ──ではなく、春の方だった。


 いつもの帰り道。淡い夕立の中。後ろからふたつの頭を収めるように傘を差した春はその日、口数が少なかった。

 私がそうなることはあっても、その逆は珍しい。というより、今までにないことだったから、私は鬱陶しい雨を遮りながら春に声をかけた。

「ごめん、傘重い?」

「んーん」

「…さむい?」

「さむくない」

「…どっか寄って帰ろうか?」

「……」

 にっちもさっちもいかないその空気に思いあぐねた私は、つい。

「……春、瑞月といた方がたのしい?」

 そう聞いてしまったのだ。


 これが春の逆鱗に触れ、私と春のはじめての喧嘩が幕開けた──もっとも、二人の間で喧嘩と呼べるようなできごとはこれぐらいだったけど。


「…それはきょうちゃんでしょ。深白のこと好きなの?」

「はい?なんでそうなるわけ?」

「深白のこと、かわいいと思ってるくせに」

「春も深白にかわいいっていうじゃん」

「それとは別でしょ」

 春が真面目なトーンでありえないことを言ってきたものだから、ただそうじゃないとわかってほしくて、私は勢い任せに会話を進めてしまった。

「…春こそ、瑞月のことどう思ってんの…」

 そしてたどり着いたのがこの発言。思い出したくもない、最低の問いかけだった。

 春にかぎってそんなことはないとわかっていたのに、余裕のない私は自分の嫉妬をむき出しにして春を傷つけてしまった。

「とめて」

「ちょっ春、急に危な、」

 春は私に無理やりブレーキを握らせると、そのまま後ろから降りてスタスタと前を歩いて行ってしまった。

「…あぁ、もう…」

 小さくなっていくその背中をただ見つめながら、私は雨に濡れた髪をぐしゃぐしゃとかき分けることしかできなかった──。


 こうして私と春はめでたく初めての喧嘩を迎え、一度も口を聞くことなく二日間の文化祭を終えた。

 なんなら二日目など私は家でふて寝に徹し、雨を言い訳に顔すら学校には出していない。電話にもチャットにも反応しない春に、どうしたらいいわけ?と、部屋に転がっていたソフトボールを一日中壁に投げつけていた。


 その騒音に被害を受けた姉から、もうお前らは二度と喧嘩すんな、と二人揃って怒られたという話も、もうずいぶんと埃を被ったものになってしまった。


「おいガキ、ついに捨てられたか?」

「……うるせえ、入ってくんな」

「おーおー、荒れてんねぇ」

「成留、閉めて」

 部屋のベッドで不貞腐れていた私に声をかけたのは、姉ではなくその連れのほう。にやにやとうるさい顔を向ける成留を追い払おうと、ボールを持った手を大きめに振りかぶった。

「はいくそがきストップ」

 そのとき、成留の横にいた姉が半開きだったドアを全開にして、私はその腕をだらりと下ろすことになった。


 姉が、春を連れていたから。

 

「あんたうるさいから拉致ってきたわ。とっとと仲直りして」

 じゃ、と騒々しい二人が退散し、私の部屋に春がポツリ。居どころが悪そうに顔を俯けて、ドアの前から動くことはなかった。

「…とりあえずここ座って」

 ベッドの上を叩くと、そこにちょこんと腰をおろす春。こんなときでもその姿をかわいいと、そう思ってしまった私はきっともう、誰が見ても手遅れだった。


 窓の外がやけに暗い。

 秋のせいか、雨雲のせいか。

 はたまたその喧嘩のせいか。


「…時間、大丈夫?」

「……」

 声こそ出さなかったが、春がこくりと小さく頷いた。

 ああ、こんな顔をさせたかったわけじゃないのにと。私は自分が嘆かわしくてため息をつくと、後ろへ支えにしていた両手を外し、ボスッとベッドにその背中を預けた。

「こっちきて」

 そして言葉と一緒に、春の腕を引いた。

 グッと力を込めれば壊れてしまいそうなそのちいさな身体が、私の胸元に転がり込んでくる。

 天候など関係なしに艶やかなその髪。それにそっと指を通しながら、私は言葉足らずにならないよう、一言ずつゆっくりと胸に溜まったものを吐き出した。


「ごめん」


「あんなこと言って」


「……瑞月に嫉妬した」


「前に春が、瑞月と私を似てるって言ってたから…そういうのもあって」


「………傷つけてごめん。」


 思いの丈を伝え終えたとき、胸元のちいさなそれがもぞもぞと動いた。


「ばか」


 そう言ってあげられた顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。

 まるで、雨が滴るその日の窓のように。


 口の端を堅く結んで眉間を狭めながら鼻までもを赤く染め、大粒の涙をこぼす春のいじらしい泣き顔。


 どう自分をごまかしたら、それをあいくるしいと思わずにいられるのだろうか。


 そんなことができるわけもない私は、春を大切にしたいと。そう思った。

 

 それと同時に、潤んだその瞳に映った自分の姿を見て、こんなにちいさく震える君という存在さえ守ることのできない自分が酷く憎らしかった。

「謝ってほしいわけじゃない…」

「うん」

 そう言ってまたひとつ大きなしずくを溢したその瞼に、私はそっと口づけを落とした。

 好きだよと。そう言葉にして。

「……」

「好きだよ、春」

 離れてからもう一度ささやいた。あふれてばかりで形にならないこの想いが、君の心に届くようにと。


「…最初からそう言って」

 そう言ってまた泣いた君はたまらなくめんどくさくて。


 たまらなく、いとおしかった──。



    *********



「え、あの二人付き合ってなかったの?!」

「きょうちゃんがそんなんだから、瑞月は私にだけゆったの」

「あー、はは…」

 そのあと春からことのいきさつを聞いた私は笑うことしかできず、やってしまったと片目をつむるのだった。

「深白やるなぁ…」

 深白は瑞月の行動の意図をすべてわかっていて言ったのだと、私はそのときになってやっと理解した。

「…また深白の話?」

「いや深白に思うかわいいと、春に思うかわいいは全然ちがうから…」

「どう違うの?」

 腕の中の春は体制を変えると、私の胸元に両手をついて言ってみろと言わんばかりに口を尖らせる。

「……あれは赤ちゃんとかそういうのと同じで」

「で?」

「春はその…そこにいるだけでいいっていうか…白いつつじが、風に揺れてる…みたいな…」

 自分でも皆目わけのわからない答えだったが、春は納得してくれたのか上からぎゅっと抱きついて顔を隠してしまった。

「ほんときょうちゃんってばか」

「…はい」

「へんてこなことばっかり言う」

「…ごめ」

「私……ほかの人なんか…」

「…春?」

 言葉に詰まった春を不思議に思い、そのつむじをじっと見つめる。その奥に見えるちいさな背は、かすかに揺れていた。

 だから私は手を伸ばした。ゆっくりでいいよと、その背に気持ちを乗せるように。




「きょうちゃんだけだよ。私はずっと──」




 雨の音にも消えてしまいそうな声だった。

 胸がグッと締め付けられるようなその言葉に、私は熱いものが目に溜まっていくのを感じた。こぼれないように必死で息を堪えながら窓の外へ目をやると、滲んだそのつまらない景色がすべて同じ色に見えた。


 もう世界なんてその全部がセピア色になってしまうくらい、私はこの瞬間から君しか見えなくなってしまった。


「…今日、泊まっちゃだめ?」


 そう言った君にやさしい口づけを落として、肌寒い部屋で強く抱き合った。

 大人になったら捨ててしまうような淡い想いを両腕にめいっぱい抱えて。それをぎゅっと結んで。

 

 雨音が静かに消えていくように、君との初めての喧嘩は少しずつ幕を引いていった。


 翌朝の雨あがりの空は、今までのどのそれよりも透き通って見えた──。




 ──泣き顔ほんと子どもなんだから

 ──…また喧嘩したいの?

 ──すみません…てかまじで結に拉致られたの?

 ──うん。保護者受付にやばい人すわり込んでるって。

 ──……。

 ──見に行ったら成留さんと結さんにそのまま。

 ──あー…。

 ──深白が腰抜かしちゃって大変だったんだよ?瑞月、二人に喧嘩売ってたもん。

 ──目に浮かぶわ…。

 ──でも、いい思い出。

 ──そう?春がそういうならいいけど…。




 私たちが肌寒い部屋で互いの胸に溜まった熱を交わしていたころ、深白と瑞月は幼馴染という枠をやっと飛び出した。

 深白はもうとっくに楓への恋心を持ち合わせていなかったし、そもそも憧れのようなそれは瑞月に対するものとは違っていて。はっきり言ってこないのは瑞月の性格だから、別にわざわざ言葉にされなくてもわかっていたと。

「春ちゃん、瑞月がごめんね…?」

 長年飼い慣らしているだけのことはあるな…という裏話をこっそり私たちに教えてくれたのだった。


 週明け、瑞月の拙すぎる告白をからかいまくった私に、きょうちゃんだって人のこと言えないでしょ、と君が瑞月の肩を持っても、それに私が嫉妬することはもうなかった──。





──ep.5 遠い青──



「頃、今度はなにが原因?」

「……」

「めんどうだから早く言って」

「……好きな季節、聞かれたから」

「は…?それだけ?」

「…それだけ」

「……はぁ…」

 カウンターでうな垂れる私にむかって、重たいため息をついたのは瑞月。

「ほんっっっと、しょーもな。いいかげん紹介した身にもなってよ…」

「…ん」

 瑞月は飲んでいた酒瓶を途中で放り出すと、そのまま準備中のステージにあがってベースをかき鳴らしはじめる。

 とんでもなくでたらめなそのコードはまるで、私の心模様のようだった──。



    *********



 雪が溶けて春が立てども。

 

 制服姿の私たちに、三度目の春が訪れることはなかった。



 高校の最終学年にあがるその手間で──春は転校した。



 突然のことでその理由は分からなかった。

 春がなにも、言わなかったから。


 海外に行ったという担任の話を、真っ白になった頭は一ミリも飲み込もうとはせず、私はその日をただ抜け殻のように過ごした。


 どうして、とか。なんで、とか。

 そんな私の言葉も想いも、春にはもう、届くことはなかった。


 春がいいとこのそれだというのは外見やその人柄を見ればわかることで。私はそれを当然のように受け入れて、彼女をよく知ろうとしなかった。


 たまに家ですれ違っては挨拶を交わした春によく似た女性。どこか彼女よりも積極性の溢れる春の母親は、モデルを育成する企業の責任者だった。私でも知っているような名の馳せたモデルばかりが所属するその企業は、世界的に見てもトップレベル。海外モデルも多く所属する、いわゆる大企業だった。

 当の本人も若いころはその業界で多くの実績を残したレジェンド級のそれ。絶頂期中頃で電撃的に引退を発表すると、後腐れもなく表のステージから姿を消した──それは春の生まれる、数年前のこと。引退後にはその経験を生かして育成サイドへまわり、もともと大きかったその企業を一回りも二回りも大きくしたことで敏腕と謳われた優秀な経営者である。

 表でも裏でも、その功績は計り知れない。


 春は生まれながらにその二世──いいや、代々受け継がれてきたその地位は何代目になるのか。春はもともと母親の会社を継ぐため、モデルとして実績を残すことがその人生に課せられた役割だった。高校を卒業し海外へ行くことは、決められたレールの中に繋ぎこまれたほんの一部。

