第8話

昼休みのオフィス。

詩織はお弁当を広げていたが、同期の奈央が勢いよく椅子を寄せてきた。


「ねえ、詩織。彼氏、まだいないんでしょ?」


唐突な問いに箸が止まる。詩織は少し笑ってごまかそうとした。

「……うん、まあ。今は仕事が忙しくて」


奈央は待ってましたとばかりに身を乗り出す。

「やっぱり! ちょうど知り合いの医者の友達でね、いい人がいるの。真面目だし、見た目も悪くないし。どう?」


詩織の胸の奥に、鋭い棘が刺さる。

雪子の笑顔が脳裏をかすめ、言葉にできない温度が喉にせり上がった。


「……ごめん、そういうのはちょっと」


「えー、なんで? せっかくのチャンスだよ? このまま一人でいるつもり?」

奈央は本気で心配しているようで、悪意がないぶん逃げ場がない。


詩織は目を伏せた。

恋人がいるなんて言えるはずがない。しかも、その恋人が女性だなんて。

「大丈夫だから……」と繰り返す声は頼りなく、奈央の勢いに押し負けていく。


「もう決まり! 来週の金曜ね。駅前のダイニング予約するから!」

弾む声に、詩織の心はどんどん沈んでいく。


雪子がこのことを知ったらどう思うだろう。

彼女の独占欲と嫉妬を思うと、胸がざわついた。

「合コン」なんて言葉そのものが、雪子の黒髪の下に潜む熱を呼び覚ますのがわかる。


自分はどうすればいいのだろう。

雪子を傷つけたくない。けれど、奈央に必死で断り続ければ余計に怪しまれるかもしれない。


詩織は俯きながら、無意識に自分の指先を強く握りしめた。

その姿は、まだ誰にも見せられない愛を抱えた少女のように、危うく切実だった。




金曜日。

いつもなら雪子のマンションで夕飯を一緒に食べるか、外で軽く飲んでからホテルに流れ込むのが、二人の暗黙の習慣になっていた。


「詩織、今日はどうする? 新しく見つけたワインバーがあって、連れていきたいんだけど」

電話越しに柔らかな声で誘う雪子。だが、その響きの奥には“当然来るでしょ”という甘く強い支配の色が潜んでいた。


詩織は一瞬、息を詰まらせる。

「えっと……今日は、ちょっと予定があって……」

答えた瞬間、自分でもわかるくらい声が不自然に震えていた。


「予定?」雪子の声が低くなる。「ふうん。珍しいわね、金曜に私以外の予定なんて」


その言い回しに、詩織の心臓が跳ねる。

「た、ただの……同期とご飯です」

曖昧に笑って誤魔化すが、雪子はすぐに食い込んできた。


「同期“たち”でしょ? あなたの声、誤魔化すとき少し高くなるの、わかってるから」

言葉は優しいのに、否応なく詩織を追い詰めてくる。


「……」

詩織は沈黙で答えてしまう。


雪子はゆっくりと吐息を漏らし、わざと間を空けてから囁いた。

「合コン、でも行くのかしら?」


一瞬で、背筋が凍りつく。詩織の口からは否定の言葉が出てこなかった。

雪子は小さく笑う。その笑みは甘やかで、けれど支配的な色を帯びていた。


