第15話
四月になった。
早朝の新宿は人がまばらで、通行人のハイヒールの足音が地下の通路に響いていた。六時二十分に新宿集合と約束したものの、花霞が来るのか、来られるのか、自信がなくなってくる。わかりやすいと思って待ち合わせ場所として告げた「花屋の前」も、よくよく考えたら今の時間は閉まっているはずだった。もっと親切な場所にすべきだったかもしれない――いや、それよりも、連絡先のことをあのときもっとちゃんと考えるべきだったのだ、どう考えても。色々と小さな呆れを自分に感じながら南口に出ると、すでに花霞は約束の花屋のシャッターの前に所在なさげに立っていた。春らしいベージュのブルゾンに珍しくパンツを履いていて、落ち着かない様子で何度も髪を耳にかけ、鞄を握り直している。
――ああ、何やってたんだろ、俺。
花霞の様子を見て、もう一度自分に呆れた。自分にとっては、彼女が来なくてもある意味「それだけ」で、諦めて帰るくらいのダメージだけれど、花霞からしたら、その待ち合わせのすべてが不安なはずだった。よくわからない相手と、ルーティーンとは違う場所で、遠くに行くために待ち合わせする。それでも来てくれたのは、花霞の生真面目さゆえなんだろうし、もしかしたら、花霞にとっても、何度も会っていることが多少の意味を持っているのかもしれない――そう考えて脳内で打ち消す。いくら何でも都合が良すぎる妄想だった。
花霞のところに駆け寄って声をかける。
「西条さん」
いつもの驚きの反応ではなく、花霞は安心したようにほっと息を吐いた。
「来てくれてありがとう。俺、今日約束してた吉井一颯です。とりあえず行こうか」
横断歩道を出てバスターミナルに向かう。花霞も慌てて横をついてきた。
どうしても早朝になるので、なるべく無理のないようにと思ってちょっとギリギリの待ち合わせにしていたので、少し早足になる。集合場所に着いてバスに乗って、ようやく落ち着いた。花霞に窓際の席に先に入ってもらって隣に座ると、コートとブルゾンが擦れた音がした。思っていたよりも近く感じる。
「普段向かい合わせだから不思議な気がする」
「そう……だよね」
花霞も緊張しているようだった。
「あれ? 向かいに座ってるのは覚えてるの?」
「ぼんやり。あと、カフェで隣ってなかなかないかなって」
そりゃそうだ、と笑う。まもなくバスがゆっくりと発進した。小声で花霞に話しかける。
「じゃあ、改めて自己紹介します。俺は、高校の同級生で、一、二年で同じクラスだった吉井一颯っていいます。同級生だから遠慮はいらない。二月に再会してから、会うのはこれが七回目。普段は大学に通ってるけどそれは仮の姿で――」
意外な展開に感じたのか花霞がじっとこちらを見た。
「実は親が石油を掘り当てて石油王になったから、俺も次期石油王です。そんなこんなで財力が余ってるので雪山の一つや二つ、どうとでもできちゃうから、今日は西条さんをご案内します」
「えっ?」
花霞が横で固まって、ゆっくりと視線を泳がせた。表情を変えずに続ける。
「俺の父親は商社勤務でさ、その都合で石油周りを担当してたんだけど、現地の人と仲良くなって長期で滞在してたら、そこで掘り当てちゃったんだよね」
「えっ……?」
花霞がもう一度小さく呟き、それから一颯の顔や服をまじまじと見た。
「冗談」
「もう!」
音量を抑えた囁き声で花霞が抗議する。
「いや、流石に今のは冗談でしょ」
笑うと花霞も怒りながら笑った。
「ひどい。最初絶対嘘だと思ったけど、補足までしてくるから自信がなくなって……どこまでが本当?」
「普段は大学に通ってる、まで」
「序盤じゃん!」
ははは、と笑うと花霞が睨んできた。
「まあ、石油王は冗談だけど――父親は結構エリート街道を走って省庁で勤務してて英才教育にこだわってたから、小さい頃からスキーもやらされてたんだよね。だから今日は安心して」
どうやら英才教育をプラスに捉えたらいいのかしんどいものと捉えたらいいのかを迷ったらしい花霞が何か言おうと口を開いたところに被せた。
「なんてね」
「えっ? 今のも嘘?」
「そう。やっぱ規模の大きい嘘の次は信じてもらいやすいね」
「何それ」
