第10話

 結局、金曜日なのもあってか、お昼過ぎから珍しくお客さんが増えて、萌香とはあまり会話できないままになった。一颯の方が上がりが早く、十七時すぎにバイト先を出た。このくらいの時間は少し前まで真っ暗だったのに、だいぶ明るく感じられる。まだ寒い日も多くすっかりという感じでもないが、確実に春が訪れていた。

 渋谷駅でいくつかのエスカレーターを渡って改札に入り、山手線に乗る。新宿で乗り換えて、小田急線に向かった。車窓から見える空はすごい速度で暗くなっていく。代々木上原の駅で降りると、迷わずカフェ・スプリングトワイライトに足を向けた。そうしようとバイトの終盤から心に決めていた。衿葉が話していた「あの子のいつものルート」という言葉を思い出す。今のところ自分が花霞に会える可能性があるのはこのカフェだけだった。衿葉と花霞の大学に行く、というのもゼロではないが、大学という広大な場所で、衿葉の助けなくして会える気がしない。

 会ってどうするんだよ、と自分につっこみを入れる。何も答えは出なかった。どんな展開になるのか想像し切れない。元気なのか確かめるだけだから。誰にも何も言われていないのに、脳内に言い訳を再生する。そもそも、件のアルバムが燃やされた日よりも後に花霞に会っているのだから、もう元気だと思えばいいのかもしれないけれど、何度か見た実際の花霞とあのアルバムが結びつききらないことも逆に気になっていた。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けるといつもの明るい声が飛ぶ。

 軽く会釈をしながら好きな席を選ぶ。なるべく入り口が見えやすい席にしつつ、全体を見まわした。今は花霞はいないようだった。

 カウンターでコーヒーを頼み、席に戻る。読まねばと思いながらずっと放置していた教授の本を片手にしながら、入り口が開くたびにそちらへ目をやった。

 一時間、二時間。

 元々来るかわからない中なのに、胸の中に薄いもやが流れるかのような小さな不安があった。途中、パスタを頼んで食べる。

 二十一時をまわり、流石に今日これから来ることはないだろうなと考える。でも、もし去った五分後に来たらと思うと席を立てなかった。ラストオーダーの二十二時を見て、そっと本を閉じる。四時間ほどいたにもかかわらず、進んだのはたったの十ページだった。


 それから次の日も次の日も、一颯はバイト後にカフェを訪れた。

 花霞はどの日も来なかった。

 本はあまりにも進まないので三日目には開きもしなくなった。代わりに、無意味なスマホのパズルゲームに興じる。連結パズルをしていたら誰かが来店してドアが開くたびにタイムオーバーになったので、途中からは数独を地道に進めた。

 月曜日の夜は雨だった。春めいていたのに一気に寒くなる。席で待ちつつ大きなガラス張りの窓につく水滴のひかりを眺めながら、明日のことを考えた。火曜日は昼前から夜までバイトのシフトの予定だ。花霞が来るとして夜とは限らないが、開店からの朝の一時間では会える確率は低い気がした。覚悟を決めて、萌香とのトーク画面を開く。

《明日って暇じゃない? できたらバイト代わってほしくて》

 すぐに返事がある。

《え、珍しいじゃん。いいよ》

 そのときカフェのドアが開くと、さあああという雨の音が一時的に大きくなった。目をやるが、花霞ではなかった。うわ結構濡れた、と笑い合う若い男女の声が聞こえてくる。

 意識を画面に戻し、神に感謝!! と書いてあるスタンプを押すと、

《笑 風邪引いた? 寝てなよ》

 と返ってくる。確かに、ダウンコートをしまったことを後悔しながら来たくらいの、うっかりすると風邪をひきそうな気温だった。ちょっと悩んで、

《風邪じゃなくて用事、ごめん》

 と送る。拝むスタンプも続けると、全然いいよのスタンプが返された。

 でも、火曜日も花霞はカフェを訪れなかった。

 毎日何してんだろ俺、と思いながら、退店しようとリュックを背負う。でも、その直後にもしかしたら明日は、と思ってしまう。どこかで区切るなら一週間と決めていた。金曜からもう五日間収穫がない。深呼吸のつもりで吸い込んだ湿った空気は、思いの外深いため息になった。

 水曜日、バイト後にまたカフェを訪れた。もう定位置になってきた席に座り、カフェオレを飲む。一時間半ほど経ったとき、もうその日何十回目のドアのベルが鳴って、一颯は慣れた動作で顔を上げた。どうせ、みたいな気持ちだったのに――そこにいたのは花霞だった。オフホワイトのロンTとカーキの吊りワンピース。小脇に赤いトートバッグを抱えていた。思わずガタッと音を立てて立ち上がり、机にぶつかって、大きく動いたカップを両手で押さえた。心臓がうるさく鳴る。会えた。本当に。花霞は奥の方の本棚に囲まれたスペースに行くと、二人がけの席に荷物を置き、カウンターに向かった。焦るな焦るなと念じながら、一颯は一度椅子に体を沈めた。無意識に両手を握り込む。本当に会えた。