 ただ、予定よりもそれが少し早まっただけ。春の母親からすれば、その程度のことだった。


 このことを春は一度も口にしなかった。


 私に、だけ──。


 深白も瑞月も。結や成留でさえ、春の転校を知っていたのに。私だけがその事情をなにも知らないまま、最後の時間になるとも知らず彼女とのそれを迎えてしまった。


 "少し過保護"


 いつだったか母親をそう表現していた春は、幼少期からそのために大事に育てられていたのだろう。

 思い起こせばカップ麺を食べたことがないのも、クリスマスの食事会も。内部進学制度の学校で私以外に心を開いていなかったのも。その布石はいろんなページ散らばっていたのに。

 恋に浮かされ溺れていた私はそれがどうしてなのか知ろうともせず、浅はかな時間を過ごしてしまった。

 


 なぜ言わなかったのかと、まわりに強く当たった。

 瑞月を殴って、成留に殴られて。その痛みさえも、心の奥の空虚に消えてなくなり、まるですべてを拒絶するように私はゴミ山だらけの部屋に閉じこもった。


 春のいない学校はどうしようもなくつまらない。

 彼女の笑顔がすべてだったと、そのときになって気づいた。

 

 そんなふうに塞ぎ込んだ私を引っ張り出したのは、ほかでもない瑞月と深白。

 雨の日も風の日も。毎日私を迎えに来ては他愛もない話をして、空っぽになった私の心を必死に埋めてくれた。

 

 拒み続けることは難しかった。


 春が残してくれた、二人という存在を。

 その場所のあたたかさを。


 次第に私は学校に顔を出すようになり、深白は二人分のリードを引きながらいつも私を支えてくれた。

 二人がいたから、私は腐らずに制服を脱ぐことができたのだと思う。

 



 それでも、卒業式には出られなかった。




    *********




「……ころ?」

「……」

「おーい、聞いてっか?…あぁ、またか…」

「成留美さん、先行きましょ。こうなったらしばらくは無理です」

「だなぁ…いつまで昔の女にこだわってんだか。瑞月いくぞー」

「はい。…頃、ライブの前には戻って」

 

 成留が頭を叩いても、瑞月の呆れた声が私を呼んでも、目の前の広告に映る彼女の姿に瞬きすら忘れた私がそれを受け取ることはない──。


 それから十数年が経って、なりたくもないのに私は大人になった。

 中身をあのころに置いてきたまま。見た目だけを壊れた季節に転がして。


 成留が手を広げた先。都内に新設されたライブハウスでマネージャーを務めながら、心の隙間を埋めるように忙しさを気取り続けた。


 瑞月とは、あのころから一番長い付き合いになった。姉の楓が家を継ぎ音楽を辞めると、バンドの活動がなくなった瑞月は腕があるのにその道を極めようとはしなかった。成留のもとでローディーとして働き、私はそんな瑞月に日々、新しいそれがだめになった理由を問い詰められている──求めてもない花が実るわけなんてないのに。

 


 街なかで目にする彼女は、大人になっていた。

 当時の面影を残したまま、その輝きを増して。

  

 さよならも言えなかった──。


 急に訪れた私の青春は終わりもくれないまま、気づいたらその姿を消していた。

 思い出を数えながら眠りについては淡い夢に惹かれ、目が覚めるたび君のことを想ってしまう。

 一日だって、忘れられやしない。

 いつかのあの小説や映画に出てきたそれを、あるわけがないと笑っていたのに。


 人よりもほのかに高い体温、ちいさな手のひら。細くきれいな爪のかたち、笑ったときにできる右側のえくぼ。陽だまりのような瞳に溜まる涙の色、わがままに私を呼ぶ声。


 あの、甘い匂い──。


 あくびの音色さえ、心に染みついたものをなにひとつ捨てられないまま、どこにも行くことができない私はただ忙しなさを着飾って、ガラクタに囲まれながら過ぎる時になんとかしがみつき必死に日をつないだ。


 季節がいくら巡っても、春のそよ風が初恋の香りを連れてくるたび、心に根を張りつづける枯れない恋がまた勝手に芽を出して、ビン底に無理やり押し込められた想いがあふれ出そうになる。


 最後に交わした言葉はなんだったろう。


 そんなこともわからないのに、仕事中に、帰り道に、お酒のあとに。


 君に会いたい。


 そう思ってしまう。


 

 そろそろ戻らないと成留と瑞月に怒られる。それなのに足はなかなか言うことを聞かなかった。

 そんな私を憐れむように太陽は目をそらして、流れてゆくその雲に手を伸ばしてみる。




 触れられないその空は、あまりにも遠すぎた。





 青のときが過ぎてもまだ、私は広告の中の君に恋をしている──。





──ep.6 しあわせ──



「頃…」

「…瑞月は?」

「あそこに繋いでる」

 停滞したたばこの煙に包まれながら、ひとり君のことを考えていた。今、どんなことを頭に浮かべて、その瞳が映した景色になにを思うのだろうと。

 そんなとき、煙をかき分けるように姿を見せたのは深白だった。


「リード?」

「そう、落ち着きないから…」

「ふっ、そっか」

 こんなときでも私を笑わせてくれる深白にありがとうと、そう一言伝えると、深白はなにも言わずに微笑んでくれた。

「…春ちゃん、会えた?」

「……二人は?」

「さっきちょっとだけ。結さんと成留美さんも一緒に」

「そっか…」

「頃、会わなくていいの?」

「……わかんない」

「…上のフロアにバーラウンジあったから、行ってみたら?」

「ん、そうする」

「あんまり飲みすぎないように…だよ?」

「うん、ありがとう深白」

 それだけ返して、私はまた身体の奥に重くるしい煙を押し込んだ──。

 


 君の結婚の知らせを受けたのは、式から三ヶ月ほど前のこと。

 白く整えられた招待状が、立ち止まったままの私に容赦なく現実を突きつけた。


 "科木 春"──差出人の位置にあるその名を見て、身体が震えた。それと同時に、連なったもうひとつの名が視覚から脳を刺激して呼吸が乱れていった。普段は意識しないそのリズムが耳にうるさく響き、自分の身体なのにどうすることもできなかった。


 春がこっちに戻ってきている。

 十数年ぶりに彼女に会える。


 それが、まさかこんな機会だなんて。


 返信ハガキに丸をつけられないまま、気づくとその日は終わっていた。

 


 春風に揺れた恋は重たい雲を連れて。

 ただ、雨の音を聞くだけの恋に変わってしまった──。



    *********



「頃、飲みすぎ」

 あれから、私は一度も。ほかの誰にも心が吹かれていない。

「返信どうすんの」

 それなのに、春には相手がいる。そのことだけで水の底に沈められるような苦しさであるのに。

「あたしと深白は行くよ」

 結婚と言われたら、もう藻掻くことすら叶わない。私はどうしたって彼女を、そこまで連れてはいけないのだから。

「成留美さんも結さん連れて行くって」

 瑞月が何を言おうと、それが耳に入ることはなかった。ただワンカップを割れてしまいそうなほどに握りしめて、私は残り少ないその中身を見つめるだけ。

「深白、もういい?」

「うーん…お手柔らかに、だよ…?」

 二人のそんな会話も聞こえないまま。


「…痛っ…」


 気づいたときには、瑞月にぶん殴られていた。


「いい加減にしなよ、頃」

 瑞月の目は怒りという感情を持つものではなかった。私を心配して小さく揺れる、顔に似合わないそれ。


 殴られたことよりも、その視線が痛かった。


「頃…大丈夫?」

 やりきれない気持ちのまま床に転がった私の頬に、深白のひんやりとした手が触れる。

「……ん」

 瑞月とはじめて出会った日のことを私は思い出していた。あの日もこんなふうに、頬に手をあててくれた人がいる。あたたかくてやさしい、私の中のどんな気持ちも包み込んでくれたあの手。

「…春ちゃんのこと…わかってあげて…」

「……」

 わかりたくても、わかりようがない。

 春は私になにも言ってくれなかった。


 好きという、その言葉さえも。


 それなのに、こんなことになっても私はまだ彼女を──。


「春ちゃんとのこと、後悔してる?」

「……ないよ」


 そんなわけ、あるはずもない。

 春が居なければ、私はずっとだめなままだった。


 あの日"送って"と、春がそう無邪気に声をかけてこなければ、学校も友人も家族も恋も。


 そのすべての大切さを知ることなんてできなかったのだから。


「じゃあどう思ってるの」

 まっすぐな眼差しが私を突き刺した。こういうとき、私たちの中で一番肝が据わっているのは深白だ。


 どう思ってるかなんて──そんなこと、考えるまでもない。


 私は、私はあのころがあったから──。


「……春ちゃんの幸せ、一緒にお祝いしてあげよう?」

 ごちゃごちゃに散らかった私の心を捕まえるように、深白は静かにその手を取った。



 春の幸せ──。


 

 誰よりも春のことを考えているつもりでいたのに、そんなのただの独りよがりだった。彼女を守りたい、大切にしたい。そう思っていながら、私は深白に言われるまで彼女自身の幸せがなんなのか、それに向き合えていなかった。


 春の幸せは、春のもの。

 私が選べるようなものじゃない。


 その幸せがどんな色でどんな形なのか、それを決めるのは春自身なのだ。

 

 それなのに、幸せにするのは自分がいいだなんて、そんな身勝手で欲深い思いを勝手に胸に秘めて。隣に立っていたいなんて、ばかなことを考え続けて。


 「深白…」


 相手が私である必要なんて、はじめからずっとなかったのに。


 「深白…私──…」

 

 きっと、その人なら。

 冷たい私の手が届かない場所に、彼女を連れていくその人なら。

 

 春のぬくもりを絶やすことなく、その人生を灯していけるだろう。


「答え、決まったね」

「……ん…」


 春が幸せでいられるなら、相手が誰であろうと構わない。

 たとえそれが私でなくとも、彼女の幸せを誰よりも喜べる自分でありたい。

 

 だって、私は彼女とのあの日々がたまらなく幸せで。


 私にそれを教えてくれたのは、彼女だから──。


「大丈夫、瑞月も私もいるよ」

「……ん」


 春以外の前で泣いたのは、このときがはじめてだった。なんの涙なのかはわからない。ただ、あふれたそれが止まらなかった。


「今出してきな、ポスト」

 瑞月にそう言われ私はボールペンを手に取ると、それを拙い丸で囲った。滲む線の始まりと終わりを、ゆっくりと繋いで。


「今日泊まってきなよ、そんな情けない顔で帰せない」

 瑞月が私の頭を軽く叩いて。

 

 私はまた、少し泣いた。



    *********



 白いドレスを身に纏い、赤い道の真ん中を歩いた君はやさしい光に満ち溢れていた。


 久しぶりに目にするその姿は少し大人びて、でも、年の割に幼い表情はあのころとなにひとつ変わらないままだった。広告では見えなかったそんな些細なことがわかって、うれしくて。私は思っていたよりも穏やかな気持ちで挙式を終えた。


 君が誰かと愛を誓っても、胸の奥底にあるこの気持ちが消えることはきっとないだろうけど、それでも私は少しずつ、前に進まなければいけないのかもしれない。


 幸せに包まれたその空間に、私はそう思わされた。

 

 お相手はずいぶんと背の高い、どこかで見かけたことがあるような顔だった。きっと同業の人だろう。悔しいけれど、私よりも君の隣がよく似合う。彼は私よりもずっと、君を守るのに相応しい。心からそう思えた。