花霞が横で眉根を寄せる。ふは、と笑う一颯を再び睨んだ。
「結局お父さんは何者なの? スキーは小さい頃からやってたの?」
「父親は普通の企業のサラリーマンです。スキーも全然。高校の部活から。でも結構うまいよ」
「……それも嘘?」
「流石にほんと。じゃないと誘わないよ。下手なスキー見せても得もないし、西条さんも危ないでしょ」
よかった、と花霞は胸を撫で下ろした。
「今のも冗談だったら、雪山でついていくのを躊躇うところだった」
「こっちだよって言われてついていったら危険な目に遭うってこと? そんな取って食うみたいなことはしないよ」
信用ないなあ、とぼやくと、花霞は吹き出した。
「ていうか、普通、私みたいな人に、そういう冗談言う? 遠慮がないね、吉井くんって」
どうやったら笑ってくれるかなって思って、とは言わなかった。おまけに、このくらいにしておいた方が、きっと花霞の方が遠慮なくものを言えるようになる気がしていた。
「マジで嫌だったら怒っていいから」
「そうする」
気づけばバスはどこだかわからない高速をひた走っていた。出発したばかりのときはまだ眠気を引きずっていた車内は、本格的な朝の陽がさして、活気が生まれ始めている。家族づれやカップルの小声の会話がいくつかの席から聞こえてきて、一つ前の男子高校生たちは可愛らしくもしりとりをしていた。き、き、き、禁中並公家諸法度。は? なんでそれ? てかそれなんだっけ!? とはしゃいだ声が漏れ聞こえてきた。着くまでにはまだ数時間ある。何を話そうか思案しつつ、
「あ、そういやもう一個冗談みたいな話があってさ」
スマホを取り出して姉の出た小さな映画の写真を検索して見せた。
「これ、俺の姉ちゃんなんだよね」
「え、女優さんってこと?」
「そう」
花霞は一颯のスマホを手にすると、拡大して画面を見つめた。それから一颯を見返して、
「また冗談?」
と訊く。
「いや、これは冗談みたいなほんとの話。まあ、もう辞めて普通に働いてるけどね。モテて大変らしい、自己申告では」
「すごい、綺麗〜。可愛い……すごいね」
花霞は妙に感心して一颯と画面の姉を見比べた。
「あんまり似てないんだね」
事実、なぜか姉はぱっちりした目の祖父に似たので、あまり似ているとは言われない。
「なんか腹立つな」
半眼になると花霞は仕返ししてやったりといった様子でにっこりと笑った。
途中から大きなうねりを往復する山道に入り、あっという間に雪景色になったと思うと、まもなくスキー場に到着した。降り立った花霞が「わあ……」と小さく漏らす。
「こっち」
何度か来たことがあるスキー場だ。道具の貸し出しロッジに迷わず入り、二名分のセットを一式借りた。当然自宅にも道具は持っているけれど、今回は荷物を減らすことを最優先していた。更衣室から出たところで再度待ち合わせをして、早速リフトに向かう。
おでこにゴーグルをつけたまま眩しそうに目をすがめた花霞がかわいかった。スキー部は男子だらけなので、雪山ってマジですごかったんだ、と変な感動を噛み締める。
初心者用のコースに降り立って、先導しながら花霞を振り返る。最初こそ慌てていたが、すぐに勘を掴んだようだった。
「案外体が覚えてるかもしれない」
嬉しそうに笑ったのがゴーグル越しにもわかった。
「もう一度行こ」
三度ほどコースを繰り返すと、止まって待たなくても着いてこられるようになって、
「いいじゃん」
と言うと花霞は照れ臭そうにした。もう一段上のコースまで行って、長めに滑る。緩やかだけど長い道を景色を見ながらゆっくり滑るのが一颯は結構好きだった。花霞の様子を横目に見ていると、一本道をカーブして出てきた山からの景色に「すごい、高いね」と華やいだ声を出した。その道が終わると広い裾野の空間に出て、眼下にリフト乗り場が見える。
「あそこまで競争ね」
一颯は板をすっと平行に揃えると、思い切り上体を倒した。直滑降で滑り出す。加速した一颯を見て花霞が「えっ」と言ったのが聞こえて、体重を横にかけて勢いを殺して中腹に止まった。
「来て!」
大きく手招きをする。
花霞の驚きが予想通りで嬉しくて、つい笑いまじりになってしまった。
