第16話

 翌水曜日、いつものようにカフェに向かった。その日は曇天だった。今年の遅咲きだった桜はまだ残っていて、花びらが白い雲の色に溶け込んで視界が灰がかって見えた。晴れていればあんなに綺麗なのに、曇っているとなぜか空気に混ざった不純物のように見える。

 カフェのドアを開けると、花霞はすでに来ていた。手元にテキストとノートを広げて、何やらペンを走らせている。一颯はそっと近づいた。

 心の準備はしてきていた。

「西条さん」

 声をかけると、花霞は顔を上げる。初期のような驚いた反応はなかったけれど、どうしていいか分からないように、小さく会釈した。頭の中がぐらっと揺れるような気がした。

 数日前にたくさん目にした花霞の笑顔が脳裏を駆け抜けていく。

 もう自分しか覚えていないのだ――。

 そう思うと喉が狭くなるような気がした。

「えっと」

 出した第一声がぶれていた。おかしい。

 心の準備が聞いて呆れるよ、と自分につっこみを入れて、なんとか口角を上げて笑顔を作った。

「俺……高校の同級生で、一、二年で同じクラスだった吉井一颯っていいます。二月に再会してから、会うのはこれが八回目で……」

 そこで言葉が出なくなった。

 気づくと目からこぼれ落ちた涙が目の前のテーブルに落ちていた。花霞に見られたかも、と思い慌てて拭うが、多分意味はなかった。隠すように乱暴に腕で両目を拭って、ごめん俺、とだけ言って踵を返した。虚をつかれた様子の花霞が何かを言おうとしたのを背中で感じたけれど、そのまま振り返らずにカフェを出る。指先がありえないほど冷たいのに、体はかあっと熱を持っているようだった。心臓がばくばくと大きく鳴っているのに、頭の奥は冷え切っていた。

 こうして会えるだけでいい――そう何十回も念じて来たのに。

 彼女が気まぐれに来なくなれば、まるで全てがなかったかのように泡と消える関係なのだと、死ぬほど思い知ってしまった。

「――はあっ」

 嗚咽を堪えるようにして、一颯は駅へと一心不乱に足を進めた。

 途中すれ違った中学生たちが、何事かと振り向いてきた。


   *


 夏の真ん中に事故に遭ってから、花霞は絶対に、その日のうちに日記を書いていた。

 どこに行ったか。

 誰と会ったか。

 レシートを貼ったりすることもある。

 人に対しての実感がわからなくなると、忘れていない実際の記憶も、誰かの言葉も、全部信じられなくなってしまうから、日記だけは絶対に信じると決めていた。

 自分のための安全基地で、聖地のような場所だ。

 毎日何度も何度も読み返すから、買って半年しか経っていないのに、手帳はもう数年選手かのようにくたびれていた。でも、それすらどんどん愛着になっている。

 自分のデスクのスタンドにスイッチを入れると、中学生時代から使っている小さな蛍光灯が紙面を照らした。

 日記に最初に異変が起きたのは、二月の十五日のことだった。

『同級生だったらしい男の子に会った。誤魔化しきれなかった。なんだか全部、申し訳ないな。でも、どうせもう会わないのだから、気にしないことにする。』

 誰なのかは書いていなかった。おそらく自分は、覚えたくなかったのだ。その気持ちは今でもよくわかる。

 次の登場はその二週間後だった。

『どうやら高校の同窓会だったところに間違えて入ってしまった。すごく焦った。助けてくれた男の子がいた。明日、もう一度カフェで会ってお礼をする。奢ること。それなのに名前を聞きそびれた。記憶のことを話したみたいだけど、なんでだろう。それを知りたい気持ちもある。』

 そう書いてあるのに、翌日にはこう続く。

『助けてくれたお礼がきちんとできてよかった。忘れるからって何もしない人になるのは怖い。お礼なのに、ちょっと楽しかったな。もうきっと会わないだろうけど…。』

 どうやら、また名前を書かなかったようだ。自分は怖がりなのだと、こうなってから知った気がする。

 三月十五日。

『高校の同級生を名乗る男の子に声をかけられた。カフェ店員さんを覚えていないことを申し訳ないって言ったら、そんなの気にしなくていいって言ってくれた。彼も覚えていないらしい。小学校の友達なんて一人、二人も怪しいって言っていた。少し気が楽になった』

 三月二十二日。

『高校の同級生を名乗る男の子と、また会った。多分、というか絶対、おんなじ人。不思議とどう思われるのか怖く思わない。さすがにもう知っていた方がいいんじゃないかと、一度名前をメモしたけど、そのページは破いてしまった。どうせ覚えられないのだから、むしろ知らないくらいがいいんだと思う。もし手がかりがあると、探してしまったり、避けてしまったりしそうだから』

 破いたことは覚えている。後戻りしないよう、ちゃんとゴミが回収されたかも確認した記憶がある。慎重すぎるような気もするけれど、逆に彼のことが気になる気がして怖かったのだと思う。

 三月二十九日。

『明々後日、スキーに誘われた。スキー! 記憶のことがなくても、スキーなんて小学生ぶりだから、心配。心配なのに、教えるから大丈夫って言われて、行くって返事してしまった。失敗したかな……。早まったかもしれない。カフェなら、そろそろ帰ろうとか言うこともできるけれど、ゲレンデまで行って空気が持たなかったらどうしたらいいのか今更不安になってきた。私には今、提供できる話題がない。』

 四月一日。

『今、お昼ご飯中。彼がお手洗いに行ったのでちょっと書いてみる。朝、何事もないかのように自己紹介してくれる。言い慣れすぎているのがわかるほど流暢で、ちょっとだけ申し訳ない。でも、今日はなんと、嘘のプロフィールを言われた。同級生に石油王がいるわけがないよ! 話していると、笑ってばかりいる。一緒にいるときは、また会いたいなって思っている。』

『ここから夜。バスの中で寝てしまった。起きたとき、状況をなんとか掴んで、明るくしたけど、彼にはわかっていたと思う。先に起きていて、また自己紹介してくれた。笑ってくれた。すごく楽しかった気がするのに、目の前にいる人がわからないのが苦しかった。なんで私はこうなっちゃったんだろう。でも、去り際に「またカフェで」って言ってくれた。明日以降のわたしへ、とにかく、カフェに行くのはやめないで』

 そこから二ページを捲り、白いページに辿り着く。

 ペンを握って、迷いながら書き進めた。

 四月五日。

『冷静に考えたら、毎度何にもわからなくなっている私と話して何が面白いんだろう。』

 読点を打ち、少しペンを止め、また書く。

『自分が楽しいことばかり考えてしまっていた。今日対面して、(どうやらいつも通り)自己紹介してくれたと思ったら、彼は泣いていた。』

 彼は瞳から涙をこぼして、自分で驚いたような顔をしていた。その表情が頭を離れなかった。

『私にわからないように隠そうとしていたけど、拭ったのが見えてしまった。やっぱり、私は傷つけているんだろうな。』

 続きを書こうとして、少し手が震える。

『もう行かない方がいいのかもしれない。過去の私、ごめんね。』


   *

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