 だから私は微笑んだ。


 そのとき、春と目が合ったような気がした。


 有名なホテルの大きな会場。地主や経営者、よくわからない海外の金持ちそうな人たち。数え切れないほどの関係者に溢れたその空間で、春がこんなちっぽけな私を見つけるわけはない。なんなら来ていることすら、知らない可能性だってあるのだから。


 だからきっと気のせいなのに。

 勝手に心が反応して、苦しくなった──。



 挙式のあとの披露宴では、形式どおりに乾杯が行われていた。ひと通りのスケジュールが落ち着くと、それぞれが記念撮影などで挨拶にまわりはじめる。私は普段飲まない白ワインをグッと押し込んで眩しすぎる君から目をそらすと、式が始まる前のように喫煙所へと逃げ返ってしまったのだった。


 様子を見にきた深白には悪いが、春と顔を合わせる勇気はまだ持ち合わせていない。みんなは春となにを話したのだろう。私はなにを話せばいいのだろう。まだ心にその気持ちを残したままの私が、今の春に会ってどんな顔をしたら──。


「……酒飲むか…」


 会いたかった気持ちをたばこの火とともにそっと消し去って、私は深白の教えてくれたバーラウンジへ向かうことにした。


 なかなか来ないエレベーターに痺れを切らし、階段でいいか、と。とても客が使うようなものではなさそうな隅っこにあったそれを上った。

 非常用でもなさそうだし、まあ使っても大丈夫だろ。たしかこのすぐ上くらいの位置にあったはずだし──と呑気にそれを上りきって、目的のフロアに足をおろしたときだった。




「きょうちゃん…?」



 

 後ろから、その声が聞こえたのは。


 振り向かなくてもわかる。

 私をそう呼ぶ人は、君しかいない。

 

 名前を呼ばれただけなのに、私の心は荒波を立てるように揺れ動いた。

 どうしたって忘れられないあのころがまた、身体中を駆けめぐっていく。


 返事もできないまま、まるで身体が固まったように立ちすくむ私の頬には、ひたひたと静かに涙が伝っていた。


 もう、振り向くことも、できなくなった。


「……来てくれたんだ…」

「…ん」


 それがばれないように、口を閉じて返したのは声というよりも音に近いなにか。久しぶりなのに、情けのない。


 もし、春にまた会えたらなにを伝えよう。


 そんなふうに考えては夜な夜な浮かんできたその言葉を、今日の彼女にだけは言ってはいけない。

 

 大人になれ──と両手をぐっと握りしめ、私は助走のように浅く息を吸い込んだ。




「おめでとう」




 許されるのは、その言葉だけだった。



 ありがとう──と。


 春がそう返してこの会話は終わる。

 それでいい。それができれば上出来だ。きっとみんなも褒めてくれる。


 そう思っていたのに、しばらく待っても後ろから春の声が返ってくることはなかった。

 

 もういなくなった──…?


 不思議に思いわずかに振り向いたその先で、視線は触れてしまった。



 声を殺して、私と同じものを流す君に──。



 あのころとなにも変わらないその泣き顔が、私の胸を痛いほどに締めつける。

 やっと、春に会えた──不謹慎にも、私はその顔を見てそう思ってしまった。


 どうしてここにいるのか。

 なぜ頬を濡らすのか。


 そんなことはどうでもよかった。


 ただ、その陽だまりのような眼差しに刺されたことがうれしくて。あのころの君にまた会えたことがうれしくて。私は頬を伝うその数を静かに増やし続けることしかできなかった。


 届く距離にいるのに、それを拭うことすらできずに見つめ合い、二人の時間が流れていく。

 

 何秒かもしれないし、何時間かもわからないその曖昧な時に、息をすることすら忘れたころ。春が私から視線を解いて、俯きがちに口を開いた。








「……あの日のワンピースと、どっちが好き…?」








「……」







「きれいだよ、春──」


 




 大人になるというのは、どうしてこんなにも苦しいのだろう。


 あの日の君に、決まっているのに。

 まだ君が好きだと、そう言いたいだけなのに。


 私は春と逆の方向を向いてその場を立ち去った。

 

 その質問の意図も、正解がなんだったのかも。

 なにひとつはっきりとさせないまま。


 もうその涙に触れていいのは、私ではなかったから──。



    *********



「会ったの?春に?」

「……会ったっていうか、鉢合わせたっていうか…」


 式の翌日、めずらしく私は姉と夕食をともにしていた。

 ひとりでいたい気分だったが、職場に押しかけてきて連行されては、拒否権などあったものではない。成留のいないところを見ると、姉なりに多少は心配してのことなのだろう。私はそのおせっかいをありがたく受け取ることにした。

「なんか話したの?」

「まあ…」

 あのあと適当に時間を潰してお開きになるころに戻った私は、ホテルの廊下で過ごした春との時間を誰にも言いはしなかった。話したところでなにがどうなるわけでもないし、わざわざ伝えるような会話もしていない。

 ただ、最後にああして言葉を交わせたことはよかったのかもしれないと、いつもより少しばかり晴れやかな気持ちで仕事に向かった。

 姉はそんな私の些細な変化を知ってか知らずか、ズカズカと踏み荒らすように私を質問攻めにした。気が利くんだか、効かないんだか。昔からこういうとこあるよな、と私は姉にだけ春と交わした内容をぼそぼそと告げた。

「…それで?」

「いやそれだけだけど」

「は?あんたそのあとどうしたの」

「下の階のスロットで時間潰してた」

「は?春は?」

「さあ…」

「あんた、もしかして置いてったの?」

「いや、まあ……そのまま、別れたから…」

 はぁぁぁ、と姉がため息を大げさについて頭を抱える。

 私にとっては最善の行動だったのだから、そこまでしなくてもいいだろ、と私はビールをグイッと飲み干した。

「あんたって、んっとにどうしようもないばかだね…」


 でも、がんばったじゃん──。


 そう言って姉がわしゃわしゃと頭を撫でてくるものだから、私は痒くもないのに首のあたりをポリポリと掻いた。


「結」

「ん?」

「飯、ありがと」

「ん。」


 姉がいるのもわるくない。

 私はこの日、うまれて初めてそう思えた──。





──ep.7 明るみに走る鼓動──

 


 それから二年ほど経って、私はすっかり吹っ切れた──ということはなく、残念ながらまだ心に春を抱えたまま、一生懸命に季節を転がしていた。


 ただ前と少し違うのは、立ち止まらなくなったこと。


 あの日交わした言葉と瞳。それがやっと、これで最後なのだと聞き分けのわるい頭に理解させたようで、私は自分の気持ちに区切りをつけられた。そんな気がしていた。

 幸せになった君を想って、私も自分の幸せを見つけるために少しずつ歩いていかなければならないと、赤子がつかまり立ちをするようにたどたどしい足取りで時を踏みしめていった。


 あいかわらず、あれから恋愛と呼べるようなものはできていないけど、いつか誰かを、春と同じくらい──。

 そう思って仕事に打ち込んでいたのがよかったのか、大きな案件も頻繁に舞い込んでくるようになり、設立当初は経営難が囁かれていたそのライブハウスも独立して安定した収益を出せるようになっていた。

 音楽だけでなく、いろいろなイベントに対応できる今の時代に見合ったハウス。それは思いのほか需要があったようで、他の系列店舗もぐんぐんと成績を伸ばしていき、成留はそれを機に都内から少し離れた土地に最大規模の箱を構えることになった。


 経営者としての腕が成留にあったのか、裏で支えている姉にその才があったのか。まったく人は見かけによらないものだ。


 オープン当初、その箱は成留が自ら運営していたが、ある程度落ち着きはじめたころ、話があると瑞月と二人で事務所に呼び出され、私そこを任される身になった。

 ここまで事業の展開が捗ったのは、意外なことに私と瑞月の功績も大きい。そのことを評価しての正当な対価だと成留は言った。

「断じてお前らが嫁の妹とそのダチだからじゃねえぞ!」

 と、聞いてもないのにそれはもう大きな声で。

「嫁とか言ってんじゃねえよ…」

 そう返した私に瑞月は笑っていた。

 結は実家を出て、少し前から成留と一緒に暮らしはじめた。たまに顔でも出せとよく言われるけど、あんなハートにまみれた空間にいたら息が詰まって命がいくつあっても足りないので、私は邪魔しちゃ悪いからと言い訳を並べては毎回二人から逃げるのだった。


 私よりも、瑞月の方が上に相応しい──それを何度二人に伝えても、その意見が通ることはなかった。瑞月はその座に興味がなかったし、気ままに楽器に触れてたらいいからと、技術部門の管理者になった。たしかに、地位を欲しがるのなら今頃は実家を継いで医者にでもなっていただろう。

「それにあたし、深白の世話で忙しいから」

「……嫌味?」

「じゃあ頃が面倒みる?」

「…遠慮しとく。深白、元気にやってる?」

「いままでの倍うじうじしてる」

「うわぁ…」

 深白も一年前、稼業を継ぐため独り立ちしていた。まずは独立してやってみろ、という両親の言付けに従い忙しない毎日を過ごしながら、花道の家元などという私にはなんのこっちゃ分からないそれをせっせとこなしているようだった。

 揃いも揃って厄介な家に生まれたものだ──私はそのベクトルが違うけど。

 深白はもともと人の上に立つような性格ではないし、苦戦して家に帰っては、めずらしく瑞月に頼り切る日々が続いていた。瑞月と私にはものを言えるくせに他の人には言えないのかと、そう深白に言ってみたことがあったが、飼ってもいない人にそんなことできないよ…と恐ろしい答えが返ってきたことは、今も瑞月には内緒にしている。


 こうしてそれぞれが自分の歩む道を進み、私は雑踏の中で君の広告を見かけても、もうその足を止めることはなくなっていた──。


 

 風向きが変わってしまったのは、その年の冬のこと。


 秋は例年よりも短く、大人になった私たちでさえ一瞬だと感じてしまうほどだった。秋冷が姿を現したと思えばすぐに寒風がそれを追い抜いて、馴染みのパーカーだけでは心許なくなった。今年は少し良いダウンを買うかと、瑞月と買い物に出た先で、仕事用のスマホに一本の電話が入ったのだ。


 相手はドラマや映画のロケーションをコーディネートをしている、私たちの業界でいえばいわゆるインペグのような会社のディレクター。韓国ドラマの撮影にうちのライブハウスを使用したいというものだった。

 一ヶ月丸々押さえられてしまうものの、売り上げとしては上々。音楽だけでなく、多方面にアピールしていく成留のやり口としては良い話だ。新規のクライアントではあるが、実績も多くある会社のようだし、断る理由はなかった。


 一度持ち帰って成留に相談を入れると、そんなことはお前が決めろと怒鳴られてしまった。

「成留美さんらしいね」

「任せるとか、そういう言い方できないかね…」

「そんなこと言われた方が気持ち悪くない?」

「……それはそう」

 いつもどおり、瑞月との大事な話は喫煙所で。音楽系の仕事でなければ、瑞月や技術まわりのスタッフはやることも少ない。それなりに機材まわりのサポートも必要ではあるが、面白い仕事ではないはずだ。こういった案件がくるたび、収益よりもスタッフの意見を尊重しがちな私はやはり向いていないと、つくづくそう思うのだった。