「足そろえて、体低くしてみて。今みたいにまっすぐ!」
花霞がちょっと身じろぐのが見えて、
「思ったより怖くないから!」
と追加する。恐る恐る板を並べて滑り出すのを見守る。最初の二秒ほどは身構えていた花霞も、コツを得たのか、すぐに体の形が整った。一颯も再出発し、花霞に並んで、抜かす。下できゅっと止まって、「あっ、どうしよ、止まれるかな!?」と叫んだ花霞を待ち構えた。最悪受け止めようと思っていたけれど、ちゃんと直前でハの字で止まって、ふうー、と大きく息を吐いた。
「楽しかった? 人多すぎるとできないけど、俺直滑降が好きなんだよね」
花霞は晴れやかな笑顔を見せた。
「楽しかった」
「絶叫系とか大丈夫なタイプだ」
「確かに、好きかも」
もう一度リフトを登り、レストランで定番のカレーを食べた。手袋と帽子を脱ぎ、髪にきらきらとした氷の粒をつけたままカレーを頬張る花霞が目の前にいるのが不思議だった。ずっと気持ちが浮遊しているようだった。カレーに感想を言ったり、一緒に後片付けしたりしていると、花霞の事情なんてなかったかのように普通で、夢みたいに眩しい時間を浴びている気がした。
それから午後もひとしきり滑って、帰る時間が見えてきた頃には二人ともクタクタになっていた。
「道具返しに行こうか」
十六時半。夕暮れになって雪の色も気づけば少し青く見えている。一緒にロッジに向かい、花霞の分の道具も受け取ってまとめて返却した。バス乗り場で少し待って、やってきたバスに乗り込んだ。
ぷしゅー、と音がしてバスが体を揺らし動き出すと、花霞は「楽しかったな」と小さく呟いた。
「俺も」
「ほんと? 初心者とやって楽しいもの?」
ちょっと心配そうに花霞が訊いた。
「楽しいよ。……俺が西条さんと来たかったんだし」
「……そっか。ありがとう」
横で照れるように俯く。
「こうやって遊ぶの、よくない? 昨日までの話なんてしなくても、楽しくて」
何気なく言ったつもりだったのに、花霞がぱっと顔を上げた。
「本当にそうだね。……本当にありがとう」
「また行く? って言っても、スキーはシーズンもう終わるけど。それこそ、俺のバイト先ボウリング場だしさ。水族館だって遊園地だっていいし」
言いながら、デートに誘っているみたいになって動揺する。悟られたかな、とそわそわしていると、花霞は「行く」と迷わず言った。
帰りのバスは話している人と寝ている人が半々くらいだった。車窓から見える空がどんどん暗くなっていく。
「ねえ、高校時代も仲良かったのかな?」
花霞がふと思い立ったように聞いた。
「え? 俺ら?」
「うん」
花霞が自分から過去のことを聞いてきたのは初めてだった。当然と言えば当然だ。どうせ忘れてしまうのだから。でも、知りたいと思ってくれた――? 知らないうちに、ちょっと指先が震えた。
「……同じグループとかじゃなかったけど、一緒に文化祭の準備したよ。二年のとき。うちのクラス、縁日でさ」
「あ、それはなんか、ぼんやり覚えてる。し、卒アルでも見たかも」
「あ、ほんと? それで、教室を縁日に変えるのに、壁に貼る三メートルの絵を一緒に描いたよ。五人でやるはずが、三人サボって、二人になって、そこでちょっと仲良くなったかな」
――やー、なんかごめんね俺と二人で。
――なんで残った吉井くんが謝るの? むしろ、一人にされなくてほっとしたところだよ。
脳裏に声が蘇る。今目の前で話している花霞と同じ声だった。同じ声。心臓がぎゅうと握られるように痛んだ。なるべく平静を装って続ける。
「……俺は、めちゃくちゃ楽しかったよ。その後ちょっとして席替えで隣になってさ。数学の時間中話しかけたら、怒られて」
「え? 先生に?」
「ううん、西条さん」
「えっ、私!?」
「そう、私数学苦手だから聞かなきゃまずいんだって! って」
笑い混じりに言うと、花霞も笑った。
「なんかごめん」
「いや、むしろ邪魔してごめん」
「私も本当は楽しかった気がするな」
実に変な日本語だった。だけど、花霞の本音なのだとわかる。さっきも、「高校時代も」と言ってくれたのを一颯は聞き逃していなかった。胸がいっぱいになる。そうだったらいいな、と言おうとして、声にしたら何かがこぼれ落ちてしまう気がして飲み込んだ。そうだったらいい。花霞が楽しいとか嬉しいと思ってくれることが、どうしてこんなに自分を揺さぶるのか、考えないようにしていた。
