第11話

夜の街に灯るネオンの明かりを横目に、雪子と詩織は予約していた小さなイタリアンに入った。

オープンキッチンのカウンター越しに漂うオリーブの香りと、グラスの赤ワインが揺れる。


「やっぱり温泉もいいけど……海も見たいんです」

フォークをくるくる回しながら、詩織が少しはにかんで雪子を見る。


「じゃあ、伊豆あたり? 海辺でのんびりして、夜は私が温泉で隣に……」

雪子はわざと声を落とし、挑発するように笑った。


「……雪子さん、食事中にそういうこと言わないでください」

詩織は耳を赤らめ、慌ててグラスを口に運ぶ。

そんな彼女を見て、雪子は楽しげに目を細めた。


――ちょうどその時。

店の扉が開き、背の高いスーツ姿の男性が入ってきた。

一瞬の沈黙ののち、詩織の肩が小さく跳ねる。


「……詩織?」


低い声に、雪子の笑みがすっと消えた。

振り返ると、男が驚いたように立ち尽くしている。

詩織は硬い表情で、ぎこちなく口を開いた。


「……久しぶり、ですね」


男の視線が詩織に注がれるのを、雪子は無言で受け止める。

すぐに詩織の手を取って、テーブルの下で指を絡めた。

その仕草に、男の眉がわずかに動く。


「まさか……ここで会うなんて」

男の声には動揺と未練の色がにじんでいた。


雪子はゆっくりと微笑んだ。

けれどその笑みは、どこか獲物を見据える猫のように冷ややかだった。

「――詩織は、今は私と一緒なんです」


詩織は雪子の手を強く握り返す。

その指先の震えを感じながら、雪子は視線を男から逸らさず、穏やかな声で続けた。


「私たち、旅行の計画を立ててるところなんです。……ね、詩織?」


詩織はうなずき、少し強張った笑顔を浮かべた。

「はい……そうなんです」


空気が一瞬、張りつめる。

赤ワインの香りも、皿の上の料理も、味をなくすほどに。


雪子の親指が、詩織の手の甲を優しく撫でた。

「……邪魔、しないでくださいね」

その言葉は柔らかいのに、どこか鋭く突き刺さるようだった。


男は何かを言いかけて、結局黙って視線を外した。そのまま男の連れであろう四人組の席に向かう。


二人のテーブルには、再び赤いグラスの光が戻る。

けれどその内側には、甘さと同じくらいの強い独占欲が、確かに燃えていた。



 赤ワインの残り香がまだ喉の奥に熱を残している。

 イタリアンの扉を出た瞬間から、詩織は心臓の鼓動が収まらずにいた。


 ――臼井貴明。

 かつての恋人。ロンドンへの転勤がきっかけになって、三年前に別れた相手。

 まさかこんな場所で再会するとは思わなかった。


 雪子は何も言わず、ただ彼女の手を強く握りしめて歩く。

 その掌の熱が頼もしくもあり、同時に逃れられない鎖のようにも感じられた。


「……大丈夫?」

 夜風に揺れる髪の向こうから、雪子の声が降りてくる。

 柔らかく、それでいて底に冷たい緊張を秘めた声音。


「はい……でも、びっくりしました。まさか貴明さんに……」

 名前を出した途端、雪子の指先がわずかに力を増す。


「――呼び方、変えたほうがいいわね」

 雪子の横顔には笑みがあったが、その奥に射抜くような光が宿っていた。


 詩織はその声音でわかってしまった。

 あの男が過去に詩織と深い関係にあったと、雪子が気づいていることに。


 詩織は胸の奥に、淡い痛みを覚える。

 雪子の嫉妬はいつも静かで、けれど鋭い。

 それがどれだけ自分を欲している証なのか、理解してしまうからこそ、言葉に詰まる。


 彼女の歩調は乱れない。まるで全てを掌握しているかのように。

 しかし詩織には、その背中に潜む不安を感じ取ることができた。

 ――自分が再び、過去の男に引き戻されるのではないかという恐れを。


 街のネオンが遠ざかるにつれ、二人の沈黙だけが濃くなっていった。

 その夜が、やがて大きな波乱の幕開けとなることを、詩織はまだ知らない。



 翌日の仕事帰り、駅の改札を抜けた瞬間だった。

 スマートフォンが震え、画面に表示された名前を見て、詩織は足を止めた。


 ――臼井貴明。


 胸の奥で、昨日の光景がよみがえる。

 あの赤ワインの色、雪子さんの強く握った手、そして彼の驚いたような眼差し。

 指先が冷えたように震え、通知を消そうとしたが、結局そのまま開いてしまった。


> 「昨日は突然ごめん。どうしても話したいことがある。少しだけ時間をくれないか」



 短い文面。だが、その裏に込められた未練が透けて見えるようだった。

 喉の奥が苦くなる。


(どうしよう……)