「あたしは受けていいと思う」

「まあ…断る手はないけど…てか瑞月にしては珍しく前向きじゃん?」

「深白が韓ドラ好きだから」

「……あっそう…」

 あいわらず深白のことになるとこいつは頭が弱い。深白のためなら平気でここをも売りさばきそうな勢いの瑞月に、上は任せられないかもしれないと私はため息をついた。


 そして翌年の三月からの撮影を受けると、担当ディレクターと諸々の手続きを進め、新しい仕事に頬をぺちっと叩いて忙しい年末をこなしていくのだった──。



 そして、まだまだ寒さが落ち着きを見せない二月の下旬。来週からのクランクインにむけて、箱が空いている日にはロケーションや導線の最終チェックに入り、その準備も順調に進んでいた。

 台本はこちらには渡らないので、内容こそよくは把握できていなかったが、どうやらバンドものらしいそれは機材や楽器のセッティングも多く、意外にも瑞月は楽しんで働いていた。

 それなりに予算のあるプロジェクトのようで、うちの常設ではそのに見合わず、楽器は目が飛び出しそうなプレミアの付くものばかりが搬入された。瑞月はチェックと称してそれを触りまくっては嬉しそうに声をあげ、こんな顔してくれるなら取ってよかったか、と。安堵しながら迎えたクランクイン当日。

 私はこの案件を取ったことを深く後悔することになる。



    *********



「瑞月、そっち大丈夫そ?」

「うん、まあなんとかなってる」

 早朝から搬入が始まると、私も瑞月もひっきり無しにあちこちの対応に追われた。

 これだけ関係者が多いと、もう少しバイト入れとかないときついかなぁ…なんて。まだ冷える時期に汗をかきながら準備に追われていたから、気づかなかった。


 手渡された香盤表に載っていた、その名前に。


 撮影開始の数時間前、キャスト入りの時間帯がやってくると、地下の駐車場に次々と大きなバンが停まり始める。深白からすれば豪華な面々なのだろうが、私は姿を見てもだれ一人としてピンとこないまま、いつもと変わらずおいそれとその場に当たっていた。

 楽屋の数が多いとはいえ、ライブの出演者とドラマのそれはわけが違う。足りない分はスタッフルームや一部の機材庫を空けて対応することでなんとか収拾がついた。


 だいたいの控室が埋まったころ、メインである一番大きな楽屋にまだ人は入っていなかった。とはいえ粗方澄んだし、この場は下に任せてちょっと機材の確認でもしておくか──そう思ったとき、灰色のバンが一台追加でやってきた。

 どうやら最後の一人も到着した模様。結構時間ぎりぎりだけどそんなVIPなのかな、と私はくだらないことを考えながら機材室に向かうと、予備のマイクを何本か引っ張り出した。

 あんまり使わないだろうけど、歌のっけて撮るとか言ってたし…コンデンサ何本か上にあげとくか──と。薄暗いその部屋の奥でがさごそ手元を動かしていたとき、入口の方から"すみません"と控えめな声がかかった。

「?…はーい!」

 誰か迷い込んだかな?と適当に返事をして何本かを手に持つと、私は急いで入口の方に向かった。


「お待たせしてすみません、どうしまっ…した、か……」


 うちのマイクだって、コンデンサはそれなりに高い。壊したとなれば大目玉だ。きっと成留にぶっ飛ばされる。だからそんな簡単に落として良いわけがない。


 それなのに、抱えていたはずのそれはすべて床とぶつかり鈍い音を立てた。


「──ちょ、科木さん!どこ行ってたんですか、楽屋こっちですよ」



 入口の前にいた女性が。


 春だったから。



「科木さん?おーい、聞いてます?」

「……」

「…すみません、楽屋のAってどのフロアですかね?」

「……」

「あれ、これ時間止まってる?」



 マネージャーらしき女性の焦ったその声が、私と春の耳に届くことはなかった──。



    *********



『それで?毎日春ちゃんに会ってるの?』

「いや、会ってるっていうか…」

 香盤表にでかでかと書かれた"科木 春"の名前。その横には"主演"の文字。これでどうして気づかないわけ…と、私は自分のまぬけさに頭を抱えていた。

『もしかして話してないの…?』

「……まあ」

 あのあと、春とは特に会話をしていない。顧客の顧客にあたる忙しいヒロインが、責任者とはいえ撮影先の施設スタッフと関わることなどないに等しい。それに撮影がはじまれば私は事務作業に戻る。何かあったら呼べと、そう瑞月に現場を任せて。それが技術部である瑞月の仕事なのだから、私は断じて、逃げてなどいない…きっと、たぶん。

『瑞月は話したって言ってたよ?』

「……あいつ…いつも演者と戯れんだから…」

 そう私がぶつくさ言っていると、電話のむこうで深白がくすっと笑った。

『頃』

「ん?」

『次はがんばるんだよ』

「うん、あ、うん?」

『じゃあ瑞月によろしく…あんまりいろんな人にちょっかい出さないでって…頃から言っといてほしい…』

「へーめずらし。深白も嫉妬とか──って、途中で切るなよ…」

 ブツッと途切れたその音で、深白も切羽詰まってんなぁ、と私は思った。瑞月がそうなることはあっても、深白がそうなるところを垣間見たのはこのときが初めてだったのだ。

 最近会えてないと瑞月がぼやいていたから、深白も多少なり不安なのだろう。幼いころから常に一緒に居るのが当たり前だった二人にとって、大人になるというのはきっと一大事。瑞月にかぎってそんな心配がないことは、深白が一番分かっているだろうに。

「構ってほしいんだろうなぁ…」

 と、私は久しぶりに子猫の深白を見てしまったような気がした。

 それにしても、深白の言った"次"ってどういう意味?

「なんの次…てか前ってどれだよ…」

 私はぼやきながら仕事に戻ると、飼い主の言付けをその犬に教えてやるのだった。


 すぐに電話をかけた瑞月を見て、仕事中にお前は──と私は軽くその頭を叩いてやった。 

 電話の奥では、深白の嬉しそうな声が響いていた。



 そうこうしているうち、撮影も一週間目を迎えたある日。春の嵐といわんばかりに天候は大荒れしていた。雨風が吹き付ける外とは関係なしに、撮影は好調に進んでいたものの、夕方ごろに鳴り始めた雷の影響でそれは一変することになる。

 

 ライブシーンの撮影をしているときのこと。近くに大きめの雷が落ちた影響で、バチンッ──と、箱の電気がすべて落ちたのだ。


 機材の一部は予備電力に切り替わるようになっているものの、なかなか箱の明かりは復旧の兆しを見せなかった。前の箱なら経験はあったが、そこでの自然災害によるそれは初めてのことで、少し様子を見に行くかと私は事務所を出た。

「瑞月、現場大丈夫そう?」

「ちょっとバタついてる、これ電気復旧遅くない?」

「だよねぇ…ちょっとEPSまわり見てくるわ。ここ任せる」

「うん、よろしく」

 ステージの方に顔を出し、瑞月が居れば大丈夫か、と私はその場を離れた。スマホを事務所に置いてきてしまったが、ライトがなくてもだいたいの位置は分かる。取りに戻るよりも先に見てこよう、と。私は足早に別のフロアへ移動した。

 この手のトラブルはデータ喪失などで面倒ごとが多かったりする。特に持ち回りの機材を使われると、バックアップが取れていないこともしばしば。まあそのあたりは規約にきちんと記載してあるから、まずうちとトラブルになることはないけど。


 そんなことを考えながら、慣れた箱の中をテクテク歩いていると、ドンッと暗闇で正面から何かにぶつかった。

 この位置に機材やインテリアはなかったはずだし、感触からして人なのは間違いないだろう。そう思って声をかけようとしたとき、私の鼻先を懐かしい匂いがくすぐった。


 やさしく香る、花のような匂い。


 幾度となく寝かしつけられたその甘い匂いを、間違えるわけはなかった。


 こんなにいい香りがする人、私はひとりしか知らないのだから。

 

「春…」


「きょう、ちゃん…?」

 

 私のことを、そう呼ぶ人だって──。


「…こんなところでどうしたの?」

「楽屋、わからなくなっちゃって…」

「…スマホは?」

「置いてきちゃった……お手洗い、行くだけだったから…」

 俯いたその恥ずかしそうな声に、胸が少し、チクリとして。

「そっか…楽屋こっちだから一緒に──…春?」

 連れて行こうと取ったその手。

 それはかすかに震えていた。

「…怖い?」

「……ちょっとだけ。」

 そよ風のようにちいさな声が心を撫でた。

 だから私は、その手をぎゅっと握ってしまったのだろう。

 懐かしい春の手。私のそれにすっぽり収まるその手は、ちいさいのにどんなことでも包み込んでくれる、魔法の手。

「あっ、あぁ、ごめ…」

 私のとはまるで違う体温を感じたことで我に返り、咄嗟に力を緩めたが、それが解けることはなかった。

「……いかないで…」

 春の手がぐっと、私のそれを掴んでいたから。

 消えてしまいそうなその声に、私はゆっくりと指の力を戻していった。


 停電も案外わるくない──こうして暗闇なら、春と向き合っていられる。

 私はこのとき、そう思った。

 

 幾分か眼が慣れてくると、俯いたその顔がなにを思っているのかと覗き込んだ。あんなに近くで顔を見るのは何年ぶりだったろう。

 

 暗闇に浮かぶその輪郭も耳のかたちも。

 紛れもなく、私が心を寄せる春だった。


 そんな視線に気づいたのか、春が戸惑いがちに顔をあげて。


 瞳がぶつかり、時間が止まる。


 こんなこと、している場合じゃないのに。早く現場を収拾しないと、瑞月のところに行かないといけないのに。そう頭ではわかっているのに、止まってしまった時間に身を委ねた私の身体は、何ひとつ言うことを聞かなかった。

 

 春の瞳は、私を映しているだろうか。


 どうかこの暗闇には慣れないでほしい。きっと私は、どうしようもない顔をしているだろうから。


 見つめ合えてなんかいなくてもいい。

 ただじっと、その恋しい瞳を見ているだけで、私の心はぬくもりを持ってしまうのだから。


 そうやって瞬きを忘れたころ、目線の先で、二つのそれが揺れているような気がした。


 本当にそうなのか、私がそう受け取りたいだけなのか。


 こんな暗がりでは、わからないから──。


「……きょうちゃん…?」


 私はその頬に、手を伸ばしてしまった。


 触れた頬がやけに熱い。その熱が指先から全身に広がって、一気にあのころが私を支配し、包み込んでいく。


 久しぶりのその感触。指が沈みそうなほどやわらかく、滑り落ちそうなほどなめらかな春の肌。その温度も匂いも、すべてを余すことなく受け止めてしまい、頭がくらくらした。



 もう少し、もう少しだけ。



 君に近づきたい──。



 ゆっくりと、少しずつ。


 君との距離を縮めて。


 鼻先が淡い吐息に触れた。



 そのとき──。



 二人を引き裂くように、まばゆい光があたり一面を照らし出した。


 蛍光灯の強い刺激が目を眩ませる。

 まるで、私をあぶり出すかのように。


「……ごめん」


 そう言って、春が目を細めているうちに私はその場から逃げ出した。


 光の下では、君と向き合うことはできなかったから。

 

 やっぱりもう、そばにはいられない──。


 君に近づこうとした卑怯な自分を戒めるように、私は太もものあたりを痣ができるほどに強く叩いた。


 冷えた廊下を走り抜けながら、治まることを知らない鼓動をさらに乱して──。



    *********


 

