第10話
出勤前の朝、駅へ向かう道。
並んで歩きながら、わざと余裕の笑みを浮かべ、コーヒー片手に軽口を叩く雪子。
「今日の会議、また詰められそうなの?」
「……ええ、たぶん。」
「強気な顔してれば案外ごまかせるものよ。頑張りなさい。」
いつもなら、雪子のそんな口調に、詩織は苦笑で返すだけだった。
けれど今朝は違った。
一晩中、雪子に抱き潰され、熱に溺れ、言葉さえ奪われてしまった夜の記憶がまだ身体の奥に残っている。
雪子の横顔を見つめながら、詩織は気づいてしまったのだ。
この人が、余裕を演じて支配を装っているのは——ただ自分を手放すのが怖いから。
ほんのわずかな間。
雪子の笑みの裏に覗く影を、詩織は見逃さなかった。
「雪子さん。」
「なに?」
「……私……離れませんから。」
一瞬、雪子の指がカップを持つ手で止まった。
すぐにまた余裕そうに肩をすくめ、からかうように笑う。
「急に告白?……朝から甘すぎよ」
けれど、その声はかすかに震えていた。
詩織は聞こえないふりをする。ただ、心の奥で確信していた。
雪子はまだ支配を演じ続けている。
でも、演じなければ崩れてしまうほど必死に自分を求めている。
その必死さを知ってしまったから、詩織の胸には以前にはなかった優しい確信が芽生えていた。
——この人は、もう二度と遊びになんて戻れない。
私が知ってしまった弱さごと、抱きしめてあげればいい。
駅のホームに電車が入ってくる。
雪子は軽やかに手を振り、「行ってらっしゃい」と微笑んだ。
その笑顔の奥に隠された必死さを知っているのは、もう詩織だけだった。
昼下がりのカフェ。
休みを合わせて待ち合わせた二人。テーブルの上には指が触れ合うかどうかのところに置かれたカップがある。
「ねえ、詩織。こっちばっかり見てないで、ちゃんと食べなさい」
雪子は笑みを浮かべながらも、声色はどこか命令めいている。けれどその笑みは以前より柔らかく、押しつけがましさよりも不安を隠すような温度を帯びていた。
詩織はスプーンを手に取りながら、視線を落とす。
雪子の表情は余裕を装っているけれど、その余裕の奥に微かに張りつめた気配がある。あの夜以来、詩織を手放すことを恐れているのだと、言葉にされずとも伝わってくる。
「……うん。雪子さんが言うなら、食べます」
わざと従順に応えると、雪子はほっとしたように目尻を和らげた。
微妙に変わった関係。
雪子の「支配」はまだそこにあるのに、それは檻ではなく、離れたくないがための鎖になっている。
土曜日の午後、駅前の小さなスーパー。
二人並んでカゴを持ちながら、惣菜売り場の前で足を止めた。
「ねえ、詩織。今日は揚げ物やめておきましょ。昨日も食べたでしょう?」
雪子はごく自然に詩織の手元のコロッケをカゴから取り上げて、棚に戻す。笑顔は柔らかいのに、その動作はあまりにも当たり前のようで、拒む余地を与えない。
「……はいはい。じゃあ代わりにサラダでも」
詩織は口を尖らせながらも、反発する気持ちは不思議と湧かなかった。
(雪子さんらしいな……でも前より少し、言い方が優しい)
店を出ると、雪子が当然のように詩織のトートバッグを肩からひょいと取った。
「重いから私が持つわ。あなたは手ぶらでいいの」
「え、でもそんなに入ってないですよ」
「いいの。詩織の手は、もっと別のことで使わせたいから」
さらりと言う雪子に、詩織は思わず頬を赤らめる。周囲には人がいるのに、支配めいた響きを持つ甘い言葉を平然と口にする。けれどその声色には、ふと影が差していた。
悟られまいと笑う雪子の横顔が、逆に切実さを滲ませる。
帰り道、二人は並んで歩きながら、詩織がわざと軽口を叩いた。
「もし私が、雪子さんに内緒でコロッケ買って食べたらどうします?」
雪子は一瞬、足を止めて詩織を見つめる。その視線は穏やかで、それでいて射抜くように深い。
「……知らないふりなんてしないわ。絶対に見つけて、叱ってあげる」
「叱るんですか?」
「ええ。だって、詩織は私のものだもの」
淡々とした調子なのに、その言葉は甘やかに響く。
詩織は小さく笑ってごまかしたが、胸の奥に広がった熱は隠せなかった。
金曜日の夕方。夏の夕立が過ぎ去ったあとの街に、まだ濡れたアスファルトの匂いがかすかに漂っていた。
仕事帰りの人々が雑踏をつくる駅前で、詩織は小さく背伸びをしながら人波を見渡す。
――いた。
街灯に照らされた横断歩道の向こう、雪子が待っていた。
いつもの落ち着いたパンツスーツ。軽くまとめられた髪からは、さりげなく香水の残り香が風に運ばれてくる。
「詩織」
穏やかに呼ばれる声は柔らかく、それでもどこか抗いがたい力を帯びている。
