第7話

雪子の隣で過ごす日常は、甘美で危うくて、時に呼吸さえ忘れるほどに濃密だった。

仕事が終わればすぐに連絡が入り、週末は雪子の部屋。

身体も心も満たされながら、けれど詩織の中にはいつも、どうしようもない疑問が疼いていた。


――雪子さんは、どうしてこんなにも私を支配しようとするんだろう。

歪だが、愛されてはいると思う。でも、時折その熱は、私だけに向けられたものとは思えなくなる瞬間がある。


ある日、大学時代のサークル仲間との集まりに顔を出したときのことだった。

懐かしい空気の中、ひとりの先輩がふと口にした名前に、詩織の心臓が跳ねた。


「雪子? ああ、あの子、昔から派手で目立ってたなぁ。今も元気にしてるんだ?」


一瞬で耳が熱を帯びる。

――雪子さんのことを知ってる? 大学時代の彼女を。


「あの…先輩、雪子さんって……その、昔からあんな感じだったんですか?」

思わず声が震えるのを抑えきれずに問いかけると、先輩は意味深に笑った。


「“あんな感じ”って? 人を翻弄するのが上手いって意味なら、そうだな。あの頃から誰よりも自由で、誰よりも人を惹きつける子だったよ」


胸がざわついた。

自由で、惹きつけて、翻弄する――まるで今の自分そのものが語られているみたいで。


雪子が過去にどんな人と関わり、どんな恋をしてきたのか。

自分に向けられる支配欲の根っこに、何があるのか。

知りたい。けれど、雪子には知られたくない。


「もっと聞かせてもらえませんか? 雪子さんのこと……」

気づけば言葉がこぼれていた。


先輩は驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。

「いいけど…俺はそんなに知らないんだよね。……雪子を知りたいなら、あの子とよく一緒にいた子を紹介してあげるよ」


雪子さんの過去を知ることが、彼女の歪な愛情を理解する手がかりになるかもしれない。


けれど同時に、もしこれを雪子に知られたら……。

想像するだけで、彼女の独占欲がどんな形で牙を剥くか、背筋に甘く冷たい戦慄が走った。



---


詩織は、大学時代のサークルの先輩に喫茶店へ呼び出されていた。

そこは静かなクラシックが流れる落ち着いた場所で、窓際に座る先輩の横に見慣れない女の人が座っていた。


「初めまして、波間詩織と申します。」


「初めまして、高岡凛です。雪子とは同じ街で育った、そうね幼なじみってやつかしら。」


凛は柔らかく笑いながら、少し探るような眼差しを向けてきた。

雪子が誰かと深く付き合うことを口にしたことなどなかったから、詩織の存在に驚いているのは明らかだった。


凛は少し迷ったあと口を開いた。


「詩織さんは雪子と付き合ってるの?」


詩織は少し戸惑いながら答える。

「…わかりません」


凛は言葉を重ねる。

「…あなたは雪子が好きなの?」

「…はい」

「…そう……雪子のこと、どれくらい知ってる?」

「……正直、あまり。雪子さん、自分のことをあんまり話してくれないんです」


詩織が答えると、凛は一瞬目を伏せ、そして決心したように視線を上げた。


「そっか…雪子はね、小さい頃に両親を亡くしてるの。厳しいおじいさんに育てられたけど……あの人は、雪子を孫としてじゃなくて、“作品”みたいに扱ってた。完璧であることを強要して、少しでも外れると容赦なく叩きつける。そんな環境だった。だけど、文句も言わず雪子は優等生であり続けていたわ。」


詩織の胸がひりつく。想像以上の孤独と緊張の中で育った雪子を思い、自然と手を握りしめていた。


凛は続ける。

「高校の時、雪子に初めて大切な人ができた。家庭教師の女性だった。あの時の雪子は私から見ても凄く一生懸命で、幸せそうだった。あの子の惚気なんて聞いたのはその時期だけよ」