「あー、こりゃだめですねぇ…」

 電力がすべて復旧したあと撮影の再開を試みたが、データの一部がおじゃんになったことでそれは難しかった。翌日からのスケジュールを組み直すことになり、当日の撮影はそこで中断された。

 幸いにもバックアップに問題はなく、持ち込み機材が原因だったため、うちが損失を受けることはなかった。

 もっとも、あんなところで演者とくっついていたことがばれたら、それどころの話ではないが。


 もう表に顔を出すのはやめよう。これ以上近くにいたら、私は何をしでかすか分からない。


 彼女を傷つけるようなことだけは、したくない。


 無理だと言われてもしばらく交代してもらおう。そう思いすぐ成留に電話を入れると、しかたねえな、と渋々それを承諾してくれた。

「ということで…わるい、明日からむこう行くわ」

「……あっそ」

「ごめん」

「…わかった。もういい。こっちでやる」

 事務所でそれを伝えると、瑞月は怒ったのか乱暴に扉を開けて出て行ってしまった。

「…仕事に私情挟むなって話か……」

 舌打ちをされても文句のいいようがない。


 私は身体に溜まったその熱を吐き出すように深いため息をついて、成留への引継ぎ作業を始めるのだった。

 

 ──こっちでやる。


 そう言った瑞月の言葉の意味を、履き違えたまま──。





──ep.8 しずくの音色──



「……どうぞ…」

「おじゃまします…」

 家のドアを開けて先に入るよう促すと、その足が控えめに玄関のタイルを踏んだ。

 雨に降れたヒールを片足ずつ脱いで、慣れた足つきで目の前の階段を上がろうとするその背を止めた。

「あ、ちょ、こっち…タオル出すから…」

「あっ、ごめん…」

「いや…」

 まだうちの間取りを覚えているのかと少し感心しながら、ちいさなその背を追い越して洗面所の方へと連れて行く。

 棚から取り出したのは、華奢なその身体をまるごと包めそうな大きめのタオル。

「これつかって」

「ありがとう」

「…風邪ひくとあれだし、先入る?」

 ぎこちなく風呂場を指差すと、でも──とその口が動き、着替えがないことに気づく。

「あー、そっか…ちょっと待っててなんか持ってくる」

 そう言って、私は急いで階段を駆けあがった。


 そしてバタンッ──と後ろ手で部屋の扉を閉めて、人生で一番といっていいほどの重たいため息をついた。




「どうしろっての、これ……」




 私の家に。



 春がいる──。





 ことの発端はそのため息から遡ること数時間前。明るみにあぶり出され、もう彼女に近づかないと決めてからすぐあとのことだった。


「どうしましょう…」

「この雨ですもんねー」

 事務作業中、廊下から瑞月と誰かの声が聞こえて、私は様子を見にスタッフルームの扉を開けた。

「どうされました?」

「なんか飛行機が飛ばないみたい」

「飛行機?」

「出番空くから、一回戻る人がいるんだって」

 あー、と私は納得してスマホを取り出すと、外の様子を調べてみた。雷雨と強風が続き、国内便ですら次々に欠航が発生。海外便となると待ったところでどうにもならない様子だった。

 電車とかもやばそうだな、帰りは機材車出すか…成留にまた電話入れておかないと…と、次々降りかかる面倒ごとに、私はこめかみのあたりをポリポリと掻いた。

「このあたりって、どこか綺麗めのホテルとかないですか?」

「うーん、駅近くにビジネスホテルがちょっとあるくらいですかね」

「今から取れますかねぇ…」

「どうでしょう…同じように探してる人も多いでしょうし…」

 たしかに、演者を泊めるとなるとこのあたりで場所を探すのは難しいだろう。そう思いつつ、こういうことは瑞月に任せた方が良いと、私は軽くその女性に挨拶をしてからそっと扉を閉め事務作業へ戻った。 

「セキュリティとかもあんまりおすすめはできないですね」

「そうですよねぇ…」

「あ!でもでも──」

 扉を一枚挟んでの会話は途中から何を話しているのかあまり聞こえなかったが、え!とか、あ!とか。相手の女性の大きめなリアクションだけは耳に届いて、きっと何かいい案でも見つかったのだろうと、私は成留へ渡す資料に目を通していた。

 こういうとき、瑞月がいるのは心強い。育ちがいい分そういった情報には私より長けているし、ああ見えても仕事となれば人とのコミュニケーションはうまい。初対面のときもそうしてほしかったものだ。

 そう思いながら作業に没頭しているうちに、廊下のあたりはいつのまにか静かになっていた。

『機材車?いいけど運転気をつけろよ?雨やべえから今』

「ありがと助かる、瑞月も乗せてくかぁー」

『あいつ近くのホテル取ったって言ってたぞ』

「は?なんで?」

『知るか。自分で聞け。ちゃんとガソリン入れて戻しとけよー』

 成留との電話を終えると、私は瑞月を探しに席を立った。

 ドアノブに手をかけて扉を引くと、寄りかかっていたのかその身体が私めがけて飛び込んできた。

「うわっ、あぶねっ」

「あ、ちょうどよかった。頃、お客さん呼んでる」

「ん?」

 部屋から出て瑞月が手を差した方に顔を向けると、そこにいたのは先ほどの女性。


 

 ──と、一番顔を合わせたくなかった君。

 


「あの!科木さんのことよろしくお願いします!」

「………はい?」

 その女性が何を言っているのかまったく分からず、状況が掴めない私は顎が外れたかのようにだらしなく口を開ききっていた。

「春、泊まるとこないんだって」

「あぁ…それで?」

 戻る人って春のことか──と、そこまでは理解できた。

「だから泊るって、頃の家」

「……なにいってんのおまえ…」

 だが、その先は"はいそうですか"と言えるような内容ではなかった。

「紹介しといた」

「よろしくお願いします!助かります!」

 悪い冗談かと思ったが、その女性──春のマネージャーは目を輝かせながら"変なセキュリティのホテルに預けるくらいならご友人の家の方が安全!"と、ばかみたいなことをどうやら本気で言っているようだった。

「もうたぶん取れないと思うし、ほら」

 瑞月が見せつけてきたのは、近くのそれの空室状況。

 

 ──こいつ、やってんな…。

 その得意げな顔に、私はすべてを悟った。


「瑞月、お前──…」

「春もそれでいいよね?」

 私の声を遮るように、瑞月が春に声をかける。

 いいわけないだろ、と私はその胸元にドンッとひと突き食らわせてやった。

「……うん」

「ほら」

 わずかな沈黙のあと、戸惑いがちに春が小さく頷き私は思った。あの暗がりであったことは、きっと春の目には映らなかったのだと。

「…私の許可は…?」

 それでも、二人きりになるなんてもうごめんだった。

「じゃあ春ラブホにでも行かせたら」

「………あぁもう…わかったよ…」

 3対1。

 どうにもならないその構図に、私は頭を掻きむしった。

 

 皆さん仲良しなんですね!と、運転までこちらに任せてきた春のマネージャーは相当な変わり者。そういえば機材室で鉢合わせたときも、おかしなこと言っていたような気がする。

 普通任せないでしょ…。そう思いながら、私は仕方なく春を車に乗せその場をあとにした。


 去り際、ニヤッと手を振って見せた瑞月に、次会ったらぶん殴ってやる──と、そうガンを飛ばして。

 

「……さむくない?」

「うん…ごめんね、急に」

「気にしないで。わるいの瑞月だし…」

 こんなオンボロで大丈夫だろうか。そう思ってこっそり覗き見たミラーの中で春と目が合ってしまい、私はその場しのぎの会話を繰り広げた。


 助手席に乗せるわけにもいかず、後部座席に詰め込まれた春の姿。かたちは違っても、なんだかあのころのようで胸がいやにうるさく騒いだ。


 雨のざわめきと一緒にそれをかき消すように、私はワイパーの速度を速めたのだった──。



    *********


 

「お風呂ありがとう」

 すっかり髪まで乾かし終わった春がリビングに顔を出す。

「…あと、これも…」

 何かきれいめな服はないかと急いで探したが、この家にそんなものがあるわけもなく、パーカーを身に纏った春は恥ずかしそうに顔を下げた。


 私のぶかぶかなそれに着られた春の姿。

 露出なんて一切ないのに、なんだかそれが──。


「……なんか食べたいものある?」


 変なところばかり大人になってしまった自分に嫌気がさして、不用意に打たれた胸を隠すように私は話題を夕食へと切り替えた。


「なんでもいいの?」

「作れるものなら」

「じゃあ…オムライス」

「…ん。そこ座ってて」


 なにか言いたくて、でもなにも言えなくて。

 私は春をソファに座らせると、台所へと逃げ込んでいった。


 なぜだか、その日の卵はうまく割れなかった。



    *********


 

「──おいしい」


 いただきますと手を合わせ、できあがったそれに二人で手をつける。高評価なのはよかったが、微笑んだその顔を見てはいられなかった。

 だから向かいで食べるのは避けたかったのに──。

 床で食べようとした私を春が止めなければ、鼓動が好き勝手することもなかった。


 私は春から視線を外すと、我ながらまあまあ美味しくできたそれを一気にかっこんだ──お腹もすいていないのに。


「あ、」

「うん?」

「飲み物出すわ、食べてて」

 頬ばりすぎたそれを流し込もうとしたとき、お茶を用意していなかったことに気づき私は席を立つと、食器棚から適当なグラスと綺麗めなグラスをひとつずつ手に取った。

 片方には冷蔵庫に入れていたもの、もう片方にはケースから出した常温のもの。それぞれにペットボトルを傾ける。


「ごめん、こぶ茶じゃないけど…どうぞ」

「…んーん、ありがとう」


 そう言って麦茶を手渡したとき、視界に飛び込んできた。


「──春、」


 いつのまに髪を耳にかけたのだろう。

 それまで隠れていたから気がつかなかった。

 

 耳もとで白く咲く、そのちいさな花に。


「それ──」

「頃ーッッ!!!」

 言いかけたとき、リビングのドアが物凄い勢いで開かれた。

「げ、よう…」

 タイミング悪く、酒に酔った母、登場である。

「あんた帰ってくるなら連絡ぐらい…あら?こんな夜中に女連れ込んでなぁにしてんの?」

 これだから春をこいつには会わせたくなかったのだ。

「連れ込んでねえよ…そっちこそ帰るなら連絡しろ…」

「いいじゃない~、自分の家なんだからいつ帰ったって~」

「あの、こんばんは…遅い時間にお邪魔してすみません…」

 する必要もないのに、春は深々と礼儀正しく頭を下げた。

「こんばんはぁ~!…って…ふゆ…?」

「だれだよもう…」

 なにを抜かすのかと思えば、わけのわからないことを。相当に飲んできたな、と私は酒くさいその身体を肘で追いやった。

「要、あっち行ってて」

「昔の知り合いにそっくり~!苗字、科木しなきとかだったりする?」

「あ、はい…冬は──私の母です」

 

 いや、なにもうほんと。こんなやつと春の母親が知り合い?んなわけない。万一そうだとしても春には絡むな。

 頭の中でそんなふうに思いながら、私は母の腕を引っ張った。


「なるほどねぇ…あんた、好きなんでしょ?」

「ブッッッ!!ゲホッ、グホッ──」

「顔真っ赤にしてガキだねぇー、恋愛とか興味あったんだ?」

「…要!もう出てけって!!!」


 人が。


 人がこんなに。


 それを言うのを、堪えているというのに。

 このばかは、いとも簡単になんてことを言ってくれるんだ。

 

