第17話
それから一週間が経った。
一週間前に書いた日記を花霞は静かに見つめた。そのとき決めたことを反芻しながら過ごしてきた日々――。固めた気持ちを信じるかのように、勢いよくぱたりと音を立てて日記を閉じた。
もう、カフェには行かない。
いつもは気まずさから逃げるように家を出ていたけれど、この日は自室に引きこもっていた。何かしていないと落ち着かなくて、最近勉強し始めた資格のテキストを進めようと机に向かう。でも、本当に一つも進まなかった。諦めてベッドに横になる。こんなときほど寝て時間が経ってしまって欲しいのに、全く眠気は訪れなかった。
「まいったな……」
独り言の声が暗かった。つい指でスマホの画面に触れて時計を見てしまう。二十時すぎ。さっきから五分しか進んでいない。
今行けば、まだ間に合うかも――と立ちあがろうとして、やっぱり、とベッドに戻る。それを繰り返して、ベッドでぎゅっと手を握り込んで、体を小さく丸めた。
行かないって決めたのだ。もう、自分のせいで悲しむ人を作りたくなかった。
大体、行ってどうするつもりなのか。そんなことにも、自分は答えが出せない。
顔を上げると、壁際の全身鏡の自分と目が合った。思ったよりも眉が強く寄せられていた。ひどい顔だった。そうっと長い息を吐く。その吐息が震える。もうずっと泣きそうだった。後悔するんじゃないか、という声が頭をがんがんと鳴らしていた。胸の中で暴れ回る不安に必死で理由を唱えた。
――いつも行っている場所に行っていないからだ。
違うとわかっていた。
――生活のルールが崩れているからだよ。
これも違う。
説得を試みてみても、すぐに答えが出てしまった。
「ポンコツすぎる……」
もう一度無意識にスマホに手を伸ばした。二十時二十分。あまり進んでいない時計に、どうしてとがっかりする気持ちと、ほっとする気持ちが同居していた。こんな矛盾はだめだ。この気持ちがなんなのか、自分でも説明できないくせに、とっくに言葉になっていた。――寂しい。
寂しい。
行かない。
寂しい。
行かない。
寂しい。
行かない。
行かない。
本当にもう、彼には会わない。
そう自分を納得させようとすると、ぶわっと涙があふれてきた。
「あ、嘘」
自分で理解が追いつかずに必死で止めようとするけれど、体の中から膨らんで決壊するものを抑えきれなかった。
自室の床に座り込んだまま、ぼろぼろと溢れる涙をもて余して、花霞はすがるようにスマホをタップした。コール音二回で通じる。相手の第一声も待たずに勢い込んだ。
「――もしもし、衿葉?」
「花霞? ……どうしたの、何かあった?」
ただならぬ雰囲気の花霞に、衿葉が緊迫した声を出す。花霞は嗚咽を飲み込んで、ようやく声を絞り出した。
「どうしたらいいかわからなくて」
その間にも球体のような大粒の涙が頬を転がり落ちていき、その全てを落としてはならないかのようにスマホを持っていない方の右手の甲でぬぐい続けた。
「泣いてるの? 花霞、今どこ? 今日って――」
「今は、家にいて」
「家?」
ほとんどの花霞の行動パターンを把握している衿葉は訝しむような声を出した。
「今日は家にいて大丈夫なの?」
「部屋にい、て、家族には会ってないから大丈夫。でもね――」
本当は今すぐにでも全てを問いただしたいのを衿葉が待って抑えている空気がした。心の中で感謝しつつ、震えてうまく動かない唇を動かした。
「今日からはカフェに行かないって、私が決めたの。先週の私が。そうするしか、ないって思ってたの、本当に。だけど、今日、この時間になって、本当にもう行かないんだって思ったら――」
電話の向こうの衿葉を想像する。きっと、眉根を寄せて、ちょっと怒っているはずだ。今、自分は衿葉に甘えている。ずっと甘えっぱなしなのだけど、過去一番の甘えだった。
「涙が止まらなくなっちゃった。おかしいよね、衿葉。自分でもわからないよ。知らない人に会えなくて寂しいなんて。説明できないの、どうして泣いてるのか」
今、心の中にある人が、誰で、どんな人なのか、さっぱり思い出せないのに、この気持ちは「寂しさ」なのだと身体中が知っていた。全くコントロールできない涙は、頭と体が分裂しているみたいだった。
通話口から衿葉の長い長いため息が聞こえた。ため息でも、これは自分をバカにしたり、見限ったりするものじゃないと信じられるのがあまりにありがたくて、さらに目頭が熱くなる。
衿葉は今度は大きく息を吸うと、意を決したかのように言った。
「会いにいきなよ。会いたいんでしょ。もっと自分を信じていいんだよ、花霞は」