ちょうどバスがトンネルを抜けたタイミングで、馴染みのない土地の見知らぬ企業の看板が車窓を駆け抜けていく。穏やかな顔で外を眺める花霞に話しかけた。
「事故のときのことって、聞いてもいい?」
今なら聞けそうな気がしていた。花霞が頷く。
「記憶のことって、どうやってわかったの?」
一颯からすると、いまだに謎ばかりだ。
「えっと……事故に遭って、目が覚めたら病院にいたんだけど……一週間くらいしたら、お見舞いが解禁されて、家族が来てくれてね」
花霞が眉を寄せた。
「そこで、家族がおじいちゃんも来たがってたけど来れなくて、みたいな会話をして、私がそこで、おじいちゃんって? って聞いてしまって――それでおかしいぞってなった感じで」
そこで一度息を吐いた。黙って続きを聞く。
「場が凍りついたよ。どういうこと? って。でも、私からすると、私が一番どういうこと? って思ってる感じで……。その場にいたのはお母さんとお父さんとおばあちゃんと叔母さんで、記憶に残っている人たちだけだったから、それまで違和感がなかったの。でも、何をどう説明されても、おじいちゃんのことは思い出せなかった。おばあちゃんの旦那さんだ、とかはもちろんわかるよ。でも、誰だっけ? ってなっちゃって……。おばあちゃんは覚えてたのにおじいちゃんは忘れてたのも、自分でもどうしようもなかったとはいえ、申し訳なくて」
花霞の小さな声は沈んでいた。
「見れば思い出すんじゃないかって、おじいちゃんが数日後に来てくれたけど、やっぱりわからないし、さらに、次の日には前日会ったこともわからなくなってて、本格的にこれはまずいぞってなった感じかな」
「……どうしておじいちゃんだけっていうのは、わかったりするの?」
うーん、と花霞は首を捻った。
「お母さん談ではあるけど、私、ちょっとおじいちゃんのことが苦手だったみたい。会社経営みたいなことをしていてすごく厳しい人で、昔から怖がってたんだって。なんかでも、もしそれが理由だったとしても、選別した後味みたいなのは変わらなかったな」
それ以来会ってないんだ、と花霞はあえてさっぱりと言った。
「そりゃそうだよね。反応が鈍い私に会っても、お互い気まずいだけだもん」
明るい口調を選んでいるのが痛々しかった。
「ちなみにいうと、おばあちゃんも結構厳しい人なんだけど、私ずっとおばあちゃんに日本舞踊を習ってたり、名前もおばあちゃんがつけてくれたからなのか、覚えてたんだよね」
「日本舞踊!?」
全く馴染みのないワードが出てきてつい反応してしまう。あは、と花霞も笑った。
「おばあちゃんは師範だけど、私はちょっと習った程度で、全然ちゃんとやってないよ。だけど、花霞って名前は、踊るときに着る着物から取られてるんだって。無意識に大事に思っていたのかもね」
「そっか……。和風な名前だとは思ってた」
「吉井くんは? 名前の由来」
「え、俺?」
小学校のとき、宿題でも聞かれたことを思い出す。母に聞いたら「なんかかっこいいから」という阿呆みたいな返答が返ってきて、「なんかかっこいいからです」と書く羽目になった苦い思い出が蘇った。
「……言わない。てか、大した由来がない。あえていうなら春生まれだからっぽい。漢字は違うけど」
「春? じゃあもう二十一?」
「もうすぐね。てかさ」
自分のことを聞かれるのはどうにも居心地が悪かった。それに、まだ知りたいこともある。
「じゃあ、どうして十人だってわかったの?」
「最初から『十人だけしか覚えていられない』ってわかったわけじゃなくて、小学校は、中学は、と順に記憶を辿って、わかる人を数えたら十だったんだよね。家族や看護師さんといっぱい、あれは覚えてる? とかこれはどうだとか話して。検査もしたよ。事故の直後はもっと曖昧で、最初はわかったっぽい人が今はもうわからなかったり、逆もあるみたい。私はもう、ちゃんと覚えてないんだけど。それで、どうやら眠ってしまうと、また記憶がなくなっちゃうってわかってからは、日記をつけ始めて……。最初はベッド横のメモだったけど、早めに母に手帳を買ってきてもらって。入院中はそれこそ、看護師さんの名前とかもメモして、失礼のないようにって思ったりしてた。やっぱり、覚えてない反応が人を傷つけるって、おじいちゃんでよくわかったし……」
