第18話

 二十一時を回った時計を見て、一颯は静かに自席のソファーに身を沈めた。

 先週、不覚にも見せてしまった涙を気にして花霞が来こなかったという推測は確定に思えた。ただの風邪かもしれないし、何か他の用事があるのかもしれないと頭では思うのに、不安はいつも、一番意地悪な回答をちらつかせてくる。想像したってわからないのに不毛だ、とこれまでの数時間は首を振って追い出してきた嫌な考えが勝手にリアルな手触りになってきていた。浅い呼吸を修正するかのようにたまに深いため息をついた。

 ちょうど一ヶ月前ごろに、こうして花霞を待っていた日々を思い出す。あのときも不安だったけれど、今は段違いだった。小さな一口ずつを飲み進めてきたコーヒーを口にする。味なんてほとんどしなかった。

 このまま、会えなくなるんだろうか。そうなのかもしれない。花霞にとって負担にだけはなりたくないと思ってきたはずなのに、不意に驚かせてしまった。少しでも楽しい時間になって、花霞が気を抜けるところになれたら、という願いを超えて、自分のエゴが出てきてしまった。嫌だ、とはっきりと言葉が浮かぶ。もう会えないと思ったら内臓が冷え込むような気分がして身がすくんだ。このまま会えなくて、何もわからなくて、次第に自分が喪失に慣れていくしかないということを想像すると怖かった。雪山の反射に照らされた笑顔を思い出す。帰りのバスの、まだ寝たくない、と頑張っていた顔も。また会えたとして――これまでのような普通の顔に戻って接せられるのか自信はなかった。本当は、頬や手に触れて、腕の中に入れて、めちゃくちゃわがままを言いたかった。それはきっと花霞の希望するところではないのだから――会えても、会えなくても、きっと自分は変わらずにはいられない。あああああ、と頭を掻きむしりたくなって、人目を考えて踏みとどまる。もう自分が元には戻れないのなら、会えたら言ってしまおうか。全部忘れられてしまったとしても。メモはあるのだから、花霞がそれで自分を避けるなら、それが答えだとわかる方がすっきりするかもしれなかった。嫌だ。何度目かにそのワードだけが脳内を支配する。でも、人の気持ちだけは、自分が嫌だろうがなんだろうが、どれだけ強く願おうが、変えられないわけで――。

 そのときだった。

 りん、と入り口のベルが鳴り、ドアが開いた。一颯は反射的に顔を上げる。と、そこにいたのは息を切らして肩を大きく上下させている花霞だった。さすがにもう諦めが期待を上回っていたので、大きく目を見開く。と、店内をぐるりと見まわした花霞がこちらを見た瞬間、目を合わせた。大きく心臓が鳴る。

 ――目が合った?

 頭で考えるよりも前に違和感が強くなる。花霞は今まで一度も、待ち合わせのときに目を合わせてこなかった。だって、こちらを覚えていないのだから――知っている人ではないのだから。

 指先まで脈打つくらい鼓動が大きく聞こえる。一颯の思考がまとまらないうちに、花霞が足早に駆け寄ってきて、肩にかけたトートバッグの紐を手の色が白くなるくらいぎゅっと握りながら言った。

「吉井一颯くんですか」

 ――ですか――? 疑問形ということは、知っているとは言い切れないニュアンスだった。一颯は状況が掴めずに混乱しながら、こくと首を縦に降った。

「うん、吉井一颯です」

 はあああ、と花霞は安堵のため息をついた。

「よかった……」

「よかったって……? あの、とりあえず座ったら」

 立ち上がって花霞の側の椅子を引きかけて、周りの視線が思ったよりも集中していることに気がついた。

「……出ようか」

 小声で提案すると花霞もハッとして頷く。二人で慌てて店を後にした。

 外はすっかり葉桜になった並木が春のぬるい風にさらされてざわざわと揺れていた。ところどころに残っている白い花びらが電灯に照らさせるときらっと光る。店の前の広めの石畳の道をどちらからともなく歩き出した。歩道に出ずに店沿いに曲がると、カフェの横のちょっとした広場に置かれた小さなベンチが見えてくる。よく犬の散歩をしている人がコーヒーをテイクアウトして休憩していたりするのを覚えていた。ここでもいい? と尋ねると花霞がうん、と返事をして、二人で腰掛ける。道路からちょっと遠くてあまり明るくはないけれど、今はその静けさが心地よかった。