 雪子の顔が浮かぶ。

 嫉妬深くて、でも誰よりも優しい彼女。

 このメッセージを見せればきっと、またあの鋭い光を宿した瞳になる。

 そう思うと怖くて、ポケットにそっとスマホを押し込んだ。


 足早に家路を急ぐ。

 胸の奥では、わずかな罪悪感と、言えない秘密を抱えた重みがじんじんと広がっていく。


「……雪子さんには、言えない」


 小さく呟いた声は、夜の喧噪に溶けて消えた。

 しかしその選択が、後に大きな嵐を呼ぶことを、詩織はまだ知らなかった。



 金曜の夜。

 週末はどちらかの部屋で一緒に過ごす――それがもう自然になっていた。

 この日は雪子の部屋。駅を降りて歩きながら、詩織は胸の奥のざわめきを必死に押し隠そうとしていた。


(落ち着いて、普通にすればいいの。昨日のことは……なかったみたいに)


 そう自分に言い聞かせても、ポケットの中のスマホが重たく感じられる。

 臼井さんからのメッセージは既読のまま放置してある。あれ以上応えるつもりはない。だけど――雪子には言えなかった。


 玄関のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開く。

 休日前の夜らしい、少しくだけた笑顔の雪子が立っていた。


「詩織、来たわね。お疲れさま」

「はい……ただいま」


 靴を脱ぐと、ふわりと漂ってくる香り。テーブルにはもう二人分の料理が並んでいて、ワインのグラスまで用意されていた。

 詩織は胸がぎゅっとなる。こんなふうに迎えてくれる人を、裏切るような気持ちを抱えているなんて。


「どうしたの? ちょっと顔色悪いわ」

 雪子が私の頬を覗き込む。

「え、そうですか……仕事で少し疲れただけで」

「……ふうん」


 雪子の目が、ほんの一瞬だけ鋭さを帯びた気がした。けれど次の瞬間には柔らかな笑みに戻っていた。


 食事をしながら、旅行の話をする。

 温泉に行きたいとか、海が見える宿もいいねとか、いつも通りのやり取りなのに、詩織は笑顔が少し引きつってしまう。


(雪子さん……気づいてる?)


