第9話
「はあ、まじで、大学生による大学生のための時間だわ」
球を磨く業務をひとしきり終えて受付カウンターに戻ってきたバイト仲間の
「まさに」
一颯は相槌を打ちながら目の前に広がるボウリング場を眺めた。まだ高校生が来ない午前中は春休みに入っている大学生くらいしか客がいない。全六レーン中三レーンが埋まっていて、その全てが大学生らしき面々の使用だった。そして同じくアルバイトも、今暇な大学生だけだ。暇な人たちだけが集まる空間には、のんびりとした空気が漂っている。そもそもインターネットに娯楽が溢れているせいか、ボウリング自体、一時代よりも閑散としているのだと思う。よってスタッフ数もそんなに多くないので、割と一日中いる長時間労働だが、稼ぎたいので願ったり叶ったりだった。
ボールがぶつかる音とわずかな歓声が聞こえる中、本当にやることがなくなる。そうすると、いやでも花霞のことが蘇った。
――ごめん、次会っても……覚えてないと思うけど。
そう言いながら、ふっと消えた笑顔。
間違えてカフェに踏み込んでしまったときの強く困惑した顔。
すごく感謝してるから、お礼させてほしい、という言葉。
結構ストレートに言うね、と小さく睨んだこと。
その後声を出して笑ってくれたこと。
「すみません、靴返却していいですか」
「あっはい」
「お預かりします」
ぼうっとしていたところから引き戻された一颯よりも早く、萌香が手を伸ばした。昼食に移動するらしく、数人がわらわらと靴を返し、腹減った、と口々に言いながら出ていった。返却された靴を消毒する。一組帰った分、少し静かになった空間で、再度思考の沼が手招きしてきた。
花霞は普段どういう日常を過ごしているのか。
あのカフェにいるところしか見ていないけれど、それ以外の時間は?
外で、知っていないとおかしいはずの人に声をかけられたら――?
そう考えて、そもそもそれが自分だったことに気がつく。花霞は話しかけられたとき、あのとき自分が読み取った反応以上に辛い思いだったのだろうか。
「なんか、今日の吉井くんぼんやりしてんね」
「――え?」
見ると萌香はカウンターの中で椅子に座ってスマホをぽちぽちいじっている。お客さんが来たときや帰るとき、何かあったときなどのためにいる必要はあるが、かなりゆるい職場だ。
「……ごめん」
「いや、いいけどねー。超暇だし」
萌香はいくつかのアプリを素早く移動して更新された投稿を見つつ、真っ直ぐにアイロンがけされた黒髪を耳にかけた。
「そいや、最近めっちゃ久しぶりに上原に会ったわ」
一颯はスマホを取り出しかけていた手を止めた。それに気づいた萌香が全然笑わずに言った。
「あは、ウケる。まだダメージある感じ?」
何か気まずくて、ポケットにスマホを戻す。
「いや、そんなんじゃないけど。そういうもんじゃないの、元カノとか元彼の名前っていうのは」
「まあねー」
萌香はこちらを見ないまま画面に目をやっている。スワイプ。スワイプ。
「どうしてたか知りたい?」
「別に……いいかな」
ふう、と大きく息を吐いた。本当に、別に知りたくならなかった。さっきの萌香の言うところの「ダメージ」は、まだ好きとかそんなんじゃ全くなくて、気まずい感情を思い出す動きだった。
「そっかそっか。未練とかないか」
「……ないねー。てか俺さ」
気づいたらぼんやりとしたまま続けていた。
「そういう執着、持ったことないかも」
「知ってる。上原がいっつも悩んでたもん」
そもそも萌香は、一颯と別れてここのバイトをきっぱりと辞めた彼女の紹介で代わりに入った「元カノの友人」だった。萌香の出勤初日、一颯を目に留めるや否や、「あー君が」と関心なさそうに言われたのを思い出す。最低、などと罵られるかと一瞬身構えたが、萌香はフラットで、「色々、お疲れ様っす」と会釈してきた。そこから仲良くなって、今ではシフトがかぶると一番気楽な相手だった。
「そう聞くと、申し訳なくなるけど」
「しょうがないっしょこればっかりは。てか、上原のこと好きになる前に適当に付き合っちゃった感じかなと思ってたけど、別に上原がどうとかじゃないわけだ」