凛は懐かしそうに、けれど何処か寂しそうにしながら、コーヒーを口に含む。

そんな凛の顔が一転、厳しいものに変わる。


「でもそれも、あのおじいさんに見つかって強引に引き裂かれた。おじいさんからしたら雪子に恋愛なんて必要無いって思っていたんでしょうね。ましてや女性が相手なんて以ての外だった。会うことも許されなくなって……雪子、あの時ほんとうに壊れかけてた」


淡々と語られる過去の断片。

詩織は知らなかった雪子の影に、息を呑んで耳を傾ける。


「大学に入ってからは、色んな人と関係を持って、自分を傷つけるみたいに遊び歩いてた。……でもね、私から見れば、それはただ“救い”を探してたんだと思う。どうしても、孤独を埋めたかった」


言葉が、詩織の胸に重く落ちる。

雪子が見せる独占欲、支配するような愛し方。

それは、ただの歪みなんかじゃなくて──長い孤独と喪失が生み出した、必死の愛情表現なのかもしれない。


「……そうだったんですね」

掠れた声で答えながら、詩織はコーヒーカップを見つめた。


凛の瞳が、真っ直ぐ詩織を射抜いた。

「詩織さん。あなたは、雪子を止めてあげられる?……あの子は不器用で、愛し方もどこか歪んでしまった。でも、それでも人を大事にしたいって気持ちはずっと持ってる。あなたは……あの子を受け止められる?」


