第11話
ちょうど一週間後の三月二十二日、一颯は十九時にカフェを訪れた。
花霞は少し前に来ていたらしく、すでに席に座っていて、小さな手帳をめくっていた。
「西条さん」
そう声をかけると、驚いたように顔を上げる。
「えっと……」
「俺、高校の同級生の、吉井一颯って言います。一、二年のとき同じクラスで――少し前に西条さんのことは聞いてて、会うのは二月から数えて五回目」
事前に想定していた自己紹介を澱みなく言えてほっとする。
「よかったら、ちょっと話さない? ご飯まだだったら、食べながらでも」
花霞は戸惑ったように瞬きを繰り返すと、遠慮がちに「よかったら」と前の椅子を指した。同時に手に持ったままだった手帳を閉じてバッグに入れる。一颯は一度注文に離席して、コーヒーとマルゲリータピザを持って席に戻った。微妙な距離のまま取り皿を配ったりして、いただきます、と手を合わせると、花霞から口を開いた。
「ここで事情を話した人がいるっていうのは、わかってて」
「あ、確かメモしてあるって」
頷きつつも、どこか緊張しているようだった。どんなふうに書かれているのかと思うと、一颯も急に緊張してくる。よく知ったトマトとチーズの味が薄く感じた。
「そのメモ含めて、西条さんが持ってる俺の情報って、どのくらい?」
「えっと……」
花霞が先ほどまで手にしていた小さな手帳を再度取り出す。ずっと肌身離さず持っているか、よほど繰り返し見ているのか、サーモンピンクの合皮のカバーは結構使い込まれて見えた。花霞の手の動きだけで、手帳の大事さが伝わる気がする。
「えっと……、偶然会ってしまった同級生の男子がいて、事情を話したってことと……」
指が何枚かのページを捲る。
「助けてくれた人がいてお礼をしたってことと……」
また捲る。
「店員さんを覚えてないことを励ましてもらったって。これ、全部吉井くん?」
急な質問に、花霞の指先を見守りながら咀嚼していたピザをごくんと飲み込んだ。
「そう。そこはせめて繋がるように書いてくれても!」
「その時々の自分が、前を覚えていないから……」
「……まあ、そう言われると……?」
花霞の記憶についてはわからないことばかりで、それ以上なかなか切り込みづらかった。でも、それ含めてもう少し知りたくて、今日は話題を考えてきたのだ。
「今の西条さんのこと教えてよ。大学で何勉強してるの? ていうか、何学部?」
少なくとも、過去の思い出話よりは会話しやすいはずだった。踏み込みすぎず、誰にでも話題にしやすいことを投げてみる。花霞は急な質問に戸惑いつつも答えてくれた。
「えっ? 文学部だよ。……吉井くんは?」
「俺は経済学部」
「経済学部って、何するの?」
ずい、と花霞が首を少し前に出した。
「経済学部は色々だけど、ミクロとかマクロとか経済学をやって、あとは、統計とか……。財政とか金融とかを専門にする人も多いかな。ていうか、俺が質問されてる」
つっこむと、花霞は小さく微笑んだ。心なしか、前回よりも空気が和らぐのが早かった気がして、内心でガッツポーズをする。
「授業とか、難しい?」
「まあ、数字とにらめっこしてるかな。経済学部、興味ある?」
乗り出してきたし、興味があるなら意外に感じて聞いてみる。花霞は真顔になった。
「興味は……困ったことに、ない」
「おい」
「数学、めちゃくちゃ苦手だったし」
「確かに、西条さんは文系のイメージだわ」
そうだよねえ、と花霞は目を閉じてやれやれと天を仰いだ。
「文学部でこれから専攻を絞るところだったけど、悩んでて」
言いながら両手の指を胸の前で組むようにする。
「悩んでるの?」
「うん。文学部って、分野によってはとにかく登場人物が多くて」
眉間に皺が寄っている。一颯はその言葉の意味を一瞬とらえかねて、遅れて理解した。