「いや、好きではあった、けど」
「かわいいなーくらいのやつね」
「……」
そう言われると黙るしかない。
彼女とはここでのバイトでたまに一緒になって、あっちから告白してくれたのを受けて付き合うことになった。いい子だったし、可愛かった。それに、受かりやすさと潰しの効き方で適当に経済学部に入った自分と違って、大学にちゃんとやりたいことがあって通っているのとか、ボランティアとかに精を出したりしているのとか、目立つタイプじゃないのにとにかく行動的で、偉いなあ、と思っていた。デートで会うといつも彼女の最近の関心やできことを聞くことが多かった。
――吉井くんって、多分私のことそこまで好きじゃないよ。
――どうしても欲しいって思わないでしょ。
最後の声が何度も脳内にリフレインする。
「いやでも、上原は聡明な女だよ、付き合って半年でここに見切りをつけるというのは。吉井くんって普通に優しいし気も効くし、なんとかなるんじゃないかって思って普通ズルズルするよね」
「見切りをつけるって言い方やめてください」
半眼になると萌香は意地悪く笑った。
「だってそうでしょ。本当に大事にしてもらえないなら恋愛なんてクソじゃん」
「口が悪すぎる……」
「上原はそこにちゃんと覚悟があったのよ。さすがだわ。てか、恋愛じゃないなら、なんか趣味でもあるの?」
「趣味……」
「中身のない男だ」
萌香が平べったい声を出した。
「あーもう、趣味がなくて何が悪いんだよ!」
「悪くないけど、つまら」
「うるさい。スキーは一応やってるよ、ずっと」
「へえ。ずっと?」
「高校もスキー部だから」
「へー。好きなんだ?」
「まあ、好きかな」
「まあ、ね」
証拠押さえたりとばかりに萌香がふふんと笑った。ぐうと押し黙る。スキーは好きだが、サッカーや野球に比べたら、みたいな話であり、最初の入部動機は冬以外サボっても良さそう、という最悪なものであり、今は「多少経験があってできるから」というだけにも思えた。
「何かに入れ込んでないのがそんなに悪いか」
「いや悪くはないけどね。上原とはマッチングしなかったってことだ」
「じゃあ誰とするんだよ」
「ほっとかれるくらいの恋愛がちょうどいいってタイプか……吉井くんから好きになる人じゃない」
その言葉にどきりとして不自然な間を空けてしまう。悔し紛れに矛先を萌香に向けた。
「君島は付き合ってる人とか好きな人とかいんの」
萌香はスマホを手元で立てると、裏返してカバーを見せてきた。
「それはいないけど、バンドに夢中〜」
「……そうですか」
反論失敗だった。
「全国にライブ遠征してっからね」
「ガチじゃん。……だからたまにシフト代わってもらってるときがあるわけね」
「そういうこと」
萌香は椅子から立ち上がった。
「んじゃ、わたし休憩行ってくる」
カウンター奥の扉から裏のスタッフルームに消えていく。
一人になると、手持ち無沙汰になって、一番近くのレーンで球が当たってピンが弾け飛ぶところをぼんやりと眺めた。難しいところに二本残り、投げた女性が「えーっ無理」と叫んだ。頭の中の空白に、途端に花霞のことが舞い戻ってくる。アルバムの焦げの輪郭が妙にはっきりと脳裏に浮かんだ。西条さん、結構色々抱えてるのかな、と衿葉に聞くことも一瞬掠めて、一人でわずかに首を横に振った。なんでそんなこと聞くの? となるに違いない。でも、今一番花霞のことを知っているように思えるのは衿葉だけで――。
と、そこへ後ろのドアが開いた音がして、振り返るとイヤホンを耳にさしたままの萌香が顔だけを覗かせていた。
「あ、ねえ。ぼんやりしてんのはなんか悩みなら、休憩終わったら聞くわ」
またばたんとドアを閉じていなくなる。
一颯は閉められたドアをぽかんとして見つめた。萌香が心配してくるなんて珍しかった。そんなに自分は普段と違って見えるのかと頬を軽く叩く。時計を盗み見ると、バイトの終わりまでまだ四時間もあった。
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