「もう何度も聞かれてるだろうけど……お医者さんは?」
「お手上げみたい。初めて見た状態ですって言われて」
夜の道を運ばれながら、振動に紛れるかのようにして花霞はゆっくり話し続けた。
「退院する頃には、だいぶ覚えていることが固まってきたような感覚があって……それからは、なるべく記憶を動かさないようにするようになったかな。やっぱり、忘れるのが怖いから……。急に知り合いに会うっていうのが一番怖くて、なるべく人に会わないようにしてた。全員にいちいち事情は説明できないし、腫れ物みたいに扱われるだろうし、困って大学中退も考えたけど、今はなんとか衿葉のおかげで通ってて――」
それは以前も聞いた部分だった。花霞は二度目であることを忘れているかもしれないので、そのまま黙って聞く。
「なるべく目立たないように授業に出て、まっすぐ帰るんだけど……家も、ちょっといづらくて、今はなるべく、イレギュラーなことが起きないように、大体同じルートを選びつつ、できるだけ外にいるようにしてて」
「あのカフェ以外にもあるんだ?」
「うん。新宿とかにいる日もあるよ。生活パターンを決めたら、ちょっと安心できるようになって……街は気楽なんだ。たくさん人がいて、自分も引きこもってるわけじゃないって思えるけど、みんな知らない人ばかりで、私に誰も関心を持っていないから」
「ちょっとわかる。俺も、雑踏とか好き。なんか息しやすいよな」
柔らかく言うと、花霞は微笑んだ。
「……家も居づらいっていうのは、なんで?」
引っかかっていたことを聞く。家族だけは絶対の味方なのかと思っていた。
「おじいちゃんのことがあってから、やっぱり家族もちょっと、気を遣う感じになったし……犬のもみじは二月の私の誕生日に飼い始めたんだけど、そのときに初恋の人のことを忘れちゃったって言ったら、そんなんで将来やっていけるのか、みたいになっちゃって……当然といえば当然だけど、「うちで働けばいい」とか「家事手伝いでいい」とか言われたり、「誰かと結婚してその人を覚えれば」とか提案されて、ショックだったんだよね。心配してくれてるってわかるし、子どもっぽいけど――それから家族と会話しづらくなっちゃって」
だって、ひどくない? と続いた声は鼻声だった。
結婚してって……それはまた誰かを忘れることで。誰かを覚えるには誰かを忘れること、私が一番、気にしてるのに。面倒を押し付けるみたいで、その人にも失礼だよね。
そう絞り出すと、泣かないようにか、そろそろと息を吐いて一度唇を引き結んだ。
そんな様子には気づかないふりをして、尋ねる。
「二月の、初恋の人を――っていうのは、西条さんが決めたの?」
「……新しく出会っても、再会しても、覚えられないことばかりだったから期待してなかったんだけど――もみじがすぐに懐いてくれて、この子はきっと、私のこと忘れないで、私が毎日忘れて驚いても近寄ってきてくれるんだなって思ったら、初めて、この子のことちゃんと覚えたいなあって思って……もう私のこと覚えてない人に固執しないほうがいいのかも、って思い浮かべてたから、決めたんだと思う。翌日、毎日見てた十人のメモを見たけど、その子だけ思い出せなかった。そのことに私自身もショックを受けてたときの家族の言葉だったから、よりえぐられちゃって」
花霞は困ったような顔でこちらを見て言った。