「えっ、そうか、そういうのも? 例えば文豪とか、歴史上の人物とか」
うーん、と花霞が首を捻る。
「上手く言えないんだけど、覚えにくい、って感じ。例えば、歴史上の人物は教科書を読めば、何をした人でこんな顔で、ってわかるけど、知ってる人にはならないと思うんだけど――それが私の場合、現実だろうとフィクションだろうと同じような感覚だから、丸暗記に近くて……一生懸命勉強しても、翌日には、あれ、これ誰だっけ? ってなることが多くて。って、うまく説明できてないよね」
「うーん。理解できてるかっていうと自信はないかもしれない」
「私も感覚的なものだからうまく言えないけど……もしかしたら、友達の話に出てくる一度も会ったことない人とかに近いかもしれない」
「なるほど?」
「ああ、アイコちゃんね、なんか聞いたな〜って思うんだけど、それが何した人だっけとかは、聞いてもそうだっけ? ってなるような、ずっと遠い感じ? うーん」
言いながら何度も首を傾げている。
「まあ、ドンピシャな説明っていうのも難しいんだろうけど……それってフィクションも?」
「大体同じかな。だから最近は、楽しむためにその日のうちに一気読みとか一気見することにしてて……そうすれば、覚えたまま最後まで読めるし、感情移入もできるんだけど、翌日になると、めちゃくちゃ入れ込んだらしいキャラクターでも、さっぱり。あらすじだけ覚えてたりして、自分でも説明しづらいんだよね」
だから何か読む日は気合い入れて引きこもるよ、と笑ってみせた。
「それで専攻に悩んでるんだ?」
「そう。転部も考えたんだけど……数学系はやっぱりダメそうだなって今の心の動かなさで確信が持てた。今の私なら、数式の方が覚えやすいまであるのに……うまくいかなすぎない?」
困ったように笑う。その顔は傷ついているようにもさっぱりしているようにも見えた。
「それは確かに。数学はいいよ、覚える割合は少ないから」
ふざけて逆手で手招きしてみせるが、花霞は「絶対、それはそれで別の苦労がある!」とのってくれなかった。
「教育学部とかも詰むでしょ? 教育実習とか絶対無理だし……。運動系はそこまで得意じゃないから体育学部とかも難しそうだし、社会学とかだと文学部とあまり変わらなそうだし……。何かできることあるのかな、私。アルバイトとかも、してみたかったよ本当は」
「まだしたことないの?」
「うん。そろそろやってみようかな、なんて思っていた矢先で」
「そっか……。得意なことだったら、音楽は?」
花霞がオーケストラ部だったことから聞くと、
「今の安らぎの趣味かな。ピアノもちょっと弾いてる」
と彼女は指を鍵盤に沿わせる真似をした。
それからしばらくは、どうでもいいことばかり話した。
一颯のバイト先のこと、最近見た配信映画のこと、大学のこと。その映画私も見よう、と花霞は手帳にメモしていた。それから、悪友恭平のこと。恭平のことなんて一生覚えてもらわなくて良いと思えば、「面白いやつがいてさ」で良いのだ。必要とあらば、恭平のことなんて何度だってネタにしてやろうと決める。昔の記憶を引っ張らないといけなくなる状況以外では、彼女は本当に普通に思えた。花霞も楽しそうにしてくれているように見えて、一颯は確実な手応えを感じていた。
閉店間際にカフェを出る。暖房の風から外の風になると、夜の湿り気を感じた。
「西条さん、そっちだよね」
いつも花霞が消えていく方を指すと、花霞は一瞬わからない顔をして、あっ、と声を出した。
「ううん、今日はこっちなんだ。私、いつもあっちって言ってた?」
こっち、と指さされた方は一颯の向かう駅の方向だった。
「うん。え? 今日は何か用事?」