 花霞がアイスティーを持って席に戻るのをそっと見る。ぱっと見は、二週間前に会ったときと大して変わらないように見えた。会えたら声をかけようと決めていたのに、いざ目にすると、入ってきていきなりだと迷惑かな、などと細かな迷いが出てくる。周りのことなど忘れて首を大きく捻って花霞の動向を窺っていると、隣の席の女子高生が訝しげにちらっと見てきたのを感じて、意を決して立ち上がった。

 なるべく不自然にならないように、怖がらせないように――。念じながらそっと花霞の席に寄る。

「――西条さんだよね?」

 驚いた花霞が目を瞬きながら顔を上げる。一颯を視界に入れて、困っているのを隠すように表情を動かさないまま口を開いた。

「えっと……」

「俺、高校の同級生の、吉井一颯って言います。前もここで会ってて、そのとき、西条さんの今のことを聞いてる。だから――」

 とにかく不審に思われないように、と一気にしゃべって、そこで急に詰まった。

「だから、安心してって言いたかったけど、安心できないか……」

 あからさまに焦りを滲ませて、どうしよ、と呟いた一颯を見て、花霞はちょっと警戒を解いた様子で慎重に訊いた。

「あの、もしかして……前、助けてくれた人?」

「えっ」

「ここで、同級生に会ってお礼をしたって書いてあったから」

「そう、それ!」

 つい勢い込んで前のめりになってしまう。花霞は一颯の必死な様子に目を丸くした。二人して微妙な間を開けてしまい、そのわずかな沈黙さえもかなり長く感じる。

「あの、その、迷惑じゃなかったら」

 口の中が乾いてごくりと一度唾を飲み込んだ。

「俺、ここに来てもいいかな」

 花霞の向かいの空席を指す。花霞は「えっ」と小さく唇を動かし、少し迷いをみせた。

「あ、ごめん、てか、何か目的があって来てたら、全然」

「目的というか、一応、勉強しに来てはいるけど……」

 花霞の背中の脇に置かれたトートバッグからノートとテキストが少し覗いていた。普段の一颯なら引き下がるところだ。でも――。

「ちょっとだけ。ダメかな」

 花霞は不思議そうにしたまま、

「いいよ。よかったら」

 と手のひらを椅子に向けた。

「すぐ荷物持ってくる」

 急いで自席に戻り、荷物をまとめて、カップを手にして戻った。

 花霞は自分のグラスを手前に引いてくれていた。

「えっと……吉井くん、だよね」

「うん。高校の一、二年は同じクラスだった」

「私……、自分のことを話したんだよね」

「うん、聞いた」

「それで、私とまた話したいって思ったの?」

 どうして? とまっすぐな疑問が顔に表れている。ちょっと気に掛かることがあって――とは言わなかった。

「西条さんと話すの楽しかったから、かな」

 花霞は絶句した。

「何それ。そんなこと、あるわけない。もしかしてからかわれてる?」

 一颯はわざと真面目なトーンを作って言った。

「嘘じゃない。高校のときから楽しかったよ」

 堪え切れなくなって最後の方で口角が上がってしまう。それを見た花霞はむっとして見せた。

「やっぱりからかってるでしょ」

「違うって。ほんとだよ、文化祭で結構仲良くなったり、席隣でしゃべってて俺だけ怒られたりしたんだから」

 具体的なエピソードにちょっと信用する気になったのか、花霞は体の力を緩めた。

「覚えてなくてごめんなさい」

「いや、全然いいよ。ていうかさ、じゃあ俺がどこまで覚えてるのかって話でさ」

「どこまで?」

「西条さんが十人しか覚えられないって聞いて、俺ならどうするかなって考えてみたんだけど、俺そもそも、小学校の同級生とかほとんど思い出せなくて。一人二人も怪しかった」

「えっ」

 花霞が引いた顔をして、それについ笑ってしまう。

「西条さんは、先生や同級生の名前、フルネームで覚えてるようなタイプでしょ」

「……もしかして、またからかわれてる?」

 すぐ怪しまれる。できるだけ軽妙にしたいのに、難しいバランスゲームに取り組んでいるみたいだった。

「いや? でも、ちゃんと覚えてる人の方が、そのギャップはしんどいのかなって」

 花霞が小さく息を呑んで唇を引き結んだ。それから細い声で言った。

「さっき、カウンターで店員さんに、いつもありがとうって言われちゃってね」

 喧騒の中で、花霞のささやくような声が浮き上がって聞こえる。

「よく顔を合わせる店員さんなのかな。私は覚えてないのに、あっちは覚えていてくれるの、申し訳なくて。普通逆だよね、お客さんの方が不特定多数なんだもん。よく知ってるところの方が安心だから、同じところに繰り返し来てたけど……」