 ふと目が合った時、胸の奥がちりちりと痛んだ。

 彼女は何も言わない。けれど、言葉にしない勘の鋭さを私は知っている。


 ワインのグラスを持つ手に、知らず力が入った。

 秘密を抱えたまま笑うことの苦しさに、少しずつ飲み込まれていくのを感じながら。



 夜も更けて、雪子の部屋の明かりが柔らかに灯っていた。

 テーブルの食器は片付けられ、ワインの残りがゆるやかにグラスに揺れている。


 詩織はカーペットに腰を下ろして、湯気の立つカモミールティーを口に含んだ。ほんのり甘くて落ち着くはずの香りなのに、胸のざわめきは収まらなかった。


「……今日、やけにスマホ見てたわね」

 雪子がソファからこちらを見下ろすように声をかける。

 何気ない口調――けれど、それが探りの始まりだと直感した。


「え……そうでしたか? 仕事のメールが来てただけで……」

 笑顔を作りながら答える。でも、自分でも声がわずかに上ずっているのが分かった。


 雪子は紅を含んだ唇を細くゆるめ、視線を逸らさずに言う。

「ふうん。……仕事、ね」


 静かな声。疑いをはっきりとは口にしない。だけど、その沈黙の重さが、詩織の心を締めつけてくる。


 ポケットにしまったスマホが、急に鉄の塊のように重たく感じられた。

 臼井からのメッセージ。既読のまま、返していない。たった、それだけ――けれど、それだけで罪悪感が胸の奥をひりつかせる。


「雪子さん……」

 呼ぶと、彼女の視線が少しやわらぐ。その瞳の奥に、どうしようもない不安が潜んでいるのが見えた。

 ――彼女は私を信じたいのに、信じきれずにいる。


「詩織はね、少し顔に出すタイプよ」

「……そうなんですか」

「ええ。だから……私に隠し事しないでほしいの」


 その言葉は優しい。けれど、その奥に鋭い刃のような執着が光っていた。

 もし臼井から連絡があった事を告げれば、この穏やかな空気は一瞬で崩れるだろう――そんな予感が胸を刺す。


 だから詩織はただ、雪子の隣に寄り添い、そっと頭を肩に預けた。

 雪子の指先が髪を撫でる。その仕草が甘くて、同時に絡みつく鎖のように重たい。


「……私は、雪子さんのものですよ」

 自分でも驚くくらい、弱い声がこぼれた。

 それを聞いた雪子は、抱き寄せる腕にさらに力をこめる。


「……忘れないでね」


 囁きは甘く、それでいて必死だった。

 詩織は目を閉じた。隠し事の影を胸に抱えたまま、その必死さを受け入れるしかなかった。



次の金曜日の夜。

残業を終え、そのまま雪子の家に向かう途中だった。


ふと背後から名を呼ばれて、振り返ると——臼井が立っていた。

以前と変わらない眼差しで、けれどどこか切実さを滲ませて。


「……臼井さん」

思わず声が硬くなる。


「急にごめん。どうしても、話したくて」

息を弾ませながら、臼井はほんの一歩、近づいてきた。


「少しだけ、時間くれないか?」


詩織は立ち止まったまま、周囲をさりげなく見回す。

雪子の目があるわけじゃないとわかっていても、無意識にそうしてしまう。


「ごめんなさい。人を待たせてるので」

詩織はあえて冷たく、その場を立ち去ろうとした。

臼井が慌てて詩織の前に立つ。


「待ってくれ。……別れてから、ずっと後悔してる。詩織のこと……まだ忘れられないんだ」

心臓がきゅっと締めつけられる。

もう終わった関係だとわかっているのに、かつて本気で好きだった人にそう告げられれば、どこかで心がざわつく。


けれど今は……

頭に浮かぶのは、週末に雪子の部屋で過ごす穏やかな時間。

ふいに見せる愛おしげな瞳。

そして、誰よりも強く自分を求めてくる熱。


——あの人の手を裏切ることは、絶対にできない。


「……ごめんなさい。私にはもう、恋人がいます」

声を震わせぬよう、唇を結びながら言う。


臼井の表情に、わかりやすい影が落ちた。

その痛みに心が少しだけ疼くけれど、決して振り返ってはいけないと思う。


「その人って……」

問いかけかけた臼井の言葉を、詩織は遮った。


「言えません。でも、戻るつもりはありません。だから……もう会わないでください」


臼井は苦しげに笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。

けれどその背中が遠ざかっていくのを見て、詩織は安堵よりも先に、雪子の顔を思い浮かべる。


——雪子さんは、きっと気づく。

詩織の揺らぎも、隠しきれない痕跡も。


あの人は甘さと同じくらい、疑い深いから。


だからこそ、余計に胸が締めつけられる。

雪子に知られたくない。けれど、すべてを話さずにいられるほど、自分は器用じゃない。


 雪子の最寄駅の改札を抜ける、臼井の言葉がまだ耳の奥にこびりついていた。

「やっぱり別れたの、後悔してるんだ」

 その真剣な声色が、妙に胸をざわつかせる。

 後悔しているのはあっちの方だ。詩織はもう、前に進んでいる。それでも、かつての恋人が未練を隠さずぶつけてきた事実は、心に小さな棘を残した。


 歩きながら、どうしても考えてしまう。もし雪子に今日のことを話したら、どうなるだろう。

 雪子はきっと、笑って誤魔化すなんて許さない。あの人の瞳は、表面の柔らかさの奥に、相手を逃さない強さを潜ませている。


夜風が冷たくて、少し涙が滲む。

その涙は臼井に対するものじゃない。

雪子にどう思われるか——その不安のせいだった。


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