 無言のまま横の花霞を盗み見る。薄明かりの中で風に揺らされて耳の横の後れ毛がふわりと揺れた。幸い寒くはなくて、よかった、と安堵する。そうするとようやく、状況に気持ちがついてきた。花霞が来た。もう来ないと思っていたのに。嬉しさと戸惑いでいっぱいになって、変な緊張が混ざって指が冷たくなる。

 隣の花霞も言葉を探しているようで、一颯は先に尋ねた。

「さっき、俺のこと探して来たの?」

「うん」

「どうやって……? それに名前も」

「……これ」

 花霞はスマホを取り出すと、写真に撮った一颯の卒アル写真を見せてきた。

「本当にヒントがなくて――吉井くんが前くれたメモと、卒アルの寄せ書きの字が同じだったから、多分そうだって思って、この写真撮って、電車の中で穴が開くほど見たんだ。絶対に見つけなきゃって」

 それから少し遠い目をすると、

「燃やそうとしたのに、お世話になっちゃった」

 と呟いて柔らかく苦笑した。

「撮ったはいいけど、卒アルでしょ? 高校の制服だし、同じ印象かとか、髪型とかもわからないし。すっごく不安だった……」

 一颯の言葉を待たずに花霞が続ける。緊張を誤魔化そうとしているようにも、緩んで止まらなくなっているようにも見えた。

「誰かに写真もらえばよかったんじゃ」

 色々忘れてとりあえずつっこむと、花霞は目を泳がせる。

「友達……いない……」

「……ごめん。あ、沢井は?」

「衿葉は今バイト中なのと、前、興味ないし持ってないって言ってたから」

「ひど」

 そう言うと花霞はくすっと笑った。ようやくちゃんと笑ってくれた。一気に嬉しくなって踊るように軽くなる胸をなんとか落ち着かせた。

「……ねえ」

 ささやくように声を低くする。なぜか少し掠れてしまった。聞こえていた木々のざわめきも風の音も車のエンジン音も信号の光も全てが気にならなくなる。

「俺に会いに来てくれたの?」

 言いながらぶわっと身体の中に波が起きて、鼻先がつんとした。最初に再会したとき、「次会っても覚えてない」と言った彼女が、毎度毎度自己紹介をした人が、自分から会いに来てくれたというだけで、それがどれだけ大きなことなのか一颯には痛いほどわかっていた。息を切らして走って来てくれたというだけで、もう何もかも十分だった。

「……うん」

 花霞の声も張り詰めていて、でも、肯定に満ちて聞こえた。今この瞬間を、全部このまま取っておけたらいいのに、と願ってしまう。

「ありがとう。……あの、めちゃくちゃ嬉しい」

 絞り出した言葉はあまりにも普通だった。目から涙がこぼれないように必死で抑えるけれど、潤んでいるのが自分でもわかった。目頭をさりげなく薬指の背で押さえるようにしながら、そこではたと思い至り、

「てか、今日初めましてだ。俺、もう一回自己紹介するよ」

 と言うと、花霞は「待って」と制止した。

「え?」

 それから一颯の目をまっすぐに見つめると、声を震わせながら力強く言った。

「私、一颯くんのこと、覚えてもいいかな」

 その言葉が染み込んでくるまでに時間がかかって、何度か瞬きをする。唇をわななかせ、

「でも、それじゃ……」

 と口にすると、その声はさっきよりもさらに掠れていた。一度唾を飲み込み、

「それじゃ、誰か忘れちゃうんじゃ」

 と精一杯言うと、花霞はうん、と頷いた。

「私、ずっと怖かったの。過去がなくなるのも、誰かを選んでいらないって言うのも。選んだものを守っていたら、とりあえず変わらないでいられるって思ってた。だけどね――」

