第13話
また来週、と振った手への首肯を人質に、合宿の翌日、一颯はまたカフェに向かった。
席に座る花霞はデニムシャツに白いスカートを合わせて、珍しく髪をハーフアップにしていて、なんだか春の装いだった。目に留めると、昨日までの恭平との会話が重なって、勝手に気恥ずかしくなる。余計なことを喋ったかもしれない、と後悔しつつ、無事会えた嬉しさに嘘はつけなかった。
いつも通り声をかける。最初の自己紹介にも慣れてきていた。
「俺、高校の同級生の、吉井一颯って言います。一、二年のとき同じクラスで――少し前に西条さんのことは聞いてて、会うのは二月から数えて六回目。悪いようにはしないので、ご飯でも」
花霞は遠慮がちに頷いて、今度はパスタをそれぞれ頼むことにした。まとめて注文して席に番号札を持って戻る。直後、パスタが届けられてあっという間に番号札が回収されて、二人で顔を見合わせた。
「早くてびっくりした」
「ね」
ラッキーなアイスブレイクだった。おまけに、気遣いで取り皿が二枚添えられている。
「西条さん、こっちのいる?」
聞くと、花霞は一瞬だけ迷った様子を見せて、「うん」とほのかな笑顔を見せた。
アラビアータと、春野菜のカルボナーラを分け合う。
「これ、期間限定だよね」
「うん。あ、美味しい」
そんな会話は信じられないほど朗らかに流れていって、どこかで全部が夢だったり、先週が続いているかのような勘違いをしそうになる。流石にもう六回目だし――と甘い考えがもたげたところで、花霞がぽつりと言った。
「日記に書いてたから、こうして会ってる人がいるっていうのはわかってたの」
急に冷や水を浴びせられたような気分になる。その「会っていた人」が目の前にいる一颯でいいのか実感を持ちづらいようだった。調子に乗りかけたことを反省しつつ頭をかいた。彼女はリセットされてしまうって、わかっていたはずなのに。
「じゃあ、何か日記に書いてあったこと、聞いてみてよ。俺が知ってたら、安心できそうでしょ?」
提案すると、花霞はなるほどと納得して、神妙な面持ちで考え始めた。だが、彼女が質問を思いつく前に、はたと思い至る。
「待って。てかそれ、その日記に俺の名前を書けばいいだけじゃ……?」
一颯の目を見て、花霞はうーん、歯切れの悪い返事をした。
「書いたら、一応、見直せば名前はわかるの。なんていうのかな、芸能人みたいに、名前は知ってる感じになる。でも、本当にその人を知ってたのかがわからないんだ。だから……名前を書くのは、怖いよ。この人誰だろうって知りたくなっちゃう。なのに……知ったとしても忘れるから」
臆病でごめんね、とこちらを見ずに彼女は言った。
一颯は数秒考えて、
「いいよ、じゃあ何度でも自己紹介するわ」
と言った。花霞はこちらを見てパチっと一度瞬きをすると、顔を綻ばせた。
「……すごい。嬉しい。吉井くんって、心広いね」
ちょっと瞳が潤んで見えた。細い薬指の腹で、ほんのりと赤くなった目尻を一瞬撫でる。一颯はそれには触れずに、
「心広くはないよ。むしろ姉にも同級生にも狭いって言われるけど」
「え、どうして?」
「姉ちゃんは、あんたのアイスは私のでしょみたいな感じ。当然断る」
おどけて言うと笑ってくれる。
「仲良いんだね」
「まあ、悪くはないかな。でも俺が絶対負ける」
ふふ、と声を出して、花霞は顔をほころばせた。
この瞬間が自分の一つの目標になっていることを一颯は静かに自覚していた。
帰りの駅までの道で、花霞は「楽しかった、ありがとう」と何かとても貴重なことかのようにぺこりと頭を下げて笑った。打ち解けた空気になってくれているのを確認して、一颯は脇に抱えていたトートバッグから大きめの茶封筒を取り出した。今日ずっと抱えていたものなのに、ぎゅっと内臓が握られたみたいに緊張する。
「西条さん」