「私に隠し事なんてできないのよ、詩織。……可愛いけど、悪い子ね」


電話口の向こうで、雪子が愉しんでいる気配が伝わってくる。

詩織は必死に言葉を探しながら、胸の奥で自分がもう雪子の手のひらから逃れられないことを痛感していた。




夜。

居酒屋の個室に通された瞬間、詩織の心はすでに落ち着きを失っていた。


明るいライト、賑やかな笑い声、ビールの泡。

テーブルに並ぶ料理を前に、隣に座る同僚たちが楽しげに話を盛り上げる。目の前には初対面の男性たち。

……なのに、詩織の耳にはほとんど言葉が届かない。


「詩織ちゃん、趣味は?」と聞かれて、咄嗟に口を開く。

けれど答えながら頭の中を支配するのは、雪子の声だった。


『私に隠し事なんてできないのよ。可愛いけど、悪い子ね』


その囁きが、何度も耳の奥で繰り返される。

笑顔を作りながらも、背筋に冷たい汗が伝う。


……どうして来てしまったんだろう。

断ればよかったのに。

でも「同僚みんなで行くから」と言われて、曖昧に頷いてしまった。

軽い気持ちのはずだったのに、雪子に悟られた瞬間から、もう後戻りできない罪を犯している気がしてならない。


「飲める? ビール追加しようか?」

男性のひとりが気軽に声をかけてくる。

その笑顔に、詩織は作り笑いで「はい」と返す。

けれどグラスを手にした指は震えていた。


――雪子がもし、今この場に現れたら。

自分はきっと、逃げ場なんてなくなる。

そう思うだけで、喉がひどく乾いた。



合コンがお開きになったあと、帰る流れを作ろうとしていた詩織は、隣にいた男から声をかけられた。


「もうちょっと飲まない? 近くにいいバー知ってるんだ」


断りたいのに、場を壊す勇気が出ない。首を振る代わりに微笑み、足を向けてしまう自分に、小さく舌打ちしたくなる。軽い気持ちのはずだったのに、歩くごとに心臓は速く跳ね、後ろめたさのような感覚が胸を掻きむしった。


バーは薄暗く、深い色の照明が落ちている。

男が注文を済ませ、自然と距離を詰めてくる。詩織はグラスを強く握りしめ、笑顔を形だけ保ちながら心の奥では「早く帰らなくちゃ」と何度も繰り返していた。


――そのとき。入口のベルが鳴った。


振り向いた瞬間、息が止まった。雪子だった。

そしてその隣には、長い髪を揺らす見知らぬ女性。肩を寄せ合い、笑い合う姿はあまりにも自然で、まるで何年も前からの恋人同士のようにさえ見えた。


一瞬だけ視線がぶつかる。鋭い光を宿した雪子の瞳が詩織を射抜いた。だが次の瞬間、何事もなかったかのように視線をそらし、女性の腰を軽く抱いて奥の席へ向かっていった。


その余裕ある仕草に、血の気が引いていく。

――見ている。わざと見せている。

そう理解した途端、全身が強ばった。


男の声はもう耳に入らない。グラスから滴った水滴が手の甲に触れたとき、ようやく「ごめんなさい、もう帰ります」と震える声を絞り出し、席を立った。引き留める声も振り返らず、店を飛び出す。