最初から聞きたかった言葉だったことに、数秒遅れて気がついた。会いたい。誰に? 誰に会いたいのかわからないのに会いたいなんて、この荒唐無稽な感情を、衿葉に肯定してほしかった。事故のあと、怯えてばかりで、本当は何も選びたくなくて、誰にも知られたくなくて、とにかく現状維持を望んできた自分が、一番今の気持ちを簡単に頷いてあげられなかった。だって、会いたいなんてわがまま、明日は彼のことを忘れてしまい、自分を変える勇気もないのに、言う資格はないと思っていたから。
「……やっぱり衿葉ってすごい」
「正直、そもそも今泣かしてる時点でどうなのとか、言いたいことはいろいろあるよ? でもさ――」
衿葉は電話越しに“苦虫”が見えそうな声で前置きしつつ、さっぱりと言った。
「でも、きっと会うのが一回目でも、あいつは花霞を大事にしてくれると思うよ」
その言葉に思わず肩に入っていた力がふっと抜けた。
一回目でも。
そうだ。
どの日のメモにも、彼を嫌がる言葉は書かれていなくて――気のせいかもしれないけれど、いつも楽しいなと思っていた気がして、それは今の自分のどこから来るのか伝えられない感情が、多分本当だったと証明しているように思えた。
「教えたくないけど、花霞、いつもうち泊まりに来て、楽しそうにしてたよ。今日ね、っていっぱい話しててさ。私のこと否定しないし、いっぱい冗談言ってくるんだよ、とか言ってさ。あいつそんなキャラじゃなくない!? 正直むかつく、けど!」
力強く吠えたかと思うと、衿葉はトーンを落ち着けた。
「……でもさ、花霞。わたし、いつまでも、花霞の味方のつもりだけど、ずっと同じところにいてとは思わないよ」
ごめん、もう行かないとだ、と慌てた様子で電話が切れた。表示されたスマホの画面を見ると二十時五十九分だった。二十一時からバイトの塾講の二コマ目の授業なのに、ずいぶんギリギリまで粘ってくれたとわかって、花霞はそのままスマホを握りしめた。
知らない間に、大事な人になっていたんだ、と素直に認められていた。もう一生、新しく大事な人はできないのだとどこかで思い込んでいた。すぐにでも会って、今思っていることを伝えたくなって、緊張とはやる気持ちで心臓がどきどきと脈打っていた。今からでも行こう、と立ち上がって、ドアに手をかけたところで立ち止まった。
自分は彼を見てもわからないし、名前もメモしていなかった。
一気に絶望的な思いになる。衿葉に聞けばよかった、と後悔するけれど、もう授業に入ってしまったのでかけることもできなかった。授業が終わるまで待てば教えてくれるだろうけど、それだと閉店時間になってしまう。そこまで考えると、そもそも、前回涙を流したらしい彼が今日も変わらず来ているのか不安にもなってきた。いないかもしれない、名前も顔もわからない人を探す――? それは不可能に思える。保守的で具体的なことを書かなかった自分を今更呪う。だけど、今ここで諦めて、今週行かなければ、たとえ今日彼が来ていたとしても、決定的にすれ違ってしまう気がした。何かヒント、と願いながら暗記するくらい読み返してきた手帳をもう一度開いて捲る。暑くもないのに汗ばんで震える手はページを何度も捉え損ねた。と、先月の頭、同窓会に間違えて入った日のページに貼り付けられていたメモを見つけた。
《連絡来て用ができたって言って》
ファジーネーブル、ビール、と走り書きされた裏。握り込まされたせいで大きな皺が入っている紙だった。見るたび、男の子なのに綺麗な字だな、と思って印象に残っていたのだ。もしかしたら、と念じるように、目立たないように引き出しの奥の奥にしまっていた卒業アルバムを取り出した。個人写真の次のページからは、全員の手書きの寄せ書きが印刷されていた。慌てて目を走らせる――一ページ、二ページ。最後のクラスまで行っても、同じ文字には当たらなかったように見えた。でも、今手がかりはここしかない。ランダムに配置されているせいで見逃したような気がして、もう一度三年A組に戻って右下の方に目をやったとき、探していた文字が飛び込んできた。
《卒業してもよろしく! 用があったら連絡ください 吉井一颯》
連絡。卒業の記念品なら書いている人が多いんじゃないかと踏んだのが当たって鳥肌が立つ。
「この字だ……」
予想していなかった「用」という漢字まで照らし合わせられて、奇跡的なことに後押しされているような気分になる。急いでスマホにメモをとった。
――吉井一颯くん。
吉井一颯くん。吉井一颯くん。声に出さずに繰り返す。
ページを戻ってクラスごとの個人写真の写真も撮った。少しだけきりっとした涼しい目元の普通の男子。優しそうにも無愛想にも見える。見ても、この人と会っていたのかということは全然思い出せないのに、今の自分の気持ちには確信があるのが不思議だった。スマホをコートのポケットに放り込み、走り出す。玄関で靴を履くときに母親の声が聞こえた気がしたけれど、振り返らずに飛び出した。
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