 私は心の叫びを力に変えて母をリビングの外に放り投げると、バタンッ──と力任せにドアを叩きつけた。


「ったく、あいつは…ごめん、気にしないでほんとに。いつもああで…」

「…お姉さんもう一人いたの?」

「……母です…」

 春がそう思うのも仕方ない。どこに出したって、そう言われるのだから。いい歳こいてあんな格好をして、私は心の底から恥ずかしかった。

「あのひと苦労とか知らないからずっとあの見た目で勘弁してほしい。あいつがうるさいから結と私はその逆になって、親のくせにほんっとなにもできないし、いつも家にいないくせになんで今日に限って帰ってくるんだか──」


 私は春の目も見ずにひたすらしゃべり続けた。

 どうでもいいようなわけの分からないことを必死に繋ぎあわせて。


 ごまかすにはそれしか手はなかったのだ。

  

 母のその発言を。

 それを認めているかのような自分の反応を。


 雨の音だけではどうにもならない都合の悪いそれを上書きするように、私は今までにないほど口を回した。

 

 そのおかげですっかり忘れてしまったのだ。


 聞こうとしていた、ちいさな花のことを──。



    *********



「じゃ…おやすみ」

「うん、おやすみなさい」

 そう言って、部屋の前で春とは別れた。

 姉の部屋が空いていて助かった。同じ家にいるだけでも──なのに、同じ部屋でなんて無理にもほどがある。


 夕食のあと、たいした会話はなかった。ただ一方的にべらべらとしゃべり続け、言葉もお皿もすっからかんになってそのまま食事を終えて。明日出る時間を確認したり、寝る前の準備を済ませたり。


 本当は、話したいことなんて山ほどあった。


 あのときなんで、とか。今までどうしてた、とか。式の日なぜ泣いていたのか。どうしてあの暗がりで瞳を揺らしていたのか。


 知りたいことはたくさんあった。

 それでも、言いたいことは結局いつもひとつだけ。

 だけどその言葉は、君にはぜったいに言ってはいけないから。

 

 だから、心の奥底にある言うことを聞かない気持ちがまた飛び出ていかないように、君を傷つけてしまわないように。

 結婚している相手に変な気を起こすなよ、と私は自分の頬をぎゅっとつねって、その気持ちごと布団にもぐり込んだ。



 隣の部屋に春がいる。

 そのことだけで、眠れやしないのに──。



    *********



 それは深夜3時を過ぎたころ。窓の外に浮かぶおぼろげな月を閉じられそうにない眼でぼんやり眺めているとき、かすり泣く声を私の耳が捕まえた。


 ちいさなちいさな声だった。

 壁の薄い家でなければ、掬いあげることはできなかっただろう。

 

 隣の部屋で、君は泣いていた。


 こんな夜中に、どうして涙を流しているのか。

 誰が君をそうさせたのか。

 とぎれとぎれに聞こえるその押し殺すような声が、私の感情のすべてを痛く締めつける。


 君が幸せでさえいてくれればいい。

 そう願って、そう思っていたけど。


 もし、もしも──。


 君が幸せではなかったら、私はどうしたらいいんだろう。

 

 その切ない涙の音が、私の心を揺さぶった。

 

 君に幸せをあげるのは誰だってかまわない。

 ほほ笑み合って、分かち合って。そうやって君がよろこびを繋いでいけるのなら、相手はどんな奴でもいい。

 

 だけど。


 もし君が瞳を曇らせて、涙を流すのなら──。


 その悲しみに寄り添うのは、私がいい。


 いまなら。

 その悲しみに届く距離にいる、今なら──。


 頭では分かっていた。

 私がそれを拭うべきではないと。

 それでも、隣の部屋から絶え間なく聞こえてくるその声に、私の心は耐えきれなかった。


 頭の後ろに回していた両手を解きベッドからスッと起きあがると、足を冷たい床に下ろした。少しばかりそれがすくんだが、身体がどう思っていても心を止めることはできない。見つめ合っていた月にしばしのさよならを告げて、私は部屋を出た。


 自分の部屋のドアを開けた瞬間、ひんやりとした廊下の空気とともに、その声が私の身体を突き刺しにくる。

 すぐ隣の姉の部屋。その前に立ち、ドアノブに手をかけようとして、私はまたためらってしまう。


 このドアを開けてしまったら、私は君を傷つけずにいられるだろうか。心のままに動く身体は、その意志を尊重してくれるだろうか。


「春、どうしたの…?」


 手をドアノブに置いたまま、私はドアを挟んで声をかけた。


 大人とは苦しいものだ。

 誰かを守りたいばかりに脆く、臆病になってしまうのだから。


 静かな廊下に、私の声だけが虚しく響く。返事はなかったけど、ドアの向こうからグスッと鼻をすする音が聞こえて、私は言葉をやめなかった。


「泣いてるの…?」

「……ううん!…」


 無理に灯りをつけたようなその声が痛々しくて、宙に浮いたままの手を動かすと、私はゆっくりとドアを開けた。


 きっと大人になんかなれていなかった。

 ただ子どものまま、私は君を守りたかったのだ。


 こんもりとしたベッド。その脇に膝をついて毛布をそっと下にずらすと、そこには涙でいっぱいになった君が隠れていた。


「泣いてるよ…」


 こんなにぐしゃぐしゃになった君を目にするのは初めてで、私は頬をとめどなく濡らすその一粒一粒を汲み上げるように、親指でそっと拭った。


 壊れてしまわないように、傷つけてしまわないように。


 その悲しみがどこからやってきたのか、誰が君をこんなに幼く見せるのか──。



 「旦那さんとなんかあった…?」



 思ってはいけないのに、言葉は勝手にあふれてしまった。

 

 幸せをあげる──。


 それはいつのときも、君にやわらかい笑みを絶えさせないこと。その心をあたたかく包み、眠れない夜はとなりにいること。


 ハンバーグじゃなくて、ナポリタンを頼むこと。


 ときには重たい荷物も持って、どんなに疲れていても席が空けば君に座ってほしいと思う。ケーキのいちごもためらわずにあげられて、夏には木陰を、冬には日向を譲りたくなる。


 もし、そんな些細なことひとつしてあげられないのなら。その役割を担う相手が君を泣かせるのなら。


 私はどうしたってそれを許せない。


 だって、私は誰よりも君の幸せを想っているから──。



 涙が色濃くなった次の瞬間。

 私の心臓は壊れてしまいそうなほどに落ち着きを失くした。



 春がぎゅっと、私に抱きついたから。

 その両腕がきつく、私を抱きしめたから。 



「…きょう、ちゃん……きょうちゃん…」



 愛しいその声が私の名を呼ぶ。

 何度も何度も、途切れることなく。


 華奢なその身体が私を抱き寄せる。

 ちぎれてしまいそうなほど、かたく強く。



「……春?…どうしたの…?」

 








 









「…きょうちゃんっ……」




















「……私、まだきょうちゃんのこと──…」














 そよ風にも消えてしまいそうな声だった。

 ちいさくて脆くて、弱々しくて危なっかしくて。

 

 でも、私の心にはたしかに届いた。


 君の心に、まだ私がいるのだと。

 

 陽だまりのような瞳が、それを伝えてくれたから。

 耳もとで咲く白い花が、それを教えてくれたから。


 君のすべてからたくさんの声を拾い上げ、かたく締められていたビンの蓋がぽろっと開いた。

 

 続く言葉は必要ない。

 そんな儚いもの、もういらない。


 君がその言葉を言い終える前に、私は震える唇に触れていた。


 訳も理由も、言い訳も事情も。

 もうそんな過去のことはどうだっていい。

 目の前にいる君だけが真実で、私はそんな君が欲しかった。

 

 手を伸ばして手が触れて。見つめ合って瞳が絡んで。

 君がそこにいることを確かめるように、何度も何度も。

 

 心も身体も、まるで言うことは聞かなかった。勝手に動き回って、ばかみたいに熱くなって。君の潤んだ瞳が、しなる髪が、染まった耳が。私を溶かして、かき乱して。


 痕になってしまいそうなほど、その名前をささやき続けた。


 "今"を、止めないように──。


 風にそよぐ花のように甘い香りが心をチクチクと刺激して、やさしいその痛みが教えてくれた。


 夢じゃない──と。


 夜明けを待っていた心に風が吹いて、あのころの灯火がかたちをそのままに、私のたったひとつの恋はまた時を転がしはじめていた。ひた隠しにため込んできた想いをすべて連れ出して、夜のむこうへ君と抜け出したのだ。だれにも見つからないような、穏やかな木陰を目指して。シナリオのページを、丸ごとぜんぶ破り捨てて。

 

 捨てきれなかった想いが二人を包み込み、また同じつぼみが生った。


 終わらない押し寄せる波を見つめていたのは、濡れた月と瞳だけ──。



                     



 



 君と過ごす三度目の春。

 長かった私の雨夜は、やっと明けた──。








 ──あーだめ、こんときの話は何回しても無理。

 ──…きょうちゃんまた泣いてる…今日はもう飲んじゃだめ。

 ──……春だって泣いてるじゃん。

 ──………卵の殻、おいしくなかっただけだもん。

 ──え、はいってた?!

 ──麦茶も苦手だし。

 ──……わがまま…。

 ──だめ?

 ──んーん。かわいい。

 ──………ばか。

 ──春、ビールもう一本…。

 ──だーめ。





──ep.9 星まわり──


 

 強く降り注ぐ日差しが古びたベンチに沁み込んだ水分を飛ばし、すっかりその色も元どおりになった。

 手に滲んだ汗をひらひらと振り払って、長居しすぎたか──と、私はたばこの火を淡い歳月の中にかき消す。

「ふー…しっかりしなきゃ…」

 そうひとり呟いて緊張を身体から追い出していると、またガラス扉が軋んだ声をあげた。

「あ。」

「ころ?!おまっ、まだこんなとこ!!」

 次から次へと。騒がしいことこのうえない。

「結ずっと探してたぞ、なにしてんだよばか」

「痛っ、叩くなよ…ちょっと思い出めぐり」

「あ?きもちわりい、さっさといけ」

「成留美さん、うるっさ」

「あ、瑞月」

 再び喫煙所に顔を出した瑞月が、私よりも落ち着きのない成留を見て笑う。

「あったの?包み」

「うん、そこのソファの隙間に」

「……勘弁してよ…」

 私はあいかわらずの二人を見て緊張感をすっかり失うと、やっと見つめていただけのガラス扉に手をかけた。

「結にわるいことしたなぁ…」

 そういえば準備手伝うって言ってたっけ──そんなことを思いながら、私は今度こそ、式場の喫煙所をあとにした。





 あの夜から同じようで違う季節を幾度となく繰り返して、二人で迎える何度目かの春。


 ばかみたいに晴れた今日。

 