夜風が頬を刺した。冷たさでようやく呼吸を取り戻したものの、胸の奥は灼けついたままだった。

――どうして。どうして、あんなふうに。


雪子の支配的な愛情を、これまで歪んでいても「私だけが選ばれている証」だと信じてきた。命じられることも、束縛されることも、愛の形なのだと受け入れてきた。

けれど、他の女と並ぶ姿を見てしまった今、その支配はただ自分を翻弄しているだけなのかもしれない――そんな疑念が喉を塞ぐ。


もし、あの女性について雪子に問いただせれば。

でも、できない。怖くて聞けない。問いかけた瞬間、あの冷たい瞳で「何を勘違いしてるの」と切り捨てられる未来が容易に想像できるから。


自分の弱さが、不安をさらに膨らませていく。

雪子を信じたい。信じなければ壊れてしまう。

それでも、胸に渦巻く苦しさは消えなかった。


その夜、雪子からメッセージが届いた。

短い言葉と、絵文字ひとつ。

普段なら嬉しくてすぐに返すのに、指先は震え、画面の上で固まったまま動けない。


返せばまた絡めとられる。返さなければ嫌われる。

どちらを選んでも待っているのは苦しさだけ。


「……どうしたらいいの」


答えの出ない問いを抱えたまま、詩織は灯りもつけずにカーテンを閉め切った。夜の街のざわめきがまだ耳の奥に残っている。

胸の中は、焦燥と怒りと、言葉にならない孤独でいっぱいだった。


雪子が他の女と親密そうに寄り添う姿――あれがただの遊びだと分かっていても、心臓はひどく痛んだ。

「……私、ただ翻弄されてただけなの?」

唇がかすかに震える。雪子の支配を「愛情」だと信じてきた。従うことで安心を得てきた。けれど、それは雪子にとっては退屈しのぎのひとつにすぎないのかもしれない。


スマートフォンが震える。雪子の名前が光る。

普段ならすぐに応えるのに……。

指先が拒絶するように画面を伏せた。


「……もう、嫌だ」

涙混じりの声がこぼれる。彼女に従うだけでは、自分が消えてしまう。

怖い。だけど、信じたい気持ちにすがってまた支配されるのは、もっと怖い。


メッセージアプリを開きかけては閉じる。やがて通知を切った。

その夜、詩織は雪子からの呼び声に背を向けるように、毛布を深く被った。

自分の意思を貫くことは、雪子を失うことにつながるかもしれない。

それでも――心を壊すよりはましだと、詩織はかすかに思った。



次の日も詩織はスマホを握りしめたまま、ただベッドにうずくまっていた。

通知が震えるたびに心臓が跳ねるのに、画面を見れば「雪子」の名前が並んでいることに気づくのが怖かった。


――愛されていると思っていた。

でも、昨日の夜の合コンのあと、バーで見た光景が脳裏に焼きついて離れない。

雪子が誰か知らない女と、何事もなかったように笑い合っていた姿。

まるで自分に注ぐ熱を、簡単に他の誰かに向けられるかのように見えて。


「……じゃあ、あれは全部……?」


唇を噛む。

自分はただ翻弄されていただけなのか。

従順に雪子に従えば従うほど、安心どころか不安にかられていたのではないか。


目から、気づかぬうちに涙がこぼれていた。

止め方がわからない。ただ胸が苦しくて、喉の奥が熱くて、息が詰まる。


震えるスマホを強く握り、通話を拒否する。

もう、雪子の声を聞くのが怖い。

聞いた瞬間、きっとまた、すべてを許してしまいそうだから。


そのとき。


――ピンポーン。


インターフォンの音が部屋に響いた。

息が止まる。

恐る恐る玄関のモニターをのぞけば、そこには見慣れた姿が映っていた。


「……雪子さん……」


画面越しに、彼女は笑ってもいなければ怒ってもいなかった。

ただ、真っ直ぐにドアの向こうから見つめてくる。


心臓が耳の奥でうるさく鳴り響く。

逃げ場は、もうなかった。



インターフォン越しの沈黙に、詩織は呼吸を忘れていた。

逃げたいのに、足がすくんで動けない。


次の瞬間、ドアを叩く低い音が響いた。


「……詩織。開けて」


雪子の声。

冷静なのに、拒めば拒むほど逃げ道を塞がれていくような響き。

詩織は両手で耳をふさいだ。けれど、その声は耳の奥どころか胸の奥にまで届いてしまう。


「……いや……来ないで……」


涙声でつぶやいても、外には届かない。

代わりに、再びノックが強く打ちつけられた。


「無視してもいい。でもね、詩織……私からは逃げられないの、わかってるでしょ?」


その一言で、全身が震えた。

……そうだ。わかっている。

どんなに突き放しても、最後には雪子に縛られてしまう。

悔しいのに、怖いのに、同時にその言葉に安堵している自分がいる。


インターフォン越しに雪子の影が動いた。