「逆で、今日は家に帰るから代々木上原に行くんだけど、先週とかは衿葉の家に行ってて」
背後のガラスドアが開いて次の退店客が出てくる。それに押し出されるようにして歩き出した。初めてカフェの外で一緒に歩くのがなんだか不思議な感覚だった。
「沢井の?」
「そう。衿葉、幡ヶ谷に住んでてね、よくここから歩いて行ってるんだ」
「えっ、幡ヶ谷って歩けるんだ」
電車移動が多い東京あるあるな感覚か、線が違うとイメージとしてはだいぶ遠く感じるが、思ったよりも近いのだろうか。すかさずスマホを取り出して地図アプリを見ると、本当に徒歩圏内だった。
「沢井んち、よく行くの?」
「うん。衿葉一人暮らしだから、最近は泊まらせてもらうことも多いよ」
花霞の表情が今までの何よりも明るくなった。住宅街にまばらにある店明かりと街灯が照らした彼女の影が弾んだ気がした。
「高校のときからオケ部の部長と副部長でね、一緒にいることが多くて……大学も一緒なんて最高だねって言ってたんだけど、今となってはそれ以上に、本当に感謝してるんだ。衿葉が、周りに不自然に思われないように、いつも間に入ってくれて……たまに覚えてない人に話しかけられちゃうときも、私が笑って合わせていやすいように会話にヒント混ぜてくれたりするの」
花霞の語気はピュアな子どものようにリズムが跳ねていた。衿葉が一颯の大学まで釘を刺しに来たことには触れないでおく。その優しさと気遣いの一片でも自分にもくれよという気分だが、衿葉にとっては花霞が特別だからこそ発揮されるものなのだから仕方がない。複雑な気持ちになっていることを気づかれないように相槌を打った。
「それは心強いじゃん。俺、三年は同じクラスだったけど、そんなに話さなかったから、あんまあいつのことわかんなくて」
もったいないよ! と花霞は勢い込んで言った。
「衿葉は優しいだけじゃなくてすごく強いんだよ。私、本当はもう、大学中退しようかと思ってたんだけどね。それはそれでさらに路頭に迷いそうで怖くて迷ってたら、私がなんでもする、花霞には大学で勉強する権利があるんだよ、って言ってくれて。それから頼りっぱなし」
情けないけど、と付け足されるけれど、その言葉とは裏腹に、花霞は本当に自慢しているだけの様子で、一颯は内心で舌を巻いた。こういう場合に一切「迷惑かけちゃってる」と落ち込ませないのはものすごく難しいことな気がした。つまり、衿葉の手腕がものすごく気遣いに溢れているということであり、二人の間に遠慮がないということの証明に他ならなかった。
なんだよ、いいなあ。
心のうちに生まれた独り言を無視して会話を続ける。
「中退するか迷ってたんだ」
「うん。だって、浦島太郎っていうと、ちょっと違うけど……一人だけ別世界にいて、相手に悪いなって思うことばかりで、団体行動とかも難しくて、こんなんじゃ迷惑かけるだけだ、変に思われるだけだって思って……。でも、この状態でも生きていかないといけないからには、逆に大学卒業しておいた方がいい気もするでしょ? それをこぼしたら、一緒に卒業しようねって言ってくれたの」
また話題が衿葉に帰結した。駅に繋がる通路が見えてきて、人通りが俄かに増える。
「もう、私にできることって、本当に限られてると思うんだけどね、衿葉に何かあったら、私もなんでもするって決めてるんだ」
気づけば閉店後のチェーン店が両脇に構えるゾーンは通過していて、花霞が数歩先にスマホで改札を通ろうとしていた。
一颯はその背中をぼんやりと見つめる。
こんなふうに大事にされるってどんな感じなんだろう。
衿葉が睨む顔が脳裏に浮かんだ。
いいなあ。