 君は、結婚する。


 その隣をゆく、私と──。





 君と私の物語。


 思い出ばなしは、ここでおしまい──。




「なーにぼけっとしてんのよあんた」

「げ、よう…」

「今日ぐらい"お母さん"とか、かわいく呼べないの?」

「……うざすぎ…」

「ったくもう、いつまで反抗期なのよあんた」

「……」

「誰のおかげで今日があるのか思い出してみたら?」



 ──には、できないようで。


 だからもう少し。

 式が始まるまで、あと少しだけ──。



    *********



「おはよう、きょうちゃん」

「おはよう、春」

 眩しすぎる春の陽が、まぶたをすかして私に朝を連れてきた。慣れない目を瞬きで馴染ませ、腕にかかる重みに頬を緩ませる。


 私の恋がふたたびそのつぼみを生した翌日。その朝は、そこら中に広がる空気がすべて甘ったるい色をしていたように思う。目を覚まして一番に飛び込んできた君の姿に、夢じゃなかった──そうほっとして、私は目からこぼれる熱いものを堪えることができなかった。


 きっと、どうしようもない顔だった。


 春は言った。

 この十四年、ずっと私のことを想っていたのだと。


 春に言われるまであれから何年が経っていたかも私には分からなかったけど、長かったその時間もこの朝を迎えたときにはひどく短く、どうってことない刹那だったような気さえした。


 いろんな話をした。

 離れていた十四年を駆け足で埋めるように。その感情をすべて、愛情に変えるように。


 親のこと。仕事のこと。それから式の日のことも。

「どうしてもきょうちゃんに言えなかったの…ずっと、ずっと言わなきゃって…でも想って想われて…言えなかった。終わりがあって、私はいつか結婚するって…」

「うん」

「予定よりも早まって、もっと一緒にいられる時間が短くなって…」

「…うん」

「きょうちゃんが……」

「春、ゆっくりでいい」

「…きょうちゃんがね、好きって言ってくれるたびにまた怖くて言えなくなって」

「うん」

「先に恋したのは私なのに。きょうちゃんもそうなってほしくていっぱい…私いっぱいきょうちゃんに…」

「…おいで」

 初めて聞く話に胸が熱くなった。

 涙まみれの君を抱きしめて、私はただその話に耳を傾け続けた。

「そのときがきたら、きょうちゃんが私のことをちゃんと忘れられるようにって。だからなにも、なにもあげられなかった…。ほんとはずっと、」

「春」

「あのね、きょうちゃん、私ずっとね」

「好きだよ」

「…なんで、なんできょうちゃんが先に言うの…?」


 やっと言えた。


 ずっと言いたくてたまらなかったその言葉。


 何度も何度も頭に浮かんでは口にしたくてたまらなくて。でも、それは叶わなくて。

 この十四年。一番苦しかったことは、君に好きと、そう言えないことだった。


 言葉は儚い。口に出せばすぐに消えてしまう。

 だから、君からの言葉がほしいわけじゃない。言葉にされなくったって、その節々から君の声は聞こえるから。


 ただ、とめどなくあふれる君への想いを、なんとか伝えていたいだけ。


「式なんて形だけ──だって、私の中にはいつもきょうちゃんがいたから。だからどうでもよかったのに…来てたなんて知らなくて…」

「…うん」

「廊下で会えたとき、涙が止まらなかった」

「……」

「ずっと聞きたかった。きょうちゃんのやさしい声、大好きだから。でも、おめでとうって…それが苦しくて、あんなこと言って──…」

「春…」

「この人じゃなきゃやっぱりいやだって…だから籍はすぐ抜いたの。きょうちゃんは大人になって、もう終わりなんだってわかってても…どうしても。誰かのものでいるのはもうやだったから」

 私は何も言わず、震えるその身体をさらに強い力で手繰り寄せた。もう二度と、離れていってしまわないように。

「きょうちゃんが誰かと幸せでいれたらいいなって、そう思ってて。また会えるなんて思ってなかった。……昨日、きょうちゃんのお母さんが…」

「あー…」

「それで私、きょうちゃんの気持ち…」

 君を泣かせていたのが私だなんて、思ってもみなかった。

 大切に想えば想うほど、いつも君を泣かせてしまうのはどうしてなんだろう。

「きょうちゃん、ずっと傷つけて悲しませて…勝手に恋してごめんなさい」

「春…」

「ごめんなさい…ッ…一緒に卒業できなくて…」

 春は静かに泣いていた。

 息を詰まらせながら、声をひそめながら。

 ひとりですべて抱え込んで、長い間こうして頬を濡らしていたのかと思うと、私の胸ははちきれてしまいそうだった。


 そして涙交じりに言った。

 恨まれても嫌われても、仕方がないのだと。


 だから私は──。


「ごめん春」

「なに言われても私、」

「ずっと、好きなだけだった」


 春の言葉を遮って、そう言った。

 本当に、それだけだったのだから。


 恨みむことも憎むことも、まして嫌うことなんて。一瞬たりともなかった。


 そんなこと、考える余裕もないくらい。


 ずっと君が好きだった。


 春のようにうまく言葉を紡げない私はただその手を握りしめながら、ため込んだ想いが心に届くようにと同じ言葉を伝え続けた──。



「あっ」

「…?」

「これ、昨日びっくりした。まだ持っててくれたんだ…」

 白いつつじの小さなピアス。

 夕食のとき気づいたのに、すっかりそのことがどこかに飛んでいってしまったのだ──あの、母のせいで。

「またあけたんだ?」

「んーん、あけてない。」

「え?だって──」

 あのころ、たしかに塞がったと、君はそう言っていたのに。

「きょうちゃんがあけてくれたやつ。ほんとはずっと、大事にしてたの…」


「ほら、こっちはあいてない」

 そう言って左耳を見せた無邪気な表情。

 私はまた心がじわじわと熱くなっていくのを感じた。

「ずっと、きょうちゃんだけだったから」

 君が泣きながら微笑んで、私が泣いて。

「…もっかい言ってもいい?」

「?」

 目を丸くして首を傾げる君にもう一度。


「好きだよ、春」


 何度言ってもたりない。すぐにまた言いたくなる。なかなか口にできなかったあのころの分。離れていた時間の分。


 言えなかった十四年。

 苦しかったそれも、この日からいとおしい日々だったと思えるようになった。

 

「──私も」


 そう答えた君のほころび──それは、白く揺れる私だけのつつじ──。





 私と春は空白の時間を埋めるように、あのころを必死で追いかけた。笑ったり怒ったり、泣いたりしながら。


 そのたびに気持ちをたしかめ合って、ページを何枚も増やして。


 中身が見た目に追いついたころ、ストーリーはさらに転がって、帰る場所は同じになっていた。目が覚めるたびに感じる君の温度。壊れていた季節もぬくもりを取り戻し、その影をゆっくりと動かしていった──。



    *********



「しあわせを前にすると足がすくむって言うもんね…」

「深白は思ったことない?」

「えぇ…ないなぁ…だって瑞月って」

「犬とかいわないでよ?」

「まだ言ってないよぉ…」


 そんなふうに光に満ちた日々を過ごしていても、あのころと違う部分も少しはあって。あの夜から数年が経ったころ、私は頭を悩ませていた。


 このまま春の隣にいてもいいのかと。

 

 幸せをもらえばもらうほど、それを彼女にも返せているのか、私は彼女が描く幸せに色をあげられるのか。そんな思いが積み重なって、のしかかって。同性という目には見えない壁の存在を、このときの私は強く感じていた。


 大人とは心底つまらないものだ。

 あのころはそんなもの、どうでもよかったというのに。


 形だけ──といっても、春は一度結婚している。

 そして私は彼女を、そこには連れていけない──あの日隣を歩いていた、背の高いあの人のように。どんなに彼女を強く想っていても、紙切れ一枚、交わすことも叶わない。


 それに有名な彼女はこの先、私が隣にいれば傷つけられることだってあるかもしれない。


 いくら想ってもどうにもならないその壁は、心の水面にぽたぽたと滴を落とし続けていた。


 あれほどに求めていた春が、すぐそこにいるのというのに。

 

「春ちゃん、そういうの気にしないと思うけどなぁ…頃がそんなことで悩むのめずらしいね?」

「…大人ってだりぃ…」

「きょうちゃん、自分のこと大人だと思ってるの?」

「絶妙に似てるからやめて…?」

「へへ。でもちゃんと話さないと、またすれ違っちゃうよ」

「…深白が聞いてくれた、り?」

「私はもう頃のリードは春ちゃんに返したの」

「なにそれ?」

「転校するときに預──あ、言っちゃだめなんだった…とにかく、自分の気持ちは自分で言うんだよ、頃」

「えぇー…」

 まったく隠せていない衝撃の事実に胸がヒュッとなりつつ、私はカフェのテーブルにうな垂れた。

「なんのために私たちが春ちゃんの気持ち黙ってたと思うの?」

「……はい…」

「あのとき瑞月止めるの大変だったんだから…」

 本人の口から言わないと意味がない。まわりが言ったところで気持ちは伝わらない──と。春の気持ちを知っていても、二人はそれを言わなかったそうだ。

 もっとも瑞月に限っては「鬱陶しいからもう言う」と毎度口にして、深白がそれを必死に止めていたそうだけど。

 たしかに春の口から聞かなければ、私はあの夜のようには動けなかっただろう。

「深白、ありがとう」

「…きょうちゃんって、お礼とか言えたんだ?」


 そう言った深白を叩けない代わりに、私は殴らせろ──と瑞月にチャットを入れてカフェを出た。


「あと相談できるのはあの二人か…」

「そうだねぇ…瑞月は…」


 ──早く深白返して

 ──危ないから一人で帰らせないで

 ──やっぱ迎えに行く


「……なんかきたよ…見てこれ」

「…もう、瑞月…」

「なんとかしてよこいつ」

「いい子にしててって言ったのに…」


 瑞月には──相談しなかった。

 


    *********



『なに、急に電話してきてきもちわる』

「…あいかわらず姉の片隅にもおけない…」

『あんたなんかへこんでる?テンション低くてうざいんだけど」

「…いや…あの──…」

 悩みなんて相談したこともなかったが、深白のほかに聞ける相手と言えば、私には姉しかいなかった。

『ふーん…わりとまともな悩みじゃん』

 私が話し終わると、意外にも姉はそう言ったのだった。ばかとかあほとか、言われるものだとばかり思っていたのに。

『まあそういうのは私よりこっちに聞いて』

 急に姉の声が電話から離れると、なるみー!とそれを呼ぶ声が響いて、遠くからばたばたと駆けてくる足音が聞こえた。

 お前も犬かよ…と、私は思った。

『お、どした?仕事の話なら今日は聞かねえぞ…?』

 成留が休日にそれを話したがらないのはいつものこと。

 かくかくしかじか。私は繰り返すように、その日三度目になる胸のうちを吐き出した。

『……』

「…いや、なんか言えよ」

 反応もしない成留に、やっぱり相談する相手間違えたかもと、私は電話を終わらせようとした。

『……気持ちは、わかる』

 ところが返ってきた成留の声。それは今まで聞いたこともないような、弱々しいものだった。

『昔、結の気持ちに応えなかったのも、そんなところだったからな…』

 と、成留は悲しいメロディでも流しそうな勢いで、お得意の昔ばなしを語りはじめたのだった…。


『だれかれ言ってないけどそんな関係ざらにあんだよガキ。どう思うかはサンタに聞け。じゃな』


 成留が電話を切る前に言ったのはそんなところ。長すぎたほかの内容はほとんど覚えていない。


「……ま、どっちにしろ話すしかないか…」

 