「ここで泣いてるだけでいいの? ねえ……私が迎えに来たのに」


涙が頬を伝う。

もう限界だった。

詩織は震える手でドアノブに触れ、ほんの少しだけ鍵を回してしまう。


扉がわずかに開いた瞬間、雪子の視線が流れ込んできた。

その目は、逃げ場を与えない捕食者のようで……でもどこか、確信に満ちて優しい。


「ほら……やっぱり開けてくれる」


雪子はドアを押し広げ、詩織の腕を強く引き寄せた。

抗う間もなく抱きしめられ、その胸に閉じ込められる。


「泣きながら拒むなんて、詩織らしくない。ねえ、素直に言って……私に会いたくなかった?」


耳元でささやかれ、力が抜けていく。

必死に反発しようとする心と、雪子に支配される心地よさのあいだで、詩織はどうしようもなく揺れていた。




雪子を部屋に入れてしまった瞬間、詩織はもう自分の負けを悟っていた。

「……どうぞ」

その声は拗ねたように弱く、それでも拒みきれない響きを帯びていた。


雪子はゆるやかに微笑み、ヒールの音を軽く響かせながら上がり込む。

「ねえ、詩織。泣いてたでしょう?」

「……泣いてないです」

詩織はそっぽを向いて反発するが、その肩を雪子が抱き寄せれば、震えがすぐに伝わってしまう。


「嫉妬してるのね」

「……あの人、誰なんですか」

「ただの知り合いよ。向こうから話しかけられただけで、私は何もしてない」

雪子はさらりと答え、詩織の髪を撫でる。受け流すような仕草なのに、そこに優しさが滲んでいて、胸の奥の嵐が少しずつ鎮まっていく。

「ほんとに……?」

「ほんとよ。私が触れるのは、詩織だけ」

その言葉に縋るように、詩織は小さく頷いた。


その時だった。

机の上のスマートフォンが震え、甲高い着信音が部屋に響く。

画面に表示された名前を見て、詩織は息を呑んだ。……合コンで出会った男。


「……っ」

慌てて手を伸ばす詩織より早く、雪子がスマートフォンを掴み取った。

「誰から?」

声は甘やかに低いのに、背筋が凍るほど冷たい。

「……な、なんでもないです。ただ、かけてきただけで……すぐ切りますから」

「詩織」

名前を呼ばれた瞬間、抗えない力で心を握られる。


着信音がまだ鳴り続ける中、雪子はスマートフォンを指先で弄びながら、耳元へ顔を寄せる。

「……ねえ。私のものなのに、他の人からの電話に出るつもり?」

「ち、違うんです……!」

「じゃあ、どうするの?」

雪子の唇が耳をかすめる。電話の音がなおも続き、二人の間の空気を震わせる。


着信音が執拗に鳴り続ける。

雪子はスマートフォンをひらりと詩織の目の前に掲げ、静かな声で囁いた。

「……出なさい」


「え……」

詩織の胸がぎゅっと縮む。雪子の前で、他の男の声を聞かせるなんて。恐ろしくて、でも逆らえない。


「怖がらなくていいわ。……ちゃんと、私に聞かせて?」

雪子の瞳が、優しげに細められる。けれどその奥には、退路を塞ぐような光が潜んでいた。


詩織は震える指で通話を繋いだ。

「……もしもし」

声が上ずり、喉が乾く。耳に届いたのは、気安く呼びかける男の声だった。


『あ、詩織ちゃん?昨日の合コン、楽しかったよね。ちゃんと帰れた?また今度ご飯でも――』


「……あの、ごめんなさい」

詩織は必死に言葉を探す。背中に雪子の視線が突き刺さる。

「もう……そういうのは行かないので……」


『え、なんで?せっかく仲良くなれそうだったのに』


「……私、大事な人がいるんです。だから……もう連絡しないでください」

心臓が痛いほど打ち、指先まで冷たくなる。言い切った瞬間、雪子の手が肩に添えられた。細い指が、逃げ道を与えぬように肌をなぞる。


『……そうなんだ。そっか……分かったよ』

名残惜しげな声が切れ、通話が終わる。


――静寂。

詩織は深く息を吐き、手の中のスマートフォンを強く握りしめた。震えが止まらない。


雪子はゆっくりとそれを奪い取り、机に置くと、詩織の顎を掬い上げた。

「……えらい子ね」

その囁きに胸が熱くなるのに、同時に強い緊張が走る。


「……でもね、詩織。今みたいに誘われる事、またあるかもしれない」

唇が近づき、呼吸が混じる距離で告げられる。

「そのときも、今日みたいにちゃんと断れる?」


「……はい……断ります」

小さな声で答える詩織を、雪子は見透かすように笑った。




雪子の影に覆われるように、詩織はベッドの縁に座り込んでいた。さっきまで電話越しに必死で断っていた合コンの男の声が、まだ耳の奥で反響している。

「もう二度と連絡してこないでください」――震えながらそう言い切った自分の声を、雪子が真横で聞いていた。その視線が、熱を帯びた鎖のように彼女の全身を絡め取っていた。