凛の声には、ただ願いが滲んでいた。

雪子をずっと心配し続けてきた幼なじみだからこそ、いま隣に立つ詩織に賭けるしかない。


詩織は黙ったまま小さく頷いた。

胸の奥で、不安と同時に熱が灯る。


夜ごと自分を絡めとる雪子の熱。

「逃がさない」と言わんばかりの執拗な愛し方。


――全部、雪子が失ってきたものの裏返しなのだ。


知らなければただ怖かったその愛が、今は切なく胸を打ってくる。

そして詩織は、ますます彼女から逃げられなくなっている自分に気づいた。



――夜。


詩織は、雪子のマンションの前で深呼吸をした。

高岡凛から聞いた過去が、胸の奥でまだ熱を持って疼いている。

幼い頃から背負わされたもの、奪われた恋、そして孤独の中で手探りするように求めた相手たち。

雪子の歪さの根源に触れてしまったからこそ、今この扉を開ければ、彼女の重さを受け止めるしかないと分かっていた。


部屋に入ると、雪子は静かに笑みを浮かべて迎え入れた。

「来たのね、詩織」

その声音に滲む甘さと寂しさ。詩織は胸の奥で「大丈夫」と呟きながら頷いた。


その夜――雪子の愛情は、いつも以上に濃く、絡みつくように感じられた。

唇を重ねられた瞬間から、詩織は背中を壁に押し付けられ、逃げ場を奪われる。

「……他の誰にも、詩織を渡さないわ」

熱に浮かされたような言葉が耳元に囁かれ、首筋を甘噛みされるたび、詩織は小さく息を詰めた。


「ゆ、雪子さん……まって」

そう抗いながらも、身体の奥では雪子に支配される感覚を喜んでいる自分がいる。

腕を掴まれる力の強さに怯えながら、その力強さに守られている気がしてしまう。


雪子は詩織の指先を絡め取り、まるで所有を刻みつけるように指の股に舌を這わせた。

「抵抗してもいいのよ。詩織が泣いても叫んでも、私は離さないから」

その声が低く甘く落ち、詩織の胸の奥を痺れさせる。


「……ひどい人ですね、雪子さん。……」

抗う言葉の裏で零れる吐息は熱に蕩け、雪子の歪な愛情を受け止めようとする意志が滲んでいた。


身体の奥に雪子の熱が深く入り込むたび、詩織は過去に触れてしまった罪悪感と、今まさに愛されている幸福感に揺さぶられる。

雪子の重さを抱き締めたい、けれど全てを言葉にしてしまえば壊れてしまう――その葛藤ごと、夜の熱に溶かされていく。


雪子に支配される悦びを、詩織は今まで以上に素直に感じていた。

それが雪子を救うものになると、心の奥で信じるように。


――夜が更け、窓の外に街灯の明かりがぼんやり滲む頃、詩織は雪子の腕に縋りつきながら小さく囁いた。

「私、逃げませんから……ずっと傍にいます」


雪子はその言葉に、胸の奥で張り裂けそうなほどの渇きを癒すように、深く詩織を抱き締めた。


……歪な愛情も、夜の熱も。すべて、2人の間に溶けていった。




夜を経て……

雪子と詩織の関係は、表面上はこれまでと変わらない。けれど、目に見えない支配と従属の気配が、さらに重く日常の隙間に忍び込んでいた。


次の日の朝。

いつものように詩織がコーヒーを淹れていると、雪子が背後から抱きしめてきた。首筋に頬を寄せて、耳元で甘く囁く。


「今日も、ちゃんと私のものだって、忘れないでね」


その声音には、柔らかさの奥に潜む熱がある。詩織は笑って誤魔化そうとしながらも、胸の奥に広がる疼きを隠せなかった。


「……はい、わかってますよ」

「ふふ、いい子」


雪子の指が、詩織の手首に絡まる。まるで見えない鎖を繋ぐように。

詩織は一瞬、抗うべきかと思う……けれど次の瞬間には、その束縛の温度に心地よさを覚えている自分に気づいてしまう。


会社に出れば、2人はまったく別々の顔をする。

雪子は仕事のできる大人の女性。詩織は自分の会社で誠実に働く女性社員。

けれど、休憩中に届く雪子からの短いメッセージ……

「ランチは誰と?」

「男はいない?」

そんな問いかけの一文が、詩織の心を強く締めつける。


……普通なら重い。けれど今は違う。

昨夜の熱の記憶が、雪子の愛が歪んでいるからこそ真実なのだと、詩織に教えてしまった。


夜になると、詩織は自然と雪子に従うようになっていた。

以前なら抵抗していた小さな束縛……服装への口出しや、交友関係への干渉……それを拒むことなく受け入れ、むしろ雪子に認められることを求めてしまう。


「詩織は私に縛られてる方が、きっと綺麗だわ」


雪子の言葉に、詩織は小さく笑って答える。


「……そうかもしれませんね。雪子さんに選ばれたんだから」


雪子の瞳に、安堵と独占の色が溶けていく。


日常の何気ない仕草にまで、互いの愛の重さが忍び込んでいく。

それは危うくも甘美で、抗えないほど濃密な関係だった。



休日の朝。

窓から差し込む光に、詩織はうっすらと目を覚ます。隣には、まだ眠たげな雪子の横顔。整った黒髪の間からのぞく睫毛の影を、愛しさと少しの恐れが入り混じった気持ちで見つめていた。


雪子の過去……高岡凛から聞いた断片は、胸の奥にまだ重く沈んでいる。

失った恋、壊れるほど愛した誰か、取り返しのつかない痛み。

だからこそ、雪子は今こうして詩織を強く縛ろうとするのだと理解してしまった。


「……詩織」

寝起きの低い声で名を呼ばれる。雪子の手が自然に伸び、詩織の手首を捕らえる。その仕草に、無言の「ここにいなさい」という支配の気配を感じて、詩織の胸が切なくなる。


「……はい」

小さな声で返すと、雪子は満足したように微笑んだ。


雪子にとっての愛は、独占であり、支配であり、逃れられないほどの重さだ。

普通なら怖いと感じるその執着を、詩織はもう拒むことができなかった。

過去を知ってしまったからこそ、彼女の不器用な愛情の形を、どうしても抱きしめてあげたくなる。


雪子がそっと首筋に唇を落とす。その痕跡は、休日が終わっても詩織の身体に残り続けるだろう。

それが目に見えない首輪のように、自分を縛ることを詩織は理解していた。


けれど、縛られることは苦しみではなく、雪子の孤独を受け止める方法なのだと、今は思える。

「私が、あなたの重さを全部引き受けたい」

胸の奥でそう呟きながら、詩織は雪子の腕へと身を預ける。


雪子は気づかない。詩織が過去を知ってしまったことを。

ただ彼女の従順さと、無垢に見える切実さに、雪子の心は満たされ、さらに深く沈んでいく。


休日の朝の静けさの中で、目に見えない鎖がふたりを繋いでいた。


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