 そこで一口、アイスティーを飲んだ。

「もう来ない方がいいのかなって」

 涼やかな声が低く暗い響きになったのを掻き消すように、一颯は言った。

「そんなことないよ」

 それはいくらなんでも真面目すぎるだろ、と胸がひりついた。

「そんなことない。……店員さんはきっと、あの人最近見なくなったなって方が悲しむし……」

 真面目すぎるって、と言えば傷つけるのかもしれないと思って、なんとかましなことを言おうとしたら全然続かなかった。仕方なく、違う角度を探って高速で脳内を検索した。なんだか人生通じていつも、こうやって自分のできることの範囲に諦めを持ってきたような気すらしてくる。

「いや。てかね。聞いて西条さん」

 空気を変えるために、またわざと真面目な顔を作った。次に何が来るのか予想できていないらしい花霞がこちらを見つめる。

「俺、ここ数日毎日ここ来てて、とうとう昨日とか、『最近毎日来てくださってますね』って言われたけど、俺はアホすぎて、そんなこと覚えてんの、店員さんってすげー! って思ってて、今西条さんの前にどんな顔して座ってたらいいのかわからない」

 突然の告白に、花霞はきょとんとした。一颯は続ける。

「しかもね。当然、俺は見たことあるかもなーくらいで、全然覚えてなかった。西条さんの判定基準だと俺どこにも行けなくなるから! 真面目すぎるって!」

 最後にようやく突っ込むと、花霞はふはと笑ってくれた。そのままくすくすと続く。

「そうかな?」

「そうだから! そりゃあ……もしかしたら、西条さんからしたら俺が贅沢なこと言ってるように思えたりするかもしれないけど、マジでハードル高い。あと言うと、あっちは仕事だからね、覚えるのが仕事なの!」

「そっか。そうかもね」

 ふふふと頬をほころばせてくれてほっとする。一人で胸を撫で下ろした。と同時に、なんだかすごく嬉しくなって、調子良く続けてしまう。

「まあ、俺はボウリング場に来るお客さん、全然覚えてないけど」

「ボウリング場?」

「バイト先ね。まあ、流石にこの二年間くらい毎日欠かさず来てる人は覚えてるけど」

「へえ、すごいね」

「マイボール持ってるおじいちゃんでさ。毎日開店と同時に来て、めちゃくちゃストライク取ってサッと帰ってくからね。バイト仲間の間で『レジェンド』って呼ばれてて――ってそんなことはいいんだよ」

 一颯にとっては本当にどうでもいい話題だが、花霞は思いの外楽しそうにしてくれた。

「いいなあ。バイト。楽しそうだね」

 西条さんもしたらいいじゃん、とは簡単には言えなかった。一颯の迷いに気づかないうちに、花霞が言った。

「ていうか、吉井くん……こそ、毎日来てたの? 本当にここが好きなんだね」

「いや、それはそうじゃなくて」

「え?」

「西条さんに会いたくて、毎日探しに来てた」

 言いながら思っていたよりも照れてしまって、後半上手く唇が動かなかった。内容と己の情けなさに二重に恥ずかしくなる。

「私に?」

「……そう」

 それ以上深掘りしないでほしい。

「二回ここで偶然会ったから、ここならまた会えるかもと思って」

 ああ、と花霞は朗らかに頷いた。

「それなら、私毎週水曜日に来てるんだ」

「……水曜?」

「うん、事故の後から、新しい行動を入れるのが苦手になっちゃって、毎週、だいたい同じ動きをするようにしてて」

 そういえば衿葉も、「あの子のいつものルート」という言い方をしていた。そして思えば、同窓会の予約の日も、同窓会の日も、たまたま水曜日だったのだ。

「なんだよ〜〜〜」

 ごつん、と横の壁に額を打ち付けるようにして寄りかかった一颯に花霞が慌てる。

「えっ? えっ? なんかダメだった!?」

「いやこっちの話。曜日とか全然考えてなくて、今日五日目」

「えー!」

 なんかごめん、と花霞は半笑いで言った。


 気づけば思ったよりも長く話し込んでいた。

 カフェのガラス戸を開けると、地面に残る湿り気を撫でるように、また少し暖かくなり始めた風が吹いていた。

「春だ」

 もう夜なのに、眩しそうに花霞が言った。こういうところがなんだか妙に印象に残るのだった。

「吉井くん、駅だよね? 私こっちなんだ」

 最初に再開した日と同じ方を花霞が指差した。

「うん。今日はありがとう。あのさ」

 薄い雲の隙間から覗いている下弦の月に見られているような気がした。

「また来ていいかな」

 花霞はじっと一颯を見つめた。といっても、本当は多分、そんなに長い時間じゃない。

「今日、俺なら十人をどうするか考えたって言ってくれたよね」

「……うん」

 少し俯いたまつ毛が店からこぼれる光で照らされた。

「すっごく嬉しかったんだ。初めて言われたかも。今度、吉井くんがどう考えたのか教えてね」

「……やば、ちゃんと考え直す」

 ちょっと冗談めかして言うと、花霞は「楽しみにしてる」と笑った。


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