電話を切った瞬間、雪子は何も言わずに詩織の頬に触れた。指先が冷たくて、ぞくりとした。けれどその冷たさはすぐに熱を孕み、逃げ場のない支配の気配に変わっていった。


――抗えない。

胸の奥でそう囁く声がする。


だけど同時に、もう一つの声がか細く震えていた。

(本当に…私は、大切にされているんだろうか)


合コンの後に見た光景が、どうしても心に残っている。バーの奥で、雪子の隣にいた女。知らない人。楽しそうに笑っていた横顔。雪子は「ただの知り合い」と言ったけれど――あの親密さを、どう解釈すればいいのだろう。


「詩織は、私のものでしょう?」

耳元で落ちる低い声。命令にも似た響きに、身体が素直に応えてしまう。視線を合わせられずに頷くしかない。


(…そうだ。私は、もう雪子さんに抗えない。支配されている。でも――)


納得なんてしていない。

恋い焦がれる想いと、胸の奥を突き刺す不安。甘やかな支配に身を委ねたい欲と、見えない誰かに取られるかもしれない恐怖。

それらがごちゃ混ぜになって、涙になりそうになるのを必死で堪える。


「雪子さんは…私のこと、どう思ってるんですか」

やっと絞り出した声は、掠れていた。


雪子は微笑んで、詩織の顎を軽く持ち上げる。逃げられないように。

雪子の瞳には隠しきれないほどの熱が灯っている。

だけど言葉にはしてくれない。


本当に私だけなのか――それとも、ただ甘やかして縛りつけているだけなのか。


「……雪子さん」

掠れる声で呼ぶと、雪子の腕が少しだけ強く、詩織を閉じ込めた。


「なに?」

囁くように落ち着いた声。余裕に満ちたその響きに、詩織の不安は逆にかき立てられる。


「…私……」

「ただ……からかわれてるだけなんじゃないかって、あの女の人見てから……ずっと、怖くて……」


雪子は動じなかった。少しの沈黙のあと、まるで詩織の心を見透かすように微笑んだ。


「あなたは、ほんとに欲しがりね」

その声は優しいのに、どこか上から。

詩織の髪を指先でなぞりながら、雪子は視線を絡めてきた。


「私が抱きしめてるのは、いつもあなたでしょう?」


その言葉に胸が強く締めつけられる。

欲しかった答えに触れた気がしたのに、同時に、もっとはっきりしたものを求めてしまう。


「……じゃあ、ちゃんと……言ってください」

詩織は泣きそうな瞳で、必死に縋るように雪子を見上げる。

「私が……雪子さんにとって、特別だって。……愛してるって」


その瞬間も雪子は余裕を崩さなかった。

詩織の顎をそっと掬い、唇が触れる距離で微笑む。


「そんなの、言葉にしなくてもわかってるはずでしょう?」


甘い支配。

欲しかった言葉はまだもらえていないのに、その声音と眼差しに縛られて、詩織の抵抗は揺らいでいく



雪子は静かに微笑み、指先で唇を塞ぐ。

「詩織は余計なこと考えないで、私だけ見てればいい」


その声音は命令のように強く、けれど指先の触れ方は驚くほど優しい。

頬にかかる髪を払う仕草や、涙を零させまいとするような口づけ――言葉以上に雄弁に、詩織を包み込んでいた。


「……でも、聞きたいんです。ちゃんと、雪子さんの気持ちを」

弱々しく訴える詩織を、雪子は腕の中に閉じ込める。


「言葉よりも、感じさせてあげる」


その夜の雪子は、いつもより甘やかすように支配してきた。

拒む隙間を与えず、でも乱暴には決して扱わない。

強く抱き寄せられるたびに、詩織は「ここから逃がすつもりなんてない」という雪子の執着を、身体越しに感じてしまう。


耳元で囁かれる低い声――

「詩織は、私のものだから」

その一言は独占欲に満ちているのに、どうしようもなく愛に似ていた。


――あぁ、やっぱり雪子さんは。

詩織は確信してしまう。

雪子が言葉にしなくても、自分を愛してやまないことを。


支配されながらも、その甘さに縋らずにはいられなかった。


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