「忘れちゃうとね、たまに自分が自分なのかわからなくなるような感覚になって……そうすると、たまらなく寂しくなる。初恋をしていた自分のことまでよくわからなくなるの。二月は結構それで落ち込んでて……そんなとき、高校の同級生から連絡があってね。砕けた口調だったし、履歴を遡ると同級生だってわかるんだけど、誰だかわからなくて、追い討ちって感じで。もう自分のことを誰も思い出さなければいいのにと思って、SNSのアカウント全部消して――なんか、自分の証拠みたいなもの全部消して、いっそ全てを入れ替えて、全く違う土地に行けたらいいのかもって妄想したりして――でもそれって、結局家族の言うところの「結婚」と同じでしょ? それに気づいたら、すごく情けなくなって、自分のことも嫌になって。部屋のものとか断捨離して、ここを誰かが見ても、この部屋誰のだ? ってなるようにしたいって思って……そしたら卒業アルバムが目について、こんなものなければなって思って、ゴミに出そうとしたけど、みんなの個人情報もあるから気が引けて、燃やそうって思って……」
変なところで律儀な理由だった。
「小学校の文春とか、買ってた行事の写真とか、そういうもの持って燃やしに行ったんだ」
「……なんで河原に?」
「うちマンションだから、庭とかないし……少し離れたところでわからないようにしたかったし、今公園とかは花火もできないし住宅街だし、それしか思い浮かばなくて」
「……そっか」
「あんた、何やってる!? っておじさんに声かけられて、めちゃくちゃ怖くて、思わず何も持たずに逃げ出しちゃったの。バカだよね。翌日見に行ったけど何も残ってなくて……。今思うと、何してたんだろって思うけど」
そこで言葉は切れたけれど、それだけ追い詰められていた、と続くのだと思った。
「俺に会ったのはその直後?」
えっとね、と花霞が鞄から手帳を取り出してめくった。
「五日後みたい」
「すぐだ」
「だから、結構自暴自棄だった時期で、どうせもう会うこともないんだから、って話したって書いてある」
巻き込んじゃったよね、と花霞は眉尻を下げた。
「巻き込まれたと思ったことはないよ」
答えると花霞は少しだけ笑って、しばらく黙った。バスの後ろの方の天井の電気がたまにチカチカと点滅し始める。お互いに何も言わない時間が流れると、しばらくして、花霞がふあ、と横であくびを噛み殺した。それから困ったように、「嫌だな……」と目を擦った。
一瞬意味が分からず停止してしまい、直後にはっとする。
「寝たくない……」
花霞が必死に眠気に抵抗しようとして、何度も首を振ったり目を押さえたりする。一颯も何か話しかけようとするけれど、わたわたするだけで、ろくに言葉が出てこなかった。
「今寝たら、ほとんど忘れちゃう」
よほど眠いのか、語尾がちょっと曖昧だった。
「吉井くんのスキー、見れて嬉しかったのに……」
「いや、それは別に忘れてもいいけど」
つい突っ込む。上級者コースを滑るところを見たいと言われて、一度麓に花霞を置き去りにし、一颯だけ一周滑ったのだ。みんな似たようなウェアだし最初は豆粒だろうし、誰が誰だかわかるのか? と疑いながら滑って戻ってくると、すごい、と無邪気に手を叩いてくれたのだった。
「いやだ……」
ふにゃりと口を動かして、かろうじて聞こえる声で言う。花霞の意思とは裏腹に、気を抜くと意識が薄れるような状態らしく、しばらく目を閉じて止まったかと思うと、こく、と揺れた。無理やりゆすって起こすみたいなこともできずに見守っていると、やがて花霞は眠りに落ちてしまった。数分して、沈んだ体が傾いて、一颯の右腕に頭が寄りかかる。
すうすう、という寝息を聞きながら、内心で天を仰いだ。なんだか猛烈に泣きたくなった。きっとこんな状況、普通だったらめちゃくちゃ嬉しいはずなのに。コートの袖にかかる髪や、小さく覗いた耳を愛しく思っている自分に気づきながら、一颯は自分も固く目を閉じた。
――こんな片思いってあるのかよ。
起きても、彼女は「私寝ちゃってた?」なんて笑わない。二人でめっちゃ疲れてたねと言い合うこともない。きっと戸惑いの表情で、自分はまた、知らない人になっている。
――俺のこと、覚えてくれないかな。
そう掠めてしまい、すぐに打ち消した。それを願っても、苦しむのは花霞なのだから。
今はもう考えないでいたかった。せめて、スキーが楽しかったなということくらい、彼女に残っていたらいい。
チカチカと瞬くバスの電気が瞼の裏に残った。体の疲れに引っ張られるようにして、一颯も意識を手放していった。
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