「お待たせしました」
詩織が早足で近づくと、雪子は口角を上げ差し出された手に触れる。人混みの中、二人の指がそっと絡む。
「今日は疲れてない?」
「うーん、ちょっと。書類に追われてました」
「えらいわね。……じゃあ、今夜は私に甘えなさい」
さらりと言われると、支配の名残を感じて胸が熱くなる。けれど、以前のように一方的に従わせる響きではなく、どこか「必要としている」気配が混じっていた。
歩き出すと、濡れた石畳をヒールの音が響く。並んで歩きながら、雪子はいつも通り余裕をまとっている。
だが、詩織は気づいていた――その手の握り方が、ほんの少し強いことに。
「ねえ、雪子さん」
「なに?」
「……私がどこにも行かないって、信じてますか?」
立ち止まった雪子が、一瞬だけ表情を曇らせる。すぐに微笑みで覆い隠し、指先をすべらせるように詩織の手を包み直した。
「信じてるわよ。……でも、詩織は繋いでほしいんでしょ?」
そう呟く声は、冗談めかしているようで、切実さがにじんでいる。
その響きに、詩織の胸が締めつけられる。支配に縛られているのではなく、必死に自分を繋ぎとめようとしている人が、ここにいる。
詩織はそっと雪子の腕に寄り添った。
街の灯がにじみ、ざわめきの中で二人だけが小さな秘密を分け合うように歩き出す。
――ほんのわずかに、関係は変わっている。
それを互いに気づきながら、まだ言葉にはしないまま。
土曜日の午前、待ち合わせの駅前。
詩織は少し早めに着いて、周囲を見回していた。平日のビジネス街とは違って、のんびりとした空気が流れている。
ふと人混みの向こうに雪子の姿を見つけ、詩織の呼吸が小さく止まる。
白のブラウスに淡いブルーデニム、揺れるイヤリング。髪は軽く巻かれ、いつものきりっとした雰囲気よりも柔らかい。
「……綺麗」
思わず漏らした独り言を、雪子に聞かれたらしい。近づいてきた彼女が口元を緩める。
「聞こえてるわ。そんな風に言われたら、調子に乗るわよ」
「だって、本当にそう思ったんです」
並んで歩き出すと、詩織は自然と雪子の腕にそっと触れた。最初は軽く指先で布をつまむ程度だったが、雪子が何も言わず微笑むので、やがて腕を組んだ。
「甘えん坊ね」
「……休日くらい、いいでしょう?」
「いいわよ。もっと甘えて」
映画館では、ポップコーンを分け合いながら並んでスクリーンを見つめた。暗闇の中、雪子の指がさりげなく詩織の手に触れる。心臓が跳ねても、振り払う気持ちはなくて――むしろその温度が愛しく感じられる。
映画の余韻を抱えたまま訪れたカフェでは、窓辺の席に座った。
雪子が先に頼んだケーキを一口食べると、詩織が興味津々に覗き込む。
「それ、美味しそう」
「味見してみる?」
「……いいんですか」
雪子はフォークに小さく切り分けて、迷いなく詩織の口元に差し出した。
周囲に人がいるのを意識しながらも、詩織は赤くなりながら口を開ける。
「ん……美味しいです」
「そう? じゃあ、あなたのも少し」
「えっ……」
詩織が慌てて自分の皿のケーキを切り分けて渡すと、雪子は嬉しそうに頬を緩め、ひと口食べる。
「……優しい味。あなたらしいわね」
「からかわないでください」
「からかってなんかないわよ」
テーブルの下では、そっと指先が絡み合っていた。
夕暮れ時、川沿いの道を歩きながら、二人の影は寄り添うように長く伸びていく。
川面に映る夕日を眺めながら、雪子が小さく囁いた。
「詩織といると、時間がゆっくり流れる気がするわ」
「……私もです。だからもっと、こういう日を増やしたいです」
「そうね。次は一泊で、どこか遠くへ行きましょうか」
「ほんとに……?」
「ええ。二人きりの時間、たくさん欲しいもの」
雪子が歩きながら詩織の頭を撫でる。
その仕草がくすぐったくて、でも嬉しくて、詩織は照れ隠しのように雪子の腕にぎゅっと抱きついた。
川沿いを渡る風の中、ふたりの笑い声が柔らかく溶けていった。
日中は街を歩き、映画を観て、肩を並べて笑い合ったふたりは、詩織の部屋に戻る頃には、外の喧噪とは切り離された世界に閉じこもっていた。
玄関のドアが閉まると同時に、雪子は詩織の手を逃がさず、指を絡めたまま壁際に追い込む。
その仕草はいつもの支配の延長に見えたが、瞳の奥にはこれまでになかった柔らかさが宿っている。
「……楽しかったわね、今日」
囁きは唇が触れるほど近くで落とされ、熱を帯びていた。
詩織は微笑みながらも、雪子の腕に絡め取られて逃げ場をなくしていく。けれどその圧は、以前のような威圧ではなかった。強く抱きしめられながらも、どこか甘い鎖のように心地よく感じられる。