中身の冊子を上半分ほど出して花霞に見せ、
「これ、西条さんのじゃない?」
と訊くと、花霞の笑みが一瞬で消えて目が大きく見開かれた。無音の間が空くが、彼女はやがて諦めたように目を伏せると、「うん」と小さく頷いた。
「どうして吉井くんが……?」
その声は静かに揺れていた。なるべくなんでもないことのように話す。
「高校の今村先生って人から預かってきた。俺がお願いして。今村先生は、俺にとってはスキー部の顧問で……西条さんがいた三Cの担任で、生活指導でもあって……これを回収した警察から渡されてたらしい。この間先生に会ったとき偶然目にして、俺――もしかしたら西条さんが、って思って」
俯いた花霞の表情はよく見えなかった。心なしか歩幅も小さくなっていて、一颯は合わせるようにゆっくりと歩いた。
「……お節介でごめん」
ふる、と横で首が振られる。
「学校にあるのはわかってたんだ、実は。電話がかかってきて、何か知らないか、怖がらせたら悪い、って言われたから、自分でやりましたって言い出せなくて、何も知りませんってそのままに……」
こんな形で目の前に戻ってくるとは思わなかったのだろう。花霞は身を縮めるようにして肩にかけた鞄の紐を握り締めていた。
「もしやそのとき、沢井と一緒だった?」
気になっていたことを聞くと、花霞はさらに驚いた。
「えっ、そうだけど、どうして――?」
「俺が沢井に疑われたから」
軽く笑って見せると、花霞は混乱したようだった。
「疑い? 衿葉が? え、どうして……?」
「多分沢井は、ストーカーの行動かなんかだと思ったんじゃないかな。その電話を受けたとき、どんな感じだったの?」
「えっと……衿葉とご飯を食べてて、そこに先生から電話があって。その時点で私が先生を覚えていないことで会話できるか不安になって、ちょっとパニックになったから、衿葉がスピーカーにして……一緒に聴いてた感じだった」
なるほど、と一人で納得する。それで衿葉の中では花霞ではない誰かがやったことに断定されていたようだった。歩きながらバッグを探って手帳を取り出した花霞がその日のページを捲ると、メモに『今村先生』と書かれていた。
「今村先生、本当だ……」
状況が見えてきたことに安心したのか、花霞は小さく息をついた。そこでちょうど駅に辿り着く。改札を潜らずに立ち止まり、花霞に向き直った。
「これ、もし持ち主がわかったなら、戻してもらってもいいって言われてて……もし、西条さんがもう持ってたくなかったら、俺もらってもいいかな」
花霞は不思議そうに訊いた。
「どうして?」
理由を聞かれることはなぜか想定していなくて一瞬逡巡する。
「――西条さんの憂鬱を、ちょっとでも引き受けられたらいいなって。……それで、俺に渡したことごと忘れたらいいよ」
出てきた言葉が思ったよりも気障で狼狽える。自分で予想できない展開になって、小さく心臓が暴れ出した。
花霞はちょっと考えるようにして、首を振った。
「ううん、ありがとう。でも、持って帰ろうかな。これはやっぱり、私のだし、押し付けちゃいけない気がするし」
その真面目な返答は花霞らしくて、一颯は「わかった」とアルバムを渡した。受け取った花霞の右手がその重みでずしっと沈む。持っていたバッグに入れてみると、ギリギリ入ったようだった。
生ぬるい風が吹いて、
「そういえば、やっと桜咲いたね」
と何気なく言うと、花霞が「ね」と顔を明るくし、すぐに曇らせた。
「百面相?」
つっこんでみると、む、と少しむくれて、大きくため息をつく。
「桜は大好きだけど、お花見や歓迎会に誘われたりとか、春の新学期で新たな履修とか思うと、憂鬱すぎて」
「……確かに?」
「人を誘う理由がいっぱいある時期で、誘ってもらうたびに身構えないといけないのもやっぱり堪えるし……今まではなんとかなってたけど、新しい履修がグループ作業中心とかだったら困るから慎重に選ばないといけないし」