またぽつりとそう思ってしまう。なんであんたが? なんて言ってガードしなくたって、こんなに花霞の中にいられているのだ。それは、花霞が十人しかひとを覚えていられなくなったことと無関係ではないけれど、きっと花霞がその前から衿葉を大事にしていたんだと思った。誰かの両手の中に入って、お互いに特別だと言い切れる関係――。なぜか猛烈に焦がれる気持ちになる。
ホームに来た電車に乗り、空いていた席に並んで座った。
「前回、俺なら十人をどうするか考えたって話したら、西条さんが知りたいって言ってくれたんだけどさ」
花霞は膝に赤いトートバッグを引き寄せながら一颯の横顔を見るように顔を上げた。
「俺、きっとちゃんと選べないと思ったんだ。西条さんと沢井みたいな、絶対この人、みたいな人、いないと思う。バカやれる友達は一人いて、さっき話した恭平ってやつ。そいつは入れるかなって思うけど、大事にしたいかって聞かれるとなんかむず痒いし――だから、いいなって思うよ、二人のこと」
花霞の方を見てちょっと口角を上げてみせる。
「ちゃんと考え直しとくって言ったのにつまんない答えでごめん」
花霞は目を丸くして、「ごめんなんて」と首を振った。
「偉そうに言ったのかもしれないけど、私も、自分で選んだって感じじゃないよ。事故に遭って、しばらく意識がなくて、目覚めたとき、すでに勝手に絞られた状態だったから。だから、無意識の自分の判断、みたいなもので――それを大事にするしかないんだ」
一颯は曖昧に微笑んだ。その言葉すら、眩しく聞こえた。花霞がたまに見せる影が気になっていたのに、横に座る細腕の彼女は自分より強いようにも思える。
「その無意識の中に入ってたんだ? 初恋の男の子」
花霞は「それも話してたんだ」と苦笑いした。
「そうみたい。実際、大好きだった子、ってメモしてたよ。もう、その気持ちは思い出せないけど……。叶ってもいない何年も前の恋なのにちょっと乙女すぎるよね」
「何が好きだったの?」
自然に聞いてしまってから、酷な質問だったかもと思い至るが、花霞はそのまま答えてくれた。
「バイオリンがすっごく上手でかっこよかったんだって。私、それで高校でオケ部に入ったんだよ、そういえば」
若気の至りだよね、と照れくさそうにした。叶わなかった初恋相手すら心の底から好きだった彼女を見ていると、思い出したくなかった元カノのことが脳内を駆け巡る。
――本当に大事にしてもらえないなら恋愛なんてクソじゃん。
萌香の台詞がもう一度刺してきた。口悪い、なんてつっこんで誤魔化したけど、あのときも痛い言葉だったのだ。
思えば、何も強くほしいと思ったことも、大事にしようと思ったことも、多分なかった。こんなふうに誰かを大好きと思ったことも。元カノの言葉は、それがバレていた気がしてショックだったのだとようやく腑に落ちてくる。当時の自分としては、大事にしていなかったつもりはなくて――自分なりの「適当」で扱っているつもりで、何かを邪険にしたり酷い扱いをしたり、逃げたりしていたわけじゃなかったから、どうしても納得できないで、ひたすら苦い記憶になっていた。だけど、花霞を見ていると、何かが猛烈に羨ましくなってしまう。真っ直ぐに自分の周りを大事にできる人。覚えづらくなっても、学びたいという気持ちがあることも、将来を憂慮していても、諦めているわけではなさそうなのも。そして何より、そんな彼女から選ばれているものたちが羨ましかった。自分が心から切望したら、大事にしたら、選んだら――自分にもそれが返ってくるのだろうか。
花霞に惹かれる気持ちを掴めないままに、電車が下北沢に停車した。
「俺ここなんだ」
立ち上がりつつ、手を振る。
「また来週」
「えっ、あ、うん」
慌てて上げられた花霞の右手をを視界に捉えつつ、一颯は電車を降りた。
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