 そこで一度軽く俯き、花霞は大きく息を吸った。

「だけど、また誰かと出会ってみたくなったの」

 顔を上げた花霞は綺麗な顔をしていた。再会してから今までで一番、強いきらめきを瞳に持っているように見えて、一颯は息を呑んだ。

「一颯くんのこと、きっととっくに大事な人になってたのに、勇気が出なかったけど――今は、前に進みたい。だめかな」

 両腕を伸ばして花霞を力強く抱きしめた。だめなわけがなかった。花霞の体が大きく斜めに引き寄せられて顔が鎖骨あたりに埋もれる。温かくて細くて柔らかかった。だめなわけがない。誰を忘れるのかは、今は聞かないことにする。彼女は一人で戦ったのだろうから。ぎゅうと力を込めると花霞が身じろいだ。少し腕を緩めると、体を起こして、改めて一颯を見る。

 目が合うと、一颯は一番言いたかったことを言った。

「好き」

 初めて強烈に手繰り寄せた言葉だった。

 花霞は頬を赤くすると、照れ隠しのように口元を手で隠しながら、

「私も好き」

 と小さな鈴のような声で言った。

「思い出せないのに、好きなの」

「めちゃくちゃ嬉しい」

 また抱きしめると、腕の中から困惑したように花霞が言った。

「吉井くんって、こんな熱烈な人だったの?」

 一颯はきょとんとした。熱烈なんて人生で一度も使われたことがない。でも――。

「俺ばっかり、安心させてもらってる気がして」

 普通にしていたら、十人の一人に確実に入れてもらっているという安心感の半分もあげられない気がしてしまう。それは全く嬉しくなかった。

 花霞は意外そうに一度瞬いて、

「お人よしだね。そんなこと初めて言われた」

 と笑った。そうなのか。自分ではよくわからなかったけれど、それで花霞が笑顔を見せてくれているならそれでよかった。初めて、自分のことを好きかもしれないと思えた気がした。

 ベンチの上に置いていたスマホがアプリの通知で光って、見ると二十二時を告げていた。さすがに少し肌寒くなってくる。

 帰ろうか、と花霞が言って一颯も頷いた。トートバッグを持とうと反対側を向いた花霞の肩や髪や耳を見つめる。ここに実在して彼女がいてくれることがたまらなく幸せだった。だからこそ――。

「いつか、また誰か大事な人ができてさ」

 花霞が振り向く。

「俺のこと、忘れたくなる日が来たら……そのときは写真撮らせてよ。俺はきっと、ずっと覚えてたいから」

 花霞はええ、と非難めいた声を出して苦笑した。

「今言う? そんなこと」

「今言うよ。今しか言えないから。最後に言ったら、西条さんの優しさに縋っちゃうだろ」

 それだけはしたくなかった。絶対条件みたいなものだ。

「だから……俺と一緒にいたいって思っててもらえるように、頑張るから。あと……さっき名前で呼んでくれたのに、名字に戻ってなかった?」

 一颯の宣言に花霞はもう一度顔を赤くして、それからもごもごと言った。

「今日探すまでにフルネーム唱えすぎて、つい言っちゃったけど、今まで名字だった気がして」

「もう良くない?」

 急に強く風が吹いて、枝葉から離れた花びらが数枚、思わぬ速度で宙を滑った。服をひんやりとさせる風を言い訳に、一颯は右手で花霞を引き寄せた。はためく髪をやや強引にどかしながらキスをする。応えるようにほんの少し、花霞が唇を動かした。散った花びらのうちの一枚が足元まで届いて、二人の靴を撫でていく。

 春が祝福していた。

 

                                   (了)

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