衿葉が先輩に聞いたりしてくれるって言ってて、甘えっぱなしだよ、と花霞は天を仰いだ。
「じゃあさ」
気づくとまた、自分の口が勝手に動いていた。
「今から、ちょっと散歩しない? 夜桜だけど」
「えっ?」
「と言っても、ライトアップとかじゃないから、雰囲気だけかもだけど。お花見行けなくても、味わいたいじゃん」
駅から十分ほど歩いたところにある大山緑道に向かう。少し前にテレビの散歩番組で見かけたところからのチョイスだった。道中のあまり馴染みのない夜の住宅街は知らない顔つきをしていたけれど、春の長閑さが暖かくなった空気と共に流れていて、不思議と足が軽やかだった。どこまででも歩いていけそうな夜。肌を撫でるちょうどいい風。世界が浮かれて無敵になっているようなこの感じを、憂鬱が覆ってしまうのは勿体無いように思えた。車がたまに暗い道を照らしながらやってくる。かと思うと、急に自分たちの足音だけが聞こえる静かな時間が訪れたりした。一人だと途方もなく思えそうな何もない道も、隣に誰かがいるというだけで、ずいぶん浮かれて感じられる。花霞もそう思っていてくれたらいいなと思った。
緑道の桜は一斉に花を咲かせて散歩道を囲んでいた。夜空の黒に花びらの白が浮かんで見える。わざと展示用に照らされてはいないからこその、素朴な姿が意外と良かった。
「こんなふうに知らないところに夜来るなんて、一人じゃ絶対しなかったな」
首を上に向けて桜を見ながら花霞が言った。ついその横顔を見つめる。
「やっぱり、特に夜道だと警戒することも多いし。車が通ったりすると、何も起こらなくてもひやっとしたりして……でも、二人だとなんか心強くて、冒険してるみたいだった」
はにかむように笑ってくれたのが嬉しくて、胸にじわっと熱いものが広がる気がした。
「俺も、一人だったらきっと道が違う印象で見えてたなって考えてた」
何人かの散歩をしている人とすれ違う。犬を連れている人もいた。二人で桜の写真を撮ろうとしてみても、全然綺麗に写らなかった。
「あのさ」
途中思案していたことを一颯は口にした。
「俺とスキーに行かない? 日帰りで」
「えっ?」
全く脈絡のない提案に花霞が面食らう。
「楽しいよ。もうちょっとでシーズン終わっちゃうし……。春ってさ、確かに西条さんにとっては憂鬱なこといっぱいあるんだろうなって思うけど。雪山だったら、滑りに行ってるから話題もいらないし、楽しむこともわかりやすいし」
勢いよく並べた理由づけにはそれなりの納得感があったようで、花霞は「確かに……?」と首を傾げた。
「嫌なことってなくならないけど、その分楽しいことしたいなって思って。どうかな」
「で、でも私、小学生以来スキーしてなくて、滑れない」
「それはちゃんと教えるから」
これ、実は昨日まで行ってた日焼け、とゴーグルの下部分のラインを指さす。
花霞はぷっと吹き出した。
「実は、なんで日焼けしてるのかなって思ってた」
「つっこんでくれていいから!」
気づかれていたことに焦ると、花霞がくすくすと笑った。じゃあ約束ね、と一颯はスマホを取り出して、目星をつけていたツアーのページを開いた。
「土曜日空いてる?」
「……うん」
「じゃあ、朝の六時二十分に、JR新宿駅南口、改札正面の花屋の前で」
花霞が手帳にメモする。
――連絡先。
SNSのアカウントは全て削除したと言っていたので、電話番号を聞こうか一瞬迷ったけれど、名前すら書かない花霞は嫌がる気がして引っ込めた。自分が遅刻せずに着けばなんとかなるだろう。
再び歩き出し、今度は東北沢の駅へ向かう。
半分の月が明るく見下ろしていた。
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