「雪子さん、そんなに急がなくても……」
「だって、詩織に触れたくて仕方ないの。昼間から、ずっと」
吐息混じりに告げる声に、詩織の胸が跳ねた。
雪子の欲はあいかわらず貪欲で、詩織を一晩中抱き潰すほどだと知っている。それでも今夜は、指先のなぞり方ひとつにも、愛おしさが溶けている。
ソファに押し倒され、詩織は抗うことなく雪子を受け入れる。熱を重ねるたびに、彼女の支配が甘く絡みつく。
「……逃げないで。詩織は、ずっと私のものだから」
耳元に囁かれた言葉は、かつてなら威圧として響いた。だが今は違う。
雪子が必死に自分を繋ぎとめようとしていることを知っているから、その強さの裏に隠された不安や愛情まで感じ取れてしまう。
詩織は細い指で雪子の頬をなぞり、かすかに笑った。
「逃げませんよ。……雪子さんが、どうしてもって言うなら」
挑発めいた顔。
雪子は目を細め、余裕の笑みを崩さずに詩織の腰を引き寄せた。
「強がり。——でも、言葉で煽るなら、身体で覚えさせないとね」
ブラウスの縁をなぞる指は、命令よりもやさしく、しかし抗いを許さない確かさで留め具を外していく。
露わになった肌へ呼気が触れるたび、詩織の呼吸が不規則に跳ねた。
「……雪子さんが、そんなに必死なの、ちょっと可愛いです」
低く笑う詩織の一言に、雪子の喉がかすかに鳴る。
すぐに平静をまとい直すが、指先の圧はわずかに強くなる。手首をシーツへ預けさせ、逃げ道を塞ぐ。
「可愛いのは、あなた。ほら、考えるのやめて。私だけ見て」
耳朶をくすぐる湿った囁き、数拍置いてからのキス。
焦らすように、でも突き放さない距離で、雪子は節度ギリギリの甘やかしを重ねていく。
詩織は素直に従いながら、時折、視線だけで雪子を挑発する。
潤んだ瞳で「もっと欲しい」と訴えるように見上げ、掠れた声で名を呼ぶ。
「……雪子さん。今夜の私、ちゃんと躾けてください」
その熱が、雪子の余裕にそっと火を点ける。
口角を上げたまま、彼女は支配の手つきを一段深くし、しかし触れ方はどこまでも丁寧だ。
引き寄せ、与え、奪って、また返す——支配の律動に、詩織の身体は正直に震える。
「いい子。……詩織は、私のもの」
甘い独占の言葉が落ちるたび、詩織の背が弓なりにほどける。
快楽に呑まれながらも、彼女は雪子の耳元でこっそり火種を投げる。
「——じゃあ、ちゃんと独り占めして。私を離さないで」
一瞬だけ、雪子の呼吸が熱く乱れる。
すぐに整えた微笑の下で、指の温度だけが正直に上がっていた。
余裕を装いながらも、詩織の微細な反応に追い詰められていく——その危うさを悟らせないよう、雪子はさらに甘く、深く、縛る。
「約束。……離さない」
支配と従属が、蜜のように絡み合って重なっていく。
詩織は従い、そして小さく煽り、雪子は余裕の仮面のまま甘く圧を強める。
二人だけの律動が部屋の温度を上げ、夜は静かに、しかし確実に深くなっていった。
カーテンの隙間から射す朝の光に、二人の影が柔らかく伸びていた。
テーブルの上には湯気を立てるスープと、焼きたてのトースト。
雪子はカップを両手で包み込み、向かいに座る詩織をゆるやかに見つめる。
「……ねえ、眠れた? 昨日のあなたの顔、かわいすぎて……つい、ね」
「……眠れましたよ」
そう答えながらも、詩織の声はほんのわずかに震えている。頬の赤みは隠しきれず、スプーンを持つ指先にも力が入っていた。
「そんな顔してると……また意地悪したくなるわね」
声はいつもの柔らかさを保ちながらも、どこか含みを持っている。
「……もう十分されました」
詩織はわざと視線を落とし、コーヒーカップに口をつけた。けれどその声音には、嫌悪ではなく甘やかな抗議の色が混じっている。
雪子は少し身を乗り出し、囁くように言った。
「でも、あなたが私を挑発するからよ。……わかってるでしょう?」
詩織は視線を逸らしながら、赤い顔で言う。
「……雪子さんに振り回されてるだけです。でも……それが嫌じゃないのが困ります」
その言葉に、雪子の胸の奥が甘く揺れた。ふっと微笑み、彼女は詩織の皿にトーストをひとかけら乗せる。
「困ってるなら、もっと困らせてあげようかしら」
「……もう充分です」
口ではそう言いながら、詩織の瞳は雪子から離れない。
その奥にある自覚――自分は確かに支配されている。でも同時に、雪子を夢中にさせているのだという確信。
――支配と従属の境目に生まれた、新しい甘さ。
朝の食卓には、その微妙な空気がやさしく漂っていた。
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