 もうすれ違いはごめんだし──と、私はスマホを後ろのポケットに放り込んだ。



    *********



「──と、いうわけなんですけど…」

 いつもの自宅。実家を出た私が春と暮らすそこは、小ぎれいなマンションの802号室。リビングの椅子に向かい合って座り、私はしどろもどろになりながらもなんとか春にそれを伝え終えた──きっとうまくはできていなかっただろうけど。

「……はぁ。」

 春がため息をついて、やっぱり思うところがあるのだと、私は俯いていた顔をさらに深く落とし自分の膝のあたりを見つめていた。

「だから最近そんな顔ばっかしてたの?」

「いや、あの、まあ……はい…」

「どっちでもいい」

「……はい?」

 その言葉の意味がわからず、膝から目線を外すように動かすと、それに伴って顔をゆっくりとあげた。

「きょうちゃんが女でも男でも、どっちでもいい」

「………そうなの?」

「きょうちゃんは私が男だったらやなの?」

「やじゃないけど…」

 春が男だったらどんな感じだろうと想像して、少しおかしくなった。

「それと一緒。関係ないの、そんなの。きょうちゃんだからってだけ」

「……ありがとう、ございます…?」

「そんなことで最近ずっと卵の殻入り込んでたわけ?」

「…あ、だから今日春が作るって言いだしたの?」

「うん、だめ?」

「だめじゃないけど…春の料理は……」

「もうっ!」

 そっか、春も私と同じ気持ちでいたんだ。

 どうして聞くのをためらっていたんだろう。答えなんて簡単なことだったのだ。


 もっと早く──あのころにでも聞いておけばよかったと、私は目の前でぷんすかしながら私の手をぺちぺちと叩く春を見て頬を緩ませた。


「いたた…春、痛いって」

「うそ。きょうちゃんうれしそうな顔してるもん」

「あ、ばれた?」

「もう……結婚なんてできなくても、私はきょうちゃんがいい」

「…春──…」


 胸につかえていたものがぽろっと落ちて、私は吸い込まれるように春へと距離を縮めた──。


「すればいいじゃない?」

「よよよよ、要?!」

 

 ──ときだった。


 キッチンの端からワイングラスを片手に持った母がチラッと顔を出したのは。


「なにしてっ…てか来るなっていってんだろ?!」

「あんたに会いにきたんじゃないわよ、春とこのあとお酒飲むの」

「もう飲んでんじゃん…てか春って呼ぶな、あと勝手に誘うな」

「きょうちゃん、誘ったの私」

「ねーっ、春ーっ」

 いつのまに距離が近くなったのか、二人は頻繁にグラスを交わす仲。

 春は一体どっちの味方なんだと、私は深く頭を抱えた。

「いつまで経ってもガキねー、あんた」

 ──ひとの悩みを勝手に聞くな…春も要が来てるなら言ってよ…。

 私は目線で春に助けを求めたが、春はにこにこと楽しそうなご様子。

「結婚したらいいのよ、そんなのは」

「ばか、できねえの」

「式あげちゃえばいーのよ。戸籍がどうだって、そんなの後からついてくるんだから」

「あのねぇ…」

「私だって女とあげたわよ?結産む前に」

「はぁ?」

 なにをわけのわからないことを。もう酔っぱらっているのかと、私のはそのグラスを取り上げようと手を伸ばす。

「家にあったでしょ、ドレスの写真」

「ドレ、ス……あ、あれ?!…ッウ、ゲホッ」

 古いアルバムにあった写真。それが頭に浮かび大声をあげると、その反動で吸い込んだ空気に気管は驚きを隠しきれなかったようだ。

「あれ父親おやじとじゃないの?!!」

「はぁ?ちがうわよ」

「だって"一人目の奴"って言ってたじゃん!!」

「だから、冬なんじゃない。あんたばか?」

「冬ってだ──え?まじ…?」

「あれ、きょうちゃんまだ聞いてなかったの?」

「…なんで春は知ってるわけ…」


 恋多き母の学生時代の恋人は、春の母親だった。

 春の家系は代々モデルのそれ。春の母もまた、その母に敷かれたレールのうえを行くことになっていたから、もともと要とは学生の間だけ──と二人で決めていたそうだ。いつ聞いたのか、私の母がべらべらと話したようで、春はこのときすでにそのことを知っていた。

「まあ?冬が思ったよりも私にぞっこんだったから、あの写真があるんだけどねぇ」

 そう母が口にしたように、式を挙げたのは予定よりも想いが募ってしまった結果らしい──なんとも母らしい破天荒な話である。



    *********



「冬、このふたり結婚させていい?」

「急に連絡してきてなにかと思えば…ようちゃん、今までどこいってたのよ…」


 数日後、母は急に春の母を我が家へ呼び出すと、そうド直球にぶっこんだ──日本語に訳すなら"娘さんをください"といったところ。

 春の母が呆れかえっていたところを見ると、母はなにかばかをしていたのだろう──それはきっと、今も継続的に。

「春ちゃんもいるし…ようちゃん、ちゃんと説明して」

「だからさあ!」

 通じそうにないそのデタラメな説明。絶対わかんないでしょそれじゃ…と思ったけど、慣れたものなのか春の母はわりとすんなり理解していた。


「まあだから一回話しなよ。どうせ冬のことだからそんな話してないんでしょ」

「…でも──」

「いいからいったいった、ほれ、春もおいで~」


 母は二人を客間に押し込むと、そのままバタンッと強引にドアを閉めた。


「ちょ、要」

「いいの、これで。」


 春は、それまで自分の乗せられたレールへの思うところを、親と話したことはなかったそうだ。もちろん、その逆もしかり。


 二人は長いこと、そこで言葉を交わし合っていた。


「頃、ちょっとちょっと」

「…なんだよ」

「いいからいいから、こっち」

「ちょ、押すなって!…ばか、怒られんぞ」

「大丈夫だって。冬、気づかないから」


 ──お姉ちゃんの……三月生まれ……もう一人…


「ぜんぜん聞こえない、このドアだめじゃん」

「逆だろ、良いんだよ」

「ようちゃん!聞いたらだめよ!」

「やば、ばれた!頃、逃げよ、冬怒らせたらやばいから!!」


 途中そんなまぬけなやりとりもありつつ、二人は無事、話を終えた。


 春も、春の母も。勘違いを重ねて、積み上げて。互いが互いのために動いていたということがそのときになってやっとわかり、わだかまりに見えていたそれは、ほんの数時間で愛情へと形を変えた。


 もしそうじゃなかったらどうするつもりだったんだよ…と私は母にこそっと耳打ちしたが、母は珍しく真剣な顔をして"冬が娘に同じことするわけないよ"と。そう遠い目をしていた。


 その瞳の色を見て、過去の二人の間になにがあったのか、私は聞かないでおくことにした──。



    *********



「ということで、いい?結婚させちゃっても」

「ようちゃん、結婚と式は別だってば……」

「同じようなもんでしょ」

「病気とか相続とか…いろいろあるの」

「でも愛してるってことは同じでしょ。だから私、冬と挙げたんだし」

「……もうっ…娘の前で…」

「照れてんの?変んないねぇー冬は」


 キッチンの奥から聞こえたその会話。私と春とは、パワーバランスがまるで逆な母たちのそれに、二人して勘弁してくれとなっていたところで、春の母はそれに気づいたのかリビングへと顔を出した。

「今度こそ、春ちゃんの好きなようにしてね。会社はどうにでもできるから…あ、あときょうちゃん?」

「?」

「ようちゃんみたいになったらだめよ?」

 いたずらに笑ったその顔は、春のそれによく似ていた。

 おっしゃるとおりと、私は深く頷いてそれに答える。それを見て春は隣で笑っていた。


「きょうちゃん」

「ん?」

「もしかして、人見知りしてる?」

「んん?んーん」

 そのとおり。私は春の母を目の前に、すっかり声も出なくなっていた。

 あのころだって頻繁に会っていたわけじゃない。数回、姿を見かけて会釈をしたくらいで、ちゃんと会話を交わしたのなんて、きっとインターフォン越しが最後。あれだって、会話と呼べるのか怪しいところだというのに。母のせいでなんの前触れもなくやってきたその存在に、もともと人見知りな私はさらに硬直してしまったのだ。

 それに春によく似た声でそう呼ばれると、なんだか不思議な気持ちになってもう言葉も出てはこなかった。

 私がそうなっていることに気づいた春はさすがと言わざる負えないし、その一文字で構成された返答が嘘だということもお見通しだったようで、隣でくすくすと肩を揺らしていた。

「ねえ」

「ん?」

「式、あげちゃおっか」

 お得意の上目遣いが、私を誘う。

「……まじ?」

「いやなの?」

 甘い声が、私を絆す。

「いやとかじゃ…」

 そして──。

「だめ?」

 とどめにとっておきのその言葉。

 これを食らって、私が勝てるわけはない。




「……だめじゃない」





 そう言って、今日の私たちがある。


 私と春のやりとりを見て"逆ね"と、母たちがキッチンで笑い合っていたのは、また別のお話。







 今度こそ、本当に本をたたんで。

 

 私と君の思い出ばなしは、ここでおしまい──。





──ep.10 あのころの花──

 


 ──健やかなる時も 病める時も

 ──喜びの時も 悲しみの時も

 ──富める時も 貧しい時も

 ──これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い

 ──その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか







「……………」







「…きょうちゃんっ、返事っ」







「あっ、あぁ、はい、誓います」








 真っ白なドレスに身を包んだ、私だけのつつじの花。




 誓いの言葉に詰まったことは許してほしい。

 私の時間を止めたのは、君なんだから。



 この日のために二人で選んだ指輪。

 その交換がおぼつかなかったことも。


 ベールアップの手が震えたことも、全部。




 白く澄んだ君が、あまりにきれいなせいだから。









「ねえ、きょうちゃん」


「ん?」
















「あの日のワンピースと、どっちが好き?」



















 耳もとで同じ花を揺らす君。


 その声の色も、瞳の温度も、まなざしの時間も。



 私は一生、忘れてやらない。



















 「──きょうの春。」


























「──好き…」










 

 初めてもらうその言葉。


 君からの口づけ。




 誓いのキスは、私からって言ったのに。



 そんなに抱きついたら、ドレス、しわになっちゃうよ。





 でも、わるい気なんてしない。








「春」






「うん?」







「…あいしてる」







「…もうっ、きょうちゃんすぐ先いっちゃう…」








 ──私も、あいしてる。










 また、あのころの花が咲いた──。











    *********











 どんなにたくさん集めても、想いは形に残らない。

 なんど繰り返しても、言葉は消えてしまう。



 だから私はいつのときも、その瞬間の君の手を離さないように固く結んで、けして色褪せない思い出を紡いでいきたい。




 今日という日を白く飾る君と、ともに季節を染めて──。












「きょうちゃん?なに見てるの?そろそろ着替えないと」

「…あぁ…なんか、自販機に春いるなって」

「ほんとだ。この前の麦茶の撮影って、これだったんだ」

「飲めないくせに…」

「いーの。で、なんでぼーっとしてたの?」

「………」

「そんなかわいい?これ」

「……ん…」



 













 私は今も、広告の中の君に恋をしている。















 そして──。










「きょうちゃん」

「ん?」

「帰り送って?」

「……え、チャリで?」

「ふふ、ウェディングドレスでも後ろ乗せてくれる?」

「……ん。」








 

 目の前の君にも、いつだって。














 この恋が、終わらない。───────

































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